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ワシの子を産んでくれんか
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暗い夜の静寂の中
老いたワシは独り言を呟く
「ワシの妻も息子もこの世を去った」
その言葉に込められた孤独と悲しみ
残るはアンタとワシだけじゃ、と囁く
時が流れ、日々が過ぎ去り
老いたワシの心に光が差す
「老いたワシのことなど、心配する必要はないのじゃ」
アンタの優しさが、心を温める
「アンタはアンタの道を行きなさい」
それでも、アンタの存在が
ワシに新たな希望を与える
「その優しさがありがたくもあり、申し訳なくもある」
在りし日のこと。
「湯気の向こう」
台所の湯気が、天井の照明に当たって白くほどけていた。
味噌の匂い。刻んだねぎ。小さな鍋の中で、豆腐がゆっくり揺れる。
「……ほれ、熱いから気をつけぇ」
ワシがそう言うと、アンタは「はい」と返す。短い返事なのに、妙に胸が温まるのが腹立たしい。
「お義父さん、明日、町まで一緒に行きません? お薬も切れそうですし」
笑顔のまま、当然のように言う。
当然のように――というところが、ワシの心を軋ませた。
「ええ。ワシはええ。アンタは……」
言いかけて、言葉を止める。
まただ。いつもこうだ。
「アンタは若い、未来がある」と言うべきだと分かっている。
分かっているのに、喉の奥で別の言葉が蠢く。
――行くな。
――ここに居ろ。
――ワシを見捨てるな。
それが欲望なのか恐怖なのか、もう判別がつかない。
アンタが箸を置き、鍋をよそってくれる。
その手が、以前は嫁の手だった。
息子の隣にあった手だ。
その事実だけで、胸の奥が冷えた。
なのに、湯気の中の横顔は柔らかくて、妙に眩しい。
「……お義父さん、寝る前に、お茶淹れますね」
アンタはそう言い、食器を片づけ始めた。
ワシは椅子の背に体重を預けた。
骨が、年の分だけ重い。
「アンタは……出ていきなさい」
ようやく言えた言葉は、あまりにも薄く、自分でも驚くほど弱々しかった。
アンタは振り返って、少しだけ目を丸くした。
そして、いつものように笑う。
「またそれ。……大丈夫ですよ。私は、ここにいます」
その瞬間、胸のどこかが“ほどけて”しまった気がした。
安心してはいけない。
その安心は毒だ。
老いた心に甘いだけの毒だ。
だからワシは、笑わなかった。
笑うと、何かが始まってしまう気がしたからだ。
夜。
布団に入っても眠れない。
廊下の向こう、アンタの部屋の小さな灯りが消える音がする。
ただ、それだけで鼓動が速くなる自分を、ワシは軽蔑した。
「……違う」
声に出すと、余計に虚しい。
ワシは息子の遺影を見ないようにして、天井を睨んだ。
祈りのように、命令のように、自分に言い聞かせる。
――明日こそ、はっきり言う。
――明日こそ、出ていけと言う。
――優しさに甘えるな。
――お前は父じゃ。
――父であれ。
なのに、心の奥では別の声が囁いていた。
――明日も、ここに居てくれ。
「父であるための檻」
自制とは、善意ではない。
自制とは、恐怖の形をした鎖だ。
ワシはずっと、分かっておった。
あの子――アンタが、笑って茶を淹れるたび、
ワシの胸は安堵して、安堵した自分を憎む。
「未来があるんじゃ。アンタは」
何度そう言ったか。
何度そう言うことで、自分が“正しい人間”であり続けようとしたか。
本当は、正しいから言っているのではない。
言わねば、ワシが壊れるから言っている。
妻が逝って、息子が逝って、
家が静かになった。
静かというのは、音がないことではない。
呼ばれないことだ。
必要とされないことだ。
老いは、体より先に心へ来る。
「もう誰の役にも立たん」と囁く声が、朝から晩までつきまとう。
そんなとき、あの子は笑って言うのだ。
「お義父さん、寒くないですか」
「お義父さん、今日は外、滑るから」
「お義父さん、無理しないで」
その一つ一つが、薬のように効く。
薬のように効いて、毒のように回る。
分かっておる。
あの子は“ワシの妻”ではない。
あの子は“息子の妻”だ。
家族だ。守るべきものだ。
それなのに、
目で追ってしまう。
声で確かめてしまう。
居るだけで、胸の底が満たされてしまう。
ワシは、父であるべきなのに。
父であれば、手を離すべきなのに。
だから、檻を作った。
自分の中に、言葉の檻を。
「出ていけ」
「新しい人生を」
「ワシは大丈夫」
檻の中に“本心”を閉じ込め、
檻の外に“正しさ”だけを置く。
そうして何年も過ごせば、
檻の中のものは静かになると思っておった。
だが、静かにはならぬ。
檻の中は、腐る。
腐ったものは、
ある日、些細な拍子に、匂いだけ漏れる。
――あの子が、ふと、髪を束ねたとき。
――湯上がりの石鹸の匂いがしたとき。
――泣きそうな顔で「置いていけない」と言ったとき。
そのたびに、ワシは思う。
“これは愛じゃない。これは感謝じゃ”
“これは家族への情じゃ”
“これは父としての心配じゃ”
言い聞かせるたび、
逆に“それ以外”がはっきりしていく。
それが恐ろしいから、
さらに檻を強くする。
強くするほど、
中に閉じ込めたものは、なお暴れる。
ワシは知っておる。
いつか、檻が軋む日が来る。
その日が来る前に、
あの子を追い出すべきなのだ。
だが、追い出したら――
この家には、もう誰も居なくなる。
それが怖い。
それが怖いから、
ワシは“善意”という名で、今日も檻を撫でる。
檻が壊れる音を、聞かないふりをして。
「置いていく罪」
あの人は、いつも同じことを言う。
「出ていけ」
「新しい人生を」
「わしのことなど心配するな」
その言葉が、本心なのは分かる。
優しいから言っている。
息子の父として、私を縛りたくないから言っている。
でも、私は――
その優しさが怖い。
優しさは、別れの前触れみたいに聞こえる。
「もうここに居なくていい」と言われているようで。
夫が死んだとき、世界は急に“軽く”なった。
支えが消えて、床が抜けたみたいだった。
義母も、すぐに逝った。
残ったのは、義父と私。
二人だけの家。
二人だけの家は、妙に広い。
音が反響する。
咳払いも、箸の音も、時計の針も、全部が目立つ。
その中で、義父はなるべく“平気”な顔をする。
平気な顔をして、時々、急に老ける。
背中が丸くなるのが速い。
靴を履くのが遅い。
会話の途中で、目だけが遠くなる。
私は、その瞬間が怖い。
夫を失ったときの“あの空白”が、また来る気がするから。
だから私は、笑う。
なるべく明るく。
なるべく普通に。
茶を淹れて、味噌汁を作って、布団を干して。
やることを増やすと、
泣く時間が減る。
義父は「そんなこと、せんでいい」と言う。
私は「いいえ」と言う。
本当は――
「やめたら、私が崩れる」
そう言いたいのに、言えない。
義父が「出ていけ」と言うたび、
私は胸が痛む。
でも、頷けない。
もし私が出ていったら、
この人は、誰に向かって「おはよう」と言うの?
もし私が出ていったら、
この人は、誰に向かって「今日は寒いな」と言うの?
そんなの、想像すると息ができない。
それに――
私だって、独りになるのが怖い。
夫のいない人生を“生き直す”なんて、
まだ想像できない。
私の中では、夫はまだ、家の中にいる。
洗濯物を取り込むとき、背後に気配がする。
玄関の音に、振り向いてしまう。
義父は遺影を見ない。
私も、なるべく見ない。
二人とも、見たら崩れるから。
だから、私はここにいる。
義父のため――
そう思いたい。
でも、本当は、
義父が居てくれるから、私も踏みとどまれている。
夜、義父の部屋から物音がすると、
心臓が跳ねる。
転んだんじゃないか。
倒れたんじゃないか。
そのまま、静かになってしまうんじゃないか。
私は廊下に立って、息を殺す。
ノックする勇気も、入る勇気もない。
ただ、“音”を待つ。
咳が聞こえると、泣きそうになる。
生きている。
まだ、ここにいる。
――そうやって、私は何年も“確認”してきた。
義父が「出ていけ」と言う。
私は笑って「大丈夫」と言う。
でも、時々――
義父の目が、私を“家族”じゃないものとして見ている気がして、
背筋が冷たくなる。
見間違いだと思いたい。
老いの寂しさが、そう見せるのだと思いたい。
私は、その冷たさを見ないふりをして、また笑う。
笑っていれば、壊れないと思っている。
笑っていれば、誰も悪くならないと思っている。
でも本当は、
笑顔は“境界線”を溶かす。
私はそれを、薄々知っている。
だから、夜になると時々、祈る。
――どうか、この家の時間が、穏やかに終わりますように。
――どうか、誰も怪物になりませんように。
――どうか、私とお義父さんが、心穏やかに過ごせますように。
祈りながら、私は今日も、義父との日常を過ごす。
「すすめられる夜」
味噌汁の湯気が、二人の間でふわりと揺れた。
アンタは箸を置いて、笑いながら言う。
「今日ね、また言われちゃった」
「……何をじゃ」
「うん……“そろそろ再婚も考えなさい”って。近所の大塚さんの奥さんが」
ワシの箸が、器の縁で小さく鳴った。
自分でも、なぜ手が止まったのか分からない。
ただ、湯気の向こうのその言葉が、やけに遠くて、やけに鮮明だった。
「……ふん。余計なお世話じゃ」
声は思ったより硬かった。
アンタは「でしょ?」と笑って、火を消すみたいに続ける。
「私、そんな気ないよ。……まだ全然」
「それに、お義父さんのこともあるし。私がいなくなったら困るでしょ」
困る――という言葉が、胸の奥のどこかを殴った。
それは優しさの形をしているのに、ワシには釘のように刺さる。
“いなくなる”
その可能性が、今、言葉になってしまった。
「困るとか、そういう問題ではない」
ワシは言いながら、自分の言葉がどこへ向かっているか分からなくなる。
これまで何度も言ってきたはずだ。
出ていけ、生き直せ、未来がある――。
なのに口の中に残っているのは、別の言葉だった。
――行くな。
――ここに居ろ。
「お義父さん?」
アンタが首を傾げる。
その顔が、亡き息子に重なって、ワシは目を逸らした。
「誰じゃ。そんな話をアンタにするのは」
怒りが、外へ外へと逃げようとする。
外に敵を作れば、内側の醜いものを見ずに済むからだ。
「みんな心配してくれてるだけだよ」
アンタは軽く言う。軽く言ってしまう。
その軽さが、ワシには耐えられない。
心配?
心配なら、なぜ連れていこうとする。
なぜ――奪う。
「……アンタは、そんな話を、する必要はない」
「うん、だから私も本気じゃないって言ってるよ。ね?」
ね?
その相槌は、確かめるようで、別れの準備のようでもあった。
ワシの喉の奥で、ずっと檻に入れていたものが、軋んだ。
軋む音を聞いてしまった。
その夜、仏間の遺影を見た。
息子の笑顔は、何も知らぬ顔でこちらを見ている。
ワシは、手を合わせながら思う。
――ワシは“生き直せ”と言いながら、
――生き直してほしくなかったのか。
気づいた瞬間、胸の底に冷たいものが沈んだ。
それは罪悪感だった。
同時に、恐ろしく甘い欲でもあった。
湯気の匂いで目が覚めた。
味噌の匂いは、昔から変わらん。変わらんからこそ、腹の底が落ち着かぬ。
昨夜の言葉が、まだ喉の奥に刺さっておる。
「再婚」――あの二文字は、世間話の皮をかぶった刃物じゃった。
布団の中で何度も、あの子が言った声を反芻する。
笑いながら、軽く。
「そんな気ないよ」
「お義父さんのこともあるし」
……“いなくなる”という可能性だけが、ずっと残った。
ワシは上半身を起こし、膝の関節が鳴るのを聞く。
老いは、音でわかる。
あの子はその音を聞くたび、顔を向けて「大丈夫?」と聞く。
その優しさが――昨夜からは、もう優しさではない。
縄のように感じる。
台所から、茶碗の触れ合う音。
水の音。
あの子はいつも通りじゃ。
いつも通りでおれるのが、腹立たしい。
いつも通りでおれるのが、ありがたい。
二つが同時に胸へ来て、息が詰まる。
ワシは鏡を見る気になれず、手だけを洗う。
仏間の襖の前で足が止まったが、開けん。
昨夜、見た。
もう一度見たら、何かが決まってしまう気がする。
――父であれ。
そう自分に言い聞かせて、台所へ行った。
食卓には、焼いた鮭。ほうれん草のおひたし。味噌汁。
いつもの朝。いつもの並び。
あの子はエプロンの紐を直しながら、「おはようございます」と言った。
笑顔――いつもの笑顔。
その笑顔が、今朝は少しだけ遠い。
気のせいか、あの子も昨夜を気にしておるのか。
「……おはよう」
ワシの声は、思ったより掠れておった。
「あ、のど……大丈夫ですか?」
すぐに心配する。
その言葉が、昨夜の「困るでしょ」に繋がって聞こえてしまい、胸の奥がきしんだ。
「大丈夫じゃ。座れ」
言い方が少しだけ強かったかもしれん。
あの子は「はい」と小さく言って座った。
箸が進まぬ。
鮭の皮が、いつもより固く感じる。
味噌汁の熱さが、舌に痛い。
あの子は、食べる。静かに。
箸の先が器に当たる音が、妙に大きい。
会話のない朝が、こんなにも長いとは。
ワシは無理に口を開いた。
無理に、いつもの言葉を探した。
「……今日は、寒いな」
「そうですね。昨夜より冷えました」
返事は丁寧で、普通で、何も問題がない。
問題がないから、問題になる。
“普通”というのは、裂け目を隠す布じゃ。
昨夜、ワシの中で裂けたものを、あの子は見ておらんふりをしてくれている。
それが、情けなくて、ありがたくて――腹が立つ。
「昨日の話じゃが」
ワシは言ってしまった。
言うつもりはなかった。
ただ、このまま黙っていたら、胸の中で膨れたものが破裂する気がした。
あの子の箸が、ぴたりと止まる。
ほんの一秒。
けれど、ワシには永遠に見えた。
「……はい」
あの子は顔を上げずに返事をする。
まるで、叱られる子どものように。
違う。叱る話ではない。
そう思うのに、ワシの心は勝手に上下を決めようとする。
「……余計なことを言う連中は、放っとけ」
声は低く出た。
怒りを“外”へ向けたつもりだった。
本当は、怒っておるのは別のものじゃ。
――奪われるのが怖い。
――置いていかれるのが怖い。
「はい……。私も、そう思います」
あの子はそう言って、味噌汁をひと口飲んだ。
その仕草が、落ち着きすぎている。
この家のことを、もう“慣れた”手つきでやっている。
慣れているからこそ、いつか慣れたまま出ていける。
ワシの心が、勝手にそこまで走る。
「……アンタは」
口をついて出かけた言葉が、喉で止まった。
アンタは、ここに居ろ。
アンタは、行くな。
その言葉が、舌先まで上がってくる。
ワシは箸を握り直し、握りつぶしそうになるのを堪えた。
手が震えるのをごまかすように、茶碗を持つ。
茶碗の縁が唇に当たって、冷たい。
「アンタは……」
もう一度。
今度は、檻の言葉を出した。
「アンタは、若い。未来がある。……わしなどに縛られる必要はない」
言いながら、自分の胸が痛む。
“未来”という言葉が、昨夜から毒になっておる。
未来=ここから消えること。
そう変換されてしまう。
あの子はゆっくり顔を上げた。
笑っていない。
でも、泣きそうでもない。
ただ、困ったような目をしている。
「お義父さん……また、その話ですか」
声は柔らかい。だが、揺れている。
揺れていることが、ワシには怖い。
「私は……」
言いかけて、あの子は一度息を吸った。
「私は、ここにいるって決めてます」
その言い方が、昨夜より少しだけ硬い。
慰めではなく、宣言に聞こえてしまった。
宣言――ということは、迷いがある。
迷い――ということは、外の声が届いている。
届いている――ということは、いつか引っ張られる。
ワシは、一瞬、怒鳴りそうになった。
意味のない怒りを。
「余計なことを吹き込むな」と。
「家のことも知らんくせに」と。
「アンタの何を知っとる」と。
だが、それを言えば、あの子を傷つける。
あの子を傷つけたら、息子の遺影が笑わなくなる。
それだけは――。
だからワシは、声を落とした。
「……そうか」
たったそれだけ。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
あの子は、箸を動かし始めた。
さっき止まった箸が、また動く。
日常が戻ろうとする。
戻らない。
ワシの中だけが戻らない。
昨夜、ワシは気づいてしまったからだ。
“生き直せ”と言いながら、
本当は、
“生き直させたくない”と思っている自分に。
それを認めるのが怖い。
認めたら、檻が役目を失う。
檻が壊れたら、ワシは――。
食卓の向こうで、あの子が小さく笑った。
無理に作った笑いだと、分かる。
分かるのに、胸が緩む。
緩んだ胸の隙間から、冷たいものが流れ込む。
この笑顔は、いつまで見られるのか。
この家の朝は、いつまで続くのか。
ワシは、噛みしめるように鮭を口に入れた。
味がしない。
そのくせ、心の中だけはうるさい。
――言うな。
――今は言うな。
――父であれ。
――父であれ。
繰り返せば繰り返すほど、
“父”という言葉の薄さが露わになる。
あの子は食器を片づける準備を始めた。
いつもの朝の動き。
生活の手つき。
それを見て、ワシはふと、思ってしまった。
もしこの手つきが、別の家で、別の男のために向けられたら。
その想像だけで、視界が暗くなる。
怒りとも悲しみともつかぬものが、胸を満たし、喉を締める。
ワシは、言葉を飲み込んだ。
まだ、飲み込めた。
まだ、自制はできた。
できたからこそ――
自分の中の何かが、確実に育っているのが分かる。
檻の中で。
腐りながら。
夕方の光は、冬のそれみたいに早く傾く。
台所の窓から差し込む橙が、畳の目を長く撫でて、家の隅々を“昔”の色に染める。
アンタは昼過ぎに外へ出た。
「ちょっと、買い物と……役場に寄ってきますね」
そう言って、いつものように笑った。
ワシは「気をつけて行け」と言った。
それだけで済むはずだった。
戸が閉まる音がして、家が一段、静かになった。
静かになった途端、昨夜と今朝のことが、また胸の底から浮かび上がってくる。
“再婚”
“若いんだから”
“未来がある”
未来、未来、未来――。
その言葉が、今日は“失う”と同義になって、腹の奥を冷たくする。
ワシは湯を沸かして茶を淹れた。
急須の湯気が立ち上る。
湯気はふんわりと優しいのに、胸の中はざらついている。
そのとき、玄関の方で声がした。
「ごめんくださいなぁ」
この辺りの顔なじみ――川向こうの老夫婦だった。
夫の方はよく笑う男で、妻の方は小柄で世話焼きだ。
「おお、竹内さんか。どうした」
ワシが立つと、二人は靴も脱ぎながら勝手知ったる様子で上がってくる。
「いやぁ、ちょっと通りかかったもんで」
「お嫁さん、今日は?」
妻の方が台所の方を覗くように言った。
「買い物に出たわ」
「まぁまぁ、あの子はしっかりしとるからねぇ」
妻は両手を合わせるようにして、しみじみと続ける。
「若いのに残ってくれて…ほんとありがたいねぇ」
その言葉は、誉め言葉の形をしている。
なのに、ワシの胸は少しだけ強張った。
“残ってくれて”
残る、という言葉は、裏を返せば、出ていく道があるということだ。
「ありがたいことじゃ」
ワシはそう言って、茶を差し出した。
湯呑みの音が、畳に小さく響く。
妻は湯呑みを両手で包むように持ち、目を細めた。
「でもねぇ……」
その“でも”が、嫌な予感を呼ぶ。
「そろそろ誰か見つける頃かもしれんねぇ」
さらり、と。
砂糖を落とすように、さらりと言う。
ワシの胸の奥が、ひゅっと縮む。
顔には出すまいとして、口元だけ動かした。
「……まあ、世間はそう言うじゃろうな」
夫の方が、それを待っていたみたいに笑った。
笑いながら、肘でワシの肩を軽く突く。
「あんなべっぴんのお嬢さん、誰もほっとかないだろうなぁ……。お前さん、放しちゃいかんよ!」
冗談ぽい声。
冗談の調子。
昔からこの男は、言うことが軽い。
だからワシは、反射で笑った。
「何を言うとる」
自分でも驚くほど、声は自然に出た。
三人の笑いが、短く続く。
畳の上で、夕方の光が揺れる。
その笑いの中で、ワシは――
ふと、胸の底が冷えていくのを感じた。
“放しちゃいかんよ”
冗談のはずの言葉が、ワシの中に落ちて、沈んでいく。
そして、沈んだ先で、何かに触れる。
触れてはいけないものに、触れてしまう。
……本当に、そうしたいと思う自分がいる。
ワシは湯呑みに目を落とした。
茶の表面に、夕日が赤く映っている。
その赤が、血みたいに見えて、目を逸らした。
「いやいや、あの子は若いんじゃ」
ワシは、言い訳みたいに言った。
正しさの檻を、慌てて引っ張り出す。
「ワシのところに縛りつけるのは、違う」
違う、と言いながら、胸の奥では“違わない”声が囁く。
夫はまた笑った。
「堅いなぁ。冗談だよ冗談」
妻はうなずきつつも、少しだけ真面目な目をした。
「でもねぇ、あんたも、急に一人になったら寂しかろう?」
その一言が、今度は刃物みたいだった。
寂しい――。
その言葉は、ワシが隠してきた本体だ。
寂しいから、檻を作った。
寂しいから、善意を装った。
寂しいから、遠ざけようとした。
なのに今、他人の口から言われると、
まるでワシの心の内を覗かれたみたいで、背筋が粟立つ。
「……寂しいのは、皆同じじゃ」
ワシはそう答えた。
答えになっていない答え。
妻は「そうだねぇ」と頷いて、湯呑みを置いた。
そして、畳に手をつき、少しだけ声を落とした。
「ねぇ、無理はしないでね。お嫁さんにも、あんたにも」
優しい言葉。
良い言葉。
だからこそ、ワシの胸に重く沈む。
無理――。
無理をしているのは誰か。
ワシか。アンタか。
あるいは二人ともか。
夫婦は茶を飲み干し、しばらく世間話をして帰っていった。
玄関の戸が閉まる。
また、家が静かになる。
静かになると、さっきの冗談が、笑いが、
今度は笑いではなく“提案”のように聞こえる。
“放しちゃいかんよ”
“誰もほっとかない”
“見つける頃かもしれん”
ワシは座ったまま、動けなくなった。
湯呑みの中の茶が冷めていくのを見つめる。
冷めていくのは茶だけじゃない。
“正しさ”が冷めていく。
檻の外に置いたはずの正しさが、じわじわと力を失い、
檻の中のものが息を吹き返す。
ワシは、笑って返した。
あの冗談に、笑って返せた。
その事実が、怖い。
冗談に笑えたのは、
冗談が、どこか“願い”に近かったからじゃないのか。
ワシは自分の指を見た。
節くれだった指。
皺。
老いの証拠。
その指で、何を掴もうとしている。
……掴んではならんものを。
玄関の方で、鍵の音がした。
アンタが帰ってきた音だ。
ワシの心が跳ねる。
嬉しい、というより、ほっとする。
ほっとしてしまう自分が、怖い。
「ただいまです」
声が、明るい。
いつも通りだ。
ワシは立ち上がって、「おかえり」と言いかけた。
その言葉は、喉まで来たのに、少しだけ引っかかった。
――戻ってきた。
――まだ、ここにいる。
安堵が、胸を満たす。
満たした安堵の奥で、もう一つの声が小さく笑う。
――“放すな”。
ワシは、台所へ向かう足を一歩踏み出した。
いつものように、いつもの父として。
いつもの義父として。
けれど、その一歩の裏に、別の一歩が重なっているのを、
ワシはもう、気づいてしまっていた。
夕方の光は、いつのまにか薄くなり、
家の中に影が増えていく。
影は、誰のものか。
ワシのものか。
それとも――これから“育つ”何かのものか。
アンタは買い物袋を台所に置いて、
振り向いて笑った。
「今日はね、安い鮭があったんです」
その笑顔を見て、ワシの胸の奥が、また一度だけ軋んだ。
音は小さい。
けれど、今度の軋みは、昨夜や今朝より――少しだけ近い。
破綻はまだ起きていない。
まだ、起きていない。
しかし、起きる方向へ、
家ごと、心ごと、じわじわ傾いている。
ワシは笑顔を作った。
作れてしまった。
「……そうか」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、自分が怖かった。
夕食のあと片づけを終えて、台所の灯りが少しだけ落ち着いた頃だった。
湯呑みの湯気が、蛍光灯の下でゆっくりほどけていく。
アンタは、いつもより言葉を選ぶようにして座っていた。箸はもう置いてある。なのに手は膝の上で落ち着かず、指先が布をつまんでは離す。
「……お義父さん」
呼び方が、やけに丁寧だった。
「なんじゃ」
ワシは湯呑みに口をつける。熱いはずの茶が、今日は妙にぬるく感じる。
アンタは一度、唇を噛んでから言った。
「私、パートに出ようかなって……思って」
その一言が、台所の空気を変えた。
湯気がいきなり冷えたように見える。
「……は?」
声が出た。自分でも驚くほど、短く、硬い声だった。
アンタは慌てて続ける。笑って火を消そうとする、いつもの癖。
「ほら、最近また言われてて……。私、ずっと家にいるでしょう? 少し外の空気も吸った方がいいって」
「それに……お義父さんの負担にもなりたくないし」
負担。
その言葉が、喉の奥の何かを引っ掻いた。
ワシは湯呑みを置く。置いた音が、思ったより大きい。
自分の胸の音まで聞こえてくる。
「必要ない」
ワシは即座に言った。考えるより先に出た。
「え……でも」
アンタの目が揺れる。
「必要ないと言うとる」
重ねてしまう。重ねるほど、声が強くなる。
アンタは膝の上で手を握った。
その手の白さが、妙に目につく。
ワシは見ないふりをして、理由を並べる。
「金ならある。生活する分は十分じゃ」
「お前が働いて稼ぐ必要など、どこにもない」
言い切った瞬間、頭の中で何かが「違う」と鳴った。
それは“正しさ”の声のはずなのに、どこか嘘くさい。
アンタは、言葉を探すように視線を泳がせた。
この家の柱を見て、窓の外の暗さを見て、それからワシの手元を見る。
「……でも、少しでも稼ぎになれば」
「私、ずっと甘えてるみたいで……」
甘えている。
その言葉が、今度は甘い毒になって胸へ落ちた。
ワシは自分が何を言おうとしているか分かっていた。
“甘えろ”と、言いたいのだ。
だが、それを言ってしまえば、檻が壊れる。
だから、別の形にする。
「甘えるのではない。家族じゃ」
「家族が家族の面倒を見るのは当然じゃ」
家族。
その言葉を口にした途端、背筋が冷たくなった。
家族と言いながら、今のワシは“手放したくない”を言っている。
アンタは小さく息を吸い、口を開きかける。
言い返すでもなく、納得するでもなく、ただ、迷いの音がする。
「……お義父さん、私」
「外に出るな」
ワシは遮ってしまった。
遮った瞬間、自分の言葉に自分が驚いた。
外に出るな――。
そんなことを言う権利が、ワシのどこにある。
アンタの目が一瞬だけ見開かれる。
それは怒りでも恐怖でもない。
“理解”に近い顔だった。
ワシの喉が乾く。
このままでは、見透かされる。
いや、もう見透かされている。
ワシは、慌てて「理由」の方へ逃げた。
「外は危ない」
「変な噂も立つ」
「アンタは若い。余計な男が寄ってくる」
……余計な男。
その言葉が口から出た瞬間、台所の空気が一段重くなった。
アンタが瞬きをする。
まるで、今の一言で“中心”に触れたみたいに。
ワシは続けてしまう。止まらない。
「アンタは、ここで十分じゃ」
「家のことをして、落ち着いて暮らせばいい」
「ワシは……ワシは金の心配などさせん」
金の心配。
本当に守りたいのは金ではない。
守りたいのは――“ここに居る”という事実だ。
それをワシは、言葉にしたくない。
アンタは、目を伏せた。
そして、笑おうとした。
笑って場を整えようとする。だが、笑いが最後まで形にならない。
「……うん。わかった」
その返事は、普段の柔らかい「はい」と違った。
どこか、しまい込むような声だった。
ワシの胸が、ひやりとした。
説き伏せたはずなのに、勝った気がしない。
むしろ、何かを失った気がする。
「……すまんな」
ワシは、口に出した。
謝罪の形をした楔を打ちたかった。
アンタは首を振る。
「ううん。お義父さんがそう言うなら……」
その「そう言うなら」が、ワシの腹の底を撫でた。
従わせた。
従わせてしまった。
その二つが同時にのしかかる。
アンタは立ち上がり、湯呑みを片づけ始めた。
いつもの手つき。
いつもの動作。
けれど、背中がほんの少しだけ遠い。
「……パートの話は、もうせんでええ」
ワシは言ってしまう。念押しのように。
アンタの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「うん」とだけ返ってくる。
それだけで、ワシの心は落ち着くはずだった。
だが落ち着かない。
落ち着かないどころか、胸の中の何かが焦り始める。
――外の世界に触れさせるな。
――外の声を入れるな。
――この家の中だけで完結させろ。
その命令が、自分の中から出ているのが怖かった。
「お義父さん」
アンタが背中のまま言う。
声が小さい。
「私、今まで……」
言いかけて止まる。
止まることで、言葉の残骸だけが空気に浮く。
ワシはそれを拾ってしまう。
“今まで、ここにいた理由”
“これからも、ここにいる理由”
それを、アンタが言葉にしてしまったら、
ワシはもう、逃げ場がなくなる。
「もうええ」
ワシはまた遮る。
遮りながら、心のどこかで確信する。
――遮るようになったら終わりだ。
――会話ではなく、支配になってしまう。
アンタは何も言わず、食器を流しに置く。
水の音が始まる。
その音が、ワシには妙に冷たく聞こえた。
夜。
布団に入っても眠れないのは、いつものことになりつつあった。
だが今夜は、いつもと違う。
アンタの「わかった」が、
承諾ではなく、諦めに聞こえたのだ。
諦め――ということは、
心のどこかで離れていく準備を始めたということだ。
ワシは暗闇で目を開けたまま、天井を睨む。
ここ数年、どれだけ言い聞かせてきたか。
「出ていけ」
「生き直せ」
「未来がある」
言い聞かせるたびに、ワシは自分が立派な人間だと信じた。
だが今日、その仮面がずれた。
パートに出る、というたった一言で、
ワシの中の“本音”が牙をむいた。
金の心配などではない。
安全の心配でも、世間体でもない。
――外に出るな。
――誰にも渡すな。
――ここに居ろ。
それが本心だと、もう分かってしまった。
そして、分かった瞬間に恐ろしくなる。
自分が何者になりつつあるのか、分かってしまうからだ。
ワシは布団の中で、手を握った。
握った拳が震える。
怒りなのか、恐怖なのか、分からない。
“父であれ”
そう言い聞かせる声は、もう弱い。
弱い声の下で、別の声が太くなる。
――迷うな。
――先に決めろ。
――離れる前に、縛れ。
縛る。
その言葉が脳裏に浮かび、胸の奥がじくじくと熱くなる。
熱さは、涙にも似ている。
欲にも似ている。
ワシは歯を食いしばり、独り言を漏らす。
「……妻も息子も、この世を去った」
その言葉を言うと、喉の奥が痛む。
言葉は哀れみの形をしている。
哀れみは、人を許す免罪符になる。
ワシはそれを、どこかで欲している。
「残るは……」
声が掠れる。
残るはアンタとワシだけじゃ。
――そう言うたら、
アンタはまた笑って、寄り添ってくれるだろうか。
寄り添いが、救いではなく鎖になると知りながら、
ワシはそれを求めている。
薄い闇の向こうに、廊下がある。
廊下の向こうに、扉がある。
扉の向こうに、アンタがいる。
ワシは、まだ立ち上がってはいない。
まだ何もしてはいない。
ただ、胸の中で言葉だけが増殖していく。
“出ていけ”と言っていた口が、
別の言葉を覚えてしまう。
「……後生じゃ」
誰にともなく、呟く。
そして、胸の底から、言葉がゆっくり形になる。
もはや、善意の仮面では押さえ込めない言葉が。
「ワシの子を……」
暗い夜の静寂の中、
老いたワシは独り言を呟く。
言葉はまだ完全にはならない。
だが、なる。
今夜か、明日か。
いずれ“本編の独白”の形になって溢れる。
ワシは分かっていた。
分かっていながら、止められない。
迷ってなどいられない、と。
夜が早い季節になっていた。
台所の灯りは、昼間の明るさを忘れたみたいに頼りない。電球の周りに小さな影ができて、その影が少しずつ増えていく。
あの夜――パートの話を折った夜から、家の空気が変わった。
変わったのはあの子の方じゃ。正確には、あの子の“動き”が変わった。
笑う。作るように笑う。
返事をする。いつも通りの返事をする。
だが、背中が少し遠い。
目が合う時間が短い。
ワシはそれを「気のせい」と言い聞かせた。
言い聞かせるたび、胸の奥のざらつきが増えた。
それでも、日々は日々として続く。
味噌汁を作り、洗濯物を取り込み、薬を並べる。
同じことを繰り返していれば、この家は元に戻ると思っておった。
戻らん。
戻らんものは、戻らん。
ある夕方、アンタが郵便受けから紙を取ってきた。
それはチラシみたいな薄い紙束で、アンタはすぐに台所の引き出しへしまった。
ワシは見ておらんふりをした。
見ておらんふりをしたくせに、目だけが吸い寄せられた。
紙の端に、印刷された文字が一瞬だけ見えた気がした。
「求人」
――そう見えた。
脳が勝手に続きを作る。
求人=外=人=男=未来=別の家=別の声。
ワシの喉が、からからに乾いた。
その夜、アンタは電話をした。
居間で、壁の方を向いて、小さな声で。
「うん……うん。まだ決めてないよ。……でも、ね」
「このままは、よくない気がして」
“このままは、よくない”。
その一言で、ワシの腹の底が冷えた。
よくない、とは何じゃ。
よくないのは、何じゃ。
ワシか。
この家か。
それとも――二人きりであることか。
電話を切ったアンタが振り向く前に、ワシは新聞を読むふりをした。
紙面の文字が目に入らん。
紙面の向こうで、アンタの足音だけが、妙に大きい。
その日から、ワシの頭の中に一つの像が居座る。
アンタが外へ出ていく像。
戸が閉まり、この家が完全に静かになる像。
妻と息子が死んだ後の静けさ。
あの静けさが、もう一度来る像。
ワシは、耐えられん。
だから、言葉を準備した。
正しい言葉を。
父の言葉を。
義父の言葉を。
「出ていけ」
「生き直せ」
「未来がある」
だが、いざ口を開こうとすると、その言葉は喉に引っかかった。
正しい言葉の奥に、別の言葉が詰まっている。
――行くな。
――ここに居ろ。
――放すな。
正しい言葉を吐けば吐くほど、
奥の言葉は太くなっていく。
ワシは気づいていた。
気づいているからこそ、焦る。
焦りは、どこかへ向けねばならん。
向けねば、ワシは自分自身を裂いてしまう。
だからワシは、世間へ怒りを向けた。
近所へ。友人へ。噂話へ。
「余計なことを言いやがって」
口に出すと、少し楽になる。
楽になるから、また言ってしまう。
言うほど、怒りが“正しさ”の顔をしていく。
あの子が「みんな心配してるだけだよ」と言ったとき、
ワシは笑えなかった。
心配?
ならなぜ、連れていこうとする。
その夜も、あの子はいつも通り布団を敷き、いつも通り「おやすみなさい」と言った。
声は柔らかい。
柔らかいのに、扉が閉まる音が、今日はやけに重かった。
ワシは自分の部屋で、天井を見上げる。
暗い。
暗いから、頭の中が明るくなる。
嫌な想像だけがはっきりする。
――明日、あの子が「少し出ます」と言う。
――明後日、帰りが遅くなる。
――そのうち、“ここ”を必要としなくなる。
想像を止めようとして、止まらん。
止まらんから、理由を探す。
金のこと。
安全のこと。
世間体のこと。
家のこと。
理由はたくさんある。
だが、本当の理由は一つしかない。
ワシは、もう独りに戻れん。
戻れん、という言葉を認めた瞬間、胸が熱くなる。
涙のような熱さ。
欲のような熱さ。
ワシは布団の中で手を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。
痛い方がいい。
痛いと、まだ理性が働いている気がする。
それでも、痛みの下で、別の声が笑う。
――迷うな。
――迷えば取られる。
――決めろ。
決めろ。
何を?
ワシは起き上がった。
廊下に出た。
足音を殺す必要はないはずなのに、無意識に忍ぶような歩き方になる。
扉が、ある。
アンタの部屋の扉。
その前に立つと、心臓がうるさい。
自分の鼓動が、家中に響いている気がする。
叱るべきだ。
戻れ。
父に戻れ。
ワシは息を吸って、口を開く。
だが出てきたのは、父の言葉ではなかった。
「……アンタ」
名前を呼ぶ代わりに、いつも通りの呼び方をした。
その呼び方が、今夜は妙に生々しい。
返事はない。
眠っているのかもしれん。
起きて、息を殺しているのかもしれん。
その沈黙が、ワシの胸を焦がす。
沈黙は拒絶にも聞こえる。
拒絶は、置いていかれる未来にも聞こえる。
ワシは、自分に言い聞かせる。
“わしは悪くない”
“わしは守っているだけだ”
“これは家族のためだ”
だが、言い聞かせるほど、心の底が冷えていく。
冷えていくほど、別の熱が増える。
――欲しい。
――ここにいてほしい。
――ずっと、いてほしい。
ワシはふと、息子の遺影が脳裏に浮かぶ。
笑っている顔。
何も知らん顔。
胸が痛む。
痛むから、また理由を探す。
“妻も息子もこの世を去った”
その事実は、ワシを哀れにする。
哀れは、許しを呼ぶ。
許しを呼べば、ワシの罪が軽くなる気がする。
軽くなれば、踏み出せる。
ワシは扉の前で、笑ってしまいそうになった。
笑うと、壊れる。
壊れると、戻れない。
……もう戻れないのかもしれん。
ワシは震える手で、扉に触れた。
ノブに触れる寸前で、手が止まる。
止まった手が、今度は自分の胸に触れる。
そこにあるのは、父の心ではない。
父の心であろうとして、失敗し続けた男の心だ。
アンタを遠ざけようとした。
善意で。
そう信じた。
だが違う。
怖かったのだ。
あの子がここに居る限り、いつか自分がこうなると分かっていたから。
分かっていたのに、止められなかった。
そして今、分かっているだけでは足りなくなった。
ワシは扉に向かって、声を落とす。
懇願の形を取りながら、命令の芯を隠した声。
「……聞いてくれ」
「頼む」
「ワシを拒まんでくれ」
返事はない。
返事がないから、言葉が勝手に続く。
「……後生じゃ」
その二文字を口にした瞬間、
胸の奥の檻が、音を立ててずれた。
“後生じゃ”と言えば、許される気がした。
哀れな老人の願いなら、受け止めてもらえる気がした。
そうやって、自分の醜さを“願い”の形に包む。
言葉が、完成していく。
止めようとして、止まらない。
ワシは暗い夜の静寂の中、独り言を呟く。
まるで祈りのように。
まるで呪いのように。
「……ワシの妻も息子も、この世を去った」
「残るは……あんたとワシだけじゃ」
そして、最後の一押しが、唇から落ちた。
「……ワシの子を、産んでくれんか」
扉の向こうで、布団が小さく軋む気配がした。
起きたのか。息を止めたのか。
その気配が、ワシの中の何かを決定づける。
迷ってなどいられない――
そう思ってしまった瞬間、
ワシはもう“元のワシ”ではなかった。
返事を待つふりをしながら、
ワシは扉の前で、もう一度だけ、囁く。
「……後生じゃ」
「ワシの子を産んでくれんか」
静寂が、ひび割れる音がした。
どこかで。
あるいは、ワシの中で。
「アンタはワシの最後の希望じゃ」
心に刻まれた思いが溢れ出す
「ワシの子を産んでくれんか」
愛しさが胸に広がり、言葉に変わる
あと何年、共に居れるかわからんが……
その時間を共に歩みたい
「ワシはアンタを愛してしまった」
その愛が、ワシを前へと押し出す
「後生じゃ、ワシの子を産んでくれんか」
願いを込めた言葉が響く
優しい笑顔と共に
新たな希望が生まれる瞬間を夢見る
老いたワシの心に灯る光
その光が、二人の未来を照らす
共に歩む道を見つめながら
「ワシの子を産んでくれんか」と
再び囁く夜が続く
「ワシの子を産んでくれ」
その言葉は、何度も繰り返される
「後生じゃ」と嘆願する声が
夜の静寂を破る
朝が来た。
来てしまった、と思ったのに、窓の外の光は昨日と同じで、台所の匂いも同じだった。
味噌汁の湯気はちゃんと白く立って、湯気の向こうで、私はいつも通りに鍋を揺らす。
昨夜のことが夢だったみたいに、家は整然としている。
だからこそ怖い。
昨夜、扉の向こうで言われた言葉は確かにあった。
なのに、朝という時間がそれを“なかったこと”にしようとする。
私は笑顔を準備して、居間へ出た。
逃げる準備じゃない。戦う準備でもない。
ただ、崩れないための準備。
お義父さんは、もう座っていた。
新聞を広げる手つきも、湯呑みを持つ手も、いつも通り。
「……おはようございます」
声が震えないように言った。
「おう。……おはよう」
お義父さんも、いつも通りの声だった。
昨夜の荒れた息も、焦げた言葉も、どこにもない。
“ここで話題に出したら、朝が壊れる”
そう分かってしまうから、私は何も言わない。
言わないまま、食卓に並べる。
焼き魚。おひたし。味噌汁。
生活の形。
お義父さんは味噌汁をひと口飲んで、短く言った。
「……うまいな」
その一言で、私は泣きそうになった。
怖いからじゃない。
“戻ってほしい”と思ってしまうからだ。
昨夜のことがなかったらよかったのに。
昨夜の言葉がなければ、私はこのままここにいられたのに。
でも現実は、もう割れてしまっている。
箸の音が、静かに続く。
沈黙が、穏やかなふりをする。
食後、お義父さんは「風が冷たい」と言って縁側の障子を閉めた。
その背中は以前よりも小さくて、老いがはっきり見えた。
――この人を置いて出ていけない。
その思いが胸の奥に湧く。
同時に、別の声が刺す。
――この人と、二人きりで居続けたら、もっと壊れる。
私の中で、二つの正しさが喧嘩している。
午前、私は掃除をした。
午後、買い物に出た。
“外の空気”を吸うだけで少し落ち着く。
落ち着いた分、恐怖も輪郭を持つ。
戻ると、お義父さんが居間にいた。
「おかえり」と言われ、私は「ただいま」と返す。
この家は、まだ“家”の顔をしている。
それが、いちばん恐ろしい。
夜が近づくにつれ、私は“扉”を意識し始めた。
自分の部屋の扉。
昨夜、お義父さんが立っていた場所。
私は夕飯を作りながら、何度も頭に思い描いてしまう。
お義父さんの足音が聞こえるたび、心臓が跳ねる。
ただの歩く音なのに、“今日の夜も、来るかもしれない”という予感が混ざる。
食卓では、また“いつも通り”が続いた。
お義父さんは世間話をし、天気のことを言い、薬のことを言う。
私は相槌を打つ。
お義父さんの目は、時々、私を長く見た。
その“長さ”が、昨夜の言葉を連れてくる。
食後、私は自室に戻る前に、一度だけ深く息を吸った。
そして、小さな音を立てないように鍵をかけた。
鍵が回る感触が、胸に重く残る。
“私は、何をしているんだろう”
“家族に鍵をかけるなんて”
その罪悪感が、喉に絡む。
でも、鍵をかけない選択肢はない。
私は布団に座って、膝の上で手を握った。
手のひらが汗ばんでいる。
“お願いだから、今夜は来ないで”
祈るように思う。
祈りながら、同時に分かっている。
――来る。
昨夜、あの言葉を口にした人は、もう戻れない。
消灯して、しばらく経った頃だった。
廊下の畳が、きしんだ。
その音だけで分かる。
足取りが遅い。ためらっている。
でも、引き返さない。
扉の前で、気配が止まる。
私は息を止めた。
昨日と同じ。
違うのは、気配が“すぐに消えない”こと。
扉の向こうで、低い声がした。
「……アンタ」
呼ばれただけで、背中が冷たくなる。
私は布団の端を握りしめた。
「……お義父さん。夜です」
なるべく落ち着いた声を作って言う。
昨夜より少しだけはっきり。
少しの沈黙。
それから、声が落ちる。
「……昨日の話じゃ」
「ワシは……ワシは、もう独りは嫌なんじゃ」
その言葉に、恐怖が先に来るはずなのに、悲しみも来てしまう。
それが、私の弱さだ。
「お義父さん、お願い。部屋に戻って」
私はそう言った。
でも、お願いは届かない。
「……妻も息子も、この世を去った」
「残るは……アンタとワシだけじゃ」
その言い方が、まるで事実を確定させるみたいで、私は震えた。
“外”を消して、“未来”を消して、この家の中だけを世界にする言い方。
「違います」
私は言った。
小さくても、言わなければ終わる。
「お義父さんにだって……外にもご近所の皆さんがいる。私だって……」
言葉が詰まる。
“私だって未来がある”と言えば、それが火種になる気がしたから。
扉の向こうで、息を吸う音がした。
泣きそうな音でもあり、怒りを飲み込む音でもある。
「……新しい命が、この家を明るくする」
お義父さんは、まるで祈るように言った。
「赤ん坊の声があれば……また朝が来る」
「また笑える。ワシは、そう信じとる」
信じている。
その言葉が、私の心をさらに冷やす。
これは理屈の話じゃない。説得の土台が違う。
「お義父さん、そんなの……」
私は声を震わせた。
「それは……だめです。私は、お義父さんじゃなくて、あの人の……」
“嫁”です、と言いたいのに、言うと刃になる気がして言えない。
言い切った瞬間、関係が“戻れない形”で確定するから。
沈黙が落ちた。
その沈黙の間、私は必死に考える。
誰かに相談するべきだ。
でも相談したら、お義父さんが“終わる”。
終わってほしくない。
でも、私が壊れる。
葛藤がぐるぐる回っているうちに――
ドン、と扉が鳴った。
ノック。
昨日より強い。
私はびくっと肩を跳ねさせた。
扉が揺れる。
鍵がカチャ、と小さく鳴る。
「……アンタ」
声が、少し荒くなる。
怒りというより、怯えが混ざった荒さ。
「拒むな」
短く、押し殺した声。
その直後、すぐに言い直すみたいに、弱い声が続く。
「……頼む」
「後生じゃ」
また、ドン。
もう一度、ドン。
壊そうとはしていない。
でも“開けてほしい”という圧が、扉越しに押し寄せてくる。
私は布団から降りて、扉に近づきすぎない場所に立った。
距離を取らないと、心が持っていかれる。
「お義父さん、お願い。戻って」
「今は……だめ」
「明日、ちゃんと話しましょう。昼間に。落ち着いて」
返事はすぐには来なかった。
扉の前の気配が、ただ、そこに居続ける。
その“長さ”が、私を削る。
昨日は、もっと早く引いた。
今日は引かない。
引くのが遅い。
「……ワシは怖いんじゃ」
ようやく声が落ちてきた。
「また全部失うのが」
「お前までいなくなるのが」
恐怖。
不安。
悲しみ。
その順番で言葉が出てくる。
だからこそ、私は胸が痛む。
痛むからこそ、説得したくなる。
説得したいと思ってしまう自分が、また怖い。
「私はいなくなりません」
私は言った。
本当は、断言していい言葉じゃない。
でも今は、鎮静剤みたいに必要だった。
「……ほんとか」
子どもみたいな声がした。
その声の直後、また強いノック。
ドン。
「証が要る」
ドン。
「確かなものが要る」
その言葉に、私は背筋が凍る。
“証”という響きが、昨夜より一段危ない。
私は喉の奥の震えを押さえて、できるだけ冷静に言った。
「証なら……私は明日もここにいます」
「朝になったら、一緒にご飯を食べましょう」
「それで……それで十分です」
扉の向こうで、呼吸が乱れる。
乱れた呼吸が、しばらく続く。
私はその間、動けない。
耳が、扉の向こうに縫い付けられている。
やがて、畳がきしむ音がした。
一歩。
また一歩。
気配が、ゆっくり遠ざかっていく。
遠ざかるのに、私は安心できない。
“引いた”のではなく、“溜めた”ように感じるから。
最後に、消え入りそうな声が落ちた。
「……明日は、約束じゃ」
「……置いていくな」
その言葉が、扉の木目に染みつくみたいで、私は目を閉じた。
静かになった廊下。
家はまた“いつも通り”の顔をする。
でも、私は分かっている。
朝はいつも通りにできても、
夜は、もういつも通りには戻らない。
そして、ノックが強くなったこと。
立っている時間が長くなったこと。
“証が要る”と言い始めたこと。
それらは全部、次の段階が近い合図だ。
私は布団に戻れず、床に座り込んだ。
膝を抱えて、暗い部屋で息を整える。
“私は見捨てられなかった”
“それでも、ここに残った”
その選択が、今は重い。
それでも私は、朝になればまた味噌汁を作るだろう。
そしてお義父さんもまた、何事もなかったように湯呑みを持つだろう。
薄い膜で、ひび割れを覆いながら。
でも膜は、夜ごとに薄くなる。
次の夜、ノックはもっと強くなるかもしれない。
立っている時間はもっと長くなるかもしれない。
私は、明日こそ“誰か”に話さなければならない。
そう思うのに、胸の奥でまた迷う。
その迷いが、いちばん危ない。
扉の向こうの闇が、今夜もまだ、そこにある。
私は目を閉じたまま、朝を待った。
「今宵、アンタのところへ行く」
その決意が、老いた身体を動かす
「ワシじゃよ」と囁きながら
優しい手で、ドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」と
再び願いを込めて
その言葉に込められた
深い愛情と切実な想い
「あいすまぬ」と
何度も繰り返し詫びながら
「ワシの子じゃ、まだまだもっとじゃ」と
未来への希望を抱く
共に過ごす時間が
新たな命に繋がることを夢見て
老いたワシの心に灯る光が
二人の未来を照らし続ける
その光が、愛の証となり
新たな生命の誕生を祝う
「ワシの子を産んでくれ」と
夜空に響く願いが
いつの日か、叶うことを信じて
アンタにワシの子が宿ると信じて
「辛抱たまらん!!」と
老いた声が震える
欲望が、ついに理性を超え
夜の静けさを裂くように叫ぶ
「ワシのものじゃ~」と
声が高鳴り、欲望が募る
その執念は、誰にも止められぬ
未来を見つめ、願いを繰り返す
「アンタがワシのものになれば」
「新たな命が宿るじゃろう」と
老いた手が震えながらも
愛を求めて、もう一度ドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」
その願いが、空にこだまする
「これが最後の望みじゃ」と
老いた心が、未来を夢見る
夜空に響くその声は
切なく、しかし確かに
新たな命の誕生を願い
老いた者の最後の希望を
宿している
そしてその光が
アンタとワシの未来を
優しく照らし続ける
その願いが、いつの日か
叶うことを信じて
「なぜ拒む?」と
老いた声が震える
「アンタが悪いのじゃ」
その言葉が、暗闇に響く
「妻も子も失くしたワシに寄り添ったアンタが!」
その優しさが、老いた心を狂わせた
「優しくしてほしくなど無かった」
その気持ちが、今や重荷となり
「そのせいでワシはアンタを愛してしまったのじゃからな」
狂おしいほどの思いが胸を締め付ける
「もう遅いのじゃ」と
声が涙に濡れる
「もうワシは狂ってしまった」
その言葉に込められた絶望が
静寂を破り、夜を貫く
「今日という今日は覚悟を決めてくれ」
その願いが、切実な叫びとなり
「ワシは地獄に落ちる覚悟ができている」
愛と欲望が、理性を越え
老いた手が震えながら
再びドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」と
最後の嘆願を込めて
夜空に響くその声が
未来への希望を
切に願い続ける
「ワシは悪くない!」と
声が高まり、老いた心が叫ぶ
「ワシの思いを受け取るのじゃッ!」
その言葉が、夜の静寂を裂く
「我が息子よ、すまんなぁ」
その後悔が胸を締め付ける
「ワシはお前の大切な人を愛してしまったよ」
罪の意識が、老いた心を揺さぶる
「妻よ許せ。ワシはこの女が好きじゃ」
その告白が、夜空にこだまする
「ワシは猛り狂う」
老いた身体が、欲望に駆られ
「ワシは老いてなお、生命力に溢れる!」
その執念が、理性を越える
「ワシは必ずアンタにワシの子を産んでもらう!」
決意が固まる中、手が震える
「アンタはもう、ワシのものなんじゃ~!」
その言葉が、二人の未来を縛り付ける
老いた心が、愛と狂気の狭間で揺れ動き
ついにドアをこじ開ける
未来への希望と絶望が交錯する中
「ワシの子を産んでくれ」と
最後の嘆願が、夜空に響き渡る
「あぁ~えぇおなごじゃ~」と
老いたワシは満足げに囁く
「生き返るようだわい」と
その若い肌ツヤと芳しい香りに酔いしれる
「息子よ、いい妻を娶ったな」
その言葉に一瞬の罪悪感が走るが……
「ま! 今はもうワシの女じゃけどな~」
と、再び欲望に支配される
「はぁ、たまらんかったなぁ」
その思いが心を満たす
「アンタもそう思うじゃろ?」
しかし、拒まれるその言葉に苛立ちが募る
「なぬぅッ!? まだそんなことを抜かすか!」
老いた心が狂おしく吠える
「アンタはもう、ワシのものなんじゃ~!」
その執念が、理性を粉砕する
「これはたっぷりとお仕置きが必要じゃな……」
その決意が、身体を震わせる
「ふぅ、いい気分じゃわい」
欲望が満たされ、心が緩む
夜が終わった、というより――夜が“置いていった”ものだけが残った。
部屋の空気はいつも通りのはずなのに、どこかよそよそしい。
畳の匂いも、布団の重さも、昨日までと同じ形をしている。
なのに私は、同じ場所にいる自分を、少し離れたところから見ている気がした。
泣いていた。
泣くつもりなんてなかったのに、頬が勝手に濡れた。
涙は、怒りの涙でも、悲しみの涙でも、きれいに分類できない。
ただ、あまりにも遅くやってきた“理解”の水分だった。
こうなる前に、止めるべきだった。
止められたのかもしれない。
相談すればよかった。逃げればよかった。
鍵だけじゃ足りなかった。言葉だけじゃ足りなかった。
そんな正論が、頭の中にいくつも浮かぶ。
でも、その正論のすぐ横に、同じくらい確かな現実が座っている。
――私は、見捨てられなかった。
――見捨てたくなかった。
――私も、温もりが欲しかった。
義父が老いていくのを見て、毎日が小さく擦り減っていくのを見て、
この家に“朝”を残したいと思った。
それは善意だった。
同時に、私自身がひとりに戻るのを怖がっていた。
夫がいなくなって、義母もいなくなって、
「家族」という形が壊れたあと、私はその形にしがみついた。
しがみついているうちに、形が別のものに変わっていくのを――見ないふりをした。
見ないふりは、祈りに似ている。
祈っている間だけ、世界は割れないと思えるから。
でも割れた。
扉の前で、あの人は泣くような声で言った。
怖い、独りに戻れない、失うのが嫌だ、と。
その言葉は、私の中にある“捨てられない”を正確に押した。
私は、怒りきれなかった。
憎みきれなかった。
それが一番、自分にとって残酷だった。
憐れみがある。
人としての情がある。
そして――私の寂しさも、そこに混じっている。
私は息を吸って、静かに思った。
仕方がなかった、のかもしれない。
“許される”という意味じゃない。
“こうなるしかない道”を、私たちは少しずつ選び続けてしまった、という意味で。
あの人だけが悪いのではない。
私だけが悪いのでもない。
喪失の穴が大きすぎて、二人の生活が小さすぎた。
小さすぎる器に、悲しみも寂しさも詰め込みすぎた。
だから溢れた。
溢れたものは、元の形には戻らない。
私は濡れた頬を袖で拭いた。
泣き方が分からないまま、泣いている自分がいる。
(明日になったら、私は味噌汁を作るんだろう)
(そしてあの人も、何事もなかったように座るんだろう)
それが怖いのに、どこかで安心してしまう。
“生活が続く”ことが、私の救いでもあるから。
私は薄暗い天井を見つめながら、心の中で小さく言った。
――私も、もう戻れない。
――でも、明日もここで朝を迎える。
それを“赦し”と呼ぶのは違う。
ただの諦めでもない。
生き延びるための、乾いた選択だ。
それでも胸の奥に、ひとつだけ残った。
あの人が本当に欲しかったのは、たぶん私じゃない。
失った家族の代わりの“光”だ。
そして私は、その光になりたかったのかもしれない。
そう思ったら、また少し泣けた。
泣く理由は、もう分からなかった。
朝の光が、障子の紙を薄くする。
薄くなった光が、昨夜の闇を責めるみたいに床へ落ちる。
ワシは目を覚ました瞬間、胸が痛くて息が詰まった。
夢ではない。
昨夜は、夢ではない。
台所の方から、いつもの音がする。
包丁がまな板を叩く音。鍋の湯気。
その“いつも”が、刃みたいにワシを切る。
――あの子は、泣いとった。
泣き声は大きくなかった。
堪えるような、息が震える音だった。
それを思い出しただけで、目の奥が熱くなる。
ワシは布団の中で、声にならない言葉を飲み込んだ。
飲み込んでも、溢れてくる。
(ワシは、何をした)
(ワシは、何を壊した)
昨夜、ワシは“正しさ”のふりをして、恐怖を振り回した。
独りに戻るのが怖くて、失うのが怖くて、
その怖さを“願い”の形にして、あの子に押しつけた。
欲望をぶつけた。
妻と息子の死が、免罪符になると思った。
哀れを盾にすれば許されると思った。
それがどれだけ卑怯か、朝になってようやく分かる。
ワシは起き上がり、足がふらつきながら台所へ向かった。
廊下の畳が、昨夜よりも重い。
台所に入ると、アンタがいた。
いつも通りの背中。
いつも通りのエプロン。
湯気の向こうの横顔。
その“いつも通り”が、ワシの胸を殴った。
ワシは声を出そうとして、喉が詰まった。
詰まったまま、頭を下げる。
「……すまん」
声が震える。
「……すまんかった」
言葉を続けようとすると、涙が先に出る。
堪えようとしても堪えられず、視界が滲む。
「ワシは……」
「ワシは、取り返しのつかんことを……」
ワシは泣きながら、何度も言った。
「許してくれ」と言う資格がないのに、それでも口が動く。
「……許してくれ」
「……ワシは、間違っとった」
「怖かったんじゃ……独りに戻るのが」
「アンタまで失うのが……」
言い訳だ。
分かっている。
それでも本当でもある。
本当だから余計に醜い。
アンタは、鍋の火を弱めて、静かに振り向いた。
その顔は――ワシが想像していた顔ではなかった。
怒っている顔でもない。
失望で凍った顔でもない。
怯えて距離を取る顔でもない。
いつもと変わらない、穏やかな表情だった。
「……お義父さん」
いつもの呼び方。
いつもの声。
「味噌汁、できてますよ」
まるで、昨日までと同じ朝みたいに。
ワシは混乱した。
頭が追いつかん。
(なぜ怒らん)
(なぜ、憎まん)
(なぜ、いつも通りなんじゃ)
ワシの涙が、床に落ちる。
落ちる音だけがやけに大きい。
「……アンタは……」
ワシは言葉を探して、崩れる。
「……ワシを、許すのか」
アンタは少しだけ目を伏せて、ほんの短い間を置いた。
その間が、答えの代わりみたいだった。
「許す、とか……」
「そういうの、今は……」
言いかけて、アンタは言葉をしまう。
しまってから、いつもの調子で言う。
「まず、食べましょう」
その瞬間、ワシはさらに混乱した。
“生活”が先に来る。
まるで、昨夜を膜で覆うみたいに。
そしてワシは、恐ろしくなる。
怒りよりも、失望よりも、
この“いつも通り”の方が、ずっと怖い。
――この子は、もう壊れかけているのではないか。
――昨日の涙を、今日の味噌汁で押し込めているのではないか。
ワシは謝り続けたい。
だが謝れば謝るほど、あの子の“いつも通り”を深くする気もする。
ワシは椅子に座り、震える手で箸を取った。
味噌汁の湯気が目に滲む。
湯気の向こうで、アンタはいつも通り茶碗を置く。
その横顔に、昨夜の涙の気配が残っている気がして、
ワシの胸はまた詰まった。
(ワシは、何を取り戻そうとして)
(何を失わせた)
答えは分からん。
ただ、ひとつだけ分かる。
アンタの“いつも通り”は、赦しじゃない。
赦しではなく――生き延びるための形だ。
その形を、ワシは今、
自分の都合でまた壊してしまうのではないかと、怖くなった。
箸が震える。
味噌汁は、しょっぱかった。
朝に泣いて詫びたワシに、あの子はいつも通り味噌汁を出した。
あまりにいつも通りで、ワシは逆に怖くなった。
怒鳴られもしない。泣かれもしない。
「もう顔も見たくない」と言われることもない。
ただ、白い湯気の向こうで、アンタは椀を置く。
それが――赦しではなく、壊れた後の“整え”に見えた。
その日、アンタは外へ出なかった。
電話もしない。パートの話も出さない。
新聞を畳むワシの横で、黙って洗濯物を畳んでいた。
時々こちらを見る。その目が、昨日までと同じ色をしていない気がする。
いや、同じ色なのに、“焦点”が違う。
ワシを見ているのか、その向こうを見ているのか分からん。
昼過ぎ、あの子が言った。
「買い物……一緒に行きませんか」
誘い方までいつも通りだった。
それなのに、胸の奥がひやりとした。
“ひとりにしない”という約束みたいで。
“逃げない”という宣言みたいで。
ワシは頷くしかなかった。
道中、アンタは近所の人に会えば、ちゃんと笑う。
「こんにちは」と言う。
袋の中身を気にする。値段を気にする。
生活が、きちんと続いているふりをする。
――ふり?
ワシの脳裏に、昨夜の涙が浮かぶ。
扉の向こうの、小さな息の震え。
あれが本当で、今がふりなら、ワシは何をした。
買い物袋を下げたアンタが、少しだけワシの歩幅に合わせた。
その“合わせ方”が、妙に優しい。
優しい。
優しいからこそ、ワシはさらに怖くなる。
夕方、いつもと変わらない夕食だった。
味付けも、並べ方も、湯呑みの置く位置も。
笑い話さえ、少しだけあった。
ワシは笑おうとして、うまく笑えなかった。
笑えないのに、アンタは笑っている。
笑っているのに、目がどこか冷えている。
食後、アンタは「お茶、淹れますね」と言って湯を沸かした。
湯が沸く音が、夜の始まりの鐘みたいに聞こえて、ワシは身を固くした。
――今夜、ワシはどうする。
昨夜までのワシなら、迷いながら廊下に立っていた。
扉の前で言葉を探して、ノックして、謝って、また願っていた。
だが今日は、行けなかった。
行く資格がない。
行ってはいけない。
昨夜の“決定的なこと”が、あの子を壊してしまった。
壊してしまったのに、さらに追い打ちをかけることはできん。
ワシは自分の部屋に戻った。
布団に腰を下ろし、天井を見上げる。
(ワシは救われた)
(あの夜、ワシは救われた)
そう思った瞬間、吐き気がした。
自分の安堵が、誰かの傷の上に乗っているからだ。
(あの子は、一生癒えん傷を負ったんじゃ)
(ワシのせいで)
涙がまた出る。
謝って済むものではない。
謝るたびに、あの子の“いつも通り”を増やしてしまう気さえする。
だから今日は、扉へ向かわない。
向かわないことが、せめてもの償いだと思った。
……思った、はずだった。
そのとき、ノックの音がした。
コン、コン。
ワシの部屋の扉が鳴った。
この家には二人しかおらん。
そのノックは、もちろんあの子だ。
ワシは息を呑んだ。
心臓が、みっともないほど跳ねる。
「……開いとる」
声が掠れる。
扉が静かに開く。
あの子が立っていた。
いつものように、髪をまとめている。
いつものように、薄い部屋着を着ている。
それなのに、立ち姿が“いつも”と違う。
家の嫁として、ではない。
亡くした息子の妻として、でもない。
もっと別の――“一人の女”の気配が、そこに立っている。
彼女は小さく首を傾けて言った。
「お義父さん」
その呼び方は同じなのに、響きが違う。
「どうして今日は、来てくれなかったの?」
ワシの喉が鳴った。
意味が分からない。
分かりたくない。
でも耳だけが、その言葉を何度も反芻する。
「来てくれなかった」
――来るのが、当たり前だと思っている口ぶり。
――来てほしかった、と言っている口ぶり。
「……何を、言うとる」
ワシは震える声で言った。
「ワシは……もう……」
もう、行けん。
もう、言えん。
もう、触れてはいかん。
その“もう”を言い切る前に、あの子は入ってきた。
距離を詰めるのが、早い。
そして、ワシの隣に座った。
畳がわずかに沈む。
その沈み方が、妙に確かで、ワシは背筋が固くなる。
彼女は何も言わず、ワシの手を取った。
温かい。
指先が、温かい。
その温かさが、ワシの罪をやさしく溶かしてしまいそうで恐ろしい。
「……昨日、泣いてましたよね」
彼女が静かに言う。
責める調子ではない。
慰める調子でもない。
ただ、事実を確かめるような声。
ワシは息を詰めて頷いた。
頷くしかない。
彼女は微笑んだ。
その微笑みが――ワシの知っている微笑みではなかった。
いつもは、“家”のための笑顔だった。
朝を壊さないための笑顔。
相手を安心させるための笑顔。
我慢の上に置かれた、薄い笑顔。
今夜のそれは違う。
膜がない。
演じていない。
やけに、はっきりしている。
月明かりが障子の隙間から差し、彼女の頬に落ちる。
その光の中で、彼女はただ“美しい女”の顔をしていた。
ワシは、背中が冷たくなるのを感じた。
(壊れたんじゃない)
(……変わったんじゃ)
壊れたのなら、泣く。
怒る。
逃げる。
拒む。
なのにこの子は、ここへ来た。
ワシの扉をノックした。
そして、手を取って笑っている。
それは赦しではない。
責めでもない。
慰めでもない。
もっと恐ろしい何か――
“決めた”者の静けさだった。
「お義父さん」
彼女がワシの手を軽く包んだまま言う。
「……私、ひとりでいるの、もう嫌なんです」
その言葉が、ワシの胸の奥の穴と、ぴたりと重なった。
重なってしまった瞬間、ワシは自分が彼女の夫の父であることを忘れそうになる。
忘れてはいかん。
忘れたら終わりだ。
だが、彼女の指が、ワシの手の甲をゆっくり撫でた。
撫でるというより、確かめるみたいに。
「お義父さんも……そうでしょう?」
問いかけなのに、答えを待っていない声。
答えはもう、ワシの中にあると知っている声。
ワシは混乱した。
救われたい。
許されたい。
でも許しを受け取る資格がない。
そして何より――
彼女のこの変化が、ワシの罪の結果だという確信が、胸を締め付けた。
(ワシが、この子を)
(……“こう”してしまった)
ワシの目から、また涙が落ちる。
彼女はそれを見ても、驚かない。
止めようともしない。
ただ、穏やかに見つめている。
その瞳が、優しいのか、空っぽなのか、ワシには判別できなかった。
「……すまん」
ワシは絞り出す。
「……すまん、ほんまに」
彼女は、笑顔のまま首を横に振った。
「謝らなくていいです」
そう言う声が、やけに落ち着いている。
その落ち着きが、ワシの中の最後の理性を揺らす。
これは“救い”ではなく、もっと深い沼だと分かっているのに、
分かっているからこそ、足が勝手に沈む。
月の木漏れ日が、畳の上で揺れていた。
その揺れは、まるでこの家が息をしているみたいだった。
彼女はワシの手を離さず、もう一度だけ、同じことを言った。
「どうして今日は、来てくれなかったの?」
その問いは、責めではない。
寂しさでもない。
“当然”を取り戻そうとする声だった。
そしてワシは、その“当然”が一番恐ろしいものだと知っている。
昨夜まで、ワシが望み続けてきたもの。
それが今、逆向きに差し出されている。
ワシは答えられなかった。
答えられないまま、彼女の手の温もりだけが残った。
それは、救いの温もりではない。
罪が形になった温もりだった。
やがて彼女は、ワシの手を自分の胸に持っていく。
彼女の鼓動が手に伝わり、ワシの鼓動が跳ねる。
そして彼女はワシの目の前でゆっくりと寝間着の留めを外した。
衣が擦れる音がして、彼女の美しく白い肌が薄暗がりの中で妖しく輝く。
濃くなった女の香りが、再びワシを狂わせた。
翌朝も、朝は朝として来た。
障子の向こうが白み、湯の沸く音がして、味噌の匂いが立つ。
――いつもと同じ手順、同じ順番。家は何事もなかったように呼吸を続ける。
だが、ワシの中だけが、昨夜で止まっていた。
あの夜、月の木漏れ日に照らされた“女の顔”。嫁でもなく、息子の妻でもなく、ただ静かに微笑む、美しい女の顔。
それが、瞼の裏に貼り付いたまま剥がれん。湯気を見ても、茶碗を持っても、指先に残る温度の記憶が勝手に立ち上がってくる。忘れたくて顔を振るほど、はっきりする。
「お義父さん、起きました?」
台所から声がする。いつもの声だ。いつもの呼び方だ。
それなのに、今朝の“いつも”は薄い。薄い膜の向こうで、昨夜が笑っている。
居間へ出ると、アンタは湯気の向こうで椀を並べていた。
「おはようございます」
いつも通りに頭を下げ、いつも通りに笑う。
その笑顔に、昨夜の“女の顔”が少しだけ重なる。ほんの少しだけ。だがその“少し”が、致命的だった。
食卓に座ると、彼女の距離が近い。
近いのは、偶然に見せかけて、偶然じゃない。
湯呑みを渡すとき指が触れる。箸置きを置くとき、肩がかすかに当たる。
ワシが椀を持つ手が震えると、アンタが何でもないことのようにその手首にそっと触れて「熱いですよ」と言う。
以前なら、その触れ方に身を引いたはずだ。
「いかん」と自分に言えたはずだ。
だが今は、身を引く動作が遅れる。遅れることを、彼女は見逃さない。
見逃さず、責めもせず、ただ“当たり前”として収めていく。
ワシは気づいてしまった。
物理的な距離が縮まったのではない。境界が縮んだのだ。
扉の向こうとこちらで守っていた線が、一度ほどけた。
ほどけた線は、元には戻らん。戻そうとした瞬間、昨夜の温度がまた蘇ってしまうからだ。
――戻そうとすればするほど、戻れない。
その矛盾が、もう二人の間で“常識”になってしまった。
食後、ワシは無意識に遺影へ視線を向けかけて、慌てて逸らした。
息子の写真。妻の写真。
いつもなら「今日も寒いな」とか、そんな独り言を零しながら眺められたのに、今朝は無理だった。
写真の中の笑顔が、責めているわけでもないのに、ワシの胸が焼ける。
“父”としての自分が、そこに立っていられない。
妻の前でも、息子の前でも、ワシは立てない。
目を合わせた瞬間、昨夜の“女の顔”が浮かんで、罪が形を持つ。
そのとき、彼女が遺影の前へ行った。
いつも通りの足取りで、いつも通りに花の向きを直し、湯呑みに茶を少し注ぐ。
そして――笑顔で話しかけた。
「おはよう。今日はお味噌汁、いつもより上手にできました」
「お義父さん、ちゃんと起きましたよ。ね」
まるで、昨日までと同じ朝の報告みたいに。
まるで、この家の秩序が何ひとつ崩れていないみたいに。
ワシは、その横顔を見ながら息が詰まった。
彼女は悪いことをしている顔をしていない。
罪悪感に押しつぶされている顔でもない。
“仕方がない”どころか、もっと乾いたもの――「そうなってしまったなら、今日を回す」という割り切りに見えた。
それが恐ろしい。
それが救いでもあるから、なお恐ろしい。
(あの子は……壊れたんか)
(それとも……壊れたから、整えているんか)
答えは出ない。
ただ、あの子が遺影に笑って語りかける姿を見て、ワシはぞっとするほど確信してしまった。
――この家の中で、“昨夜”はもう異常ではない。
――異常ではないことにして、生きていくのだ。
そしてワシは、気づいてしまった。
ワシだけが昨夜を“罪”として反芻し、あの子は昨夜を“出来事”として棚に上げ、今日の味噌汁を作っている。
その温度差が、二人の依存を完成させている。
彼女が振り向く。
「お義父さん、買い物、一緒に行きましょう」
声は軽い。笑顔は柔らかい。
それは“逃げない”という意味にも、“離さない”という意味にも聞こえた。
ワシは頷いてしまう。
頷くしかないのではなく、頷いてしまう。
その“しまう”が、もう止められないところまで来た証だった。
遺影から目を逸らしたまま、ワシは椀を片づける。
片づけながら、昨夜の女の顔が、湯気の中でふっと浮かぶ。
そして今朝の彼女の笑顔が、それに重なっていく。
家はいつも通り。
朝もいつも通り。
ただし――ワシの中の何かだけが、もう戻れない。
そのことを、誰よりワシが分かっていた。
分かっていても、もう二人とも止められない。
止めたら、今度こそ本当に“全部”が消えてしまう気がして。
湯気の向こうで彼女が、いつも通りに笑っていた。
それが、救いのようで――
救いであることが、いちばん怖かった。
老いたワシは独り言を呟く
「ワシの妻も息子もこの世を去った」
その言葉に込められた孤独と悲しみ
残るはアンタとワシだけじゃ、と囁く
時が流れ、日々が過ぎ去り
老いたワシの心に光が差す
「老いたワシのことなど、心配する必要はないのじゃ」
アンタの優しさが、心を温める
「アンタはアンタの道を行きなさい」
それでも、アンタの存在が
ワシに新たな希望を与える
「その優しさがありがたくもあり、申し訳なくもある」
在りし日のこと。
「湯気の向こう」
台所の湯気が、天井の照明に当たって白くほどけていた。
味噌の匂い。刻んだねぎ。小さな鍋の中で、豆腐がゆっくり揺れる。
「……ほれ、熱いから気をつけぇ」
ワシがそう言うと、アンタは「はい」と返す。短い返事なのに、妙に胸が温まるのが腹立たしい。
「お義父さん、明日、町まで一緒に行きません? お薬も切れそうですし」
笑顔のまま、当然のように言う。
当然のように――というところが、ワシの心を軋ませた。
「ええ。ワシはええ。アンタは……」
言いかけて、言葉を止める。
まただ。いつもこうだ。
「アンタは若い、未来がある」と言うべきだと分かっている。
分かっているのに、喉の奥で別の言葉が蠢く。
――行くな。
――ここに居ろ。
――ワシを見捨てるな。
それが欲望なのか恐怖なのか、もう判別がつかない。
アンタが箸を置き、鍋をよそってくれる。
その手が、以前は嫁の手だった。
息子の隣にあった手だ。
その事実だけで、胸の奥が冷えた。
なのに、湯気の中の横顔は柔らかくて、妙に眩しい。
「……お義父さん、寝る前に、お茶淹れますね」
アンタはそう言い、食器を片づけ始めた。
ワシは椅子の背に体重を預けた。
骨が、年の分だけ重い。
「アンタは……出ていきなさい」
ようやく言えた言葉は、あまりにも薄く、自分でも驚くほど弱々しかった。
アンタは振り返って、少しだけ目を丸くした。
そして、いつものように笑う。
「またそれ。……大丈夫ですよ。私は、ここにいます」
その瞬間、胸のどこかが“ほどけて”しまった気がした。
安心してはいけない。
その安心は毒だ。
老いた心に甘いだけの毒だ。
だからワシは、笑わなかった。
笑うと、何かが始まってしまう気がしたからだ。
夜。
布団に入っても眠れない。
廊下の向こう、アンタの部屋の小さな灯りが消える音がする。
ただ、それだけで鼓動が速くなる自分を、ワシは軽蔑した。
「……違う」
声に出すと、余計に虚しい。
ワシは息子の遺影を見ないようにして、天井を睨んだ。
祈りのように、命令のように、自分に言い聞かせる。
――明日こそ、はっきり言う。
――明日こそ、出ていけと言う。
――優しさに甘えるな。
――お前は父じゃ。
――父であれ。
なのに、心の奥では別の声が囁いていた。
――明日も、ここに居てくれ。
「父であるための檻」
自制とは、善意ではない。
自制とは、恐怖の形をした鎖だ。
ワシはずっと、分かっておった。
あの子――アンタが、笑って茶を淹れるたび、
ワシの胸は安堵して、安堵した自分を憎む。
「未来があるんじゃ。アンタは」
何度そう言ったか。
何度そう言うことで、自分が“正しい人間”であり続けようとしたか。
本当は、正しいから言っているのではない。
言わねば、ワシが壊れるから言っている。
妻が逝って、息子が逝って、
家が静かになった。
静かというのは、音がないことではない。
呼ばれないことだ。
必要とされないことだ。
老いは、体より先に心へ来る。
「もう誰の役にも立たん」と囁く声が、朝から晩までつきまとう。
そんなとき、あの子は笑って言うのだ。
「お義父さん、寒くないですか」
「お義父さん、今日は外、滑るから」
「お義父さん、無理しないで」
その一つ一つが、薬のように効く。
薬のように効いて、毒のように回る。
分かっておる。
あの子は“ワシの妻”ではない。
あの子は“息子の妻”だ。
家族だ。守るべきものだ。
それなのに、
目で追ってしまう。
声で確かめてしまう。
居るだけで、胸の底が満たされてしまう。
ワシは、父であるべきなのに。
父であれば、手を離すべきなのに。
だから、檻を作った。
自分の中に、言葉の檻を。
「出ていけ」
「新しい人生を」
「ワシは大丈夫」
檻の中に“本心”を閉じ込め、
檻の外に“正しさ”だけを置く。
そうして何年も過ごせば、
檻の中のものは静かになると思っておった。
だが、静かにはならぬ。
檻の中は、腐る。
腐ったものは、
ある日、些細な拍子に、匂いだけ漏れる。
――あの子が、ふと、髪を束ねたとき。
――湯上がりの石鹸の匂いがしたとき。
――泣きそうな顔で「置いていけない」と言ったとき。
そのたびに、ワシは思う。
“これは愛じゃない。これは感謝じゃ”
“これは家族への情じゃ”
“これは父としての心配じゃ”
言い聞かせるたび、
逆に“それ以外”がはっきりしていく。
それが恐ろしいから、
さらに檻を強くする。
強くするほど、
中に閉じ込めたものは、なお暴れる。
ワシは知っておる。
いつか、檻が軋む日が来る。
その日が来る前に、
あの子を追い出すべきなのだ。
だが、追い出したら――
この家には、もう誰も居なくなる。
それが怖い。
それが怖いから、
ワシは“善意”という名で、今日も檻を撫でる。
檻が壊れる音を、聞かないふりをして。
「置いていく罪」
あの人は、いつも同じことを言う。
「出ていけ」
「新しい人生を」
「わしのことなど心配するな」
その言葉が、本心なのは分かる。
優しいから言っている。
息子の父として、私を縛りたくないから言っている。
でも、私は――
その優しさが怖い。
優しさは、別れの前触れみたいに聞こえる。
「もうここに居なくていい」と言われているようで。
夫が死んだとき、世界は急に“軽く”なった。
支えが消えて、床が抜けたみたいだった。
義母も、すぐに逝った。
残ったのは、義父と私。
二人だけの家。
二人だけの家は、妙に広い。
音が反響する。
咳払いも、箸の音も、時計の針も、全部が目立つ。
その中で、義父はなるべく“平気”な顔をする。
平気な顔をして、時々、急に老ける。
背中が丸くなるのが速い。
靴を履くのが遅い。
会話の途中で、目だけが遠くなる。
私は、その瞬間が怖い。
夫を失ったときの“あの空白”が、また来る気がするから。
だから私は、笑う。
なるべく明るく。
なるべく普通に。
茶を淹れて、味噌汁を作って、布団を干して。
やることを増やすと、
泣く時間が減る。
義父は「そんなこと、せんでいい」と言う。
私は「いいえ」と言う。
本当は――
「やめたら、私が崩れる」
そう言いたいのに、言えない。
義父が「出ていけ」と言うたび、
私は胸が痛む。
でも、頷けない。
もし私が出ていったら、
この人は、誰に向かって「おはよう」と言うの?
もし私が出ていったら、
この人は、誰に向かって「今日は寒いな」と言うの?
そんなの、想像すると息ができない。
それに――
私だって、独りになるのが怖い。
夫のいない人生を“生き直す”なんて、
まだ想像できない。
私の中では、夫はまだ、家の中にいる。
洗濯物を取り込むとき、背後に気配がする。
玄関の音に、振り向いてしまう。
義父は遺影を見ない。
私も、なるべく見ない。
二人とも、見たら崩れるから。
だから、私はここにいる。
義父のため――
そう思いたい。
でも、本当は、
義父が居てくれるから、私も踏みとどまれている。
夜、義父の部屋から物音がすると、
心臓が跳ねる。
転んだんじゃないか。
倒れたんじゃないか。
そのまま、静かになってしまうんじゃないか。
私は廊下に立って、息を殺す。
ノックする勇気も、入る勇気もない。
ただ、“音”を待つ。
咳が聞こえると、泣きそうになる。
生きている。
まだ、ここにいる。
――そうやって、私は何年も“確認”してきた。
義父が「出ていけ」と言う。
私は笑って「大丈夫」と言う。
でも、時々――
義父の目が、私を“家族”じゃないものとして見ている気がして、
背筋が冷たくなる。
見間違いだと思いたい。
老いの寂しさが、そう見せるのだと思いたい。
私は、その冷たさを見ないふりをして、また笑う。
笑っていれば、壊れないと思っている。
笑っていれば、誰も悪くならないと思っている。
でも本当は、
笑顔は“境界線”を溶かす。
私はそれを、薄々知っている。
だから、夜になると時々、祈る。
――どうか、この家の時間が、穏やかに終わりますように。
――どうか、誰も怪物になりませんように。
――どうか、私とお義父さんが、心穏やかに過ごせますように。
祈りながら、私は今日も、義父との日常を過ごす。
「すすめられる夜」
味噌汁の湯気が、二人の間でふわりと揺れた。
アンタは箸を置いて、笑いながら言う。
「今日ね、また言われちゃった」
「……何をじゃ」
「うん……“そろそろ再婚も考えなさい”って。近所の大塚さんの奥さんが」
ワシの箸が、器の縁で小さく鳴った。
自分でも、なぜ手が止まったのか分からない。
ただ、湯気の向こうのその言葉が、やけに遠くて、やけに鮮明だった。
「……ふん。余計なお世話じゃ」
声は思ったより硬かった。
アンタは「でしょ?」と笑って、火を消すみたいに続ける。
「私、そんな気ないよ。……まだ全然」
「それに、お義父さんのこともあるし。私がいなくなったら困るでしょ」
困る――という言葉が、胸の奥のどこかを殴った。
それは優しさの形をしているのに、ワシには釘のように刺さる。
“いなくなる”
その可能性が、今、言葉になってしまった。
「困るとか、そういう問題ではない」
ワシは言いながら、自分の言葉がどこへ向かっているか分からなくなる。
これまで何度も言ってきたはずだ。
出ていけ、生き直せ、未来がある――。
なのに口の中に残っているのは、別の言葉だった。
――行くな。
――ここに居ろ。
「お義父さん?」
アンタが首を傾げる。
その顔が、亡き息子に重なって、ワシは目を逸らした。
「誰じゃ。そんな話をアンタにするのは」
怒りが、外へ外へと逃げようとする。
外に敵を作れば、内側の醜いものを見ずに済むからだ。
「みんな心配してくれてるだけだよ」
アンタは軽く言う。軽く言ってしまう。
その軽さが、ワシには耐えられない。
心配?
心配なら、なぜ連れていこうとする。
なぜ――奪う。
「……アンタは、そんな話を、する必要はない」
「うん、だから私も本気じゃないって言ってるよ。ね?」
ね?
その相槌は、確かめるようで、別れの準備のようでもあった。
ワシの喉の奥で、ずっと檻に入れていたものが、軋んだ。
軋む音を聞いてしまった。
その夜、仏間の遺影を見た。
息子の笑顔は、何も知らぬ顔でこちらを見ている。
ワシは、手を合わせながら思う。
――ワシは“生き直せ”と言いながら、
――生き直してほしくなかったのか。
気づいた瞬間、胸の底に冷たいものが沈んだ。
それは罪悪感だった。
同時に、恐ろしく甘い欲でもあった。
湯気の匂いで目が覚めた。
味噌の匂いは、昔から変わらん。変わらんからこそ、腹の底が落ち着かぬ。
昨夜の言葉が、まだ喉の奥に刺さっておる。
「再婚」――あの二文字は、世間話の皮をかぶった刃物じゃった。
布団の中で何度も、あの子が言った声を反芻する。
笑いながら、軽く。
「そんな気ないよ」
「お義父さんのこともあるし」
……“いなくなる”という可能性だけが、ずっと残った。
ワシは上半身を起こし、膝の関節が鳴るのを聞く。
老いは、音でわかる。
あの子はその音を聞くたび、顔を向けて「大丈夫?」と聞く。
その優しさが――昨夜からは、もう優しさではない。
縄のように感じる。
台所から、茶碗の触れ合う音。
水の音。
あの子はいつも通りじゃ。
いつも通りでおれるのが、腹立たしい。
いつも通りでおれるのが、ありがたい。
二つが同時に胸へ来て、息が詰まる。
ワシは鏡を見る気になれず、手だけを洗う。
仏間の襖の前で足が止まったが、開けん。
昨夜、見た。
もう一度見たら、何かが決まってしまう気がする。
――父であれ。
そう自分に言い聞かせて、台所へ行った。
食卓には、焼いた鮭。ほうれん草のおひたし。味噌汁。
いつもの朝。いつもの並び。
あの子はエプロンの紐を直しながら、「おはようございます」と言った。
笑顔――いつもの笑顔。
その笑顔が、今朝は少しだけ遠い。
気のせいか、あの子も昨夜を気にしておるのか。
「……おはよう」
ワシの声は、思ったより掠れておった。
「あ、のど……大丈夫ですか?」
すぐに心配する。
その言葉が、昨夜の「困るでしょ」に繋がって聞こえてしまい、胸の奥がきしんだ。
「大丈夫じゃ。座れ」
言い方が少しだけ強かったかもしれん。
あの子は「はい」と小さく言って座った。
箸が進まぬ。
鮭の皮が、いつもより固く感じる。
味噌汁の熱さが、舌に痛い。
あの子は、食べる。静かに。
箸の先が器に当たる音が、妙に大きい。
会話のない朝が、こんなにも長いとは。
ワシは無理に口を開いた。
無理に、いつもの言葉を探した。
「……今日は、寒いな」
「そうですね。昨夜より冷えました」
返事は丁寧で、普通で、何も問題がない。
問題がないから、問題になる。
“普通”というのは、裂け目を隠す布じゃ。
昨夜、ワシの中で裂けたものを、あの子は見ておらんふりをしてくれている。
それが、情けなくて、ありがたくて――腹が立つ。
「昨日の話じゃが」
ワシは言ってしまった。
言うつもりはなかった。
ただ、このまま黙っていたら、胸の中で膨れたものが破裂する気がした。
あの子の箸が、ぴたりと止まる。
ほんの一秒。
けれど、ワシには永遠に見えた。
「……はい」
あの子は顔を上げずに返事をする。
まるで、叱られる子どものように。
違う。叱る話ではない。
そう思うのに、ワシの心は勝手に上下を決めようとする。
「……余計なことを言う連中は、放っとけ」
声は低く出た。
怒りを“外”へ向けたつもりだった。
本当は、怒っておるのは別のものじゃ。
――奪われるのが怖い。
――置いていかれるのが怖い。
「はい……。私も、そう思います」
あの子はそう言って、味噌汁をひと口飲んだ。
その仕草が、落ち着きすぎている。
この家のことを、もう“慣れた”手つきでやっている。
慣れているからこそ、いつか慣れたまま出ていける。
ワシの心が、勝手にそこまで走る。
「……アンタは」
口をついて出かけた言葉が、喉で止まった。
アンタは、ここに居ろ。
アンタは、行くな。
その言葉が、舌先まで上がってくる。
ワシは箸を握り直し、握りつぶしそうになるのを堪えた。
手が震えるのをごまかすように、茶碗を持つ。
茶碗の縁が唇に当たって、冷たい。
「アンタは……」
もう一度。
今度は、檻の言葉を出した。
「アンタは、若い。未来がある。……わしなどに縛られる必要はない」
言いながら、自分の胸が痛む。
“未来”という言葉が、昨夜から毒になっておる。
未来=ここから消えること。
そう変換されてしまう。
あの子はゆっくり顔を上げた。
笑っていない。
でも、泣きそうでもない。
ただ、困ったような目をしている。
「お義父さん……また、その話ですか」
声は柔らかい。だが、揺れている。
揺れていることが、ワシには怖い。
「私は……」
言いかけて、あの子は一度息を吸った。
「私は、ここにいるって決めてます」
その言い方が、昨夜より少しだけ硬い。
慰めではなく、宣言に聞こえてしまった。
宣言――ということは、迷いがある。
迷い――ということは、外の声が届いている。
届いている――ということは、いつか引っ張られる。
ワシは、一瞬、怒鳴りそうになった。
意味のない怒りを。
「余計なことを吹き込むな」と。
「家のことも知らんくせに」と。
「アンタの何を知っとる」と。
だが、それを言えば、あの子を傷つける。
あの子を傷つけたら、息子の遺影が笑わなくなる。
それだけは――。
だからワシは、声を落とした。
「……そうか」
たったそれだけ。
それだけで、喉の奥が熱くなる。
あの子は、箸を動かし始めた。
さっき止まった箸が、また動く。
日常が戻ろうとする。
戻らない。
ワシの中だけが戻らない。
昨夜、ワシは気づいてしまったからだ。
“生き直せ”と言いながら、
本当は、
“生き直させたくない”と思っている自分に。
それを認めるのが怖い。
認めたら、檻が役目を失う。
檻が壊れたら、ワシは――。
食卓の向こうで、あの子が小さく笑った。
無理に作った笑いだと、分かる。
分かるのに、胸が緩む。
緩んだ胸の隙間から、冷たいものが流れ込む。
この笑顔は、いつまで見られるのか。
この家の朝は、いつまで続くのか。
ワシは、噛みしめるように鮭を口に入れた。
味がしない。
そのくせ、心の中だけはうるさい。
――言うな。
――今は言うな。
――父であれ。
――父であれ。
繰り返せば繰り返すほど、
“父”という言葉の薄さが露わになる。
あの子は食器を片づける準備を始めた。
いつもの朝の動き。
生活の手つき。
それを見て、ワシはふと、思ってしまった。
もしこの手つきが、別の家で、別の男のために向けられたら。
その想像だけで、視界が暗くなる。
怒りとも悲しみともつかぬものが、胸を満たし、喉を締める。
ワシは、言葉を飲み込んだ。
まだ、飲み込めた。
まだ、自制はできた。
できたからこそ――
自分の中の何かが、確実に育っているのが分かる。
檻の中で。
腐りながら。
夕方の光は、冬のそれみたいに早く傾く。
台所の窓から差し込む橙が、畳の目を長く撫でて、家の隅々を“昔”の色に染める。
アンタは昼過ぎに外へ出た。
「ちょっと、買い物と……役場に寄ってきますね」
そう言って、いつものように笑った。
ワシは「気をつけて行け」と言った。
それだけで済むはずだった。
戸が閉まる音がして、家が一段、静かになった。
静かになった途端、昨夜と今朝のことが、また胸の底から浮かび上がってくる。
“再婚”
“若いんだから”
“未来がある”
未来、未来、未来――。
その言葉が、今日は“失う”と同義になって、腹の奥を冷たくする。
ワシは湯を沸かして茶を淹れた。
急須の湯気が立ち上る。
湯気はふんわりと優しいのに、胸の中はざらついている。
そのとき、玄関の方で声がした。
「ごめんくださいなぁ」
この辺りの顔なじみ――川向こうの老夫婦だった。
夫の方はよく笑う男で、妻の方は小柄で世話焼きだ。
「おお、竹内さんか。どうした」
ワシが立つと、二人は靴も脱ぎながら勝手知ったる様子で上がってくる。
「いやぁ、ちょっと通りかかったもんで」
「お嫁さん、今日は?」
妻の方が台所の方を覗くように言った。
「買い物に出たわ」
「まぁまぁ、あの子はしっかりしとるからねぇ」
妻は両手を合わせるようにして、しみじみと続ける。
「若いのに残ってくれて…ほんとありがたいねぇ」
その言葉は、誉め言葉の形をしている。
なのに、ワシの胸は少しだけ強張った。
“残ってくれて”
残る、という言葉は、裏を返せば、出ていく道があるということだ。
「ありがたいことじゃ」
ワシはそう言って、茶を差し出した。
湯呑みの音が、畳に小さく響く。
妻は湯呑みを両手で包むように持ち、目を細めた。
「でもねぇ……」
その“でも”が、嫌な予感を呼ぶ。
「そろそろ誰か見つける頃かもしれんねぇ」
さらり、と。
砂糖を落とすように、さらりと言う。
ワシの胸の奥が、ひゅっと縮む。
顔には出すまいとして、口元だけ動かした。
「……まあ、世間はそう言うじゃろうな」
夫の方が、それを待っていたみたいに笑った。
笑いながら、肘でワシの肩を軽く突く。
「あんなべっぴんのお嬢さん、誰もほっとかないだろうなぁ……。お前さん、放しちゃいかんよ!」
冗談ぽい声。
冗談の調子。
昔からこの男は、言うことが軽い。
だからワシは、反射で笑った。
「何を言うとる」
自分でも驚くほど、声は自然に出た。
三人の笑いが、短く続く。
畳の上で、夕方の光が揺れる。
その笑いの中で、ワシは――
ふと、胸の底が冷えていくのを感じた。
“放しちゃいかんよ”
冗談のはずの言葉が、ワシの中に落ちて、沈んでいく。
そして、沈んだ先で、何かに触れる。
触れてはいけないものに、触れてしまう。
……本当に、そうしたいと思う自分がいる。
ワシは湯呑みに目を落とした。
茶の表面に、夕日が赤く映っている。
その赤が、血みたいに見えて、目を逸らした。
「いやいや、あの子は若いんじゃ」
ワシは、言い訳みたいに言った。
正しさの檻を、慌てて引っ張り出す。
「ワシのところに縛りつけるのは、違う」
違う、と言いながら、胸の奥では“違わない”声が囁く。
夫はまた笑った。
「堅いなぁ。冗談だよ冗談」
妻はうなずきつつも、少しだけ真面目な目をした。
「でもねぇ、あんたも、急に一人になったら寂しかろう?」
その一言が、今度は刃物みたいだった。
寂しい――。
その言葉は、ワシが隠してきた本体だ。
寂しいから、檻を作った。
寂しいから、善意を装った。
寂しいから、遠ざけようとした。
なのに今、他人の口から言われると、
まるでワシの心の内を覗かれたみたいで、背筋が粟立つ。
「……寂しいのは、皆同じじゃ」
ワシはそう答えた。
答えになっていない答え。
妻は「そうだねぇ」と頷いて、湯呑みを置いた。
そして、畳に手をつき、少しだけ声を落とした。
「ねぇ、無理はしないでね。お嫁さんにも、あんたにも」
優しい言葉。
良い言葉。
だからこそ、ワシの胸に重く沈む。
無理――。
無理をしているのは誰か。
ワシか。アンタか。
あるいは二人ともか。
夫婦は茶を飲み干し、しばらく世間話をして帰っていった。
玄関の戸が閉まる。
また、家が静かになる。
静かになると、さっきの冗談が、笑いが、
今度は笑いではなく“提案”のように聞こえる。
“放しちゃいかんよ”
“誰もほっとかない”
“見つける頃かもしれん”
ワシは座ったまま、動けなくなった。
湯呑みの中の茶が冷めていくのを見つめる。
冷めていくのは茶だけじゃない。
“正しさ”が冷めていく。
檻の外に置いたはずの正しさが、じわじわと力を失い、
檻の中のものが息を吹き返す。
ワシは、笑って返した。
あの冗談に、笑って返せた。
その事実が、怖い。
冗談に笑えたのは、
冗談が、どこか“願い”に近かったからじゃないのか。
ワシは自分の指を見た。
節くれだった指。
皺。
老いの証拠。
その指で、何を掴もうとしている。
……掴んではならんものを。
玄関の方で、鍵の音がした。
アンタが帰ってきた音だ。
ワシの心が跳ねる。
嬉しい、というより、ほっとする。
ほっとしてしまう自分が、怖い。
「ただいまです」
声が、明るい。
いつも通りだ。
ワシは立ち上がって、「おかえり」と言いかけた。
その言葉は、喉まで来たのに、少しだけ引っかかった。
――戻ってきた。
――まだ、ここにいる。
安堵が、胸を満たす。
満たした安堵の奥で、もう一つの声が小さく笑う。
――“放すな”。
ワシは、台所へ向かう足を一歩踏み出した。
いつものように、いつもの父として。
いつもの義父として。
けれど、その一歩の裏に、別の一歩が重なっているのを、
ワシはもう、気づいてしまっていた。
夕方の光は、いつのまにか薄くなり、
家の中に影が増えていく。
影は、誰のものか。
ワシのものか。
それとも――これから“育つ”何かのものか。
アンタは買い物袋を台所に置いて、
振り向いて笑った。
「今日はね、安い鮭があったんです」
その笑顔を見て、ワシの胸の奥が、また一度だけ軋んだ。
音は小さい。
けれど、今度の軋みは、昨夜や今朝より――少しだけ近い。
破綻はまだ起きていない。
まだ、起きていない。
しかし、起きる方向へ、
家ごと、心ごと、じわじわ傾いている。
ワシは笑顔を作った。
作れてしまった。
「……そうか」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、自分が怖かった。
夕食のあと片づけを終えて、台所の灯りが少しだけ落ち着いた頃だった。
湯呑みの湯気が、蛍光灯の下でゆっくりほどけていく。
アンタは、いつもより言葉を選ぶようにして座っていた。箸はもう置いてある。なのに手は膝の上で落ち着かず、指先が布をつまんでは離す。
「……お義父さん」
呼び方が、やけに丁寧だった。
「なんじゃ」
ワシは湯呑みに口をつける。熱いはずの茶が、今日は妙にぬるく感じる。
アンタは一度、唇を噛んでから言った。
「私、パートに出ようかなって……思って」
その一言が、台所の空気を変えた。
湯気がいきなり冷えたように見える。
「……は?」
声が出た。自分でも驚くほど、短く、硬い声だった。
アンタは慌てて続ける。笑って火を消そうとする、いつもの癖。
「ほら、最近また言われてて……。私、ずっと家にいるでしょう? 少し外の空気も吸った方がいいって」
「それに……お義父さんの負担にもなりたくないし」
負担。
その言葉が、喉の奥の何かを引っ掻いた。
ワシは湯呑みを置く。置いた音が、思ったより大きい。
自分の胸の音まで聞こえてくる。
「必要ない」
ワシは即座に言った。考えるより先に出た。
「え……でも」
アンタの目が揺れる。
「必要ないと言うとる」
重ねてしまう。重ねるほど、声が強くなる。
アンタは膝の上で手を握った。
その手の白さが、妙に目につく。
ワシは見ないふりをして、理由を並べる。
「金ならある。生活する分は十分じゃ」
「お前が働いて稼ぐ必要など、どこにもない」
言い切った瞬間、頭の中で何かが「違う」と鳴った。
それは“正しさ”の声のはずなのに、どこか嘘くさい。
アンタは、言葉を探すように視線を泳がせた。
この家の柱を見て、窓の外の暗さを見て、それからワシの手元を見る。
「……でも、少しでも稼ぎになれば」
「私、ずっと甘えてるみたいで……」
甘えている。
その言葉が、今度は甘い毒になって胸へ落ちた。
ワシは自分が何を言おうとしているか分かっていた。
“甘えろ”と、言いたいのだ。
だが、それを言ってしまえば、檻が壊れる。
だから、別の形にする。
「甘えるのではない。家族じゃ」
「家族が家族の面倒を見るのは当然じゃ」
家族。
その言葉を口にした途端、背筋が冷たくなった。
家族と言いながら、今のワシは“手放したくない”を言っている。
アンタは小さく息を吸い、口を開きかける。
言い返すでもなく、納得するでもなく、ただ、迷いの音がする。
「……お義父さん、私」
「外に出るな」
ワシは遮ってしまった。
遮った瞬間、自分の言葉に自分が驚いた。
外に出るな――。
そんなことを言う権利が、ワシのどこにある。
アンタの目が一瞬だけ見開かれる。
それは怒りでも恐怖でもない。
“理解”に近い顔だった。
ワシの喉が乾く。
このままでは、見透かされる。
いや、もう見透かされている。
ワシは、慌てて「理由」の方へ逃げた。
「外は危ない」
「変な噂も立つ」
「アンタは若い。余計な男が寄ってくる」
……余計な男。
その言葉が口から出た瞬間、台所の空気が一段重くなった。
アンタが瞬きをする。
まるで、今の一言で“中心”に触れたみたいに。
ワシは続けてしまう。止まらない。
「アンタは、ここで十分じゃ」
「家のことをして、落ち着いて暮らせばいい」
「ワシは……ワシは金の心配などさせん」
金の心配。
本当に守りたいのは金ではない。
守りたいのは――“ここに居る”という事実だ。
それをワシは、言葉にしたくない。
アンタは、目を伏せた。
そして、笑おうとした。
笑って場を整えようとする。だが、笑いが最後まで形にならない。
「……うん。わかった」
その返事は、普段の柔らかい「はい」と違った。
どこか、しまい込むような声だった。
ワシの胸が、ひやりとした。
説き伏せたはずなのに、勝った気がしない。
むしろ、何かを失った気がする。
「……すまんな」
ワシは、口に出した。
謝罪の形をした楔を打ちたかった。
アンタは首を振る。
「ううん。お義父さんがそう言うなら……」
その「そう言うなら」が、ワシの腹の底を撫でた。
従わせた。
従わせてしまった。
その二つが同時にのしかかる。
アンタは立ち上がり、湯呑みを片づけ始めた。
いつもの手つき。
いつもの動作。
けれど、背中がほんの少しだけ遠い。
「……パートの話は、もうせんでええ」
ワシは言ってしまう。念押しのように。
アンタの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「うん」とだけ返ってくる。
それだけで、ワシの心は落ち着くはずだった。
だが落ち着かない。
落ち着かないどころか、胸の中の何かが焦り始める。
――外の世界に触れさせるな。
――外の声を入れるな。
――この家の中だけで完結させろ。
その命令が、自分の中から出ているのが怖かった。
「お義父さん」
アンタが背中のまま言う。
声が小さい。
「私、今まで……」
言いかけて止まる。
止まることで、言葉の残骸だけが空気に浮く。
ワシはそれを拾ってしまう。
“今まで、ここにいた理由”
“これからも、ここにいる理由”
それを、アンタが言葉にしてしまったら、
ワシはもう、逃げ場がなくなる。
「もうええ」
ワシはまた遮る。
遮りながら、心のどこかで確信する。
――遮るようになったら終わりだ。
――会話ではなく、支配になってしまう。
アンタは何も言わず、食器を流しに置く。
水の音が始まる。
その音が、ワシには妙に冷たく聞こえた。
夜。
布団に入っても眠れないのは、いつものことになりつつあった。
だが今夜は、いつもと違う。
アンタの「わかった」が、
承諾ではなく、諦めに聞こえたのだ。
諦め――ということは、
心のどこかで離れていく準備を始めたということだ。
ワシは暗闇で目を開けたまま、天井を睨む。
ここ数年、どれだけ言い聞かせてきたか。
「出ていけ」
「生き直せ」
「未来がある」
言い聞かせるたびに、ワシは自分が立派な人間だと信じた。
だが今日、その仮面がずれた。
パートに出る、というたった一言で、
ワシの中の“本音”が牙をむいた。
金の心配などではない。
安全の心配でも、世間体でもない。
――外に出るな。
――誰にも渡すな。
――ここに居ろ。
それが本心だと、もう分かってしまった。
そして、分かった瞬間に恐ろしくなる。
自分が何者になりつつあるのか、分かってしまうからだ。
ワシは布団の中で、手を握った。
握った拳が震える。
怒りなのか、恐怖なのか、分からない。
“父であれ”
そう言い聞かせる声は、もう弱い。
弱い声の下で、別の声が太くなる。
――迷うな。
――先に決めろ。
――離れる前に、縛れ。
縛る。
その言葉が脳裏に浮かび、胸の奥がじくじくと熱くなる。
熱さは、涙にも似ている。
欲にも似ている。
ワシは歯を食いしばり、独り言を漏らす。
「……妻も息子も、この世を去った」
その言葉を言うと、喉の奥が痛む。
言葉は哀れみの形をしている。
哀れみは、人を許す免罪符になる。
ワシはそれを、どこかで欲している。
「残るは……」
声が掠れる。
残るはアンタとワシだけじゃ。
――そう言うたら、
アンタはまた笑って、寄り添ってくれるだろうか。
寄り添いが、救いではなく鎖になると知りながら、
ワシはそれを求めている。
薄い闇の向こうに、廊下がある。
廊下の向こうに、扉がある。
扉の向こうに、アンタがいる。
ワシは、まだ立ち上がってはいない。
まだ何もしてはいない。
ただ、胸の中で言葉だけが増殖していく。
“出ていけ”と言っていた口が、
別の言葉を覚えてしまう。
「……後生じゃ」
誰にともなく、呟く。
そして、胸の底から、言葉がゆっくり形になる。
もはや、善意の仮面では押さえ込めない言葉が。
「ワシの子を……」
暗い夜の静寂の中、
老いたワシは独り言を呟く。
言葉はまだ完全にはならない。
だが、なる。
今夜か、明日か。
いずれ“本編の独白”の形になって溢れる。
ワシは分かっていた。
分かっていながら、止められない。
迷ってなどいられない、と。
夜が早い季節になっていた。
台所の灯りは、昼間の明るさを忘れたみたいに頼りない。電球の周りに小さな影ができて、その影が少しずつ増えていく。
あの夜――パートの話を折った夜から、家の空気が変わった。
変わったのはあの子の方じゃ。正確には、あの子の“動き”が変わった。
笑う。作るように笑う。
返事をする。いつも通りの返事をする。
だが、背中が少し遠い。
目が合う時間が短い。
ワシはそれを「気のせい」と言い聞かせた。
言い聞かせるたび、胸の奥のざらつきが増えた。
それでも、日々は日々として続く。
味噌汁を作り、洗濯物を取り込み、薬を並べる。
同じことを繰り返していれば、この家は元に戻ると思っておった。
戻らん。
戻らんものは、戻らん。
ある夕方、アンタが郵便受けから紙を取ってきた。
それはチラシみたいな薄い紙束で、アンタはすぐに台所の引き出しへしまった。
ワシは見ておらんふりをした。
見ておらんふりをしたくせに、目だけが吸い寄せられた。
紙の端に、印刷された文字が一瞬だけ見えた気がした。
「求人」
――そう見えた。
脳が勝手に続きを作る。
求人=外=人=男=未来=別の家=別の声。
ワシの喉が、からからに乾いた。
その夜、アンタは電話をした。
居間で、壁の方を向いて、小さな声で。
「うん……うん。まだ決めてないよ。……でも、ね」
「このままは、よくない気がして」
“このままは、よくない”。
その一言で、ワシの腹の底が冷えた。
よくない、とは何じゃ。
よくないのは、何じゃ。
ワシか。
この家か。
それとも――二人きりであることか。
電話を切ったアンタが振り向く前に、ワシは新聞を読むふりをした。
紙面の文字が目に入らん。
紙面の向こうで、アンタの足音だけが、妙に大きい。
その日から、ワシの頭の中に一つの像が居座る。
アンタが外へ出ていく像。
戸が閉まり、この家が完全に静かになる像。
妻と息子が死んだ後の静けさ。
あの静けさが、もう一度来る像。
ワシは、耐えられん。
だから、言葉を準備した。
正しい言葉を。
父の言葉を。
義父の言葉を。
「出ていけ」
「生き直せ」
「未来がある」
だが、いざ口を開こうとすると、その言葉は喉に引っかかった。
正しい言葉の奥に、別の言葉が詰まっている。
――行くな。
――ここに居ろ。
――放すな。
正しい言葉を吐けば吐くほど、
奥の言葉は太くなっていく。
ワシは気づいていた。
気づいているからこそ、焦る。
焦りは、どこかへ向けねばならん。
向けねば、ワシは自分自身を裂いてしまう。
だからワシは、世間へ怒りを向けた。
近所へ。友人へ。噂話へ。
「余計なことを言いやがって」
口に出すと、少し楽になる。
楽になるから、また言ってしまう。
言うほど、怒りが“正しさ”の顔をしていく。
あの子が「みんな心配してるだけだよ」と言ったとき、
ワシは笑えなかった。
心配?
ならなぜ、連れていこうとする。
その夜も、あの子はいつも通り布団を敷き、いつも通り「おやすみなさい」と言った。
声は柔らかい。
柔らかいのに、扉が閉まる音が、今日はやけに重かった。
ワシは自分の部屋で、天井を見上げる。
暗い。
暗いから、頭の中が明るくなる。
嫌な想像だけがはっきりする。
――明日、あの子が「少し出ます」と言う。
――明後日、帰りが遅くなる。
――そのうち、“ここ”を必要としなくなる。
想像を止めようとして、止まらん。
止まらんから、理由を探す。
金のこと。
安全のこと。
世間体のこと。
家のこと。
理由はたくさんある。
だが、本当の理由は一つしかない。
ワシは、もう独りに戻れん。
戻れん、という言葉を認めた瞬間、胸が熱くなる。
涙のような熱さ。
欲のような熱さ。
ワシは布団の中で手を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。
痛い方がいい。
痛いと、まだ理性が働いている気がする。
それでも、痛みの下で、別の声が笑う。
――迷うな。
――迷えば取られる。
――決めろ。
決めろ。
何を?
ワシは起き上がった。
廊下に出た。
足音を殺す必要はないはずなのに、無意識に忍ぶような歩き方になる。
扉が、ある。
アンタの部屋の扉。
その前に立つと、心臓がうるさい。
自分の鼓動が、家中に響いている気がする。
叱るべきだ。
戻れ。
父に戻れ。
ワシは息を吸って、口を開く。
だが出てきたのは、父の言葉ではなかった。
「……アンタ」
名前を呼ぶ代わりに、いつも通りの呼び方をした。
その呼び方が、今夜は妙に生々しい。
返事はない。
眠っているのかもしれん。
起きて、息を殺しているのかもしれん。
その沈黙が、ワシの胸を焦がす。
沈黙は拒絶にも聞こえる。
拒絶は、置いていかれる未来にも聞こえる。
ワシは、自分に言い聞かせる。
“わしは悪くない”
“わしは守っているだけだ”
“これは家族のためだ”
だが、言い聞かせるほど、心の底が冷えていく。
冷えていくほど、別の熱が増える。
――欲しい。
――ここにいてほしい。
――ずっと、いてほしい。
ワシはふと、息子の遺影が脳裏に浮かぶ。
笑っている顔。
何も知らん顔。
胸が痛む。
痛むから、また理由を探す。
“妻も息子もこの世を去った”
その事実は、ワシを哀れにする。
哀れは、許しを呼ぶ。
許しを呼べば、ワシの罪が軽くなる気がする。
軽くなれば、踏み出せる。
ワシは扉の前で、笑ってしまいそうになった。
笑うと、壊れる。
壊れると、戻れない。
……もう戻れないのかもしれん。
ワシは震える手で、扉に触れた。
ノブに触れる寸前で、手が止まる。
止まった手が、今度は自分の胸に触れる。
そこにあるのは、父の心ではない。
父の心であろうとして、失敗し続けた男の心だ。
アンタを遠ざけようとした。
善意で。
そう信じた。
だが違う。
怖かったのだ。
あの子がここに居る限り、いつか自分がこうなると分かっていたから。
分かっていたのに、止められなかった。
そして今、分かっているだけでは足りなくなった。
ワシは扉に向かって、声を落とす。
懇願の形を取りながら、命令の芯を隠した声。
「……聞いてくれ」
「頼む」
「ワシを拒まんでくれ」
返事はない。
返事がないから、言葉が勝手に続く。
「……後生じゃ」
その二文字を口にした瞬間、
胸の奥の檻が、音を立ててずれた。
“後生じゃ”と言えば、許される気がした。
哀れな老人の願いなら、受け止めてもらえる気がした。
そうやって、自分の醜さを“願い”の形に包む。
言葉が、完成していく。
止めようとして、止まらない。
ワシは暗い夜の静寂の中、独り言を呟く。
まるで祈りのように。
まるで呪いのように。
「……ワシの妻も息子も、この世を去った」
「残るは……あんたとワシだけじゃ」
そして、最後の一押しが、唇から落ちた。
「……ワシの子を、産んでくれんか」
扉の向こうで、布団が小さく軋む気配がした。
起きたのか。息を止めたのか。
その気配が、ワシの中の何かを決定づける。
迷ってなどいられない――
そう思ってしまった瞬間、
ワシはもう“元のワシ”ではなかった。
返事を待つふりをしながら、
ワシは扉の前で、もう一度だけ、囁く。
「……後生じゃ」
「ワシの子を産んでくれんか」
静寂が、ひび割れる音がした。
どこかで。
あるいは、ワシの中で。
「アンタはワシの最後の希望じゃ」
心に刻まれた思いが溢れ出す
「ワシの子を産んでくれんか」
愛しさが胸に広がり、言葉に変わる
あと何年、共に居れるかわからんが……
その時間を共に歩みたい
「ワシはアンタを愛してしまった」
その愛が、ワシを前へと押し出す
「後生じゃ、ワシの子を産んでくれんか」
願いを込めた言葉が響く
優しい笑顔と共に
新たな希望が生まれる瞬間を夢見る
老いたワシの心に灯る光
その光が、二人の未来を照らす
共に歩む道を見つめながら
「ワシの子を産んでくれんか」と
再び囁く夜が続く
「ワシの子を産んでくれ」
その言葉は、何度も繰り返される
「後生じゃ」と嘆願する声が
夜の静寂を破る
朝が来た。
来てしまった、と思ったのに、窓の外の光は昨日と同じで、台所の匂いも同じだった。
味噌汁の湯気はちゃんと白く立って、湯気の向こうで、私はいつも通りに鍋を揺らす。
昨夜のことが夢だったみたいに、家は整然としている。
だからこそ怖い。
昨夜、扉の向こうで言われた言葉は確かにあった。
なのに、朝という時間がそれを“なかったこと”にしようとする。
私は笑顔を準備して、居間へ出た。
逃げる準備じゃない。戦う準備でもない。
ただ、崩れないための準備。
お義父さんは、もう座っていた。
新聞を広げる手つきも、湯呑みを持つ手も、いつも通り。
「……おはようございます」
声が震えないように言った。
「おう。……おはよう」
お義父さんも、いつも通りの声だった。
昨夜の荒れた息も、焦げた言葉も、どこにもない。
“ここで話題に出したら、朝が壊れる”
そう分かってしまうから、私は何も言わない。
言わないまま、食卓に並べる。
焼き魚。おひたし。味噌汁。
生活の形。
お義父さんは味噌汁をひと口飲んで、短く言った。
「……うまいな」
その一言で、私は泣きそうになった。
怖いからじゃない。
“戻ってほしい”と思ってしまうからだ。
昨夜のことがなかったらよかったのに。
昨夜の言葉がなければ、私はこのままここにいられたのに。
でも現実は、もう割れてしまっている。
箸の音が、静かに続く。
沈黙が、穏やかなふりをする。
食後、お義父さんは「風が冷たい」と言って縁側の障子を閉めた。
その背中は以前よりも小さくて、老いがはっきり見えた。
――この人を置いて出ていけない。
その思いが胸の奥に湧く。
同時に、別の声が刺す。
――この人と、二人きりで居続けたら、もっと壊れる。
私の中で、二つの正しさが喧嘩している。
午前、私は掃除をした。
午後、買い物に出た。
“外の空気”を吸うだけで少し落ち着く。
落ち着いた分、恐怖も輪郭を持つ。
戻ると、お義父さんが居間にいた。
「おかえり」と言われ、私は「ただいま」と返す。
この家は、まだ“家”の顔をしている。
それが、いちばん恐ろしい。
夜が近づくにつれ、私は“扉”を意識し始めた。
自分の部屋の扉。
昨夜、お義父さんが立っていた場所。
私は夕飯を作りながら、何度も頭に思い描いてしまう。
お義父さんの足音が聞こえるたび、心臓が跳ねる。
ただの歩く音なのに、“今日の夜も、来るかもしれない”という予感が混ざる。
食卓では、また“いつも通り”が続いた。
お義父さんは世間話をし、天気のことを言い、薬のことを言う。
私は相槌を打つ。
お義父さんの目は、時々、私を長く見た。
その“長さ”が、昨夜の言葉を連れてくる。
食後、私は自室に戻る前に、一度だけ深く息を吸った。
そして、小さな音を立てないように鍵をかけた。
鍵が回る感触が、胸に重く残る。
“私は、何をしているんだろう”
“家族に鍵をかけるなんて”
その罪悪感が、喉に絡む。
でも、鍵をかけない選択肢はない。
私は布団に座って、膝の上で手を握った。
手のひらが汗ばんでいる。
“お願いだから、今夜は来ないで”
祈るように思う。
祈りながら、同時に分かっている。
――来る。
昨夜、あの言葉を口にした人は、もう戻れない。
消灯して、しばらく経った頃だった。
廊下の畳が、きしんだ。
その音だけで分かる。
足取りが遅い。ためらっている。
でも、引き返さない。
扉の前で、気配が止まる。
私は息を止めた。
昨日と同じ。
違うのは、気配が“すぐに消えない”こと。
扉の向こうで、低い声がした。
「……アンタ」
呼ばれただけで、背中が冷たくなる。
私は布団の端を握りしめた。
「……お義父さん。夜です」
なるべく落ち着いた声を作って言う。
昨夜より少しだけはっきり。
少しの沈黙。
それから、声が落ちる。
「……昨日の話じゃ」
「ワシは……ワシは、もう独りは嫌なんじゃ」
その言葉に、恐怖が先に来るはずなのに、悲しみも来てしまう。
それが、私の弱さだ。
「お義父さん、お願い。部屋に戻って」
私はそう言った。
でも、お願いは届かない。
「……妻も息子も、この世を去った」
「残るは……アンタとワシだけじゃ」
その言い方が、まるで事実を確定させるみたいで、私は震えた。
“外”を消して、“未来”を消して、この家の中だけを世界にする言い方。
「違います」
私は言った。
小さくても、言わなければ終わる。
「お義父さんにだって……外にもご近所の皆さんがいる。私だって……」
言葉が詰まる。
“私だって未来がある”と言えば、それが火種になる気がしたから。
扉の向こうで、息を吸う音がした。
泣きそうな音でもあり、怒りを飲み込む音でもある。
「……新しい命が、この家を明るくする」
お義父さんは、まるで祈るように言った。
「赤ん坊の声があれば……また朝が来る」
「また笑える。ワシは、そう信じとる」
信じている。
その言葉が、私の心をさらに冷やす。
これは理屈の話じゃない。説得の土台が違う。
「お義父さん、そんなの……」
私は声を震わせた。
「それは……だめです。私は、お義父さんじゃなくて、あの人の……」
“嫁”です、と言いたいのに、言うと刃になる気がして言えない。
言い切った瞬間、関係が“戻れない形”で確定するから。
沈黙が落ちた。
その沈黙の間、私は必死に考える。
誰かに相談するべきだ。
でも相談したら、お義父さんが“終わる”。
終わってほしくない。
でも、私が壊れる。
葛藤がぐるぐる回っているうちに――
ドン、と扉が鳴った。
ノック。
昨日より強い。
私はびくっと肩を跳ねさせた。
扉が揺れる。
鍵がカチャ、と小さく鳴る。
「……アンタ」
声が、少し荒くなる。
怒りというより、怯えが混ざった荒さ。
「拒むな」
短く、押し殺した声。
その直後、すぐに言い直すみたいに、弱い声が続く。
「……頼む」
「後生じゃ」
また、ドン。
もう一度、ドン。
壊そうとはしていない。
でも“開けてほしい”という圧が、扉越しに押し寄せてくる。
私は布団から降りて、扉に近づきすぎない場所に立った。
距離を取らないと、心が持っていかれる。
「お義父さん、お願い。戻って」
「今は……だめ」
「明日、ちゃんと話しましょう。昼間に。落ち着いて」
返事はすぐには来なかった。
扉の前の気配が、ただ、そこに居続ける。
その“長さ”が、私を削る。
昨日は、もっと早く引いた。
今日は引かない。
引くのが遅い。
「……ワシは怖いんじゃ」
ようやく声が落ちてきた。
「また全部失うのが」
「お前までいなくなるのが」
恐怖。
不安。
悲しみ。
その順番で言葉が出てくる。
だからこそ、私は胸が痛む。
痛むからこそ、説得したくなる。
説得したいと思ってしまう自分が、また怖い。
「私はいなくなりません」
私は言った。
本当は、断言していい言葉じゃない。
でも今は、鎮静剤みたいに必要だった。
「……ほんとか」
子どもみたいな声がした。
その声の直後、また強いノック。
ドン。
「証が要る」
ドン。
「確かなものが要る」
その言葉に、私は背筋が凍る。
“証”という響きが、昨夜より一段危ない。
私は喉の奥の震えを押さえて、できるだけ冷静に言った。
「証なら……私は明日もここにいます」
「朝になったら、一緒にご飯を食べましょう」
「それで……それで十分です」
扉の向こうで、呼吸が乱れる。
乱れた呼吸が、しばらく続く。
私はその間、動けない。
耳が、扉の向こうに縫い付けられている。
やがて、畳がきしむ音がした。
一歩。
また一歩。
気配が、ゆっくり遠ざかっていく。
遠ざかるのに、私は安心できない。
“引いた”のではなく、“溜めた”ように感じるから。
最後に、消え入りそうな声が落ちた。
「……明日は、約束じゃ」
「……置いていくな」
その言葉が、扉の木目に染みつくみたいで、私は目を閉じた。
静かになった廊下。
家はまた“いつも通り”の顔をする。
でも、私は分かっている。
朝はいつも通りにできても、
夜は、もういつも通りには戻らない。
そして、ノックが強くなったこと。
立っている時間が長くなったこと。
“証が要る”と言い始めたこと。
それらは全部、次の段階が近い合図だ。
私は布団に戻れず、床に座り込んだ。
膝を抱えて、暗い部屋で息を整える。
“私は見捨てられなかった”
“それでも、ここに残った”
その選択が、今は重い。
それでも私は、朝になればまた味噌汁を作るだろう。
そしてお義父さんもまた、何事もなかったように湯呑みを持つだろう。
薄い膜で、ひび割れを覆いながら。
でも膜は、夜ごとに薄くなる。
次の夜、ノックはもっと強くなるかもしれない。
立っている時間はもっと長くなるかもしれない。
私は、明日こそ“誰か”に話さなければならない。
そう思うのに、胸の奥でまた迷う。
その迷いが、いちばん危ない。
扉の向こうの闇が、今夜もまだ、そこにある。
私は目を閉じたまま、朝を待った。
「今宵、アンタのところへ行く」
その決意が、老いた身体を動かす
「ワシじゃよ」と囁きながら
優しい手で、ドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」と
再び願いを込めて
その言葉に込められた
深い愛情と切実な想い
「あいすまぬ」と
何度も繰り返し詫びながら
「ワシの子じゃ、まだまだもっとじゃ」と
未来への希望を抱く
共に過ごす時間が
新たな命に繋がることを夢見て
老いたワシの心に灯る光が
二人の未来を照らし続ける
その光が、愛の証となり
新たな生命の誕生を祝う
「ワシの子を産んでくれ」と
夜空に響く願いが
いつの日か、叶うことを信じて
アンタにワシの子が宿ると信じて
「辛抱たまらん!!」と
老いた声が震える
欲望が、ついに理性を超え
夜の静けさを裂くように叫ぶ
「ワシのものじゃ~」と
声が高鳴り、欲望が募る
その執念は、誰にも止められぬ
未来を見つめ、願いを繰り返す
「アンタがワシのものになれば」
「新たな命が宿るじゃろう」と
老いた手が震えながらも
愛を求めて、もう一度ドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」
その願いが、空にこだまする
「これが最後の望みじゃ」と
老いた心が、未来を夢見る
夜空に響くその声は
切なく、しかし確かに
新たな命の誕生を願い
老いた者の最後の希望を
宿している
そしてその光が
アンタとワシの未来を
優しく照らし続ける
その願いが、いつの日か
叶うことを信じて
「なぜ拒む?」と
老いた声が震える
「アンタが悪いのじゃ」
その言葉が、暗闇に響く
「妻も子も失くしたワシに寄り添ったアンタが!」
その優しさが、老いた心を狂わせた
「優しくしてほしくなど無かった」
その気持ちが、今や重荷となり
「そのせいでワシはアンタを愛してしまったのじゃからな」
狂おしいほどの思いが胸を締め付ける
「もう遅いのじゃ」と
声が涙に濡れる
「もうワシは狂ってしまった」
その言葉に込められた絶望が
静寂を破り、夜を貫く
「今日という今日は覚悟を決めてくれ」
その願いが、切実な叫びとなり
「ワシは地獄に落ちる覚悟ができている」
愛と欲望が、理性を越え
老いた手が震えながら
再びドアを叩く
「ワシの子を産んでくれ」と
最後の嘆願を込めて
夜空に響くその声が
未来への希望を
切に願い続ける
「ワシは悪くない!」と
声が高まり、老いた心が叫ぶ
「ワシの思いを受け取るのじゃッ!」
その言葉が、夜の静寂を裂く
「我が息子よ、すまんなぁ」
その後悔が胸を締め付ける
「ワシはお前の大切な人を愛してしまったよ」
罪の意識が、老いた心を揺さぶる
「妻よ許せ。ワシはこの女が好きじゃ」
その告白が、夜空にこだまする
「ワシは猛り狂う」
老いた身体が、欲望に駆られ
「ワシは老いてなお、生命力に溢れる!」
その執念が、理性を越える
「ワシは必ずアンタにワシの子を産んでもらう!」
決意が固まる中、手が震える
「アンタはもう、ワシのものなんじゃ~!」
その言葉が、二人の未来を縛り付ける
老いた心が、愛と狂気の狭間で揺れ動き
ついにドアをこじ開ける
未来への希望と絶望が交錯する中
「ワシの子を産んでくれ」と
最後の嘆願が、夜空に響き渡る
「あぁ~えぇおなごじゃ~」と
老いたワシは満足げに囁く
「生き返るようだわい」と
その若い肌ツヤと芳しい香りに酔いしれる
「息子よ、いい妻を娶ったな」
その言葉に一瞬の罪悪感が走るが……
「ま! 今はもうワシの女じゃけどな~」
と、再び欲望に支配される
「はぁ、たまらんかったなぁ」
その思いが心を満たす
「アンタもそう思うじゃろ?」
しかし、拒まれるその言葉に苛立ちが募る
「なぬぅッ!? まだそんなことを抜かすか!」
老いた心が狂おしく吠える
「アンタはもう、ワシのものなんじゃ~!」
その執念が、理性を粉砕する
「これはたっぷりとお仕置きが必要じゃな……」
その決意が、身体を震わせる
「ふぅ、いい気分じゃわい」
欲望が満たされ、心が緩む
夜が終わった、というより――夜が“置いていった”ものだけが残った。
部屋の空気はいつも通りのはずなのに、どこかよそよそしい。
畳の匂いも、布団の重さも、昨日までと同じ形をしている。
なのに私は、同じ場所にいる自分を、少し離れたところから見ている気がした。
泣いていた。
泣くつもりなんてなかったのに、頬が勝手に濡れた。
涙は、怒りの涙でも、悲しみの涙でも、きれいに分類できない。
ただ、あまりにも遅くやってきた“理解”の水分だった。
こうなる前に、止めるべきだった。
止められたのかもしれない。
相談すればよかった。逃げればよかった。
鍵だけじゃ足りなかった。言葉だけじゃ足りなかった。
そんな正論が、頭の中にいくつも浮かぶ。
でも、その正論のすぐ横に、同じくらい確かな現実が座っている。
――私は、見捨てられなかった。
――見捨てたくなかった。
――私も、温もりが欲しかった。
義父が老いていくのを見て、毎日が小さく擦り減っていくのを見て、
この家に“朝”を残したいと思った。
それは善意だった。
同時に、私自身がひとりに戻るのを怖がっていた。
夫がいなくなって、義母もいなくなって、
「家族」という形が壊れたあと、私はその形にしがみついた。
しがみついているうちに、形が別のものに変わっていくのを――見ないふりをした。
見ないふりは、祈りに似ている。
祈っている間だけ、世界は割れないと思えるから。
でも割れた。
扉の前で、あの人は泣くような声で言った。
怖い、独りに戻れない、失うのが嫌だ、と。
その言葉は、私の中にある“捨てられない”を正確に押した。
私は、怒りきれなかった。
憎みきれなかった。
それが一番、自分にとって残酷だった。
憐れみがある。
人としての情がある。
そして――私の寂しさも、そこに混じっている。
私は息を吸って、静かに思った。
仕方がなかった、のかもしれない。
“許される”という意味じゃない。
“こうなるしかない道”を、私たちは少しずつ選び続けてしまった、という意味で。
あの人だけが悪いのではない。
私だけが悪いのでもない。
喪失の穴が大きすぎて、二人の生活が小さすぎた。
小さすぎる器に、悲しみも寂しさも詰め込みすぎた。
だから溢れた。
溢れたものは、元の形には戻らない。
私は濡れた頬を袖で拭いた。
泣き方が分からないまま、泣いている自分がいる。
(明日になったら、私は味噌汁を作るんだろう)
(そしてあの人も、何事もなかったように座るんだろう)
それが怖いのに、どこかで安心してしまう。
“生活が続く”ことが、私の救いでもあるから。
私は薄暗い天井を見つめながら、心の中で小さく言った。
――私も、もう戻れない。
――でも、明日もここで朝を迎える。
それを“赦し”と呼ぶのは違う。
ただの諦めでもない。
生き延びるための、乾いた選択だ。
それでも胸の奥に、ひとつだけ残った。
あの人が本当に欲しかったのは、たぶん私じゃない。
失った家族の代わりの“光”だ。
そして私は、その光になりたかったのかもしれない。
そう思ったら、また少し泣けた。
泣く理由は、もう分からなかった。
朝の光が、障子の紙を薄くする。
薄くなった光が、昨夜の闇を責めるみたいに床へ落ちる。
ワシは目を覚ました瞬間、胸が痛くて息が詰まった。
夢ではない。
昨夜は、夢ではない。
台所の方から、いつもの音がする。
包丁がまな板を叩く音。鍋の湯気。
その“いつも”が、刃みたいにワシを切る。
――あの子は、泣いとった。
泣き声は大きくなかった。
堪えるような、息が震える音だった。
それを思い出しただけで、目の奥が熱くなる。
ワシは布団の中で、声にならない言葉を飲み込んだ。
飲み込んでも、溢れてくる。
(ワシは、何をした)
(ワシは、何を壊した)
昨夜、ワシは“正しさ”のふりをして、恐怖を振り回した。
独りに戻るのが怖くて、失うのが怖くて、
その怖さを“願い”の形にして、あの子に押しつけた。
欲望をぶつけた。
妻と息子の死が、免罪符になると思った。
哀れを盾にすれば許されると思った。
それがどれだけ卑怯か、朝になってようやく分かる。
ワシは起き上がり、足がふらつきながら台所へ向かった。
廊下の畳が、昨夜よりも重い。
台所に入ると、アンタがいた。
いつも通りの背中。
いつも通りのエプロン。
湯気の向こうの横顔。
その“いつも通り”が、ワシの胸を殴った。
ワシは声を出そうとして、喉が詰まった。
詰まったまま、頭を下げる。
「……すまん」
声が震える。
「……すまんかった」
言葉を続けようとすると、涙が先に出る。
堪えようとしても堪えられず、視界が滲む。
「ワシは……」
「ワシは、取り返しのつかんことを……」
ワシは泣きながら、何度も言った。
「許してくれ」と言う資格がないのに、それでも口が動く。
「……許してくれ」
「……ワシは、間違っとった」
「怖かったんじゃ……独りに戻るのが」
「アンタまで失うのが……」
言い訳だ。
分かっている。
それでも本当でもある。
本当だから余計に醜い。
アンタは、鍋の火を弱めて、静かに振り向いた。
その顔は――ワシが想像していた顔ではなかった。
怒っている顔でもない。
失望で凍った顔でもない。
怯えて距離を取る顔でもない。
いつもと変わらない、穏やかな表情だった。
「……お義父さん」
いつもの呼び方。
いつもの声。
「味噌汁、できてますよ」
まるで、昨日までと同じ朝みたいに。
ワシは混乱した。
頭が追いつかん。
(なぜ怒らん)
(なぜ、憎まん)
(なぜ、いつも通りなんじゃ)
ワシの涙が、床に落ちる。
落ちる音だけがやけに大きい。
「……アンタは……」
ワシは言葉を探して、崩れる。
「……ワシを、許すのか」
アンタは少しだけ目を伏せて、ほんの短い間を置いた。
その間が、答えの代わりみたいだった。
「許す、とか……」
「そういうの、今は……」
言いかけて、アンタは言葉をしまう。
しまってから、いつもの調子で言う。
「まず、食べましょう」
その瞬間、ワシはさらに混乱した。
“生活”が先に来る。
まるで、昨夜を膜で覆うみたいに。
そしてワシは、恐ろしくなる。
怒りよりも、失望よりも、
この“いつも通り”の方が、ずっと怖い。
――この子は、もう壊れかけているのではないか。
――昨日の涙を、今日の味噌汁で押し込めているのではないか。
ワシは謝り続けたい。
だが謝れば謝るほど、あの子の“いつも通り”を深くする気もする。
ワシは椅子に座り、震える手で箸を取った。
味噌汁の湯気が目に滲む。
湯気の向こうで、アンタはいつも通り茶碗を置く。
その横顔に、昨夜の涙の気配が残っている気がして、
ワシの胸はまた詰まった。
(ワシは、何を取り戻そうとして)
(何を失わせた)
答えは分からん。
ただ、ひとつだけ分かる。
アンタの“いつも通り”は、赦しじゃない。
赦しではなく――生き延びるための形だ。
その形を、ワシは今、
自分の都合でまた壊してしまうのではないかと、怖くなった。
箸が震える。
味噌汁は、しょっぱかった。
朝に泣いて詫びたワシに、あの子はいつも通り味噌汁を出した。
あまりにいつも通りで、ワシは逆に怖くなった。
怒鳴られもしない。泣かれもしない。
「もう顔も見たくない」と言われることもない。
ただ、白い湯気の向こうで、アンタは椀を置く。
それが――赦しではなく、壊れた後の“整え”に見えた。
その日、アンタは外へ出なかった。
電話もしない。パートの話も出さない。
新聞を畳むワシの横で、黙って洗濯物を畳んでいた。
時々こちらを見る。その目が、昨日までと同じ色をしていない気がする。
いや、同じ色なのに、“焦点”が違う。
ワシを見ているのか、その向こうを見ているのか分からん。
昼過ぎ、あの子が言った。
「買い物……一緒に行きませんか」
誘い方までいつも通りだった。
それなのに、胸の奥がひやりとした。
“ひとりにしない”という約束みたいで。
“逃げない”という宣言みたいで。
ワシは頷くしかなかった。
道中、アンタは近所の人に会えば、ちゃんと笑う。
「こんにちは」と言う。
袋の中身を気にする。値段を気にする。
生活が、きちんと続いているふりをする。
――ふり?
ワシの脳裏に、昨夜の涙が浮かぶ。
扉の向こうの、小さな息の震え。
あれが本当で、今がふりなら、ワシは何をした。
買い物袋を下げたアンタが、少しだけワシの歩幅に合わせた。
その“合わせ方”が、妙に優しい。
優しい。
優しいからこそ、ワシはさらに怖くなる。
夕方、いつもと変わらない夕食だった。
味付けも、並べ方も、湯呑みの置く位置も。
笑い話さえ、少しだけあった。
ワシは笑おうとして、うまく笑えなかった。
笑えないのに、アンタは笑っている。
笑っているのに、目がどこか冷えている。
食後、アンタは「お茶、淹れますね」と言って湯を沸かした。
湯が沸く音が、夜の始まりの鐘みたいに聞こえて、ワシは身を固くした。
――今夜、ワシはどうする。
昨夜までのワシなら、迷いながら廊下に立っていた。
扉の前で言葉を探して、ノックして、謝って、また願っていた。
だが今日は、行けなかった。
行く資格がない。
行ってはいけない。
昨夜の“決定的なこと”が、あの子を壊してしまった。
壊してしまったのに、さらに追い打ちをかけることはできん。
ワシは自分の部屋に戻った。
布団に腰を下ろし、天井を見上げる。
(ワシは救われた)
(あの夜、ワシは救われた)
そう思った瞬間、吐き気がした。
自分の安堵が、誰かの傷の上に乗っているからだ。
(あの子は、一生癒えん傷を負ったんじゃ)
(ワシのせいで)
涙がまた出る。
謝って済むものではない。
謝るたびに、あの子の“いつも通り”を増やしてしまう気さえする。
だから今日は、扉へ向かわない。
向かわないことが、せめてもの償いだと思った。
……思った、はずだった。
そのとき、ノックの音がした。
コン、コン。
ワシの部屋の扉が鳴った。
この家には二人しかおらん。
そのノックは、もちろんあの子だ。
ワシは息を呑んだ。
心臓が、みっともないほど跳ねる。
「……開いとる」
声が掠れる。
扉が静かに開く。
あの子が立っていた。
いつものように、髪をまとめている。
いつものように、薄い部屋着を着ている。
それなのに、立ち姿が“いつも”と違う。
家の嫁として、ではない。
亡くした息子の妻として、でもない。
もっと別の――“一人の女”の気配が、そこに立っている。
彼女は小さく首を傾けて言った。
「お義父さん」
その呼び方は同じなのに、響きが違う。
「どうして今日は、来てくれなかったの?」
ワシの喉が鳴った。
意味が分からない。
分かりたくない。
でも耳だけが、その言葉を何度も反芻する。
「来てくれなかった」
――来るのが、当たり前だと思っている口ぶり。
――来てほしかった、と言っている口ぶり。
「……何を、言うとる」
ワシは震える声で言った。
「ワシは……もう……」
もう、行けん。
もう、言えん。
もう、触れてはいかん。
その“もう”を言い切る前に、あの子は入ってきた。
距離を詰めるのが、早い。
そして、ワシの隣に座った。
畳がわずかに沈む。
その沈み方が、妙に確かで、ワシは背筋が固くなる。
彼女は何も言わず、ワシの手を取った。
温かい。
指先が、温かい。
その温かさが、ワシの罪をやさしく溶かしてしまいそうで恐ろしい。
「……昨日、泣いてましたよね」
彼女が静かに言う。
責める調子ではない。
慰める調子でもない。
ただ、事実を確かめるような声。
ワシは息を詰めて頷いた。
頷くしかない。
彼女は微笑んだ。
その微笑みが――ワシの知っている微笑みではなかった。
いつもは、“家”のための笑顔だった。
朝を壊さないための笑顔。
相手を安心させるための笑顔。
我慢の上に置かれた、薄い笑顔。
今夜のそれは違う。
膜がない。
演じていない。
やけに、はっきりしている。
月明かりが障子の隙間から差し、彼女の頬に落ちる。
その光の中で、彼女はただ“美しい女”の顔をしていた。
ワシは、背中が冷たくなるのを感じた。
(壊れたんじゃない)
(……変わったんじゃ)
壊れたのなら、泣く。
怒る。
逃げる。
拒む。
なのにこの子は、ここへ来た。
ワシの扉をノックした。
そして、手を取って笑っている。
それは赦しではない。
責めでもない。
慰めでもない。
もっと恐ろしい何か――
“決めた”者の静けさだった。
「お義父さん」
彼女がワシの手を軽く包んだまま言う。
「……私、ひとりでいるの、もう嫌なんです」
その言葉が、ワシの胸の奥の穴と、ぴたりと重なった。
重なってしまった瞬間、ワシは自分が彼女の夫の父であることを忘れそうになる。
忘れてはいかん。
忘れたら終わりだ。
だが、彼女の指が、ワシの手の甲をゆっくり撫でた。
撫でるというより、確かめるみたいに。
「お義父さんも……そうでしょう?」
問いかけなのに、答えを待っていない声。
答えはもう、ワシの中にあると知っている声。
ワシは混乱した。
救われたい。
許されたい。
でも許しを受け取る資格がない。
そして何より――
彼女のこの変化が、ワシの罪の結果だという確信が、胸を締め付けた。
(ワシが、この子を)
(……“こう”してしまった)
ワシの目から、また涙が落ちる。
彼女はそれを見ても、驚かない。
止めようともしない。
ただ、穏やかに見つめている。
その瞳が、優しいのか、空っぽなのか、ワシには判別できなかった。
「……すまん」
ワシは絞り出す。
「……すまん、ほんまに」
彼女は、笑顔のまま首を横に振った。
「謝らなくていいです」
そう言う声が、やけに落ち着いている。
その落ち着きが、ワシの中の最後の理性を揺らす。
これは“救い”ではなく、もっと深い沼だと分かっているのに、
分かっているからこそ、足が勝手に沈む。
月の木漏れ日が、畳の上で揺れていた。
その揺れは、まるでこの家が息をしているみたいだった。
彼女はワシの手を離さず、もう一度だけ、同じことを言った。
「どうして今日は、来てくれなかったの?」
その問いは、責めではない。
寂しさでもない。
“当然”を取り戻そうとする声だった。
そしてワシは、その“当然”が一番恐ろしいものだと知っている。
昨夜まで、ワシが望み続けてきたもの。
それが今、逆向きに差し出されている。
ワシは答えられなかった。
答えられないまま、彼女の手の温もりだけが残った。
それは、救いの温もりではない。
罪が形になった温もりだった。
やがて彼女は、ワシの手を自分の胸に持っていく。
彼女の鼓動が手に伝わり、ワシの鼓動が跳ねる。
そして彼女はワシの目の前でゆっくりと寝間着の留めを外した。
衣が擦れる音がして、彼女の美しく白い肌が薄暗がりの中で妖しく輝く。
濃くなった女の香りが、再びワシを狂わせた。
翌朝も、朝は朝として来た。
障子の向こうが白み、湯の沸く音がして、味噌の匂いが立つ。
――いつもと同じ手順、同じ順番。家は何事もなかったように呼吸を続ける。
だが、ワシの中だけが、昨夜で止まっていた。
あの夜、月の木漏れ日に照らされた“女の顔”。嫁でもなく、息子の妻でもなく、ただ静かに微笑む、美しい女の顔。
それが、瞼の裏に貼り付いたまま剥がれん。湯気を見ても、茶碗を持っても、指先に残る温度の記憶が勝手に立ち上がってくる。忘れたくて顔を振るほど、はっきりする。
「お義父さん、起きました?」
台所から声がする。いつもの声だ。いつもの呼び方だ。
それなのに、今朝の“いつも”は薄い。薄い膜の向こうで、昨夜が笑っている。
居間へ出ると、アンタは湯気の向こうで椀を並べていた。
「おはようございます」
いつも通りに頭を下げ、いつも通りに笑う。
その笑顔に、昨夜の“女の顔”が少しだけ重なる。ほんの少しだけ。だがその“少し”が、致命的だった。
食卓に座ると、彼女の距離が近い。
近いのは、偶然に見せかけて、偶然じゃない。
湯呑みを渡すとき指が触れる。箸置きを置くとき、肩がかすかに当たる。
ワシが椀を持つ手が震えると、アンタが何でもないことのようにその手首にそっと触れて「熱いですよ」と言う。
以前なら、その触れ方に身を引いたはずだ。
「いかん」と自分に言えたはずだ。
だが今は、身を引く動作が遅れる。遅れることを、彼女は見逃さない。
見逃さず、責めもせず、ただ“当たり前”として収めていく。
ワシは気づいてしまった。
物理的な距離が縮まったのではない。境界が縮んだのだ。
扉の向こうとこちらで守っていた線が、一度ほどけた。
ほどけた線は、元には戻らん。戻そうとした瞬間、昨夜の温度がまた蘇ってしまうからだ。
――戻そうとすればするほど、戻れない。
その矛盾が、もう二人の間で“常識”になってしまった。
食後、ワシは無意識に遺影へ視線を向けかけて、慌てて逸らした。
息子の写真。妻の写真。
いつもなら「今日も寒いな」とか、そんな独り言を零しながら眺められたのに、今朝は無理だった。
写真の中の笑顔が、責めているわけでもないのに、ワシの胸が焼ける。
“父”としての自分が、そこに立っていられない。
妻の前でも、息子の前でも、ワシは立てない。
目を合わせた瞬間、昨夜の“女の顔”が浮かんで、罪が形を持つ。
そのとき、彼女が遺影の前へ行った。
いつも通りの足取りで、いつも通りに花の向きを直し、湯呑みに茶を少し注ぐ。
そして――笑顔で話しかけた。
「おはよう。今日はお味噌汁、いつもより上手にできました」
「お義父さん、ちゃんと起きましたよ。ね」
まるで、昨日までと同じ朝の報告みたいに。
まるで、この家の秩序が何ひとつ崩れていないみたいに。
ワシは、その横顔を見ながら息が詰まった。
彼女は悪いことをしている顔をしていない。
罪悪感に押しつぶされている顔でもない。
“仕方がない”どころか、もっと乾いたもの――「そうなってしまったなら、今日を回す」という割り切りに見えた。
それが恐ろしい。
それが救いでもあるから、なお恐ろしい。
(あの子は……壊れたんか)
(それとも……壊れたから、整えているんか)
答えは出ない。
ただ、あの子が遺影に笑って語りかける姿を見て、ワシはぞっとするほど確信してしまった。
――この家の中で、“昨夜”はもう異常ではない。
――異常ではないことにして、生きていくのだ。
そしてワシは、気づいてしまった。
ワシだけが昨夜を“罪”として反芻し、あの子は昨夜を“出来事”として棚に上げ、今日の味噌汁を作っている。
その温度差が、二人の依存を完成させている。
彼女が振り向く。
「お義父さん、買い物、一緒に行きましょう」
声は軽い。笑顔は柔らかい。
それは“逃げない”という意味にも、“離さない”という意味にも聞こえた。
ワシは頷いてしまう。
頷くしかないのではなく、頷いてしまう。
その“しまう”が、もう止められないところまで来た証だった。
遺影から目を逸らしたまま、ワシは椀を片づける。
片づけながら、昨夜の女の顔が、湯気の中でふっと浮かぶ。
そして今朝の彼女の笑顔が、それに重なっていく。
家はいつも通り。
朝もいつも通り。
ただし――ワシの中の何かだけが、もう戻れない。
そのことを、誰よりワシが分かっていた。
分かっていても、もう二人とも止められない。
止めたら、今度こそ本当に“全部”が消えてしまう気がして。
湯気の向こうで彼女が、いつも通りに笑っていた。
それが、救いのようで――
救いであることが、いちばん怖かった。
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