某日、某月

KADOKAWAノベル24年度生 卒展

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某日、某月

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 遠い夏の記憶。

 アスファルトが陽炎に揺れ、セミの声が降り注いでいたあの頃。
 僕たちはいつも五人で、あてもなくこの町を駆け回っていた。

「僕は、将来すげえサッカー選手になる!!」

 顔を汗だくにして叫ぶと、その横で負けじと紬葵つむぎが声を張り上げる。

「じゃあ私は、もっとすごい音楽家になる!!」

 鳩羽色の髪が陽に透けて、風に揺れる。
 その姿は、子どもながらに“特別”だと分かるほど眩しかった。

「じゃあ、五人で有名になろうよ!」
「めぶくんはサッカー選手で、私は音楽家で!」
「律は……なんだ?」
「バンドマン?」
「それ紬葵さんと被ってますよ!」

 そんな他愛もない会話が、永遠に続くと思っていた。





 一定のリズムを刻む電車の揺れが、重たいまぶたを押し上げる。

 窓の外には、見覚えのある紀勢本線の海岸線が広がっていた。真っ青な海。白い波飛沫。三年前、意気揚々と東京へ向かった時と何も変わらない景色が、ひどく眩しく感じて、思わず目を細める。

「みんな元気にしてるかなぁ……。いや、今の僕がそんなこと言えたもんじゃないか」

 自嘲気味に吐いた言葉は、エアコンの冷気に紛れて消えた。
 膝の上に置いた右手に、無意識に力がこもる。

 見た目には何の変化もない。歩くことも、軽くジョギングをすることもできる。けれど、トップスピードで切り返した瞬間、膝の奥で何かが弾けたような感覚が走る。

 プロのスカウトも注目していたユースのエース。その肩書きは、一瞬の接触と、その後の冷たい宣告であっけなく過去のものになった。

「……今までと同様の動きは、もう不可能です」

 医者の声が、今も耳の奥でリフレインしている。

 電車が駅に滑り込む。
 湿った潮風が鼻先をくすぐる。三年ぶりの和歌山は、驚くほどにあの頃の思い出を刺激してきた。

 実家に荷物を置いた僕は、母から頼まれていた用事を済ませるため、少し離れた場所にある古い平屋へと向かった。

 そこは、体が悪くなったばあちゃんが一か月まで営んでいた、小さな駄菓子屋だ。

 今は休業しているその店の掃除をするのが、平日にもかかわらず、学校に行かない今日の俺のお仕事になる。といっても、転校手続きが終わっていないだけなんだが。

 錆びついたシャッターに鍵を差し込み、ゆっくりと引き上げる。
 ガラガラと騒がしい音が響き、少し埃っぽい空気が漏れ出した。

 その時だった。

「ばっ! おかえりおばあちゃん!!」

 奥の居住スペースから、弾けるような声と共に、一人の女の子が飛び出してきた。

 透き通るような、不思議な色をした鳩羽色の長い髪。
 少し勝ち気そうで、けれど愛嬌のある、大きな瞳。

 中学生くらいの背格好だが、その容姿は、僕の記憶に焼き付いている「あの頃」の彼女そのものだった。

「……紬葵?」

 名前を呼ぶ声が、震える。
 彼女はきょとんとして足を止め、僕をまじまじと見つめた。やがて、その瞳が驚きに大きく見開かれる。

「めぶくん……? めぶくんだ!」

 彼女は呼びかけに答える間もなく、一直線に僕の方へ駆け寄ってきた。
 あの頃と同じ、無鉄砲で、一点の曇りもない笑顔。

「なんだよ紬葵! 全然変わってないじゃん」

 戸惑いながらも、彼女を受け止めようと両手を広げる。
 けれど。

「――え?」

 衝撃は、来なかった。

 紬葵の体は、まるで霧の中を通り抜けるように僕の体を透過した。
 勢い余った彼女は、後ろで派手に床へ転がり込む。

「いったたた……。あはは、またやっちゃった」

 床に尻もちをついたまま、彼女は照れくさそうに笑う。
 だが、そこには音がなかった。彼女が床を叩く音も、服が擦れる音も。

 そして何より、体を通り抜けた瞬間、心臓を直接冷気で撫でられたような、そんな感覚だけが残っていた。

 震える手で自分の胸元を触る。
 そこには、彼女の温もりは存在していなかった。

「紬葵……お前……」

 理解が追いつかない。けれど、心のどこかで気づいてしまっていた。





「……死んでるのか、お前」

 駄菓子屋の奥、かつての居間だった場所に腰を下ろし、絞り出すように言葉を放った。
 紬葵は申し訳なさそうに、けれど明るく笑った。

「うん。去年の冬にね。病気だったんだけど、みんなには内緒にしてもらってたんだ」

 病気。死。
 その言葉があまりにも似合わず、激しい目眩を覚える。

 ユースでの練習に明け暮れ、地元の事なんて考える由もなかった三年間。その裏側で、紬葵はこの世から消えていた。

「なんで……なんで言わなかったんだよ。葬式だって、見舞いだって……」
「それはね、私がお願いしたの。めぶくんはサッカーに真っ直ぐだったから。私たちのことで、その足を止めてほしくなかったの。……みんな、めぶくんのサッカーが好きだったんだよ?」

 紬葵の瞳が、優しく刺さる。

 かつてエースと呼ばれた足。今はもう、あの頃のように走ることはできない。
 皮肉な話だ。彼女は僕のために沈黙を守り、僕はその沈黙の中で夢を失ったんだ。

「成仏とかって、したいのか?」
「うーん、したいかどうかは自分でもよく分かんない。でもね、一つだけ、どうしても心が残ってることがあるの」

 彼女は少しだけ俯き、半透明の指先をいじりながら言った。

「バンドメンバーの、幼馴染のみんなのこと。……私が死んだ時、みんな『どうすればいいか分からない』って顔をしてた」
「……」
「めぶくん」

 彼女が顔を上げる。その瞳には、かつて「音楽家になる」と宣言した時と同じ、強い光が宿っていた。

「私ね、何があっても、また会える気がしてた! だから、こうして会えたのは偶然じゃないと思うの。……ねえ、めぶくん。私の願いかなえてくれない?」
「僕に何ができるって言うんだよ。サッカーもできない、音楽なんて素人の僕に」
「大丈夫だよ! 私がバッチリ教えてあげるから」

 彼女はふわりと浮かび上がり、目の前で人差し指を立ててくる。

「もう一度、この場所でみんなと居たい! そして、あわよくば、バンドのほうも……ねっ?」

 夢を失って空っぽになった僕の胸に、すとんと落ちた。





 翌日。転校の手続きをするために、放課後の時間を狙い高校へと向かった。
 中高一貫の学校で、サッカーを選ばなければ通っていたであろう学校。

 手続きが終わったら、ある場所を見に行かなくちゃいけない。少し、家を出る直前のことを思い出す。

「みんな、今も軽音部にいるんだろ? ついでに様子を見てくるよ」
「うん……。でも、みんなびっくりするんじゃないかな」

 紬葵は少し視線を泳がせ、寂しそうに笑った。彼女が「みんな」と呼ぶその響きには、慈しむような響きがあった。

「失礼しました」

 職員室を出て、急ぎ足で部室塔へ向かう。
 しかし軽音部という張り紙のある教室は、明かりがついている様子はなかった。

 部室のドアを叩いても、返事はない。鍵はかかっていて、窓から覗く室内は、アンプやドラムキットが埃を被って静まり返っていた。

「……誰もいないな」





 翌日。登校初日。
 新しい教室、知らない顔ぶれ。けれど、窓の外に見える景色だけはあの頃のままだ。

「今日から、同じクラスになる露崎芽吹って言います。東京から出戻って来ました。理由は聞かないでください。よろしゃす」

 投げやりな挨拶を済ませ、指定された一番後ろの席に座る。

 ふと、斜め前の席の女の子が、じっと見ていることに気づいた。
 おとなしそうな、清楚な雰囲気の少女。どこかで見たことがあるような気がするが。

 休み時間になると、彼女は迷いを断ち切るように駆け足で僕の席へやってきた。

「め、芽吹さん……?」
「……彩羽なのか?」

 あの頃は確か、少し厚いレンズの眼鏡をかけていて、いつも大事そうにノートを抱えていた、そんな引っ込み思案な少女だった。

 眼鏡を外した彼女は、見違えるほど美人になっていて、一瞬誰だか分からなかった。

「久しぶりですね、芽吹さん。とりあえず、おかえりなさい」
「久しぶりだな、彩羽。眼鏡をかけてなかったし、雰囲気も変わってたから一瞬誰か分からなかったよ。それにしても、ずいぶん美人になったな!」
「芽吹さんこそ、少し……いえ、だいぶ大人びてかっこよくなりました?」

 流石は幼馴染だ。少しおちゃらけて返しても、動揺せず、ふわりと柔らかい微笑みを返してくる。東京の女子なら、もう少し照れてくれていたんだが、安心感はあるが少し面白くない。

「芽吹さん、その……他のみんなとは、もう会いましたか?」

 少し気まずそうな顔をしながら、俯いて話す彩羽。

「いや、まだだけど」
「あの……紬葵ちゃんのことなんですが……」

 そして、何かを覚悟したように顔を上げて見つめてくる。その必死な表情で、大体言おうとしていることが分かった。僕は、彩羽の言葉を遮るように返す。

「大丈夫。……知ってるよ」
「……そうですか。知ってたんですね」

 彼女は安心したように、けれどひどく悲しそうに視線を落とした。

「……とりあえず、少しやりたいことがあるんだ。放課後、また詳しく話そう」



 移動教室になり、体育の授業。
 グラウンドの隅にあるベンチに座り、級友たちがボールを追いかける姿を眺めていた。

「芽吹さんは、見学なんですか?」

 隣に、彩羽が座る。

「まあな。もう、あんまり走れないんだ」
「……そう、でしたか」

 言葉に無意識的に含んでしまった重みを、彼女は敏感に感じ取ったようだった。

 かつてサッカー一筋だった僕が、この時期に帰郷し、体育すら見学している。その事実が、どうしようもない挫折を雄弁に物語っていた。



 放課後。僕たちは二人で教室を出た。
 何か察したのか、会話の先手を打たれる。

「軽音部には、戻りませんよ。今戻っても、きっと誰も居ませんから」
「……やっぱりそうか」

 肩を落とす僕を見て、彩羽は少し考えるように首を傾げた。

「芽吹さんは、軽音部に入るんですか?」
「まぁ、その予定だ。……そしたら、戻ってきてくれるのか?」
「それなら……はい、いいですよ」

 その時、紬葵の顔をふと思い出す。

「入部届は、後日出すとして。今から付き合ってほしい場所があるんだがいいか?」
「別にいいですけど」



 駄菓子屋前、シャッターを開けて彩羽を中へ誘う。

「ここ懐かしいですね」
「それだけ……か?」
「はい、ほかに何かありましたか?」
「いや、何でもない」

 彩羽には、紬葵が見えていなかった。
 目の前で、ふわふわと彩羽の周りを嬉しそうに飛び回っている紬葵のことが。

「実は、ここに」

 紬葵がいるんだ。
 そう言おうとした瞬間。

「待って!!」

 紬葵が割って入り、僕の口を両手で塞ぐ仕草をした。もちろん感触はないが、その必死な形相に言葉を飲み込む。

「どうかしましたか?」
「な、なんでもない! ちょっとトイレ行ってくる!」

 慌ててその場を離れ、トイレのほうへ駆け込んだ。

「なんで言っちゃダメなんだよ」
「久しぶりに帰ってきたと思ったら、『ここに幽霊がいます』なんて、絶対頭おかしいと思われて終わりだよ! 変な心配させたくないもん」

 紬葵は頬を膨らませて抗議してくる。
 確かに、幽霊が見えるなんて張本人ですら信じがたい話だ。

「まずは、他の二人が今何をしてるのか、ちゃんと聞くところから始めてよ」

 手を拭う仕草をしながら、彩羽のほうに戻り声をかける。

「今ってさ、二人は何してるの?」
「……。紗雪ちゃんは、普通に元気で学校に行ってますよ。けれど、以前より明るく振舞っていて、多分ずっと無理をしているんです。律さんは、学校にすらたまにしか顔を出していなくて、最近なんて特に来れていなくて。一応私たちと同じクラスなんですよ」
「そうだったのか」

 事態は、思っていたより深刻そうで。特に律のほうは早めに何とかしないと出席日数のほうもやばそうだ。

「律の家は変わってないのか」
「はい、律さんの家は変わってないと思います」
「それじゃあ、行くか! 明日の放課後」
「えっ!」





 放課後。案の定、今日も学校に顔を出していなかった律を探しに、僕と彩羽は彼の家へと向かった。
 道すがら、彩羽が心配そうにスマートフォンを握り直す。

「一度、私から電話をかけましょうか?」
「いいよ、そんなの。こういうのはいきなり行くから面白いんだよ」

 少しだけ悪戯っぽく笑って、律の家のチャイムを鳴らす。
 しばらくして、玄関のドアが勢いよく開く。

「どちら様? って、あら! 彩羽ちゃんと……芽吹くん!?」
「お久しぶりです。律、今家にいますかね」
「律は、多分商店街の方に――」

 律の母さんの言葉を遮るように、後ろからドスドスと足音が響いた。現れたのは、長身で強面の男。律の兄貴、謙志くんだ。昔から俺たちの面倒をよく見てくれていた、頼れる存在。

「律はどうせ、あの店だろうよ」
「あの店ってどこ? 私も知らないんだけど」

 母さんがきょとんとして聞き返すと、謙志くんは少し面倒くさそうに顔をしかめた。

「母さんはいいんだよ知らなくて。お節介焼きに行くだろ」
「あ! またそういうこと言って、もういいです! お母さん知りませんから。第一、謙志は大学生にもなってまだ反抗期が……」

 母さんはムスッとした顔をしながら、リビングの方へ消えていった。なんというか、見た目から行動まで、相変わらず全部が若い人だ。

「行くなら、ついてきな。私服に着替えた後でな」

 謙志くんは僕を見てニヤリと笑った。リビングの方から「律のこと、気にしてくれてありがとうね」と母さんの声が飛んでくる。



 制服から私服に着替えた僕は、謙志くんの後を追った。流石に行く場所が今回はあまりいい場所ではなかったから、彩羽のことは置いてきた。

 とある店の入り口まで来ると、謙志くんが立ち止まる。

「こっからは、芽吹のターンだ。俺はついていかねぇ。律のこと、頼んだぞ。俺は母ちゃん怒らせた分のおつかい行ってこなきゃいけねぇからな」

 この人も相変わらずで、強面の割に中身はかわいい一面がある人だ。僕は自信満々の表情を見せ頷いた。

「任せてください」

 自動ドアが開き、パチンコ店特有のけたたましい騒音が五感を叩く。
 店内には、老人、社会人、大学生っぽいやつまで、色々な人間が台と向かい合ってじっとしていた。

 思ったより人がいて、なんとも言えない気分になる。……そんなに面白いのか、パチンコってやつは。

 通路をうろちょろしていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。前より大分身長が伸びているが、間違いない。律だ。

「ちょっと。クズバンドマンを気取るには、年齢的に早いんじゃねぇの」

 肩をトン、と叩く。

「ふぇっ!? 誰! ……って、芽吹!?」
「そうだよ」
「ひっさしぶり!! いきなり帰ってきてどうしたんだよ!」
「そっちこそ、見ないうちにとんでもない方向に育ちやがって。身長も伸びすぎだっつの」

 久しぶりの再会。積もる話は山ほどある。けれど、若人が騒ぎながら盛り上がっているのは、店員にとっては目につく行動だったらしい。

「お客様、申し訳ございませんが、お若く見えますので年齢の確認ができる物か会員カードをご提示いただいても大丈夫ですか?」
「「あははは……」」

 僕と律は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
 結局、そのまま年齢確認されて、僕たちは二人揃って店を追い出されてしまった。

 特に行く先もなく、ゆっくりと歩きながら話し始めた。

「お前のせいで、出禁にされちまったじゃねぇかよ!」
「こんな店に入ってたお前が悪いんだろ」
「ぐぬぬ……」

 軽口を叩き合う感覚は、あの頃のままだ。

「まあ、思ったより元気そうでよかったよ」
「そういや、他のみんなとは会ったのか?」
「彩羽とは話したよ。同じクラスだしな。だから……あのことも知ってる」
「そうか……」

 律の顔から表情が消えた。少し思い出したのか、寂しそうなしょぼくれた笑顔を浮かべる。

 気づけば、人気の少ない公園の前にいた。僕たちはベンチに腰を下ろし、一息つく。

「……律。僕ともう一度、バンド始めないか」

 沈黙を破って切り出すと、律は真っ直ぐにこちらを見て聞いた。

「サッカーはどうしたんだよ」
「……僕は、出来なくなったから」

 もう吹っ切れていたはずなのに、なぜか声が弱々しく震えてしまう。
 俯いていた顔を上げ、律の方を向くと、彼は今にも泣きそうな顔をしていた。

「……何泣きそうな顔してんだよ」
「だって、芽吹。お前、ずっと帰って来れないくらい、ずっとずっと頑張ってきたんだろ」

 律の声には、悔しさと、僕への労りが混ざっていた。

「頑張ってきたよ。わんちゃん代表入り目指せるくらいにはな……っ」

 もう忘れることができていたはずなのに、なぜか、涙が次から次へと零れ出していた。

 怪我をしてから、散々泣いて、散々暴れて、散々周りに迷惑をかけて。
 やっと、心に整理をつけて帰って来れるくらいになったのに。

 突然、律は地面を見ていた僕の顔を持ち上げ、喝を入れんとばかりに少し強く頬を叩く。

「俺まで取り乱して悪かったな。いいぜ、分かった。お前がサッカーの事少しでも忘れて楽しいと思えるように。最高のバンドにしよう」
「いいのか」
「紬葵だって多分それを望んでる。お前のことを一番に応援してたのはダントツであいつだろうぜ」
「……ありがとな」

 立ち上がり律の手を取る。心なしか、少し空が昨日より綺麗に見えた。





「起きろよ! 芽吹! 朝だぜ」

 耳元で、低音の囁きが響く。
 意識が浮上し、ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、至近距離にある律の顔だった。

「……きんもちわる」

 思考よりも先に体が動いた。
 放たれたのは、サッカー現役だったころを感じさせるキレを失っていない渾身の右ストレート。

「ぐふっ!?」

 鈍い音と共に、律がベッドから転げ落ちる。

「……そういうのは、女の子がしてくれるのが鉄則だろ。何してんだよお前」
「痛ぇ……。親切心で起こしてやったのに、その反応はないだろ……」

 鼻を押さえて悶絶する律を無視して、僕は部屋の隅を睨みつけた。
 っていうか、同じ部屋にいて、なんで紬葵は僕を起こしてくれなかったんだ。

 視線の先。部屋の影から、半透明の紬葵が姿を現す。
 彼女は口角を緩め、少しだけ涎を垂らしながら、なんとも言えないニマニマとした表情でこちらを見ていた。

 あいつ、いつの間にこんな趣味拗らせてたんだ。
 羞恥心に顔を赤らめる彼女の様子を見て、僕は確信した。こいつ、この状況を楽しんでやがったな。

 僕は律を抱え上げるようにして部屋を出る際、背後の紬葵に「覚えてろよ」と声を出さずに口パクを送った。

「母さん、なんでこいつを部屋まで上げたんだよ」

 居間に降りると、母さんが呑気にトーストを焼いていた。

「だってあんた。私が起こしに行っても毎回怒るじゃない。律くんならいいかと思って」
「こいつ相手でも変わんねえよ! 朝は苦手なんだって」
「そんなんで、よくサッカーしてる時、寮で起きれてたな」

 律の茶化すような言葉に、「余計なお世話だ」と短く返す。
 ささっとパンを一口で頬張り、洗面台に向かって顔を洗う。冷たい水が、ようやく眠気を完全に吹き飛ばしてくれた。

 パンを飲み込み終わり、歯を磨いていると、鏡越しに律がひょいと顔を出した。

「歯ぁ磨いてる間、俺が寝ぐせ直そうか?」
「わいい、はのむ(わりい、頼む)」

 律は「あいよ」と手際よくブラシとワックスを手に取った。

 鏡の中の自分をセットする律の手元を見ていて、ふと気づく。あいつ、自分の髪型もすごく丁寧にセットしてある。
 ちゃっかりしてんなぁ……。

 そんな律の様子を眺めていると、また洗面所の奥でニマニマと笑っている紬葵の姿が見えた。

 あいつ、やるなぁ!! 気持ち悪いぜ!!

「ちょっと離れろよ!」
「そんな、離れろっつったって離れたらセットできるもんも出来ねぇだろうがよ!」



「おはようございます、芽吹さん。律さん!」

 学校に着くと、正門の前で彩羽が待っていた。
 律と並んで歩く僕を見て、彼女は少しだけ安心したように微笑んだ。



 昼休み。朝に三人で話していた通り、僕は一人で中等部の校舎へと向かった。
 紬葵の妹、紗雪に会うためだ。

 三年一組。教室を覗くと、彼女は窓際の席で一人、ぼんやりと空を眺めていた。
 髪の色は少し違えど、紬と似て大きくてきれいな瞳、少し小柄な身長。間違いなく紗雪だと一目でわかった。

「紗雪」
「……芽吹くん!?」

 驚きに目を見開く彼女を誘って、僕たちは学食へと向かった。

「一緒に、昼飯どう?」
「いいけど……。他のみんなとは、もう会った?」
「二人とは、さっきまで一緒にいたよ」
「じゃあ……お姉ちゃんのことも、知ってるんだよね」
「ああ」
「芽吹くんはなんでうちの学校に?」

 僕は、自分がどうしてこの町に戻ってきたのか、そして何をしたいのかを一通り話した。
 向き合って座る紗雪は、時折頷きながら、僕の言葉を静かに噛み締めているようだった。

「それで、だ。バンドをもう一度、僕と一緒にやり直さないか」

 提案を聞いた瞬間。

「芽吹くんが歌うってこと?」

 紗雪の顔が、くしゃりとひしゃげた。
 耐えきれないといった様子で、彼女は声を上げて笑い始めた。

「そんなに笑うことねぇだろ!!」
「あはは! ごめん、だっておかしくて。……いいよ。私も参加する」
「……返事、早いな」
「みんなと離れ離れになってて、寂しかったから」

 少しだけ伏せられたまつ毛の影に、彼女が一人で抱えてきた時間が透けて見えた。
 紬葵がいなくなって、バラバラになってしまった日常。中学生の彼女にとって、それはどれほど心細いものだっただろう。

「そうか。……それはそうと、僕の歌をバカにしやがって! 聞いて驚くなよ、後で謝っても知らねぇからな!」

 強がりな台詞に、紗雪は「はいはい、楽しみにしてるよ」と少し大人びた笑顔で笑った。



 マイクを置き、肩で息をしながら三人の反応を待つ。

 自分なりに、全力は出し切ったつもりだ。
 最初に口を開いたのは律だった。

「……普通だな」
「普通ですね」
「普通だね」

 三者三様の、しかし一分の狂いもない「普通」という言葉が僕を貫いた。

「なんだよその白けた感じ! やめろよ、僕がかわいそうだろ!」
「いや、だってさ。あれだけ意気込んでたんだから、超うまいか、放送事故レベルで下手のどっちかじゃないと反応に困るっていうか……」

 律が頭を掻きながら、心底困ったように笑う。
 紗雪は無言でストローでメロンソーダをズズズと吸い上げ、激しく頷く。その隣で彩羽も「否定はできない」と言わんばかりの困り顔をしていた。

「じゃあ、お前らの誰かがボーカルしろよ!」
「俺はドラム叩きながらじゃ歌えないからなぁ」
「ベースが歌っちゃうと、芽吹さんのパートがなくなっちゃうので……。せっかく戻ってきたのに、それじゃ寂しいですし」

 彩羽の丁寧なフォローが、逆に「お前の居場所を作るためのボーカル枠だ」と突きつけてくる。

「そもそも、私よりリードギター弾けるの? 芽吹くん」

 紗雪の冷ややかな、けれど確信に満ちた問いに僕は絶句した。

 そうだ。僕は音楽に関しては完全な素人なのだ。サッカーなら「代表入り」を視野に入れていた僕が、この場所では一番の足手まとい。ベンチウォーマーにすらなれない存在なのだ。その現実がじわじわと胸を焼く。

「……そういえば、芽吹。ギターはどうすんだよ」
「え?」
「確かに、バッキングギターはあったほうが音に厚みが出ますよね。紬葵ちゃんも弾いてましたし」
「え……? ギターもやるの、俺?」

 想定外の提案に呆然とする僕を見て、紗雪がふんぞり返って言った。

「それなら、一旦はお姉ちゃんのギターを使えばいいんじゃないかな。お姉ちゃん、芽吹くんが弾くって言うなら、きっと喜んで貸しそうだし」

 律と彩羽が「それだ!」という表情で顔を見合わせた。

「確かに、紬葵のレスポールならメンテも行き届いてるだろうしな」
「紬葵ちゃんも、自分のギターを芽吹さんに弾いてもらえたら、きっと安心すると思います」

 勝手に盛り上がる三人。
 ……確かに、あいつなら喜んで貸してくれそうだ。

 ふと、部屋の隅に目を向ける。そこには、今は紬葵はいなかったが。
 幽霊になってでも僕の前に現れてくれたアイツの願いを叶えるって決めた時から、どんなことだってやるって覚悟を決めていたはずだ。

「……分かったよ。借りるよ、そのギター」

 僕の返事に、紗雪が「決まりだね」と満足げに笑った。



 カラオケ店を出て、夕焼けがアスファルトを橙色に染める中、僕は紗雪と一緒に彼女の家へと向かった。

「ギターを受け取るついでにさ、一ついいか」

 僕が切り出すと、紗雪は「いいよ」と短く答えて、家の鍵を開けた。

 家の中に入ると、懐かしい匂いがした。何度も遊びに来た場所。けれど、以前よりもずっと静まり返っていて、生活の音が抜け落ちたような奇妙な空白感がある。

 僕はまず、リビングの隅にある仏壇へと向かった。
 そこには、生意気な笑顔を浮かべた紬葵の遺影があった。線香に火を灯し、静かに手を合わせる。

 目を閉じると、線香の香りが鼻を突き、本当に紬葵はこの世にいないという事実が、改めて重くのしかかってきた。

「はいこれ、おねぇちゃんのギター!」

 紗雪が奥から持ってきたのは、少し色褪せた、けれど手入れの行き届いた水色のハードケースだった。

「ありがと」
「大事に使ってよね」
「当たり前だ」

 受け取ったケースは、想像していたよりもずっと重かった。

 家には持ち主本人が居座っているけど、そんなことは関係ない。これは紬葵の命そのものだったものだ。丁寧に扱うなんて、言うまでもないことだった。

 ふと、家の中に人影がないことに気づく。時計の針はもう、夕食の時間を回ろうとしていた。

「そういえば、おじさんとおばさんは?」
「二人ともお仕事。……まだ、半年だから。家にいると、色々思い出して辛くなっちゃうんだと思う。だから、あんまり家に居たくないんだよ、きっと」

 紗雪は努めて明るく、淡々と言った。
 けれど、その声は微かに震えていて。

 半年。

 僕が東京で夢を追いかけ、そして破れていた間に、この家ではどれほどの涙が流れたのだろう。残された家族にとって、この半年という月日は、止まったままの時計を無理やり動かしているような、苦しい時間だったに違いない。

「そうか……」

 何か、気の利いた言葉をかけるべきだった。
 けれど、今の僕が何を言っても、彼女を傷つけてしまう気がした。

 挫折して逃げるように帰ってきた奴に、家族を失った彼女の孤独を埋める言葉なんて、持ち合わせているはずがなかった。

 何も言えないまま、ただ重たいギターケースの感触だけが、僕の手に食い込んでいた。



 その日の夜。自室に戻った僕は、さっそくケースから水色のレスポールを取り出した。
 部屋の隅では、紬葵が腕組みをして、まるでお手並み拝見といった様子で僕を監視している。

「よし。まずはCコードだっけ?」
「甘い! 甘すぎるよ、芽吹くん!」

 いきなり紬葵が僕の耳元で叫んだ。

「指の形が全然ダメ! もっと爪先を立てて抑えるの。隣の弦に触れてるよ、ほら!」
「わかってるよ! なんかかすっちゃうんだよ!」
「言い訳しない! サッカーのステップだって、最初は足がもつれたでしょ? それと同じ。指に『ここが居場所だよ』って叩き込むの!」

 彼女の指導は、想像を絶するほどスパルタだった。

「ほら、一弦の音が鳴ってない! 鳴るまで寝かせないからね!」
「……お前、幽霊になってから性格キツくなってないか?」
「ふふん。名コーチって呼んでいいよ」

 窓の外では、夏の虫たちが騒がしく鳴いている。

 指先の痛みと、彼女の容赦ない声。
 それは、夢を失って空っぽになっていた日常に、新しい火を灯していくような、そんな感覚だった。





 後日。放課後の軽音部室。
 僕たち四人は、埃の被ったアンプやドラムキットを引っ張り出し、部室を本格的に使用する準備をしていた。

 窓から差し込む西日が、舞い上がった埃をキラキラと照らしている。

「……なぁ、次のライブっていつあるんだ?」

 ふと、床掃除をしながら聞いてみた。
 すると、隣で同じく床掃除をしている彩羽が困ったように視線を泳がせた。

「それは……」

 彩羽が言葉を濁した、その時。

「次のライブは、ふるさと海南まつりですっ!!」

 ガラッ! と、戸を勢いよく開けて、誰かが叫んだ。

 そこに立っていたのは、一瞬、中等部の下級生が迷い込んできたのかと思うほど小柄な女性だった。幼女体型とでも言うのか、あまりに幼く見えるそのシルエットに、呆気にとられる。

「「先生!」」

 律と彩羽が同時に声を上げた。この「幼女」が、先生……?

「ロリ先!」

 律が反射的に、失礼極まりないあだ名を叫んだ――刹那。
 隣に座っていたはずの律が、凄まじい残像を残して後方の壁際まで吹き飛んでいた。

「あだっ……!? な、何すんだよ!」
「まったく、相変わらず口の悪い子ですね」

 その人は、何事もなかったかのようにパンパンと手を払った。

「というわけで、皆さんお久しぶりです! 初めましての方も居るようですが」

 呆然とする僕の耳元で、紗雪が声を潜めて教えてくれる。

「芽吹くん、あの人は実香奈先生。中等部二年の英語の先生なんだけど……。噂じゃ昔はとんでもない『悪』だったらしいから、気を付けて!」

 奥では、律が形容しがたい奇妙な体勢で悶絶している。それを一瞥して、実香奈先生は深く溜息をついた。

「まったく懲りないですね、律くんは。……あっ、初めましての方がいるのに自己紹介がまだでした。遊佐実香奈と言います、軽音部の顧問をやってます。よろしくお願いしますね!」

 見た目からは想像できない威圧感(と、さっきの超高速の制裁)に、僕は背筋を伸ばした。

「お、俺は露崎芽吹って言います! こ、これ、入部届です。よろしくおなしゃす!!」
「はい! ちゃんと受け取りました!」

 先生はニコリと笑って受け取ると、コホン、と一呼吸置いて表情を引き締めた。

「それでは本題ですが! 今年も毎年恒例、『ふるさと海南まつり』のステージにてライブを披露させていただけることになっています! 皆さん、頑張ってくださいね」

 その言葉に、それまで沈黙を守っていた彩羽が、意を決したように声を上げた。

「実香奈先生、復帰したばかりでそれは、流石に早すぎます。新メンバーの芽吹さんも、ギターを始めたばかりですし……」
「だからこそやるんです!」

 先生は、彩羽の言葉を強い口調で遮った。

「これは、紬葵ちゃんが頑張って、一番最初に拾ってきた外での演奏機会ですよ? 一度断れば、次はもうありません。また一からお願いしなきゃいけなくなるんです!」

 三人は、ぐうの音も出ないといった様子で口を塞ぎ込んだ。

「何はともあれ挑戦です!! 八月十三日まで、残り一か月!! 夏休みまであと一週間を切りました。とりあえず、出来るだけ頑張ってみましょう!!」

 実香奈先生の宣言が、部室に響き渡った。

 一か月。
 サッカーという夢を失った僕が、死んだあいつのギターを抱えて立つ、初めてのステージ。

 時間は、もう一秒も無駄にはできない。
 僕は改めて、手に持った雑巾を強く握り直した。



 放課後。部室を出た僕たちは、夕闇に溶け始めた通学路を四人並んで歩いていた。
 潮風が、練習で火照った頬を撫でていく。話題は、一か月後に迫った『ふるさと海南まつり』のステージについてだった。

「とりあえず、私は今回もオリジナルでいきたいな、って思ってるんだけど……」

 驚く僕の横で、律と彩羽は淡々と頷いている。

「そうですね。紬葵ちゃんがいた頃も、ずっとオリジナル中心でしたし」
「そうだな」
「でも、芽吹くんがいきなりお姉ちゃんの弾いてた曲を弾ける訳も無いしなぁ」

 紗雪のあまりに真っ当な指摘に、僕は激しく頷いた。あいつの遺したTAB譜をチラッと見たが、指がどう動いているのかさえ想像できない難解なコードの羅列だったのだ。

「それじゃあ、新曲作るしかねぇか!」

 律が、前向きというか楽観的すぎるトーンで声を張り上げる。

「え……?」
「それがいいと思います。それなら、芽吹さんが弾けるコードのみにも出来ますし!」
「じゃあそれで、いこう!」
「ぬぇえ……」

 僕の情けない返事は、仲間のやる気に満ちた靴音にかき消された。



 その日の夜。自室に戻った僕は、ベッドに腰掛けて水色のレスポールを抱えていた。
 ケースを開けるたびに、彼女の残り香のような、清潔な石鹸とフレットのレモンオイルが混ざったような匂いが鼻をくすぐる。

 そこに、ひょいと半透明の影が重なった。

「いきなり、オリジナルやるだなんて張り切ってるねぇ、芽吹くん」

 壁からすり抜けてきた紬葵が、すぐ隣で面白そうにギターを覗き込んできた。

「仕方ないだろ! 僕が弾けるコードの数が限られてるんだから! 僕に合わせたら自ずと簡単な曲になるだろってさ。……まずはこれ覚えろって言われたんだよ」

 渡されたメモを必死に見つめ、指先を弦に押し当てる。

「違う違う! そこちょっと、抑え方違う!!」

 紬葵の声が、さっきの彩羽たちよりも一段低いトーンで飛んでくる。音楽のことになると、彼女の無邪気で生意気な幼馴染の顔は消え、職人の顔になる。

「どこがだよ。ちゃんとやってるだろ」
「人差し指のところ! もっとフレットの近くを抑えて。そうしないと音がビビっちゃうでしょ」

 彼女が僕の右手に自分の手を重ねようとする。もちろん感触はないけれど、彼女の視線が注がれている場所が、じりじりと熱くなるような錯覚に陥る。

「……こうか?」
「そう! その音。……うん、悪くないよ」

 合格点が出たことに安堵して息をつくと、紬葵は満足げに目を細めた。

「芽吹くんが私のギターで、新しい曲を弾くんだ……」

 ぽつりと呟いた彼女の言葉に、僕は手を止める。

「……嫌か?」
「まさか。……楽しみだよ! 今の、音楽はぶきっちょな芽吹くんにしか出せない音を聴けるのが」

 彼女は窓の外、遠くで鳴り続ける波の音に耳を澄ませるように微笑んだ。
 指先の痛みはもう、限界を超えていた。けれど、不思議と弦を離す気にはなれなかった。





 気づけば季節は、じりじりと肌を焼く本格的な夏になっていた。
 夏休みに入ってから、毎日のように部室に顔を出しては、慣れない手つきで新曲のフレーズを紡ぎ、泥臭く練習を繰り返した。

 過ぎていく日々に、一秒の無駄もなかったと思いたい。
 指先の皮はむけきり硬くなり始めている。足を引っ張っていてばかりだった僕のリズム感は以前よりも幾分とマシになり始めていた。

 そして、八月の初め。
 しばらく学校が閉鎖されることになったため、僕たちは練習場所を、入院中のばあちゃんが営んでいる駄菓子屋に移すことにした。

「久しぶりだな、あそこに行くの」
「私はこの前来ましたけどね」

 彩羽の言葉に、紗雪が「えっ! なにそれ、なんかずるい!」と子供のように食ってかかる。
 他愛のない会話を交わしながら、使い込まれた平屋の鍵を開ける。

「ねぇ、そろそろばあちゃん退院するんだったら、もう少し掃除しててあげなよ!」

 呆れ顔で声を張り上げながら、紬葵が駄菓子の棚を何個も貫通してこちらに向かってきた。

 ふと、横にいる三人を見る。
 律も彩羽も紗雪も、棚を突き抜ける紬葵を見ても、何も変化はない。
 全員揃っても、見えるわけじゃないんだな。

「練習の前に少し掃除を手伝ってもらっていいか?」
「「「もちろん!」」」

 紬葵は四人が仲良さそうに掃除の準備を始めている姿を見て、今にも泣き出しそうな、それでいて心底嬉しそうな顔をしていた。

「ごめん、ちょっとトイレ!」

 僕は三人を残して、紬葵を促すようにして奥の廊下へと離れた。
 誰もいないのを確認して、僕は壁に寄りかかり、目の前の半透明の幼馴染に声をかけた。

「……願いは、叶ったか?」

 僕の問いに、紬葵は深く、深く頷いた。

「ほんとに、ありがとね。……またこうして五人で集まれるなんて、夢みたい」

 「五人」。
 彼女の中では、自分もしっかりとこの輪の中に数えられている。その当たり前で、けれど叶うはずのなかった事実に、胸の奥がツンと痛んだ。

「そっか」
「……まぁ、まだ芽吹の初ライブを見るまでは、いけないんだけどね」

 彼女は悪戯っぽく笑って、僕の鼻先を指差した。

 いけない、か。

 窓の外では、入道雲が空高くそびえ立っている。
 ばあちゃんの店に響く、仲間たちの笑い声。

 ライブまで、あと十日あまり。
 僕は、拳を強く握りしめ、吐き出しそうになった感情を抑え、みんなの元に戻った。





 八月十日。
 世界がじっとりと重い熱気に包まれた、その日の朝だった。

 目を開けた瞬間から、部屋の空気が妙に軽かった。いつもなら、枕元で「起きろー!」と騒いでいるはずの、あの賑やかな気配が、どこにもない。

「紬葵……?」

 返事はない。
 僕は跳ね起き、家の中、駄菓子屋の中を走り探し回った。

「紬葵! どこにいるんだよ、紬葵!」

 声を張り上げても、返ってくるのはセミの鳴き声と、遠くで鳴る波の音だけだ。

 心臓の鼓動が、嫌な速さで胸を叩く。
 あの日、サッカーを失った時と同じだ。大切なものが、自分の指の間から砂のように零れ落ちていく感覚。

 僕はたまらず、ばあちゃんが入院している病院へと向かった。
 紬葵のことが見えていたばあちゃんなら、何か知っているはずだ。

「……お盆がちこうなってきて、神様からお借りしとる力が分散されてしもうたな」

 病室のベッドの上で、ばあちゃんは窓の外を眺めながら静かに言った。

「どういうことだよ、ばあちゃん」
「神様のお力は、未練の強い霊たちに分け与えられるもの。じゃがお盆が近づくと、あちらから帰ってくる霊たちが準備を始めてしまうけ、今こちらをさまよっておる霊に回ってくる力は、以前より弱まってしまうんよ」

 ばあちゃんの言葉が、冷たく胸に突き刺さる。

「……ライブを見るまでは消えられないって、あいつ、言ったじゃんか」

 僕は拳を強く握りしめた。

 ようやく見つけた、新しい居場所。彼女が繋ぎ止めてくれた、僕たちの止まった時間。
 それが、またあの日と同じように、最後のお別れすら言えないまま消えてしまうのか。

 こみ上げる悔しさに、下唇を強く噛んだ。その時だった。

 廊下へと続く小さなドアの隙間から、ふっと、穏やかな風が吹き抜けた。
 外の熱風とは違う、どこか懐かしくて、あの駄菓子屋の奥にいた時のような、少しだけ冷たい風。

 ばあちゃんが、ふっと優しい目つきになって、僕のすぐ隣を見つめた。

「……まだ、あんたのことを放っておけんって。ちゃんと、見てくれとるわ」
「え……?」

 僕は勢いよく後ろを振り向いた。
 けれど、そこには白い壁と、無機質な空気があるだけだ。誰もいない。紬葵の姿も、あの鳩羽色の長い髪もなにも見えない。

「見えてなくても、ちゃんとそこにおるんよ。あんたの隣になぁ」

 ばあちゃんの言葉に導かれるように、僕は自分の右側に意識を向けた。
 そこには、微かな、本当に微かな空気の揺らぎがあった。

「……そこに、いるんだな」

 返事はない。けれど、風が僕の頬を優しく撫でた気がした。

 見えなくても、聞こえなくても、きっとそこに居てくれている。
 僕はもう一度、強く拳を握った。

 あと三日。
 三日後の夜、この町で一番大きな音を鳴らして、紬葵に届けるんだとそう誓った。 





「見えてるか。紬葵」

 ステージに立った瞬間、夜の空気が一気に変わった。
 提灯の明かり、ソースの焦げる匂い、遠くで上がる爆竹の音。それらがすべて脇役に感じる。

 たかが、田舎の小さな祭りのステージだ。けれど、何もかもを失って帰ってきた僕に、紬葵が遺してくれた唯一の居場所。

 僕は震える指先で、水色のレスポールのネックを握りしめた。

「せめて……最初のライブくらい、近くで聞いていて欲しかったな」

 誰にも聞こえない、情けないほど小さな独り言。
 するとその時。

『大丈夫。ちゃんと聴いてるよ。君の歌』

 背中から、あのそよ風が優しく吹き抜けた。
 耳元で、懐かしくて、透明な、彼女の声がした。

 間髪を入れず、僕は振り返った。
 けれど、視界に映ったのは、ステージを照らす眩しいライトと、無人の空間だけだった。

「どうしたんだ、芽吹!」

 ドラムセットから律が声を張り上げる。

「緊張してるんですか、芽吹さん。らしくもないですよ」

 彩羽がベースを構えながら、真っ直ぐに僕を見た。

「大丈夫! 芽吹くんなら、きっと!」

 紗雪がリードギターを抱え、自信たっぷりに微笑む。

 ――訂正。
 そこには、みんなが居てくれていた。

 僕は前を見据えた。

 姿は見えない。
 それでも、背中には確かな温もりが残っている。 

 リアのボリュームノブを全開まで回し、ピックを構える。

「――某日、某月」

 呟きと共に、最初の一音を叩きつけた。
 瞬間、音が会場を飲み込み始める。

 律のドラムが地を這うような鼓動を刻み、彩羽のベースが確かに夜を揺らし、紗雪のギターがみんなの注目を集める。

 僕は夢中で声を張り上げた。

 紬葵が見ていた景色。
 歌いながら、一瞬だけ見えた気がした。

 ステージの袖、暗がりのなかで、寂しさが混じりながらも、いつものような無邪気で生意気な笑顔を見せて聞いてくれている。

 僕は、溢れそうになった感情を飲み込んで、また音と夏に溶けていく。
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