インサイド

暁艶

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白昼夢

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私には忘れられない、痛くて止まったままの記憶がある。それは32歳になった今でも、心の1番奥底に居て、わたしを抉り続ける。きっと死ぬまでそうなんだろう。この記憶が無くなる日、それは死を意味するとずっと思って生きてきた。それほどまでにこの記憶は、私を形づくるフチドリのような、アイデンティティの塊のような、抗いようのない私自身なんだ。

私は多分、冷たい床に座っている。身体に伝わる感触で、秋寄りでは無い真冬の季節だったのは確かだ。そうそう、記憶のところどころにクリスマスソングが潜んでいるのも、冬を裏付ける大切なエビデンスだ。外は木枯らしが吹いていて、もしかしたら例年より寒い冬だったのかもしれない。その時の私が『例年より』を理解していたのか知る由も無いが、32年の人生で1番寒いと感じた冬だった。右手には薄汚れたウサギのぬいぐるみ。左手には持てるだけ持った真っ青なビー玉。何故青だけなのか?子供ならいろんな色が欲しいに決まってる。今の私が記憶の淵に立つ時、その青の青さにいつも辟易する。ビー玉を買っておけば子供は喜ぶだろう。色が混ざっていなくても、とりあえず持たせておけば…持たせた『あの人』の、その雑な扱いに私はあきらめと同時に、ぞっとするのだった。たとえ自ら望んだものでないにしろ、両手に心を埋めるための防具をたくさん持って、私はひたすらに冷たい床に座り続けた。遠くで『あの人』と誰か大人の人が話をしている。当時の私が内容を理解出来るはずもない。何か楽しいお話でもしてるのかな?それ位にしか考えていなかっただろう。それが『あの人』との最後の瞬間になるなんて、誰が想像出来ただろう。——そう、私は1番寒いと感じたあの冬の日に、捨てられたのだ。

顛末はこうだ。私がずっと座り続けていたのは、教会の床だった。『あの人』が私を育てる事を簡単に投げ出した日、私は『あの人』に連れられて、教会が運営する児童擁護施設にやって来た。『あの人』が話していたのは、教会のシスター兼施設の責任者の女性で、名前を泉谷礼子と言った。その後の私の人生に色濃く影響を与えるその人は、背が高く、規律を重んじた生活が表情にも表れていそうな、どこか寂しげな人だった。彼女と『あの人』は、施設の手続きなどを話し合ったり、私とはこんな人間だと伝えていたのか、ゆうに1時間くらいは話していたと思う。その間中ずっと私は例の冷たい床に座り続けていたわけだが、身体が芯まで冷え切り、何度か『あの人』と目が合ったように思うが、これから降りかかる私の運命に気が引けたのか、直ぐに目をそらされてしまうのだった。と、ちゃんとした、それでもかなり曖昧ではあるが、自分で覚えている記憶はそこまでで、生きる為に脳が停止してしまったのか、『あの人』との最後の瞬間を、今までの人生で何度も何度も思い出そうとしたが、そこから先は全く思い出せなかった。今の私に少しだけ似ている『あの人』の面影と、今も身体の芯に残っている床の冷たさだけが、あの日の記憶の全てだ。『あの人』は私に何も声を掛けずに去って行ったのだろうか?そんな事母親なら有り得るのだろうか?いや母親だから、声を掛けられなかったのだろうか?

今までの人生、いつも満たされず、その想いを抱き、白昼夢を彷徨ってきたように思う。
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