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翌朝、私は着替える為に一旦自宅に戻った。幸い千賀さんは出勤した後だったが、ついこそこそしてしまうのは何故だろう。背を丸めてキッチンに足を踏み込んだところで、唐突にスマホの着信音が響いた。昨日忘れていったそれは、エプロンのポケットの中で自己主張している。
鳴り止んでから取り出すと、千賀さんからの電話とメールがてんこ盛り。
「何処にいる?」
「無事なのか?」
自宅で夫からの探索メールを読んだ私は、苦笑するしかなかった。おそらく一晩中気を揉んでいたのだろう。短い文章にも心配の度合いが窺える。皮肉なものだ。これまではろくに連絡をくれたこともなかったのに、いざ手離すときがくると惜しくなるのだろうか。お飾りの妻でも。
「子供じゃないのに」
嘆息したところで、千賀さんからのメールの合間に、妹からのものが混じっているのを見つけた。
「子供じゃあるまいし、いい大人が家出してんじゃないわよ。お義兄さん、血相変えてうちまで来たのよ? 何があったか知らないけど、さっさと帰りなさいよ!」
似て非なる文言にぐっと詰まる。半日やそこらのことに大袈裟に騒ぐとは、私はそこまで頼りないのだろうか。そもそも実家まで探しに行ったこと自体驚きだ。どんな理由があったにせよ、ずっと放置していたようなものなのに、いざ離婚を口にしたらさも私を好きなふうを装うなんて、千賀さんは一体何をしたいのだろう。彼の考えていることが理解できない。
「睡眠は取ったのか?」
「朝食は食べたのか?」
リビングのソファに脱ぎ散らかされた、千賀さんのパジャマを片付ける合間にも、頻繁に安否を問うメールが届く。そんなに気にするくらいなら、何故最初から私と向き合ってくれなかったのだろう。まだ彩華を想っていたとしても、私との暮らしを大切にしてくれたら、普通の夫婦の在り方とは違っていても、私と千賀さんだけの幸せの形だって見つけられたかもしれないのに。
「帰ってきて欲しい」
始業時間になったのだろう。これを最後にスマホは静かになった。わざわざ説かれるまでもなく、たかだか二ヶ月の間にこの家は私の帰る場所になっていた。彩華と千賀さんの希望で作り上げた家、ただ寝起きするだけの嫌な思い出しかない空間。それでもキッチンで料理をしたのも、リビングを掃除したのも、トイレやバスルームを清潔に保ったのも……実際にそこで過ごしていたのは紛れもなく私。
これからどうすればいいのだろう。もう自分で自分が分からない。
「灯里ちゃん、大丈夫?」
発注書の控えをファイルに綴じていた青木さんが、向かいのデスクから心配そうに私を窺った。
「すみません、なかなか止まらなくて」
私は口元を押さえて頭を下げる。カレンダーも残り一枚になり、急激に寒さが押し寄せてきた。テレビのニュースでも連日インフルエンザに注意するよう呼びかけているが、まんまと私は流行に乗って風邪をひいてしまった。熱はないものの二、三日前から体がだるく、咳と鼻水が止まらない。念の為今朝病院に行ったところ、風邪と診断を受けたので出社したが、暖房は効いているのに寒気がする。
「顔が赤くなってきたわね。熱が上がってるんじゃない?」
「かもしれません」
「早退する?」
立ち上がって私の横に回り、額にそっと手を当てた青木さんが、やっぱり熱いわねと眉間に皺を寄せた。私は咳き込みつつ首を振る。幸いあと一時間足らずで終業時間だ。何とか乗り切って明日の土曜日はひたすら寝よう。
「家に帰ったら?」
ため息をつく青木さんに私は力なく微笑んだ。なまじ夫と友達絡みの悩みだけに、誰にも相談できずにいた私は、八方塞がりになって彼女に助けを求めた。
「まずは旦那さんとも友達とも、腹を割って話し合わなきゃ駄目よ。別れるのはそれからでも遅くないでしょう」
私の言動を否定せず、その上で思い込みで人生を台無しにしないよう、早まった真似は慎んでと青木さんは釘を刺した。もちろん一時の感情で離婚に走るのは賛成しかねるだろう。でも私はその覚悟が定まらず、逃げるように飛び出したまま、結局ビジネスホテルに泊まり続けていた。
「お金が勿体ないわよ」
指摘されるまでもなく正直それが一番痛い。おまけに千賀さんからの連絡も引っ切り無しに来る。
「意地を張っていると、本当に大事なものを失うわよ」
そして失ったら二度と取り戻せない。千賀さんも、彼と歩く未来も。知っていながら、自分の居場所は何処なのか気づいていながら、彩華の匂いのする家には帰りたくないという私は、ただの我儘な人間なのだろうか。
「家を空けている間に、友達好みの部屋が完成しているかもねえ」
ぽんと肩を叩いて青木さんはデスクに戻った。全く憶えのない部屋に足を踏み込む自分を想像して私は身震いした。もしも事実そんな状況が生まれていても、勝手に妻であることを放棄した私に文句など言えない。
「これはバツイチ決定かな」
追い打ちをかけられ、咳も酷くなって涙ぐんでいるとき、ポケットの中のスマホが短く音を鳴らした。
「会社の前で待っている」
千賀さんからのメールだった。
鳴り止んでから取り出すと、千賀さんからの電話とメールがてんこ盛り。
「何処にいる?」
「無事なのか?」
自宅で夫からの探索メールを読んだ私は、苦笑するしかなかった。おそらく一晩中気を揉んでいたのだろう。短い文章にも心配の度合いが窺える。皮肉なものだ。これまではろくに連絡をくれたこともなかったのに、いざ手離すときがくると惜しくなるのだろうか。お飾りの妻でも。
「子供じゃないのに」
嘆息したところで、千賀さんからのメールの合間に、妹からのものが混じっているのを見つけた。
「子供じゃあるまいし、いい大人が家出してんじゃないわよ。お義兄さん、血相変えてうちまで来たのよ? 何があったか知らないけど、さっさと帰りなさいよ!」
似て非なる文言にぐっと詰まる。半日やそこらのことに大袈裟に騒ぐとは、私はそこまで頼りないのだろうか。そもそも実家まで探しに行ったこと自体驚きだ。どんな理由があったにせよ、ずっと放置していたようなものなのに、いざ離婚を口にしたらさも私を好きなふうを装うなんて、千賀さんは一体何をしたいのだろう。彼の考えていることが理解できない。
「睡眠は取ったのか?」
「朝食は食べたのか?」
リビングのソファに脱ぎ散らかされた、千賀さんのパジャマを片付ける合間にも、頻繁に安否を問うメールが届く。そんなに気にするくらいなら、何故最初から私と向き合ってくれなかったのだろう。まだ彩華を想っていたとしても、私との暮らしを大切にしてくれたら、普通の夫婦の在り方とは違っていても、私と千賀さんだけの幸せの形だって見つけられたかもしれないのに。
「帰ってきて欲しい」
始業時間になったのだろう。これを最後にスマホは静かになった。わざわざ説かれるまでもなく、たかだか二ヶ月の間にこの家は私の帰る場所になっていた。彩華と千賀さんの希望で作り上げた家、ただ寝起きするだけの嫌な思い出しかない空間。それでもキッチンで料理をしたのも、リビングを掃除したのも、トイレやバスルームを清潔に保ったのも……実際にそこで過ごしていたのは紛れもなく私。
これからどうすればいいのだろう。もう自分で自分が分からない。
「灯里ちゃん、大丈夫?」
発注書の控えをファイルに綴じていた青木さんが、向かいのデスクから心配そうに私を窺った。
「すみません、なかなか止まらなくて」
私は口元を押さえて頭を下げる。カレンダーも残り一枚になり、急激に寒さが押し寄せてきた。テレビのニュースでも連日インフルエンザに注意するよう呼びかけているが、まんまと私は流行に乗って風邪をひいてしまった。熱はないものの二、三日前から体がだるく、咳と鼻水が止まらない。念の為今朝病院に行ったところ、風邪と診断を受けたので出社したが、暖房は効いているのに寒気がする。
「顔が赤くなってきたわね。熱が上がってるんじゃない?」
「かもしれません」
「早退する?」
立ち上がって私の横に回り、額にそっと手を当てた青木さんが、やっぱり熱いわねと眉間に皺を寄せた。私は咳き込みつつ首を振る。幸いあと一時間足らずで終業時間だ。何とか乗り切って明日の土曜日はひたすら寝よう。
「家に帰ったら?」
ため息をつく青木さんに私は力なく微笑んだ。なまじ夫と友達絡みの悩みだけに、誰にも相談できずにいた私は、八方塞がりになって彼女に助けを求めた。
「まずは旦那さんとも友達とも、腹を割って話し合わなきゃ駄目よ。別れるのはそれからでも遅くないでしょう」
私の言動を否定せず、その上で思い込みで人生を台無しにしないよう、早まった真似は慎んでと青木さんは釘を刺した。もちろん一時の感情で離婚に走るのは賛成しかねるだろう。でも私はその覚悟が定まらず、逃げるように飛び出したまま、結局ビジネスホテルに泊まり続けていた。
「お金が勿体ないわよ」
指摘されるまでもなく正直それが一番痛い。おまけに千賀さんからの連絡も引っ切り無しに来る。
「意地を張っていると、本当に大事なものを失うわよ」
そして失ったら二度と取り戻せない。千賀さんも、彼と歩く未来も。知っていながら、自分の居場所は何処なのか気づいていながら、彩華の匂いのする家には帰りたくないという私は、ただの我儘な人間なのだろうか。
「家を空けている間に、友達好みの部屋が完成しているかもねえ」
ぽんと肩を叩いて青木さんはデスクに戻った。全く憶えのない部屋に足を踏み込む自分を想像して私は身震いした。もしも事実そんな状況が生まれていても、勝手に妻であることを放棄した私に文句など言えない。
「これはバツイチ決定かな」
追い打ちをかけられ、咳も酷くなって涙ぐんでいるとき、ポケットの中のスマホが短く音を鳴らした。
「会社の前で待っている」
千賀さんからのメールだった。
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