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寒さが一段と厳しくなった、二月初めの日曜日。千賀さんが私の住む六畳一間のアパートに引っ越してきた。かなり断捨離したのだろうと踏んでいたら、本や仕事の資料以外は、元々服でさえも所持している数は少ないらしく、物事に頓着しない一面が窺えた。
「さすがに窮屈になっちゃいましたね」
二人であっという間に荷物を片付けた後、コーヒーで一服しながら私は苦笑した。両壁からの圧迫感が半端ない。
「灯里ちゃんといちゃつく理由になるから、ちょうどいいよ」
さらりと言いつつ、照れ臭そうに頬をかくのはやめて欲しい。ただでさえ膝がくっつきそうな位置に座っているのに。
「勝手なことばかりしてごめんなさい。千賀さんと一緒にいたいです」
別居してから、そして私が自分の本音を伝えてからほぼ一ヶ月。それまで住んでいたアパートの解約に手間取ったと、千賀さんは今月になってから引っ越してきた。でもきっと本当は違う。
すぐに同居すれば、嬉しくても私がまた勝手に自分の言動に責任を感じてしまうし、おそらく二人で暮らしたアパートに戻れば、どこかで彩華を意識せざるを得ない。だからわざわざ時間を空けて、この狭い部屋に移ってくれたのだと思う。
この一ヶ月の間も、平日は食事に誘ってくれたり、休日は映画やドライブに連れていってくれたりと、宣言通り時間を惜しむように常に私に寄り添い、言葉には現れない不器用な優しさが、私をどれだけ大切にしてくれているのかを物語っていた。
「灯里ちゃんが部屋に入る所を見届けたいから。戸締り忘れないで」
ただしデート帰りにアパートまで送ってくれたときには、どんなにお茶を勧めても、頑なに断っていたけれど(笑)。
「千賀さん、不束者ですがよろしくお願い致します」
結婚したときにはできなかった挨拶を、今日は笑顔で口にした。ようやく紙の上だけではなく、正真正銘千賀さんの奥さんになれたような気がする。
「こちらこそ、よろしく……あ、ああああ」
名前を呼び捨てにしようとしているのだろうか。千賀さんがぶわっと顔を赤くした。
「は、はい。ゆ、ゆゆゆゆ」
私もちゃんと名前を呼ぶつもりだったのに、千賀さん同様どもって先に進めない。
「あ、あの!」
同時に叫んでみつめあい、更にお互いの熱を放出する。顔が熱くて仕方がない。好きな人の名前を呼ぶことがこんなに難しかったなんて、この年齢になって初めて知った。
考えてみたら、お互い片想いだと誤解していたから、緊張感漂う中での同居ができたのかもしれない。けれどいざ想いが通じた後では、一緒に暮らすというのはもの凄く破壊力のある行為だ。
「お待たせ、しました」
お風呂から上がって部屋に戻ると、千賀さんがベッドに寄りかかってテレビを観ていた。髪を短くした私は、ドライヤーにさほど時間がかからない為、ドキドキを静めるには至らずじまい。
「お酒、飲みますか?」
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ぎこちなく千賀さんに差し出す。ありがとうと伸ばされた彼の手が触れた瞬間、私達はまたしても同時に手を引っ込めた。二人の間に転がる缶ビール。
「ご、ごめ……!」
やはり同時に言いかけ、真っ赤になって口を噤む。お風呂上がりのパジャマ姿など見慣れているのに、気持ち一つでこうも動揺することになろうとは。
この調子で一晩過ごすことができるのだろうか。来客用の布団は一旦私の実家に預けたので、寝床は一ヶ所しかない。つまり千賀さんの背中のベッドのみ。
「頂きます」
冷静さを取り戻したのか、千賀さんが缶ビールを拾って飲み始めた。麦茶のコップを手に私も隣に座る。
「ここなら、寝室から迎えに来なくても大丈夫なんだな」
しばらく会話もなく、ぼんやりニュースを眺めていると、ふいに小さな笑い声が洩れた。結婚初日の自分を思い出しているのだろう。
「水のペットボトル、用意してありますよ」
悪戯心が湧いて唇の端を上げると、千賀さんは目を丸くした。
「本当に?」
「嘘です」
ぺろっと舌を出したら、途端に千賀さんは膨れっ面になった。
「こいつめ!」
そのまま乾かしたばかりの私の髪を、両手でぐしゃぐしゃと掻き回す。
「ちょ、何するんですか!」
仕返しとばかりに千賀さんの髪に手を伸ばし、私も半ば引っ張るように乱してゆく。
「男の純情を馬鹿にしたな」
「中学生を馬鹿になんて滅相もない」
「一日一回意地悪発言」
「正直なだけです」
息を切らしながら文句の応酬をしていた矢先、千賀さんがやおら手の動きを止めた。
「全く減らず口まで可愛いなんて詐欺だ」
泣きそうな表情で告げて、ぐしゃぐしゃになった私の頭を愛しげに撫でる。
「灯里ちゃん、お願いだから俺の傍からいなくならないで」
そうして今度は両の手で私の頬を包む。
「ずっと好きでした。これからも変わらずに好きです」
それはやっと想いを遂げられた人の、胸が痛くなるような告白。
「私も千賀さんがずっと好きです」
満ち足りた温かさに双眸が潤む。落ちたひと雫を指で拭い、千賀さんは幸せを体現するような笑みを浮かべた。
「灯里ちゃん」
改まった千賀さんに私もしっかり頷く。
「はい」
けれどこの態勢のまま千賀さんは身動ぎ一つしない。二分程経過した頃、彼がようやく口を開いた。
「あれ、キ、キスって、どうやるんだったっけ」
「さすがに窮屈になっちゃいましたね」
二人であっという間に荷物を片付けた後、コーヒーで一服しながら私は苦笑した。両壁からの圧迫感が半端ない。
「灯里ちゃんといちゃつく理由になるから、ちょうどいいよ」
さらりと言いつつ、照れ臭そうに頬をかくのはやめて欲しい。ただでさえ膝がくっつきそうな位置に座っているのに。
「勝手なことばかりしてごめんなさい。千賀さんと一緒にいたいです」
別居してから、そして私が自分の本音を伝えてからほぼ一ヶ月。それまで住んでいたアパートの解約に手間取ったと、千賀さんは今月になってから引っ越してきた。でもきっと本当は違う。
すぐに同居すれば、嬉しくても私がまた勝手に自分の言動に責任を感じてしまうし、おそらく二人で暮らしたアパートに戻れば、どこかで彩華を意識せざるを得ない。だからわざわざ時間を空けて、この狭い部屋に移ってくれたのだと思う。
この一ヶ月の間も、平日は食事に誘ってくれたり、休日は映画やドライブに連れていってくれたりと、宣言通り時間を惜しむように常に私に寄り添い、言葉には現れない不器用な優しさが、私をどれだけ大切にしてくれているのかを物語っていた。
「灯里ちゃんが部屋に入る所を見届けたいから。戸締り忘れないで」
ただしデート帰りにアパートまで送ってくれたときには、どんなにお茶を勧めても、頑なに断っていたけれど(笑)。
「千賀さん、不束者ですがよろしくお願い致します」
結婚したときにはできなかった挨拶を、今日は笑顔で口にした。ようやく紙の上だけではなく、正真正銘千賀さんの奥さんになれたような気がする。
「こちらこそ、よろしく……あ、ああああ」
名前を呼び捨てにしようとしているのだろうか。千賀さんがぶわっと顔を赤くした。
「は、はい。ゆ、ゆゆゆゆ」
私もちゃんと名前を呼ぶつもりだったのに、千賀さん同様どもって先に進めない。
「あ、あの!」
同時に叫んでみつめあい、更にお互いの熱を放出する。顔が熱くて仕方がない。好きな人の名前を呼ぶことがこんなに難しかったなんて、この年齢になって初めて知った。
考えてみたら、お互い片想いだと誤解していたから、緊張感漂う中での同居ができたのかもしれない。けれどいざ想いが通じた後では、一緒に暮らすというのはもの凄く破壊力のある行為だ。
「お待たせ、しました」
お風呂から上がって部屋に戻ると、千賀さんがベッドに寄りかかってテレビを観ていた。髪を短くした私は、ドライヤーにさほど時間がかからない為、ドキドキを静めるには至らずじまい。
「お酒、飲みますか?」
冷蔵庫から缶ビールを取り出して、ぎこちなく千賀さんに差し出す。ありがとうと伸ばされた彼の手が触れた瞬間、私達はまたしても同時に手を引っ込めた。二人の間に転がる缶ビール。
「ご、ごめ……!」
やはり同時に言いかけ、真っ赤になって口を噤む。お風呂上がりのパジャマ姿など見慣れているのに、気持ち一つでこうも動揺することになろうとは。
この調子で一晩過ごすことができるのだろうか。来客用の布団は一旦私の実家に預けたので、寝床は一ヶ所しかない。つまり千賀さんの背中のベッドのみ。
「頂きます」
冷静さを取り戻したのか、千賀さんが缶ビールを拾って飲み始めた。麦茶のコップを手に私も隣に座る。
「ここなら、寝室から迎えに来なくても大丈夫なんだな」
しばらく会話もなく、ぼんやりニュースを眺めていると、ふいに小さな笑い声が洩れた。結婚初日の自分を思い出しているのだろう。
「水のペットボトル、用意してありますよ」
悪戯心が湧いて唇の端を上げると、千賀さんは目を丸くした。
「本当に?」
「嘘です」
ぺろっと舌を出したら、途端に千賀さんは膨れっ面になった。
「こいつめ!」
そのまま乾かしたばかりの私の髪を、両手でぐしゃぐしゃと掻き回す。
「ちょ、何するんですか!」
仕返しとばかりに千賀さんの髪に手を伸ばし、私も半ば引っ張るように乱してゆく。
「男の純情を馬鹿にしたな」
「中学生を馬鹿になんて滅相もない」
「一日一回意地悪発言」
「正直なだけです」
息を切らしながら文句の応酬をしていた矢先、千賀さんがやおら手の動きを止めた。
「全く減らず口まで可愛いなんて詐欺だ」
泣きそうな表情で告げて、ぐしゃぐしゃになった私の頭を愛しげに撫でる。
「灯里ちゃん、お願いだから俺の傍からいなくならないで」
そうして今度は両の手で私の頬を包む。
「ずっと好きでした。これからも変わらずに好きです」
それはやっと想いを遂げられた人の、胸が痛くなるような告白。
「私も千賀さんがずっと好きです」
満ち足りた温かさに双眸が潤む。落ちたひと雫を指で拭い、千賀さんは幸せを体現するような笑みを浮かべた。
「灯里ちゃん」
改まった千賀さんに私もしっかり頷く。
「はい」
けれどこの態勢のまま千賀さんは身動ぎ一つしない。二分程経過した頃、彼がようやく口を開いた。
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