64 / 66
番外編 それぞれの思い
相原涼子 6
しおりを挟む
劇的な変化こそなかったが、陸の得意なことや苦手なこと、困りごとへの対処の仕方等が明確になったことで、私も少しずつ我が子とのつきあいに慣れてきた。それは保育園の先生方も同様で、陸が分かりやすいように様々な工夫を凝らしてくれている。
もちろん保健師さんや心理士の先生、高槻くんや直樹くんといった、私達のような親子を支えてくれる人達にも、たくさんの力を貸してもらいながら、我が家は何とか成り立っていた。
陸が新たなスタートを切った一方で、海は相変わらず弟中心の生活を送っていた。それを気にする反面、仕事を休まずに済んでいるのも事実で、娘に甘えている自分に腹が立ちつつも、私は現状を変えられないでいた。
「おばさん、海のことなんだけど……」
ある日の仕事帰り、陸を保育園に迎えに行く途中で、海の友人から声をかけられた。小学校から高校までずっと一緒で、うちの家庭環境を知っていても、仲よくしている女の子の一人だ。
夫に会う可能性が高くても、以前の居住地からそう遠くない場所に部屋を借りたのは、転校によってこういった友人と引き離すのを避けたかったのが理由だ。
「ごめんね、おばさん。私の話を聞いたら、嫌な気分になるかもしれない。でも海は絶対隠すと思うから」
彼女の躊躇っている姿に、その話というのが陸絡みだろうと想像がついた。あからさまに噂されることはなくても、さほど親しくない同級生からひそひそ囁かれることは、これまでにも幾度かあったからだ。
「海、同級生の男の子につきあってと言われたの」
自然に私の口許が綻んだ。娘が恋をする年頃になったのだと、妙に甘酸っぱいものが胸に込み上げる。
「クラスは違うけど、顔を合わせれば喋っていたから、気は合っていたみたいで」
そういえば最近高槻くんや直樹くん以外で、海が男の子と喋っている姿を見たことがない。自分から相手に踏み込まない性質を考えると、ずいぶん心を許していたのが窺えた。
「私達もつきあいなって勧めたし、海も気持ちが傾いていた筈なのに」
そこで彼女は唇を噛み締めた。
「同じ中学出身の子が、その男の子に陸のことを大袈裟に教えちゃって……。返事をする前に、なかったことにされたの」
よもやの展開に私は息を呑んだ。何でも陸の話題を出した子は、海に告白した男の子が好きだったそうで、邪魔をする手立てとして陸を利用したらしい。
「頭のおかしな弟がいる」
おそらく海にはその言葉が、夫が放ったものと重なって聞こえたことだろう。自分の恋を弟を使って壊された海は、一体どんな思いをしただろう。私は足元がぐらつくのを感じた。
「彼は一時的に海を避けたけど、ただ動揺しただけだったみたいで、ちゃんと謝ってきた。そしてやっぱり海とつきあいたいって」
「海は?」
ゆるりと首を振った後、彼女はぽろぽろと涙を零した。
「もう誰も好きにならないって」
心臓を抉られたような気がした。いや、私が痛めつけられることで海の苦しみが消えるなら、むしろその方がずっと有り難かった。
私の子供が何をしたというのだろう。海が、陸が、何故他人から謂れのない傷を負わされなければならないのだろう。二人を守りたくて選んだ現在の生活は、私の自己満足に過ぎなかったのか。二人はこの先もこんな思いを味あわねばならないのか。
ああ、違う。母親がこれではいけない。私が恨み言を洩らせば、海も右へ倣えしてしまう。世の中にはいろんな人がいるけれど、海や陸を大切に想う人が必ずいる……そのことを伝えなくては。
だから私は必死で例え話をした。陸が突然大声を上げたとき、振り返った人全てに悪意はあるか、驚いただけではないか、と。これは自身に向けてのものでもあった。私も我が子が障害者となるまで、他の障害者を慮ることはなかったし、必要としていることすら知ろうとしなかった。
「あちこちで話す必要はないけど、海が分かって欲しい人にはちゃんと伝えて、知ってもらうのが大事。悩むのはそれからでも遅くないんじゃないかな。最初から悪く捉えていたら、良いことまで見失ってしまうかもしれないよ?」
ぼんやりとでも海は納得できたようだった。けれどすぐに気持ちを切り替えられるわけもなく。
海が外出する際に伊達眼鏡をかけるようになったのは、この出来事に端を欲している。髪型も黒いゴムで一本に結び、服も男の子よりも地味になった。まるで人と目を合わせないように。人の目に止まらないように。なのに笑顔だけは常に浮かべて。
もちろん保健師さんや心理士の先生、高槻くんや直樹くんといった、私達のような親子を支えてくれる人達にも、たくさんの力を貸してもらいながら、我が家は何とか成り立っていた。
陸が新たなスタートを切った一方で、海は相変わらず弟中心の生活を送っていた。それを気にする反面、仕事を休まずに済んでいるのも事実で、娘に甘えている自分に腹が立ちつつも、私は現状を変えられないでいた。
「おばさん、海のことなんだけど……」
ある日の仕事帰り、陸を保育園に迎えに行く途中で、海の友人から声をかけられた。小学校から高校までずっと一緒で、うちの家庭環境を知っていても、仲よくしている女の子の一人だ。
夫に会う可能性が高くても、以前の居住地からそう遠くない場所に部屋を借りたのは、転校によってこういった友人と引き離すのを避けたかったのが理由だ。
「ごめんね、おばさん。私の話を聞いたら、嫌な気分になるかもしれない。でも海は絶対隠すと思うから」
彼女の躊躇っている姿に、その話というのが陸絡みだろうと想像がついた。あからさまに噂されることはなくても、さほど親しくない同級生からひそひそ囁かれることは、これまでにも幾度かあったからだ。
「海、同級生の男の子につきあってと言われたの」
自然に私の口許が綻んだ。娘が恋をする年頃になったのだと、妙に甘酸っぱいものが胸に込み上げる。
「クラスは違うけど、顔を合わせれば喋っていたから、気は合っていたみたいで」
そういえば最近高槻くんや直樹くん以外で、海が男の子と喋っている姿を見たことがない。自分から相手に踏み込まない性質を考えると、ずいぶん心を許していたのが窺えた。
「私達もつきあいなって勧めたし、海も気持ちが傾いていた筈なのに」
そこで彼女は唇を噛み締めた。
「同じ中学出身の子が、その男の子に陸のことを大袈裟に教えちゃって……。返事をする前に、なかったことにされたの」
よもやの展開に私は息を呑んだ。何でも陸の話題を出した子は、海に告白した男の子が好きだったそうで、邪魔をする手立てとして陸を利用したらしい。
「頭のおかしな弟がいる」
おそらく海にはその言葉が、夫が放ったものと重なって聞こえたことだろう。自分の恋を弟を使って壊された海は、一体どんな思いをしただろう。私は足元がぐらつくのを感じた。
「彼は一時的に海を避けたけど、ただ動揺しただけだったみたいで、ちゃんと謝ってきた。そしてやっぱり海とつきあいたいって」
「海は?」
ゆるりと首を振った後、彼女はぽろぽろと涙を零した。
「もう誰も好きにならないって」
心臓を抉られたような気がした。いや、私が痛めつけられることで海の苦しみが消えるなら、むしろその方がずっと有り難かった。
私の子供が何をしたというのだろう。海が、陸が、何故他人から謂れのない傷を負わされなければならないのだろう。二人を守りたくて選んだ現在の生活は、私の自己満足に過ぎなかったのか。二人はこの先もこんな思いを味あわねばならないのか。
ああ、違う。母親がこれではいけない。私が恨み言を洩らせば、海も右へ倣えしてしまう。世の中にはいろんな人がいるけれど、海や陸を大切に想う人が必ずいる……そのことを伝えなくては。
だから私は必死で例え話をした。陸が突然大声を上げたとき、振り返った人全てに悪意はあるか、驚いただけではないか、と。これは自身に向けてのものでもあった。私も我が子が障害者となるまで、他の障害者を慮ることはなかったし、必要としていることすら知ろうとしなかった。
「あちこちで話す必要はないけど、海が分かって欲しい人にはちゃんと伝えて、知ってもらうのが大事。悩むのはそれからでも遅くないんじゃないかな。最初から悪く捉えていたら、良いことまで見失ってしまうかもしれないよ?」
ぼんやりとでも海は納得できたようだった。けれどすぐに気持ちを切り替えられるわけもなく。
海が外出する際に伊達眼鏡をかけるようになったのは、この出来事に端を欲している。髪型も黒いゴムで一本に結び、服も男の子よりも地味になった。まるで人と目を合わせないように。人の目に止まらないように。なのに笑顔だけは常に浮かべて。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
二十年以上無視してきた夫が、今さら文通を申し込んできました
小豆缶
恋愛
「お願いです。文通から始めてもらえませんか?」
二十年以上会話もなかった夫――この国の王が、ある日突然そう言ってきた。
第一王妃マリアは、公爵家出身の正妃。だが夫はかつて、寵愛する第三王妃の話のみを信じ、彼女を殴ったことがある。その事件が原因で、マリアは男性恐怖症が悪化して、夫と二人きりでは会話すらできなくなっていた。
それから二十年。
第三王妃はとある事故で亡くなり、夫は反省したらしい。だからといって――今さら夫婦関係をやり直したいと言われても遅すぎる。
なのに王は諦めない。毎日の手紙。花を一輪。夜食の差し入れ。
不器用すぎる求愛に振り回されるうち、マリアの中で止まっていた感情が少しずつ動き始める。
これは、冷えきった政略夫婦が「文通」からやり直す恋の話。
※本作は「存在されていないことにされていた管理ギフトの少女王宮で真の家族に出会う」のスピンオフですが、単体で読めます。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる