卒業

文月 青

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新学期が始まった。今年は一年生のクラスの副担任を任されることになり、例年の四月よりも忙しい。俺みたいな若い先生(若僧と見下す心の声がダダ漏れだが)で大丈夫かと、ベテランのごく一部からは疑問視されているようだが、そんなもの屁でもない。

何故ならようやく想い続けた律と結ばれたからだ。当然のように俺の傍に律がいる。これがどんなに幸せなことか、誰か分かってくれるだろうか。

「先生の彼女、綺麗だね」

律と連れ立って歩く姿を見かけた生徒に、そんなことを言われたら、遠慮なくそうだろうと自慢してしまう。実際律は綺麗で可愛い。どうだ。羨ましいだろう。でも誰にも渡さない。俺だけのものだ。




家に帰るといい匂いが漂っていた。掃き清められた狭い玄関で靴を脱ぎ、フローリングの床が隠れるほど、資料が散らかり放題の八畳の部屋に入る。

「お帰りなさい」

併設されたキッチンから、エプロン姿の律の笑顔が出迎える。これだけで今日一日の疲れが吹き飛んでしまう。

「ただいま」

辛うじて律が空けてくれた、テーブル周りに腰を下ろした。実家住まいの律は、時々こうして掃除や食事の支度をしに来てくれる。しかもあちこち片付けられるのを厭う俺のために、どんなに散らかっていても物の在処を変えない。上手くごみや埃のみを始末している。素晴らしい。

そういえば先日、遠方にいて成人式に出席できなかった同級生のために、クラス会と称して律のクラスメイトが居酒屋に集まった。

「千堂は意外とマメだからね」

幹事として各テーブルの注文を纏める律を眺めながら、佐々岡が俺のグラスにビールを注ぐ。

「実は隠れライバルが多かったんだよ」

一度は律とつきあったことがある佐々岡は、そっと前方のテーブルを指差した。彼女の肩を抱いている男子がいる。思わず教え子を威嚇した俺は大人気ないだろうか。

「先生は妬かないの? 余裕だね」

さすがと感心する佐々岡にあっさり首を振る。

「いや、派手に威嚇しているつもりだが」

「これで? 分かりづらいよ。どうりで当事者の千堂はともかく、俺ですら先生の気持ちに気づかなかったわけだ」

佐々岡は呆れて肩を竦めた。どうやら俺の嫉妬は面に出難いらしい。そんな会話をしている間にも、律にちょっかいをかける男は後を絶たない。機転を利かせて、担任でもない俺を参加させてくれた佐々岡に感謝だ。

律とあんなことやこんなことをしたであろう点は、正直もやもやしないでもないが、佐々岡は真面目につきあっていたのだから、みみっちいことはすまい。

「お前に男子が群がってたな」

アパートに帰宅してからぼやくと、律はけらけらと笑い出した。

「私は幹事だもの。仕事よ仕事。先生こそ、相変わらず女子にモテモテだったじゃない」

確かに開始早々かつての女生徒に囲まれた。だが深入りしようとする奴は、眼光鋭く蹴散らしてやった。律以外の女を近づける気は毛頭ない。

「私は結構妬いてたんだけど、先生は平気だもんね」

そんなこと明るく言うな。平気なわけあるか。出会って三年とはいえ、実質関わったのはたったの一年。あとは年一回の俺の拉致。そんなんでよくお互いの気持ちが離れなかったものだ。

「お待たせ」

律がご飯を乗せたトレイを持って、隣に膝をついた。テーブルの上に開きっぱなしの本を、そのままの状態で床に置く。食後に元に戻すためだ。

「先生は明日は仕事?」

筑前煮に箸を伸ばす俺に、焼き魚を突きながら律が訊ねる。同居の祖母ちゃんに仕込まれたとかで、こいつはいい意味で地味な料理を作る。しかも美味。

「やすみ」

ゆっくりはっきり発音する。でも律は俺の魂胆を察してくれない。明日は土曜日だが、きっと今夜も律は自分の家に帰るのだろう。

律は遊びに来ても、俺の部屋には泊まらない。学生の自分と違って仕事で毎日忙しいし、疲れているだろうから、と。

「よかった。ゆっくり休めるね」

律の優しさが嬉しくて辛い。俺と律は心こそ結ばれたが、実は体の方はまだだ。律が嫌がっているわけではない。俺が誘えずにいるのだ。

自分でも驚いたのだが、あまりにも好きすぎるとかえって手が出せない。大切なのが高じて邪な欲望をぶつけられないのだ。きっかけがなくて正直参っている。

「先生美味しくない? それとも体調が悪い?」

箸を止めた俺の顔を覗き込む律。愛しくて仕方がない。ただ、卒業して二年も経っているのに、いまだに名前ではなく先生呼び。これもブレーキがかかる一因だ。大して常識やモラルがない俺でも、何だかこう背徳感めいたものに支配される。

「なぁ、そろそろ先生はやめないか?」

「癖になっちゃってるからなぁ。すぐには無理かも」

「それとな」

せっかくの機会だから、自分の汚い部分を晒すつもりで提案する。

「今日は泊まっていかないか?」

「いいの?」

律がぱあっと顔を輝かせる。

「いいのか?」

己が持ちかけておきながら、律の反応に怖気づいて確かめた。

「うん」

嬉しそうにはにかむ律に、彼女を好きだと自覚した日の笑顔が蘇る。

「お前、無理してないよな?」

「どうして?」

「今までそんな素振り、微塵も見せたことがなかっただろ」

訝しむ俺に律は目を瞬かせた。

「だって仕事の資料がこんなにあるんだもん。もしも失くしちゃったりしたら大変じゃない」

「げっ。そんな理由かよ」

「他に何があるのよ」

律が口を尖らせる。枷が外れた俺は我慢せずに彼女の唇にキスを落とした。

「もう! 魚食べてるのに!」

涙目で律が抗議する。

「好きだぞ、律」

極上の笑みを浮かべて伝えると、律は赤くなりながらそんなこと言わないでと、それこそ真っ赤に頬を染めて呟いていた。




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