上 下
4 / 55

4

しおりを挟む
私が結婚をしていた事実を知っている人は意外に少ない。何故なら周囲にお披露目する前に別れてしまったからだ。親の世代には成田離婚なるものがあったそうだが、早い話私と遥も三ヶ月しかもたなかった。

「で、あなたはどうしてまたこんな所にいるんでしょうか?」

会社を出るなり、また待ち伏せしていたらしい遥の姿を見つけ、私はうんざりしてぼやいた。昨日秋ちゃんに釘を刺されたのに、全く聞く耳を持っていない。

「明日は土曜日で仕事は休みだろう? 一度飯でも食わないか」

だからどうしてそうなるのか。あんた私よりも馬鹿だな?

「お断りします。食事する理由も必要もありません」

無視して通り過ぎればいいものを、いちいち足を止める私も悪い。でも曖昧にして物事が上手くいった試しがなかった。

「昨日は済まなかった。蒼のお母さんのことで、ちゃんと話しておきたいことがある。少しだけ時間をくれないか」

殊勝にも頭を下げる遙。私は驚いた。この男が簡単に謝るなぞ昔ならありえなかった。

「ちょっと、やめて下さい」

横を歩いていく人々の好奇の目に、私は居たたまれなくなった。当然だ。いかにもビジネスマンという体の男が、量販店のバーゲン品をまとった冴えない女に、かしずいているのだから(あくまで傍目には)。

「分かりました。とにかく移動しましょう」

会社の同僚の顔がちらほら見えたところで、私は仕方なく自分から折れた。妙な噂を立てられては困る。

「じゃあ車に」

車を停めているという、駅付近の有料駐車場まで歩きながら、遙は優し気に私をみつめた。

「元気だったか?」

ぞわっと背中が泡立った。

「大人になったな」

やめてくれ。気持ち悪い。つーかあんたは老けたわよ。

「あれからずっと実家に?」

離婚してからという意味だろう。私は無言を貫いた。本当に何の因果で、いや母親だが、再びこの男と並ぶ日が来ようとは。皮肉にも程がある。

「乗って」

案内された車は、意外にもオーソドックスな国産車だった。私は車についてさほど詳しくはないが、もっとこう厳つい外車なんかを乗り回していると思っていたのだ。

「頼むから助手席にしてくれない?」

後部座席のドアに手をかけた私に、遙は困ったように苦笑する。渋々助手席に身を沈めると、車は静かに滑り出した。高性能なのか乗り心地は悪くない。

「俺の知っている所でいい?」

「できるだけ近場にして下さい」

「了解」

遙は頷いてハンドルを右方向に切った。

ぼんやり窓の外を眺めながら、母親の話とは何だろうと考える。彼女のこれまでの暮らしは少しも想像できないが、唯一心当たりがあるとすれば、父と離婚するきっかけにもなった体調のことだ。

何にせよひとまず家に連絡を入れておかなければ。私はスマートフォンを出して文字を打った。

「桜井にか?」

一瞬誰のことかと首を傾げ、あぁ秋ちゃんのことかと思った。

「ええ」

実際はお義母さんだけれど、全員桜井なのだから嘘ではない。短いメールを送信して、スマートフォンをバッグにしまう。

「桜井とはいつから?」

こいつは何を言ってるんだと訝しんだものの、よくよく考えたら、実物としては昨日が初対面の二人。

「ずっと前。私を支え続けてくれた人です」

「そうか」

それきり遙は黙り込んだ。車だけが流れに乗るように、薄闇の中を進んでゆく。

「どこまで行くんですか?」

一時間程経過した頃、私は不安になって訊ねた。既に近場を外れている。

「もうすぐ」

前を向いて答える遙が、迷いなく更に一時間走った後、車はようやくとあるマンションの駐車場で止まった。

「ここは…」

降りるよう促され、ゆっくり地に足をつけた私は、そこで自分がどこに連れてこられたのかようやく悟った。夜で景色が分かりづらかったことと、慣れていない場所であることが裏目に出た。

「騙したわね」

隣に立つ遥をきっと睨みあげる。

「何が?」

白々しく惚ける遙。

「俺は自分の知っている所で飯を食おうと提案しただけだ。約束は違えていない筈だが? あぁ、近場ではなかったか」

くっと喉を鳴らし、さっきまでとは打って変わって性悪な空気を醸し出す。

「相変わらず甘いな、蒼」

母と義父の新居の前で、私は両の拳を握り締め、怒りでぶるぶると体を震わせていた。

しおりを挟む

処理中です...