結婚三箇条

文月 青

文字の大きさ
上 下
3 / 40

3

しおりを挟む
お世話はいらないと言われましたが、旦那様が出勤するときに寝ているのはさすがに拙いので、朝食は作らずともお見送りはしています。柿崎さんには必要ないと拒否されましたが、やってみたいという欲求が高じたので、飽きるまで続けさせてもらうつもりです。

「行ってらっしゃいませ」

靴を履いて立ち上がった柿崎さんの背中に、なるべくお淑やかに声をかけます。元気過ぎると煩がられるので、あくまで控え目に。

「髪、どうしてこの長さに?」

振り返った柿崎さんが訊ねました。私の髪は背中のちょうど真ん中くらいの長さで真っ黒です。

「母の髪がその長さなんです。綺麗なストレートが羨ましくて真似をしています」

そう答える私を、どこか懐かしそうな表情で眺めています。少なくとも私自身を通り越して、別なものを見ている目です。ピーンときました。もしや過去に似たような出来事が? もうこれはお約束の展開ですね?

「何を笑ってるんだ?」

「いえ、お気になさらないで下さい」

さすが大人は違います。きっと私の予備知識など及ばない、素敵な恋や切ない恋の経験がたくさんおありなのですね。

根本的に律儀な人なのでしょう。柿崎さんは本当に自分のことは自分で行います。食事は外で済ますか、お弁当を買ってくるようですが、洗濯も自分が使っている二階の掃除もまめにこなしています。先日トイレやお風呂の掃除も始めたので、さすがにそれは私の担当にしてもらいました。

夫婦生活においても同様で、身の危険を感じたことなど一度としてありません。挙式後に泊まったホテルでも、新婚旅行先の温泉旅館でも、並んで寝ていながら手すら握りませんでしたし、家に帰ってからも梨の礫(この表現は正しいのでしょうか)。

これでも女の子ですからね。旦那様に急に求められたときのために、清潔さを保つよう、お風呂では体を丁寧に洗っていますし、ジャージを着ていても下着だけは上下お揃いの可愛い物を選んでいます。おじさまの好みかどうかは別にして。でも待てども待てども押し倒されません。

「三十代ならまだ枯れていない筈よ。いずれ柊子の若い色香に手を出してくるわよ」

友達の真帆まほは笑って慰めてくれます。ですが一日一時間も顔を合わせない二人が、怪しげな雰囲気になることなどあるわけがなかったんですね。私は柿崎さんがどんな下着を着けているのか、ベランダに干してある洗濯物を見て知りました。ちなみにトランクスでした。

「行ってくる」

朝から大仰にため息をついて、柿崎さんは出かけていきました。やはりスーツが決まっていますね。




自室の襖がノックされたのは、その日の夜十時頃でした。真帆と電話していた私が襖を開けると、何とそこには柿崎さんが立っていました。結婚して二週間。彼が私の部屋を訪れたのは初めてです。しかも今は夜! 

「電話、いいのか?」

スマートフォンをテーブルに置いた私に問います。既に電話は切れています。たぶん柿崎さんの登場に気を利かせてくれたのでしょう。

「あんたの旦那、病気なの?」

いつまでも私が清いと知った真帆は、柿崎さんの分身に問題があるのではないかと疑っていました。でもそれは確かめようがありません。念の為実家の父に探りを入れてみたところ、恋人がいるという噂を耳にしたことはあれど、実物にお目にかかったことはないそうです。

「分かった。あれよ。旦那さんは男じゃないと駄目なのよ」

そうくるような予感はしていました。真帆の好きな世界ですものね。でもいかんせんその後がよろしくありません。

「きっと柊子のお父さんが好きなんだわ」

実は柿崎さんは私の父が好きで、想いを叶えられない辛さから、私を身代わりにしたのではないかというのです。身代わりの設定は萌えますし、斬新な見解だとは思いますが、正直想像の限界を超えています。そんなふうに悶々としているところに、ちょうど柿崎さんが現れたわけです。当然急展開を予想しますよね。

「大丈夫ですよ」

どきどき胸を高鳴らせる私に、柿崎さんは顔色一つ変えずに宣いました。

「そうか? 電話が繋がらないから、仕方なく来たんだが」

泣いてもいいでしょうか。そういえば柿崎さんは用事があるとき、同じ家にいながら私に電話をかけてきます。世の中には携帯電話という便利な物が普及しているので、利用するのは大いに結構なのですが、この時間に妻の部屋を訪ねて仕方なくは酷いです。

「井坂部長、あぁ、お義父さんからなんだが」

鉄壁の三箇条が父の背中に重なります。真帆さん、私沈没しそうです。




しおりを挟む

処理中です...