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そのじゅうなな

リシェ、元の世界の主人に捕まる

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 授業で使用したグラウンドの備品を戻し終えたリシェは、人気の薄い通路を通って教室に戻ろうとしていた。季節は夏場を超えて穏やかな日差しが差し込む秋。
 少しずつ落ち葉も目立ち始め、落ちていた葉も前回先輩方に呼び出されてかき集めた時よりも集まりやすい量になっていた。
 秋色に染まった葉を踏む度に、パリパリと耳触りの良い音が聞こえてくる。もう少ししたらもっと肌寒くなるだろう。
 ひょこひょこと黒髪を揺らしながら進んでいると、不意に地面から何かがぶわりと湧き上がってきた。眼前に広がる黒い繩のようなものが出現したかと思った瞬間、リシェの身はその縄に捕らえられてしまう。
「わ、わ!!何だこれは!?」
 良く見れば頑丈な縄で作られた袋に入れられていた。ぐい、と引き上げられたかと思うと、そのまま一気に宙に浮かんでしまう。
「捕まえましたよ、リシェ!!」
「!?」
 嬉しそうに歓喜の声を上げたのは白衣姿の保健医ロシュ。
 彼を上から見下ろす形になったリシェは、思わず「ひぃいいい!」と情けない叫び声を発していた。
 顔面偏差値の高い保健医は、目的の獲物を捕まえた事に対して得意気な様子で「やっと二人きりになれましたね!」と語りかけてきた。
 一方のリシェは頭のおかしいイメージしか無い相手の出現に恐怖を覚えてしまう。
「嫌だあああぁ!何だあんたは!!」
 ロシュは満面の笑みを浮かべながら、自分の手の内に入り込んできたリシェを見上げて恍惚感に浸る。
「何だか今日はあなたと会える気がして…だからこうして確実にあなたを捕まえる方法を取らせて頂きました!私の手中に収まったあなたを沢山愛でて差し上げたい!はぁああ、可愛い、可愛い…」
 勝手に自分の世界に入り込むロシュを見下ろしながら、リシェはふるふると首を振り震えた。
 わざわざその為に罠を仕掛けるとは。
「降ろせ!!」
 木に括られた黒い網袋の中でリシェは怒鳴る。
 想像以上に暴れる相手に、ロシュは困ったように「おやおや」と呟く。
 記憶が完全に飛んでいるとはいえ、自分への拒否反応が凄い。
 こちらでは完全に他人のような目で見ているのだろう。そう思うと、ちょっと悲しくなる。
 だがこうして完全に捕らえた今、どうにかして思い出して欲しいものだ。
 自分と一緒に居れば、自ずと思い出してくれるだろう。
 元の世界に居た時の愛に溢れた日々を。
「私とあなたは運命共同体なのです!今から思い出させてあげますからね、リシェ!」
「気色悪い事を言うな!!そんなのどうでもいいから降ろせ!」
 リシェはリシェで、彼が何を言っているのかさっぱり分からずに元の世界の主人に対し暴言を吐き続けていた。
 いきなりこのように捕まえられたので無理は無い。混乱し過ぎてか、教師に対する発言の仕方を忘れてしまったようだ。ひたすら降ろせと命令している。
「うむむ…」
 あまりのリシェの豹変ぶりにロシュは内心困惑した。
 自分に尽くしていた彼が、ここまで変化するとは思いもしなかったようだ。思い出させるには相当時間が掛かりそうだ。
「リシェ、私の顔に見覚えは無いですか?」
 そう問いかけるも、相手は頭に血が昇ってしまって顔を真っ赤にしながら「知るか!!」と怒鳴ってくる。
「次の授業が始まるだろうが!!早く降ろせ!!」
 可愛らしい顔からは予想もつかない乱暴な言動。
 ロシュはぶら下がっている袋の中のリシェを見上げながら「困ったなぁ」と苦笑した。
「この木の横はちょうど保健室なんです」
「は…?」
「このままあなたを放置してぶら下がっているのを愛でてもいいのですけど、それはそれで問題になりそうですからねぇ…あなたの担任のオーギュスティンもうるさいだろうし。ううん、授業もあるしなぁ。勿体無いなぁ」
 ロシュが勝手に一人で悩んでいる最中、リシェはぐぬぬと奥歯を噛み潰していた。
 意味不明に捕まえられて運命共同体とか気分の悪い事を言われる事に対して相当苛立っている様子だ。しばらく時間を置いていると、授業開始の予告の鐘が校舎に鳴り響く。
 その音に反応して顔を上げると同時に、するすると地面に降ろされていった。
「はぁ…もっと時間があればなぁ」
 残念そうに溜息を吐くロシュは、素直にリシェを解放した。
「勿体無いけど学生は勉強が第一ですからね。今回は解放して差し上げましょう」
 網袋の口を開き、リシェに纏わり付いている網を払い除けると彼はその華奢な体をぎゅううっと抱き締める。
「ぎゃああああああああ!!」
 まるで中身が出そうな勢いの悲鳴が響き渡っていく。
「そのうち思い出させてあげますからね、リシェ」
 リシェはロシュの体をドンと押し退けると即座に立ち上がった。そして半泣きになりながら「嫌だ!」と喚いた。
「思い出しても速攻忘れてやる!!」
 怒りと恥ずかしさと悲しさがごちゃまぜになるリシェは、元の世界の最愛の相手に対し暴言を吐き捨てると、うわあああと泣きながら走り去ってしまう。
 おやおや…とあまりの豹変振りに驚くロシュ。
 まさかここまで拒否されてしまうなんて。
 寂しい気持ちになるが、駄目だと言われれば余計したくなる性分である彼は、何としても彼を手中に収めてやりたいと不敵な笑みを浮かべていた。
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