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そのさんじゅう

かきぞめ

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 年が明けてしまいましたよ、とロシュは休暇にも関わらず仕事の用があって職員室で仕事をしていたオーギュスティンに言いだした。書類とにらめっこ状態の彼は、そうですねと無難な返事をする。
 味気ない返事が不満だったのか、ロシュはむぅっと頰を膨らませながらそれだけですかと続けた。
「折角新しい年になったというのに」
「そんなに両手を広げて大喜びする年齢でも無いでしょう。私は忙しいのです。見て分かりませんか?空気を読んで下さいよ」
 そもそも保健医である彼が何故休暇中の学校でうろついていたのだろう。
 余程暇だったのだろうか。
 鬱陶しげにオーギュスティンはわざわざ隣の空いている席に座って語り出してくるロシュに突き放した言い方をしてやり過ごす。
「遠い異国の地では新年に墨が付いた筆で書き初めをするらしいのです」
 そして聞いてもいないのに勝手に語り出してくる。
 黙って仕事の手を緩ませずに、彼の話を聞いていた。
「めでたい言葉とか今年の目標とか…薄い紙にね、大きく力一杯書くようですよ。風情がありますよねえ」
「はぁ」
 一体何が言いたいのだろう。
 ロシュは事務用の椅子をぐっと軋ませながら、「私も書いてみようかなあと考えているのです」と言い出す。
「書けばいいじゃないですか。どうせ暇なんでしょう?」
 何げに馬鹿にしたような言い方だったが、オーギュスティンの嫌味は完全に慣れ切っている為かロシュは見事にスルーしていた。
「暇というか何というか」
「何ですか?」
「私が実家に帰るとね、家のお手伝いさん達がどうやら感激して涙を流して、人によっては失神または失禁、嘔吐するらしいので帰ってきて欲しくないと言われるんですよ。面倒事が増えるってね」
「………」
 お前は一体何なんだ、と思わず顰めっ面でロシュに目を向けてしまった。
「実家でも嫌がられているのですか?可哀想に」
「嫌がられているんでしょうかねえ?まぁある意味嫌がられているのかもしれません。お手伝いさん達が挙って私のお世話を焼きたがるので」
「何だ嫌味か。モテ自慢なら余所でやって下さいよ鬱陶しい」
 そう吐き捨てて再び仕事にかかる。
「まぁ、それはいいのですよ。今私が言いたいのはその書き初めの中身です。書くとしたら何を書こうかなぁって思って」
「別に、好きな事を書けばいいじゃないですか」
 彼に付き合っている時間ですら勿体無い。
 書きたい言葉を黙って書いて満足すればいいだけなのに、何故こちらに話題を振ってくるのだろう。
「ではリシェに対して愛を貫く言葉を書き初めにしてもいいですか?」
「馬鹿じゃないですかあなた」
 ロシュの脳味噌が蒸発したような発言に、オーギュスティンは反射的に暴言で返してしまった。
 一介の教師が生徒への一方的な愛の発言を書き初めたいとは、恥も無いのかと。
「やめて下さい本当に。何考えてるんですか変態」
 しかしロシュは好きな事を書けと言ったじゃないですかとむくれた。
「相手の事を考えてから発言しなさいよ。絶対嫌がられます。気持ち悪がられます。人が嫌だと思う事を進んでやるのはやめなさい。分かりますか?私が言いたい事。分からなければ小学校の道徳から見直した方がいいです」
「…そんなにまで迷惑でしょうかね?」
「あなたが部屋で一人で書いて誰にも見せなければ何も言いませんよ。ですが私にそんな薄気味悪い趣味を剥き出しにしながら嬉々として話しかけて来ないで下さい。私は生徒を守る立場なんですから」
 ロシュが変な事を言えば言う程、オーギュスティンは警戒しなければならない。
 懇々と説教され、ようやくロシュは「分かりましたよ」と言った。
「では違う言葉にしますよ。…うーん」
 勝手に一人で悩め、とまた仕事に取り掛かる。
「そうだ、性欲とか愛欲とかどうですかね?」
 …だめだこいつ。
 全く分かっていないようなロシュの発言に、無言でオーギュスティンは机に置いてあった辞書を引っ張り出し放り投げた。どういう思考回路を経て変な言葉を導き出すのだろうか。
 わわ、と飛んできた書物を受け取るロシュ。
「貸してあげますからそれで言葉を選びなさい!」
 私に無駄に話を振るな!と怒りだした。
 ロシュは「怒りっぽい人だなあ」と困惑する。
「誰のせいだと思ってるんですか!」
 文言を決めてさっさと帰って欲しい。とにかく仕事の邪魔だ。
「沢山あるなあ…」
 オーギュスティンから受け取った辞書をぱらぱらと捲るロシュは、出来るだけ妖艶な言葉を選びたいと悪びれずに呟いていた。
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