上 下
80 / 101
そのななじゅうきゅう

パン女

しおりを挟む
 リシェはちょっとした買い物の為に単独で街に出ていた。
 稀に見知らぬ人物から声を掛けられる事もあったが、無視するか逃げるかを繰り返しつつ、一番の目的地である文房具屋に辿り着く。
 そしてそこでしか購入出来ないペンを手に入れた後すぐに寮に戻ろうと来た道を引き返そうと踵を返していると、「あぁ!」と叫ぶ少女の声が耳に入ってきた。
「あんた、あの時の!」
 その該当するあんたが自分に向けられたものではないと思っていたリシェは、声を無視して引き換えそうと歩き出す。
 しかし背後からぐいっと肩を掴まれ引っ張られてしまった。
「ぎゃあ!」
「あんたに言ってるんだけど!!」
 ええ?とリシェは困惑しながら背後を振り向く。
 そこには違う学校の制服を着た少女が呆れた表情でこちらを見ていた。リシェは首を傾げ、んん?と眉を寄せる。
「誰だっけ…」
「覚えてないの!?」
 どんだけ記憶が無いのよ、と一言無駄に言い放つ。
「パン屋で会ったでしょうよ!分けてくれたじゃない!」
「あ…あぁあ、思い出した」
 そこでようやく大きなヒントで思い出すと、リシェは相手をじろじろと眺めた。そういえばこんな女だったな、と。
「あの時の女か」
 うっかりパンを強奪された事を思い出して盗っ人女と言いそうになるのをぐっと押さえる。ちゃんと金銭も受け取ったのでこれ以上は咎める事は不要だ。
 だが、名前を聞いたはずなのにすっかり忘れてしまった。
「そう。またパンでも買いに出てきたの?」
「いや、欲しいペンを買いに来ただけだ」
「ふぅん…パンじゃなくてペンね…あんたの学校、文房具も売ってないの?」
「売ってるけど使いやすい物が無いんだ」
 その為にわざわざ外部に出るんだ…と彼女は思った。
 会話している最中、リシェは相手の名前を思い出そうと必死になっていた。姿は覚えているのに肝心の名前が出てこず、思い出すのに苦心してしまう。
 どうしても盗っ人女のイメージが強過ぎて、名前以前にそのフレーズが出てきてしまうのだ。
 早く思い出さないと失礼になってしまう。
「そういえば一緒に居た背の高いイケメンは何処に居るの?あんた単独でここまで来たの?」
「背の高いイケメン…?ラスの事か?あいつは普通に置いてきた」
「そうなの?やたらとあんたにべったりだったから一緒に居るもんだと思ってたわ」
 ここまで話をしていても一向に相手の名前が出てこなかった。
 リシェは渋い顔をしながら彼女を見ると、「何か用事があったのか?」と問い掛ける。
 せめて名札でもあればいいのだが、今は個人情報が云々で名前の付いた物は公に出せなかった。一番いいのは自ら名乗ってくれるのが一番だが、彼女はそこまで気の利いた感じでは無さそうだ。
「で、この後は?どうせ暇なんでしょ?」
「ひ、暇じゃない…」
 名前も思い出せないままなのに、そんな相手と延々付き合うのは正直しんどい。元からさっさと帰るつもりだったので出来るなら早く帰寮したのが本音だった。
 だが少女はにっこりと微笑むとリシェの腕を引っ張る。
「見る感じ何も無さそうだからちょっと付き合ってよ」
「ええ…?い、いやだ」
 いきなりの誘いに、思わずリシェは拒否の言葉を呟いていた。

 お帰りなさーい!と帰寮し部屋に戻ったリシェを、ラスはにこやかに迎え入れる。だが彼の左の頰にくっきりと手の痕がついているのを見て、ぎょっとしてしまった。
「せ、先輩!何ですかそれ!?」
「………これか」
 ぐったりしながらリシェは痕の付いた頰に手を当てた。
「単にぶん殴られただけだ」
「誰にですか!何て酷い事を!」
「ほら、あの…パンを強奪した女に…」
「あー!リゼラちゃんだっけ!会ったんですか?」
 そこでやっとリシェは目を輝かせる。
「そうだ、そいつだ…リゼラって名前だったんだな。やっと思い出した…中々思い出せなくて、そいつの事をパン女って呼んだらめちゃくちゃ激怒されたんだ」
 そしてビンタをされてしまった、と。
 ラスは半笑いで「さ、災難でしたね…」と返す。
「何もあそこまで怒らなくてもいいじゃないか…盗っ人女って呼ばれるよりは何倍もマシだろうに」
 そう言い、リシェはしょげる。
 彼はリゼラにパンを強奪された記憶が相当強かったらしい。
 確かに無理も無いかもしれないが、ここまで全く思い出せずにいたのも変な話だ。最後、ちゃんと名乗っていた彼女が怒るのも無理も無い気がする。
 流石に相手の名前は覚えましょうよ、と言いながらラスは彼の頰を優しく撫でていた。
しおりを挟む

処理中です...