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3巻
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お父さんやお母さんが生きててくれたらなあ……
佳乃は、夜更けのベッドで眠れないまま、空に浮かぶ月をカーテンの隙間から見ていた。
原島邸のそれぞれの部屋に掛けられているカーテンは、どれも重く遮光性の高いもので、閉めてしまえば部屋の中は夜の底のように真っ暗になる。
そのあまりにも人工的な暗さが嫌で、佳乃はいつも少しだけ隙間を空けておく。
二人が寝室をともにするようになった当初、真っ暗な中で眠ることに慣れていた俊紀は、わずかな灯りにも文句を言っていたが、すぐに何も言わなくなった。今も彼は、佳乃に腕を貸したまま、穏やかな寝息を立てている。
夜を費やす男女のあれこれに佳乃が照明の存在を喜ぶわけもない。それならばたとえ月や星の微かな灯りでも、ないよりはましだと思ったのかもしれない。佳乃は、明るすぎるのは嫌だけれど、月明かりの中で見る俊紀の姿は気に入っていたし、俊紀もきっとそうなのだろう。
窓から部分的に見える月に、流れていく雲が薄くかかる。その速さから、窓の外、あるいは上空では相当強い風が吹いているのだとわかる。
ちょっと私の心模様みたいだ……などと思いながら、佳乃はその様を見ていた。
和子の問題は常に心にのしかかっている。和子が佳乃と話すらしてくれない現状では、待つことしかできないとわかっている。だが、わかっていても、その重さが減るわけではない。こんなとき、母が生きていてくれたら、愚痴の一つも零せるだろうし、何よりも和子と同じ母という立場から参考になる意見をくれたかもしれない。それなのに、母はもうとっくにあちらの世界の人。今頃は父と仲良く研究三昧でもしていることだろう。
そう、父にしても……と、佳乃はまた一つ、ため息を重ねる。
あの会場、入り口から祭壇までどれぐらい距離があるのかな……お父さんがいない花嫁は、誰と一緒にバージンロードを歩くのが一般的なんだろう……。俊紀さんは……やっぱりパスだなあ……
教会式で、新郎新婦が同時に入場することもあるとは知っていた。実際に、早くに父親を亡くした佳乃の友人も、新郎と共に入場した。けれど、佳乃はそれを避けたいと思っている。
神前や仏前の場合と違って、教会のバージンロードには明確な意味があると聞いた。
それは新婦の歩んできた人生を表す。だからこそ、両親、あるいは兄弟、それ以外でもとにかく新婦の人生に深く関わり、大事に育んでくれた人と歩く。
そうして祭壇の手前で待つ新郎のもとに辿り着き、祭壇までは新郎新婦が一緒に歩む。これ以後の人生をずっと一緒に歩く、その第一歩として……
そう考えると、最初から新郎新婦で入場するというのはちょっと違う……と佳乃は感じるのだ。
父も兄も祖父もいない。付き合いのある親戚は宮原の祖母だけだが、彼女がそんな役を引き受けてくれるとは思えない。エスコート役を頼めるほど親しい男友達もいない。となると、佳乃は一人で俊紀が待つところまで歩いていくしかなかった。
教会いっぱいに詰めかけた参列客やマスコミの中、会場中の注目を集めて一人で歩くのは度胸がいる。
どこかから招待客の目を引きそうなかわいい女の子でも連れてきて、フラワーガールとして先導させるという手もないではないが、そんな女の子にも心当たりがない。
数少ない佳乃側の招待客として参列予定の橘佳樹・瑞穂夫妻。その愛児、美弥は女の子と言えば女の子であるが、彼女はまだ独立歩行すらままならない。何より、きれいな花びらが満載された籠を見たら、花嫁などお構いなしでそこらに撒き散らかすか、美味しい何かと勘違いして口に突っ込むことだろう。想像するだけで楽しくなってしまうけれど、やっぱりそれもパスだ。
いや……まてよ、いっそ佳樹さんに……と思った瞬間、俊紀のしかめっ面が目に浮かんだ。
無理だよね……俊紀さん、絶対認めてくれない……
あの二人は、似たもの同士の近親憎悪としか思えない対立関係にある。そして橘夫妻が佳乃を匿ったことへの恨みを俊紀が忘れるわけがない。花婿側と花嫁側の招待人数のバランスがあまりにも悪く、少しでも佳乃側の客を増やすために、橘一家を招きたいと佳乃が言ったときですら難色を示したのだ。
せめてお父さんとお母さんが生きていれば、もう少しバランスがとれたのになぁ……
けれど、もしも両親があんなに早くに逝くことがなければ、佳乃はバイト三昧の生活を送ることもなく、ハウスクリーニングのアルバイトをすることもなかった。
原島邸の清掃に臨時で入ることも、困っていた宮野を助けて夜食を作ることも、その後俊紀と会うこともなかった。そう考えれば、両親を恨むというのはなんだか罰当たりな気もする。
だったらもういいや……独立独歩は谷本家の家訓だし、祭壇までひとりで歩くぐらいなんてことない。右足と左足を交互に出しさえすれば、ちゃんと辿り着くはずだ!
そして佳乃は、衆人環視の中、バージンロードを一人で歩く覚悟を固めた。
* * *
結婚式当日、佳乃は例によって門前の着せ替え人形状態で、早朝からメイクだのヘアセットだの大騒ぎだった。和装ならヘアセットなんていらなかったのに……という佳乃の泣き言を聞き流し、門前は佳乃を親睦会など比べものにならないほど見事に飾り立てた。
やっと支度が終わって、佳乃が控え室でやれやれと一息入れているところに、親友の田宮朋香が顔を出した。
「うわー、化けたねえ佳乃!」
フル装備の佳乃の姿に、朋香はとても褒め言葉には聞こえない声を上げる。
聞くところよると、俺様総裁はここぞとばかりに佳乃を飾り立てたがり、ウエディングドレスにもダイヤや水晶といった宝石を使うことを提案したそうだが、そんなことをすれば、例によって佳乃が「保険かけてーーー」と大騒ぎすることは目に見えていた。そのため、門前は佳乃に相談するまでもなく却下したらしい。
「宝石なんかで飾り立てなくても、俊紀様の花嫁は世界一の輝きです」
という、聞いた人間が背筋が痒くなって身もだえしそうなことを言った門前に、俊紀は平然と「当たり前だ」と返したというのだから、いったいあの男はどこまで病んでいるんだ状態。
いずれにしても、逃亡、誘拐もどき、事故、そしてまた逃亡――と、その全てを乗り越えて、さらに俊紀という世界で一番愛しい男の子どもを宿している今、輝くなと言うほうが無理ではあった。
朋香は長年の親友の晴れ姿をじっくり確認したあと、「ブーケトス、ちゃんと私を狙って投げてね!」と念を押して控え室から出ていった。
「花嫁様、そろそろお時間でございます」
佳乃の支度をサポートしてくれた式場の女性職員が声をかける。
佳乃は、控え室の椅子から立ち上がり、存分に広がった裾に気をつけながら示された方向に歩き出した。
何度となくホステス役をこなした原島邸親睦会のおかげで、ロングドレスには慣れている佳乃だが、さすがにこのウエディングドレスの裾には苦労させられる。もともと決めていたマーメイドラインのドレスと違って、今身につけているのは、スカートの内側に子どもの一人や二人隠してしまえるほどのプリンセスライン。
歩くだけでも四苦八苦していた佳乃は、結婚式場の中に設けられた教会に辿り着くまで、扉の前で待っている男の姿に気がつかなかった。
「佳乃様、本日はおめでとうございます」
いつもどおりの穏やかな笑顔が佳乃に向けられていた。
「宮野さん……!」
「俊紀様に、本日佳乃様を祭壇までお連れする役を仰せつかりました」
式場のコーディネーターも、孝史も、そして俊紀本人も、バージンロードを一緒に歩くエスコート役の心配をした。
その役を任せられる人間が一人もいないと知った孝史などは、いっそ自分が……とまで言ってくれたが、佳乃はその頃にはもう一人で入場する覚悟を決めていた。なので、そもそもエスコート役は花婿の父親が務めるものではないし、花嫁一人で入場っていうのも外国映画みたいでかっこいいじゃないですか、とその問題を片付けてしまった。
けれど、式の時刻が迫ってくるうちに、やはり不安は高まり、足が竦みそうになっていたのだ。参列者の尋常ではない数も、佳乃の緊張に拍車をかけた。その不安と緊張が頂点に達しそうになっていたところで、宮野の穏やかな笑顔が待っていてくれた……
「私などが畏れ多いとご辞退申し上げたのですが、俊紀様がどうしても、とおっしゃられまして……分不相応は重々承知しておりますが、私が務めさせていただいてよろしいでしょうか?」
* * *
宮野が、佳乃のエスコートを頼まれたのは前日の夜、それもかなり遅い時間になってからのことだった。
明日は早いし花嫁はあれこれ大変だから、と先に佳乃を休ませたあと、俊紀は宮野を書斎に呼んだ。
「佳乃のエスコート役を頼みたい」
滅多にない深夜の呼び出しに、何事かと身構えていた宮野に、俊紀はあっさりそう言った。
「そんな畏れ多いこと……」
と、宮野はすぐに断わろうとしたが、俊紀はさらに言葉を重ねる。
「佳乃は、一人で大丈夫だと言っている。だが、あれはおそらく強がりだ。実際、あの役を務められる人間は佳乃の血縁の中にはいない。付き合いのある男の親戚なんて一人もいないんだからな。友人の中には一人ぐらい男もいるんだろうが、それは私が嫌だ」
佳乃の友人に男がいるかどうか確認したことはないが、佳乃の性格を考えれば女性よりも男性とのほうが気安くつきあっていたのではないかと思う。
少なくとも柔道関係の男友達は先輩後輩を含めてたくさんいるはずだ。ただ、その連中とは、佳乃が原島家と関わるようになって以降ほとんど会っていないだろう。そうなるように俊紀が計らったのだから当然である。各種コンパ、同窓会、打ち上げ……軒並みキャンセルあるいは途中退場になるようにあらゆる手を使った。
俊紀のまったくもって卑劣な努力の結果、学生時代からの友人、特に男性で今も交流があり、花嫁のエスコートを頼めるような人物は皆無だと思われた。
唯一の例外は、つい最近知り合ったあの国際弁護士ぐらいである。橘佳樹は、佳乃たっての希望で一家揃って結婚式に参列することになっていたが、彼に佳乃の手を取らせるなんて考えただけでも腹が立つ。橘夫妻が佳乃を匿ったことへの怒りは今も消えていない。しかも、あの男の容貌はあまりにも整いすぎている。絢爛豪華と言われるルックスを持つ俊紀ですら、これは敵わない……と思わせる悪魔的美貌。いくらあの男が妻子持ち、かつ妻を溺愛していることが明白でも、あんな男を佳乃の隣に並ばせるなんて冗談じゃない。
というよりも、本当はどんな男も佳乃の隣に並ばせたくないし、指一本触れさせたくなかった。
もてあますほどの独占欲は、出会った日から少しも薄れていない。それどころか日々増大中である。
だが一方で、結婚式を前にして自分の不安を押し殺しているに違いない佳乃のために、なんとかエスコート役を用意してやりたいという気持ちも嘘ではない。
どうしても、誰かに佳乃を託さねばならないならば、佳乃が原島邸に現れたその日からのつきあいである宮野しか考えられなかった。
年格好もふさわしいし、宮野が佳乃に向ける感情は、ほとんど親が子どもに向けるものと同じだ。
宮野に頼もう……それが一番だ。俊紀はそう決断した。
「というわけだ。私のためでもあると思って引き受けてくれないか」
「いや……でも、それはやはり……」
宮野は俊紀の心情を聞いたあとでも返事を渋った。宮野は長年使用人頭として原島邸を仕切ってきたが、人前に出るのは苦手だった。孝史から俊紀に代替わりし、佳乃が来るまでの間は、不在がちな主の代わりに原島邸の全てに目を配ってきた。だがそれはあくまでも裏方、縁の下の力持ち的な意味合いである。主を差しおいて表に出たことなど一度もない。
しかし、結婚式で佳乃のエスコート役を務めるとなると話は違う。客が佳乃に注目すれば、当然その隣にいる自分も見られることになるのだ。どう考えても自分に向いた仕事ではなかった。
「嫌だって言ってるじゃねえか。年寄りに無理強いはよくねえぞ」
そこにいきなり割って入ってきたのは、大澤だった。
話は全部聞いたぜ! と言わんばかりの、刑事ドラマのラストシーンさながらの登場に、俊紀も宮野もあっけにとられる。次の瞬間、我に返った俊紀が言った。
「お前、いったいどこで聞いてたんだよ!」
「この屋敷の中でのやりとりは全部俺が聞いてるってことぐらい知ってるだろうに。あ、心配しなくても、あんたと姫さんの甘ったるいあれこれは別だぞ」
そこまでの覗き根性はないし、あんなくそ甘い会話、耳が勝手にスルーするからな……と大澤は笑う。
怪しいものだと思いながらも、事実を確認することはかえって自分の首を絞める、と判断した俊紀は、その点についてはスルーに徹した。
「私だって、佳乃が不安に思わなければこんなことは頼まない。だが、佳乃は実際に不安を感じている。それを口に出さず、ただ耐えている佳乃を見ていたくないんだ」
「まあ、それは言える。その状態で放置すると、またどこで弾けて飛び出すかわかったもんじゃない。こっちが気がついてなんとかしてやらない限り、人知れずどこまでも堪え忍ぶからな、あの姫は。まったくはた迷惑な性格だ」
「だろう? だから……」
「だからって別に、宮野のじーさんじゃなくてもいいだろう? 目立つ役どころは苦手だろうに」
大澤の台詞に、宮野は大きく頷く。なかなか力強い援軍だ、とでも思っているのだろう。
「他に誰が? あと頼めるとしたら、厨房の奴らぐらいなものだが……」
山本にしても松木にしても、佳乃とのつきあいは長い。だが当日は結婚式と披露宴の後、招ききれなかった者たちのために原島邸で二次会がおこなわれる予定になっていた。二次会と言っても、招待客は親睦会と変わらないぐらいの人数なので、彼らはその支度でてんやわんやだ。
佳乃たっての願いで、二人とも結婚式にこそ参列はするが、頭の中は料理でいっぱい、花嫁のエスコートを引き受けられる精神的余裕などないに違いない。
そのあたりの事情もちゃんと知っている大澤は、あっさり俊紀に同意した。
「ああ、あいつらは無理だな。頭の中、カナッペやらローストビーフやらでいっぱいだろう」
「だから他にいないんだ」
「いーや、最適な人間が残ってるぜ」
「誰だ?」
「俺」
大澤は親指で自分の胸を指さし、にやりと笑う。そのあまりにも挑戦的な眼差しに、一瞬にして俊紀の頭に血が上った。
「却下だ!! とんでもない!!」
「なんでだよ。俺だったらボディガードも兼任できて安心安全だぜ」
「どこが安心だ! お前なんかに任せたら……」
そのとき俊紀の頭の中に浮かんだのは、古い映画さながらに手に手を取って教会から走り去る佳乃と大澤の姿だった。
俊紀に嫌がらせをするのが趣味、なおかつ佳乃贔屓のこの男にエスコートなど頼んだら、入り口の扉が開く前に、花嫁を連れてどこかに逃げてしまうのではないか……
はっきりと焦燥を浮かべる俊紀。宮野はそんな主の様子に不安を隠せなくなる。そんな二人に大澤は、我関せず、とばかりに言った。
「ま、あんたの心配が現実化する可能性は五分五分ってとこだな」
「ふざけるな!!」
怒号とともに俊紀は、大澤に掴みかかろうとする。そんなことさせてたまるか!! と言わんばかりの必死の形相が痛ましいほどだった。
「絵になるだろうなあ……この俺と手をつないでドレスの裾をなびかせて走り去る姫さん」
ドレスで走りにくいかもしれないし、そもそも妊婦だから姫さんだっこに切り替えてやってもいいなあ……とまで言う大澤に俊紀はますます色を失う。とうとう耐えかねた宮野が叫んだ。
「わかりました! 私がお引き受けします!!」
「おう、よろしくな!」
その返事の早さに俊紀も宮野もあっけにとられた。しばらく呆然と顔を見合わせたあと、同時に笑い出す。
「やられました……」
「お前という奴は……」
最初からそのつもりで話に入ってきたのか、こいつは。
俊紀は、大澤の企みにまんまと乗せられ、彼の目論見どおりに焦ったり顔色を変えたりした自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。
大勢の招待客の前で花嫁をエスコートするなどという目立つ役どころを、大澤が自ら引き受けるはずがない。縁の下の力持ちという意味では、緊急対策班の班長なんて使用人頭以上だ。
それなのに、いかにも喜んで引き受けて、ついでに花嫁も強奪してやると言わんばかりの会話を展開した。
そうすることで俊紀は焦り、そんな主を見ていられないに決まっている宮野は、それぐらいなら自分が……とエスコート役を引き受けるだろう……。そんな大澤の読みは見事に的中した。
「姫さん泣いて喜ぶぞ。頼んだぜ、じーさん」
宮野の肩をぽんと叩いて、大澤は来たとき同様、唐突に部屋を出ていった。
* * *
「というわけで、私がお引き受けすることになったのです。申し訳ありません、佳乃様」
「とんでもない!! 私、すごく嬉しいです!!」
ありがとう、俊紀さん、大澤さん、そして……宮野さん。
自分を、あの原島邸にアルバイトに行った最初の日からずっと見守り、支えてくれた宮野。
その宮野に導かれ、これからの人生をともに歩む俊紀のもとに向かう。
大澤はそんな佳乃の姿を、どこかの物陰から見守っていてくれるはずだ。
結婚式に出席する緊急対策班員はいない。言うまでもなく、全員が最上級の警備体制の中で、あらゆる危険に備えることになっていた。
けれどきっと誰もが、自分の役割を忠実に果たしながらも、俊紀と佳乃の幸せを祈ってくれることだろう。
俊紀と自分が今日という日を迎えられたのは、原島邸に関わるすべての人のおかげだ。佳乃は改めて感謝せずにはいられなかった。気持ちが高ぶり、こらえきれなくなって涙が流れ出す。
最初の一粒がこぼれてしまったら、あとはもう止まらなかった。
「あーもう、泣いちゃだめだって言ったのに!!」
門前が慌てて飛んできて、自分のハンカチで佳乃の目元を押さえてくれた。けれど、流れ始めた涙はいっこうに止まらず、とうとう門前はため息とともに諦める。
「もう、仕方がないわねえ……まあ、お化粧が崩れようがウサギ目になろうが、俊紀様はあなたが祭壇に到着しさえすればご満悦なんでしょうから、諦めることにしますか」
この涙に潤む瞳を見たら、俊紀様は式なんてそっちのけで寝室になだれ込みかねないわね、と門前は苦笑する。
宮野も、そこはなんとか理性を堅持していただきたいものですね……なんて笑いながら、そっと佳乃の手を取る。
そして二人は、大きく開かれた扉を抜けて、祭壇へと続く長い通路に足を踏み出した。
* * *
誰もが知っている行進曲が教会の中に響き渡り、宮野に手を取られた佳乃が歩いてくる。
真っ白なウエディングドレスに身を包み、長い裾を引いて、一歩また一歩と自分に近づいてくる佳乃。
俊紀はその姿を見守りながら、これまでの日々を思い返す。
初めて会ったとき、佳乃は二十一歳、俊紀は三十歳だった。
一匙で俊紀を虜にしたあのリゾットを作ったのが、アルバイトの学生だと聞いたときは驚いた。
もっとちゃんと料理の修業をした人間の手によるものだとばかり思っていたのだ。いったいどんな学生だろう、と興味を覚え、無理矢理呼び出して会うことにした。
もしも佳乃に少しでも浮ついたところや、俊紀に媚びるようなところがあったとしたら、二人の関係はまったく違ったものになっていただろう。彼女の作るリゾットは欲しいと思ったかもしれないが、彼女自身を寄せ付けることはなかったはずだ。
ところが、あの日、原島財閥総裁である自分を前に、佳乃はあからさまに迷惑そうな顔をした。
それまでとは段違いの時給を餌に、原島邸に専属で雇い入れると言った俊紀を、毛虫でも見るような目で見たのだ。出会ったことのない種類の視線に、俊紀はたじろいだ。もちろん、そんなことは毛ほども匂わせなかったけれど……
そんな目で見られたことが、かえって俊紀の好奇心をそそったのも事実。自分に逆らうものなど許せない、という気持ちと、純然たる彼女への興味が佳乃を原島邸に引き込ませることになった。
俊紀が自分の感情にがんじがらめにされるまでは、あっという間だった。三十歳の男が二十一歳の学生に惹かれるなんてほとんど恥ではないのか、と思ったこともあった。
だが、それもすぐに、どうでもよくなってしまった。俊紀に反感を抱きながらも、教えられることは素直に学び、それを高めようと努力する姿は、俊紀がずっと前に忘れてしまった何かを思い出させてくれた。
佳乃との間で交わされる会話は、往々にして思いも寄らない方向に発展し、時にはそのとんちんかんぶりに笑い出さずにいられなかった。規則正しい、だが静かすぎてどこかつまらなくさえ思えた原島邸での暮らしは、佳乃によって一転した。
ずっとそばにいてほしい。この存在を自分のそばに置き続けるためならなんでもする。
その決意から五年、ようやく身も心も自分のものにして、これで大丈夫だと思った矢先に起きた事故。俊紀は意識不明となり、その間に起こったあれこれによって、佳乃は俊紀のもとから逃げ出した。
その佳乃を捜し出し、連れ戻してようやく漕ぎ着けた今日という日。教会の入り口から祭壇まで続く長い通路は、二人が結ばれるためにかかった時間の象徴だった。
彼女の感情が育つのをひたすら待って、少しずつしか進めなかった、進むことを許されなかった日々。ゴール直前まで来ていながら、また後ずさりして逃げ出した佳乃に心を裂かれる思いだった。
逃げ出した佳乃自身も同じぐらい心を痛めていると信じていなければ、とても耐えられなかっただろう。
だがそれはもうすべて過去のこと。あんな日々はもうやってこない。これからは、いつだって佳乃は自分のそばにいるし、二度とどこへも行かない。それは、ゆっくりながらも、着実に自分に向かって近づいてくる佳乃の足取りから見て取れた。
俊紀のすぐ前まで来て、宮野が足を止めた。
佳乃がほんの小さく「宮野さん、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」と囁く声が聞こえた。その声で、宮野の控えめな笑みが嗚咽に変わる。
彼は、佳乃の手を離したあと、恭しく一礼し後ろに下がった。
間近に来たことで、ベールの向こうに透けて見える佳乃の瞳が、涙に濡れていることがわかる。
溢れる涙をぬぐうこともせずに、佳乃は俊紀に手を差し出した。
その手をしっかり握り、俊紀は佳乃を祭壇に導く。
並んだ二人を確認し、牧師の言葉が始まった。
* * *
結婚式と披露宴を終えたあと、夜になるのを待って原島邸で二次会が始められた。
俊紀の学生時代の友人や遠い親戚などが中心で、出入りも自由。人数こそ親睦会並みだったが、内容はかなり気楽な集まりなので、佳乃は予め、体調が優れなければ部屋に戻って休んでもいいと言われていた。
「顔色があまりよくないな。やはり疲れたんだろう。もう挨拶も済んだから、少し休んでこい」
俊紀は佳乃を気遣って、二次会の最中も何度か休むように言ったが、佳乃はそんな失礼なことできません、とその場に留まろうとした。おそらく、披露宴のときに和子と話すことができなかったから、今度こそ……と思っているのだろう。
和子は、かねてからの言葉どおり結婚式と披露宴には参列してくれた。俊紀と並んでいる佳乃のところにやってきて、おめでとう、と祝いの言葉もかけてくれたけれど、あとからあとから二人に祝いを述べたい客が押し寄せ、それ以上の話などできなかった。披露宴の最中も同様で、高砂の席からほとんど動けずにいる二人に、和子が近づくことはなかった。結局、なんとかして和子との関係を修復したいと願っている佳乃にとってはひどく不本意なまま、披露宴も終わってしまった。
だから、和子が孝史とともに原島邸に来てくれたときは本当に嬉しかったし、佳乃も明らかにほっとしたようだった。きっと、今も佳乃はなんとか話しかけようときっかけを探しているのだろう。
だが、実際に佳乃は疲れているように見える。これは困ったな……と俊紀が思っているところに佳乃の祖母、宮原静代が現れた。
「おばあさま!」
佳乃が嬉しそうな声を上げる。
静代は、疲れの滲む佳乃の表情と、心配そうにしている俊紀をじっと見た。佳乃の祖母だけあって、休めと言われても意地を張っている彼女の状況を察したらしい。
いつもの毅然とした態度を崩さぬままに、俊紀にそっと頷いて佳乃に声をかけた。
「佳乃、私も少し疲れたので、どこかで休ませてもらえないかしら?」
「大丈夫ですか、おばあさま?」
「もうこの年ですからね。お式からずっと出ずっぱりは辛いわ」
「無理をさせてごめんなさい。じゃあ宮野さんにでも……」
ゆっくり休める部屋を用意してもらいます、と、佳乃は会場内のどこかにいるだろう宮野を目で捜した。そんな佳乃に、俊紀はこれ幸いと言う。
「お一人では何だから、お前も一緒に行って差し上げろ」
俊紀にそう言われてしまえば、佳乃に反論する理由はないだろうし、彼女自身、久しぶりに会った祖母とゆっくり話もしたかったに違いない。佳乃は静代と連れだってパーティルームから出ていった。
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