アンリレインの存在証明

黒文鳥

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 安っぽい音と共に、随分と乱暴にトースターからパンが吐き出される。
 レンは、焼きむらのあるパンを指先で摘まんで咥えた。
 そのままテレビを点けて、グレーのパーカーを羽織る。
 食卓兼作業台の小さなテーブルにつくと、眠気覚ましにと開け放った窓から秋らしい冷ややかな風が入って来た。
 道を挟んだ向かいもこちらと同じような四階建てのアパートメントのため陽当たりは良くないが、港湾区に位置しているため風通しだけはやたらと良い。
 一人暮らしに最適の狭さの一室は、あっという間に冷涼な空気に呑み込まれる。
 レンは熱いインスタントコーヒーでパンを流し込むと、テーブルに積み上がった本や紙を適当にどかしてノート型の情報端末を開いた。
 あと十分もすれば正午である。
 テレビの中では見慣れたアナウンサーが、コメンテーターの若い男に話を振っている。

『――でも、この時期になるとやはり増えますね。先日も、オーバーシティの中央区でかなり大きなRデータが発生しています。身近な現象とはいえ、怖いですね』

 レンは頬杖をつきながら、端末のキーボードを叩く。
 昨夜の報告書である。
 どうせこれから出勤して同じような仕事をするわけだが、後回しにして情報が抜け落ちるのは本意ではない。
 そもそもレンはこの類の作業を苦と思ったことがないから、半ば習慣に近い行動だ。

『ああ、それね! 右手が異様に長い女が出たやつでしょ? オレもさ、家近かったから怖かったよー。手引き摺りながら追いかけて来るとか、リアルホラーかよって! いやまぁ、Rデータって怪奇現象なんだけどさ』

 レンは思わず視線を上げて、テレビに映る男を眺めた。
 良くは知らないが、コメディアンかアクターか、とにかくぺらぺらと喋る男である。
 今時、Rデータと呼ばれるあの現象を「怪奇現象」と同義に扱うことは初等教育でもしない。
 理解の手助けとしてそう例えることはあるが、Rデータを研究する立場にいるレンからしたら二、三時間みっちり講義をしてやりたい気分である。

「Rデータは『情報』だって、百二十年も前にステルラ博士がちゃんと解明しただろ」

 とりあえず、レンは一人呟く。
 Rデータとは、現象として「怪異」である。
 誰もいないのに、足音がする。声がする。
 影が追って来る。女がいる。血まみれの子どもがいる。
 最早何でもありである。
 その何でもありの現象は、共和国だけでなく全世界で遥か古から人の生活のごく傍にあった。
 誰だって一生に何度かはそれを目撃するし、人によってはそれ以上の頻度で「怪異」に見舞われた。
 それが当たり前で、どうしても困った時にだけ教会や退魔師に頼み込むのが常だった。
 そうやって何となく受け入れていた隣人を、白日の下に引き摺り出したのがステルラ・ニルフェリアという女性だ。
 彼女はごく幼少期に「怪異」に憑りつかれていた。
 それを足掛かりに彼女は研究を重ね、「怪異」を解明したそうだ。
 
 曰く、それは『情報』である。

 生物が死んだ後の残留情報が独り歩きをする、霊核情報。
 ヒトの想像、言葉がより合わさって生まれるのが、影核情報。
 信仰を元に紡がれるのが、神核情報。
 或いはこれらが混ざって作り出される、複合情報。
 彼女の論をざっくりと説明するなら、元々ヒトの存在する六次世界と呼ばれる空間は『情報』が残りやすく、かつ発生しやすい土壌なのだそうだ。
 だからヒトが死ねばそこそこの確率でその残留情報がふらふらと出歩くし、噂が噂を呼び何もないところに影が生まれることもある、というわけだ。
 かくして博士の研究により、神秘を孕んだ「怪異」や「怪奇現象」は解き明かさた。
 
『アンリレインの存在証明』

 それは未だ三分の一以上が読解されていない彼女の膨大な論文の名であり、同時にその偉業ゆえ「奇跡」を指す意味合いの言葉としても用いられる。
 ともあれその論文において、博士が「怪異」を「Rデータ」と呼称したことからそれは固有名詞として確立した。
 また、それを解明し対処法までをシステム化した彼女の功績を讃え、その現象を「怪異」や「怪奇現象」とは呼び習わさないのが常である。

『オレ、子どもの頃は霊感あったっぽいんですよー。運命の幽霊に逢ってたら、オレも財団で活躍してたかもなーって。あ、でもヤバいって時のために色々護身法は知ってて、そういう話、結構ウケるんですよねー』
 
 そうなんですかぁ、とぎりぎり無関心に聞こえない相槌を打ったアナウンサーが、慣れた采配でコーナーを切り替えた。
 レンも同時にチャンネルと替える。
 あのコメンテーターは、そのうち見なくなる気がする。

「霊感とか、運命の幽霊とか」

 用語が適当過ぎて、少し微笑ましいほどである。
 霊感ではなく、それを感応力と呼ぶ。
 呼んでしまう、感じてしまう、影響を受けてしまう力。
 そして。
 左手の甲がふわりと痺れて、レンは瞬いた。
 端末の画面で時刻を確認すると、一つ頷く。

「……あ、もう時間か。そろそろ出なきゃだな。ありがと、シオ」

 答える人は、当然誰もいない。
 レンは端末を閉じるとテレビを消して、立ち上がった。
 
 そして。
 ごく幼少期に「運命のRデータ」と出逢い、「憑りつかれて」しまった人間を、『データ憑き』と呼ぶ。
 

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