アンリレインの存在証明

黒文鳥

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「証明完了」

 ひたりと突きつけた指先で、それが正しく解けていくことを感じる。
 辛うじて「幼児」とわかる輪郭。
 重そうに頭を捻ったそれは、抵抗なく霧散した。
 ひゃー、と気の抜ける歓声を上げて依頼人の少女が手を叩く。
 とてもシンプルで平穏な決着だ。
 けれどそれに勝るものはないなと、レンは煮詰まった頭を緩く振った。

 
 イグナートの呼び出しの後。
 対策部の会議室を出て、レンは真っ直ぐ研究室に戻った。
 少し空腹を覚えた記憶もあるが、それより早く自身の目で類似例とやらを確認したかった。
 Rデータの情報強度が急激に低下する事例。
 それがただ偶然が重なってそう見えるだけだと、安堵したかったのかもしれない。
 イグナートから受け取ったデータチップには、十一件の対処報告がまとめられていた。
 その全てに目を通すのに、そう時間はかからない。
 何故かついて来たアルエットは本の積まれたソファにちょこんと腰掛け、レンを急かすでもなく質問攻めにするでもなくただ黙っていた。
 けれど流石にレンが額を押さえて呻くと、案ずるような視線を向ける。
 
 なかった。
 
 確認した限り、そうとわかる「共通現象」はなかったのである。
 追いかけてくる女、充満する腐臭、足を掴む手、天井の血痕、嗤う老人の首。
 類似例とされるRデータは完全に個々独立しており、そこに共通性は全く見出せなかった。
 例え感染するRデータが現象点となる人を介するごとに変異するとしても、全く別の現象になるとは考えられない。
 それなら類似例と考えられていたものはやはり同一のRデータなどではなく、強度がどうのなんて話は「勘違い」であったとするのが自然である。
 共通現象なんてありませんでした、思い過ごしです。
 そうイグナートに報告すれば良いだけだ。
 けれど、その結論に感情が反論する。
 まだ、もっと証拠を積み重ねないと何故か安心出来ない。
 納得が出来ない。
 ここ数週間の対処データをひっくり返して更に思考を重ねているところに、主任からメールが送られてきた。
 今夜の調査依頼に関するメールである。
 転送するまでもなくすぐ近くにいるアルエットに内容を伝えると、彼女は少し驚いたような顔をして「行くの?」と問う。
 レンの集中ぶりからこのまま研究室に籠ると思われたのだろう。
 当然行くけど、とレンは答えた。
 こういう行き詰まった時ほどフィールドワークが一番である。


「ホントに消えちゃうんだー! てか、え? 一時間もしないで終わってるし! 私の一週間なんだったんですか? もー」

 そしてこの現場である。
 オーバーシティの中央区より、やや西。
 学生向けアパートの一室だ。
 飛び跳ねんばかりのオーバーリアクションは、安堵からというよりこの依頼人の素だろう。
 そもそも念願の一人暮らしを始めたら部屋を子どもらしきものが這いずり回る、とかいう割と拒否反応が出そうなRデータに対してこの明るさは豪胆以外の何ものでもない。
 けれどこの少女の気質が幸いしたのだろう。
 財団への対処依頼から一週間も経っていたが特別変異は確認出来ず、現象としても悪意があるということもなくただ迷惑なことに部屋の中を時折這いずり回る程度。
 余計な情報が付与されていなかったことから、酷くあっさりと存在証明で片が付いたのである。
 何というか、結局はこういう人間が強いのだ。

「おにーさんすごくないですか? 財団ってお役所仕事で連絡しても今の時期はぜんぜん来てくんないってみんな言っててー。今日来てくれるって言ってもどうにかはしてくれないんだろーなって思ってたのにー」

 ふわふわした髪を指先で弄りながら、依頼人はのんびりと言った。
 責めるような口調ではないが、この時期緊急性の低い依頼は後回しになることが多い。
 だが本来は依頼から一週間も放置なんてことは滅多にない。
 それだけ今の対策班は対処に追われているということだ。
 申し訳ありませんと一応謝罪すると、少女は「えーなんで謝ってるんですかー?」と笑う。
 
「大学の歓迎会で先輩たちからこの部屋出るよって聞いちゃって、その後友だちが遊びに来た時も盛り上がって怖い話大会みたいなことしちゃったから。そもそも私が悪いかなーって。なんかそういうのやめなさいって言われてる理由がやっとわかりましたー!」

 うん、そりゃあ出るわ。
 依頼人はテンション高く続ける。
 
「別にすっごく怖いって感じじゃなかったけど、やっぱりこのままRデータと同居とかむりーって思って。もー、ウロ様呼んでみちゃおっかなーって友だちと話してたんですよー」

「……ウロ様?」

 今夜は随分大人しくしていたアルエットが、ようやく口を開く。
 依頼人の少女は、アルエットが反応したことが嬉しいらしく「そう!」と興奮気味に身を乗り出した。

「ほらー、いわゆる守護霊様ってやつ!」

 またそういう怪しい話が出てくる。
 この時期のRデータ急増は、どうしても一般に不安が広がりやすい。
 あの教会の祈祷が効いた。
 あそこで清めたお守りが良かった。
 そういうささやかなものから、高額な魔除けを売りつける悪質行為まで。
 まあ、実際当人が「絶対に効果がある」と信じれば多少なりとも身を守ることは可能だ。
 少なくとも極度の恐怖に囚われて、Rデータに余計な情報を付与する結果は避けられる。
 だが今年はそうか、「守護霊様」と来るか。
 数年前の宗教団体によるチャーム売りつけ案件よりは良いが。
 レンの呆れた気配を察知して、依頼人はてへりと肩を竦める。

「ごめんなさーい。もー、面白半分にそういうのやめときます」

「ご理解頂けたようで、何よりです。今後は是非そういった行為は控えて頂けると」

 はーい、と素直に返事をする彼女に今後のことを軽く説明する。
 都合良く例の強度変化が起こったりはしなかったが、平穏無事に事を終えたことは喜ぶべきだろう。
 もうちょっとゆっくりしてって下さいよー、と何故かお菓子を用意し出した依頼人に礼だけ伝えて、レンとアルエットはその場を後にした。
 
 昼から降り出した雨は、まだ止みそうになかった。
 路肩に停めた車までそう距離はないため傘を差すほどではないが、どこか憂鬱な気分になる霧雨である。
 通りに面した数件の飲食店は賑やかそうだが、道行く人々も足早で無口だ。
 沁みるような寒さに、ふと今日はまともに食事をしていないことを思い出す。
 文句一つ言わないが、ここまで一緒に行動しているアルエットも同様である。
 時刻は午後八時を回った頃。

「なんか、買って食べるか」

「なんか買って食べる……!」

 半分電池が切れかかったように大人しかったアルエットが、ぱっと顔を上げてレンの言葉を繰り返した。
 空腹も限界に近かったのだろう。
 期待に満ちた瞳に、思わず苦笑する。

「いや、軽いものをテイクアウトして車で食べるんでも良ければだけど。コートこれ、目立つから」

 丁度通りには、時折利用する軽食スタンドがある。
 好きな具材をバゲットに挟んでくれる、値段相応のジャンクフード店だ。
 そんなのでも良ければ、と言うまでもなかった。
 アルエットはうんうんと頷いて、急かすようにレンのコートの袖口を引っ張った。
 
「私、NICSと対策班の寮のご飯しか知らないから、こういうのすごく嬉しい」

 ぐいぐいと店まで引っ張られて、流石に食事を気にかけてあげなかったことを反省する。
 だが、経費で落ちるからお好きにどうぞ、と言ったのは果たして正しかったのか。
 その細い身体に物理的に収まるのかという量を注文したアルエットと、紙袋を手分けして持って車に駆け込む。
 ジャンクフードの食べ過ぎなんて碌なものじゃないと言いかけて、結局嬉しそうなアルエットの手前言葉を飲んだ。
 アルエットはにこにこしながら手袋を外し、野菜と魚のフライが挟まったバゲットを頬張る。
 こうして見ると、当初の無機質さはどこに行ったのだろうか。
 取り扱い注意の猛犬であることは確かだが、こういう一面もあると気付けたことは良かったのだろう。

「ん、美味しいね」 

 はむはむと慌ただしい咀嚼の後、合わせて買った温かいココアを飲んでようやく落ち着いたようだ。
 毎晩これでもいいな、などと言いながらアルエットはフライドオニオンを口に運ぶ。

「毎晩ー? 三日でしんどくなるぞ、絶対」

 けれど彼女の感動に引きずられたのか、口にしたバゲットはいつもより美味しく感じる。
 暖房をかけた車内はゆっくりと温まり、自然とレンはシートに深く凭れかかった。
 時折感想を呟くアルエットに相槌を打ちながら、思考はやはりイグナートに託された案件に立ち戻る。
 対処した対策班が、「どうも情報強度が急に低下したようだ」と報告した十一件。
 それぞれのRデータに共通現象は確認出来ない。
 例えばそれが「老人」であるとか、「首」であるとか。
 一部分でも繋がるものがあるのなら同一と見ることが出来るが、どれも現象としては完全に別個のものだ。
 では、他には。
 フロントガラスの向こう、夜の街がぼんやりと滲んでいる。
 視点を変えよう。
 Rデータに共通現象がないならば、他はどうだろうか。
 現象点は、人。それもやや若年層に偏る。
 男女比は、女性が多いだろうか。
 財団に依頼してから対処に至るまでの期間は、ずれがあり過ぎて共通項とは言えない。
 家族構成、活動範囲、居住地区。
 行動。
 
「ね、これは持って帰ってもいい?」

 意外にも注文品の多くを綺麗に食べて、けれどやはり全部は腹に収まらなかったらしい。
 デザートにと注文したアップルパイの包みを指して、アルエットが首を傾げる。

「どうぞ。冷めると食えたもんじゃないから、寮で温めんのをおすすめする」

「うん、ありがと。じゃあ、明日の朝ごはんにする」

 アルエットは嬉しそうに包みを紙袋に入れ直した。
 ソースかバゲットの欠片がついていたのだろう、ふと彼女は自分の指先をぺろと舐めた。
 
 白い手、左手の中指。
 
 ペーパーで手を拭きながら、アルエットはレンの視線に気付くと首を傾げる。

「どうしたの? レン」

「指先」

「え?」

 昨夜の依頼人は、確か指先を怪我していた。
 そして。
 それ以前にも、同じように指先を怪我している誰かに会っている気がする。
 そんなつもりじゃなかった、そう言ったのはどの依頼人だっただろうか。
 それは確か、アルエットと一緒に初めて行った調査だ。
 音に怯えていた依頼人の青年は、左手の中指に怪我をしていた。
 注意力散漫で階段から落ちそうだと思ったのを覚えている。

「昨日の依頼人。現象点の女性の方、指に怪我してたの覚えてるか?」

 アルエットは自分の指先を見て、それからレンを見た。

「うん。怪我してたね」
 
「どの指?」

 意識していなかったせいか、レンにはどこの指の怪我か記憶がない。
 彼女はシナモン色の髪をさらと揺らして、思い返して一つ頷く。

「左手の中指だったと思う」


 
 
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