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しおりを挟む血による契約なんてものの前に、特別なものには名が必要なのだ。
名を贈らないなんて不義理は許されない。
財団においても登録されている保有データの個別名に被りがあることはあるが、それでも一から十まで同じなんてことはあり得ない。
「………………」
予想通り、ジャックはその問いに答えられない。
「財団の研究員という立場でこの儀式を解説させて頂くと、Rデータを呼び出す行為としてはかなり効果があると考えます。けれど肝心の『守護霊になってもらう』という点においては不安点が残る。固有名を与えないのでは、それは数多のRデータとそれを区別していないことになります。Rデータを呼び出すだけ呼び出して、どうしようもなくなる危険性が、極めて高いと言えるでしょう」
ここまで聞いて観客が騒めく。
前提として彼らはジャックの味方だろうが、それでもこうして聞けばレンが荒唐無稽な説明をしているわけではないことは理解出来るのだろう。
戸惑いの声は聞こえるが、退場を求める罵声はまだない。
「…………やー、若いってのはすごいわ。悔しくてちょっと否定してみるってのはやりがちだよねー。解説は解説としてさ、実際のとこオレはウロ様に守ってもらってるし、儀式をやって怖いことなくなりましたーって報告くれる子かなりいるんだよねー。そういうのはどう説明すんのかなー?」
まだ子どもだからわかんないかー、とジャックはやれやれとばかりに首を振る。
舞台袖の慌ただしい雰囲気が微かにステージまで伝わって来る。
キリの良いところで話題を変えて終わらせたいのだろう。
けれどこのまま退くわけにはいかない。
レンは「そうですね」とあっさりジャックの言葉に同意した。
「実際ジャックさんがウロ様に守られているということは、儀式が正しく成立する要因が何かしらあるということでしょう。なので是非、ウロ様を見せて頂きたいのですが」
一瞬目を丸くしたジャックが、馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そーしたいのは山々なんだけどさー。ウロ様は俺の守護霊だから他の人間には見えないし、それに適当な幽霊もいないから、ウロ様がオレを守ってくれるとことか見せられるワケないんだよねー。いや財団の人っしょ? それくらいわかんないかなー」
「ご心配なく」
レンはそう言って手袋を取った。
そして、アルエットにもそれを取るよう促す。
白い手。
戸惑うように、彼女は赤い瞳を瞬かせた。
「彼女のアンリエッタは、詳しくは言えませんが触れるとなかなかヤバいもので」
こちらまでどうぞ、とレンはジャックを促す。
彼は状況を理解出来ないまま席を立つと、レンの隣に立った。
スポットライトが重なる。
スタッフもまだ様子見段階だと思っているのだろう。
進行を妨げる気配はない。
「けれど何らかの守りがあれば、アンリエッタに触れても別段何か起きたりはしません。ジャックさんがウロ様に守られていると証明出来る訳ですね」
疑われてはいけないので、とレンは左手をアルエットに差し出した。
彼女は胸元で手を組んで、レンの手を見る。
「こういうのは何の仕込みもないと先に見本を見せるのがフェアだ。構わないから、思い切りどうぞ」
敢えてマイクに入るぎりぎりの声で、アルエットに言う。
でも、と踏ん切りのつかない様子は、観客にも真に迫って見えたのだろう。
レンの提案を疑う視線は、感じられない。
差し出した手がライトに照らされて熱い。
アルエットは数回肩で息をして、それから諦めたように白い手を伸ばす。
行くよ、と小さく言う。
初対面の遠慮のなさはどうしたと思わず笑みが零れる。
ひやりとした柔らかい手が、触れた。
「ーーーーーーッ!」
ばちん、と幻想の音を聞く。
ふわりとアルエットのシナモン色の髪が巻き上がる。
暗転しかけた視界を瞼で覆って、奥歯を噛んだ。
シオに誘われるまま落ちることが出来たら楽なのだが、ここで寝落ちの醜態は晒せない。
意識を持っていきかねない眠気は、耐え切って尚吐き気を残すほどだった。
流石は、アンリエッタ。
重く目を開くと、アルエットの泣きそうな顔が飛び込んで来る。
「レン、顔、真っ青だよ……。ごめんね、私」
焦ったような指先が頬に触れ、額を撫でた。
やれと言ったのはレンだ。
アルエットは何も悪くない。
「大丈夫、大丈夫。ありがとう、アンリエッタ」
アルエットの保有データに礼を言って安堵させようとその手を取って、温かさに酷く驚いた。
いや、指先が凍りつくほどレンの血の気が引いているのだ。
はっとしたアルエットが、険しい表情でレンの側に寄り添う。
倒れかねないと思われたのだろう。
実際のところ、今はたった数メートルでも一人で歩く自信はなかった。
有り難く少しだけ彼女に体重を預ける。
やり過ぎではない。
これで良い。
「……は、今の、何?」
ぼんやりとしたジャックの呟きを皮切りに、会場が一気に騒がしくなる。
言葉を拾う余裕はないが、空気からその殆どが驚嘆の声だと思われた。
本来アンリエッタの発動に、視覚的な現象は伴わない。
彼女が対策班相手にやらかしたような軽い挨拶では、見た限り何が起きているのかわからないのだ。
けれど、ここまでやれば違う。
アルエットはデータ憑きで、その『白い手』の情報強度は一般的な保有データのそれを大きく上回る。
それなりに思い切り発動すれば、視覚的に何も捉えられなくても大多数が「何か起きた」と確実に体感出来るだけの現象になる。
そして、それをシオが防ぐ。
膨大な情報同士のぶつかり合いは、きちんと会場の人間に伝わったようだ。
ウロ様の儀式を否定するには、レンが提案した証明方法が有効だとまず観客に信じてもらう必要がある。
何が起こってるかよくわからなかった、では駄目だ。
だからこれくらいやってしまうのが最も効果的である。
「今のは、皆さんにわかりやすいように、ちょっと強めに行きましたけど、ジャックさんは」
ぐらりと視界が回ったような気がして、レンは一度言葉を区切る。
シオは必ずレンを守るが、その危機からの遮断は睡眠と切り離せない。
だから眠ってしまっていない状況というのは、シオの発動をある程度抑え込んでいる状況に他ならない。
触れれば必ず死に至る、白い手。
それをその状況で受けたのだから、まあ多少のダメージは仕方がなかった。
「ジャックさんは、財団で訓練を受けているわけでは、ないので。かなり手加減は、させて頂きます。ウロ様が守護しているのなら、全く、問題はないはずです。それで貴方が何も間違っていないという証明に、なる」
彼がどんな顔をしているのか、確認することも億劫だった。
ここで怖気付いてくれても、或いは提案に乗ってくれても。
どちらにしてもここまで来れば結果は同じだ。
証明、とジャックは熱に浮かされたように呟いた。
「イイじゃん。最高に、わかりやすいし? オレのウロ様だったら余裕だと思うけどなー」
ジャックは僅かな沈黙の後、そう言って笑った。
その笑いが先程とは違って覇気なく聞こえたのは気のせいではないだろう。
実際レンはこうして立っている訳だから、彼女と手を繋いだところで大したことにはならないと踏んでいる。
同時に本能として恐怖を感じてはいるようだ。
けれどそれを天秤にかけて、ジャックはアンリエッタに触れることを選んだ。
多少の衝撃があったとして、平気な顔をする自信があるのだろう。
レンは重い頭を振って、真っ直ぐジャックを見た。
目が合う。
その茶褐色の瞳には、やはり隠し切れない怯えが見て取れた。
「やめても、いいですよ。こんなところで白黒つけることも、ない。貴方なら適当な理由をつけて、上手いこと、言い逃れも出来るでしょう」
本当に、そう思ったのだ。
ここまでやればどう逃げても疑惑が残る。
配信もしているというのなら、流行の勢いはそれなりに殺すことが出来ただろう。
後は反省さえしてくれるのなら、儀式さえ広めずにいてくれるのなら、ジャック・コーディンというタレントがテレビで勝手なことを言っていてもレンは別にどうしようとも思わない。
だから観客には聞こえないように、声を落としてレンはそう言った。
ジャックは、けれどそう言われてどう思ったのだろうか。
「てか証明も出来て、カワイイ子とも手を繋げてとかお得すぎじゃねー? いいの、オレ。みんな怒んないでね? はーい、じゃ、あーくーしゅ」
観客に笑顔を向けてから、彼は一歩二歩とアルエットに近付いた。
彼女はレンを支えたまま、左手を伸ばす。
細く頼りなく見える、白い手。
気絶はさせるなよ、と囁く。
一瞬不満そうな瞳をこちらに向けて、アルエットはジャックの左手を握った。
刹那の静寂。
ジャックの全身がびくんと跳ねる。
喉が潰れたような酷く嗄れた悲鳴が、その口から迸った。
断末魔に似た絶叫に、会場が騒然となる。
彼はステージの上を悶えるように転がり、思い出したように悲鳴を堪えた。
舞台袖からスタッフが数人飛び出して、急いでジャックを支えて起こす。
アンリエッタに触れた左手を押さえて、彼は荒く呼吸をしながらアルエットを見上げた。
何で、何が、どうなって、と途切れ途切れの単語が聞こえる。
大丈夫ですかとスタッフに口々に問われて、ジャックは身体を支えてくれる腕を苛立たしげに振り払った。
自身が犯した失態に気付いて、「大丈夫に決まってんだろッ!」と怒鳴る。
アルエットは薄く微笑んで自分の左手を見て、それから少し首を傾げた。
「ウロ様、いないみたいだね」
何にも反応しなかったよ、と彼女は続ける。
痛いほどの沈黙。
ジャックもスタッフも、観客も。
誰も何も言わない。
レンとアルエットが手を繋いだ時は確かに「何か起こった」と誰もが体感出来た。
けれど今の一瞬は、本当にただの握手に近い。
明らかに手加減をした状態で、ジャックはこの有様だ。
それは、ウロ様というものが彼を守護していない明確な証拠である。
「ね、難しいことはよくわからないけど、嘘は良くないと思うな」
彼女にこの場を任せるつもりはなかったが、それ以上に思考が働かなかった。
コートの上からでも、支えるように寄り添った彼女の体温が感じられる。
それを確かに頼りにしている自分に、レンは酷く驚く。
「みんなも」
幕、幕、一旦止めろ、と誰かが声を上げる。
その怒号の中。
「こういうことすると、本当に怖いことになっちゃうからね?」
楽しそうなアルエットの声が、涼やかに響き渡った。
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