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1章
19
部屋に戻るまでの長い通路は、いつになく静かだった。
時刻は午後十時を回っている。
ユーグレイと他愛のないことを喋っているとすぐに自室に辿り着いてしまうのだが、今夜に限っては道程が長く感じた。
日中は普通に任務をこなした上で、あの騒動である。
意図せずカグの魔力を受け取ってしまったのも良くなかったのだろう。
身体の芯が、すでに熱を持っているのがわかる。
踏み出す足が、重い。
「ーーーーーーだろう、アトリ」
「え?」
隣を歩くユーグレイが微かに眉を寄せる。
「あれはないだろうと言った。ニールが引き止めなかったら、君はどうする気でいたんだ」
その上、静かにお叱りを受けている最中である。
アトリは不機嫌な相棒に「そん時は適当なとこで現場を抜けるつもりでした」と白状した。
ユーグレイは当然ため息を吐く。
「上手く行ったんだから良いだろ? カグも、ニールにあれだけ言われれば流石に頭も冷えたろうし。ちょっとは無茶も減るんじゃねぇの?」
「結果論だ。君が身体を張る理由がどこにある」
談話室の前を通り過ぎると横幅の広い階段を上がる。
暖色の照明が、踊り場に敷かれた絨毯を照らしていた。
もう数段上がれば、通路は左右に分かれ組織員の個室が集まるエリアになる。
アトリとユーグレイの部屋は反対方向にあるため、階段を上り切ったところで別れるはずだった。
「身体張るってほどのことしてないけどな。てか、ユーグさん部屋向こうですよ?」
「話は終わっていない」
いつものように「じゃあ」と軽く手を振って別れたと思ったのは、アトリだけだったらしい。
当たり前のようにユーグレイがついて来て、軽く焦る。
何でもない顔をしているのも、正直辛い。
さっさと部屋に籠って、息を殺してこの衝動が去るのを待ちたいのに。
「何で怒ってんの? ユーグ」
怒る必要はないのにという意味の問いかけだった。
けれどそれを口にしてから、ユーグレイの碧眼を見てアトリはそれが失言だったことを悟る。
彼は口の端に笑みを乗せて、「何故?」と繰り返した。
ああ、これは割と本気のやつだ。
数歩だけ、身体に鞭打って早足になる。
大型の肉食獣に追われている気分だ。
ごめん、悪かった、と中身の伴わない謝罪を口にしながら、アトリはようやく辿り着いた自室の扉を開けようとして。
その手を、絡め取られるようにしてユーグレイに掴まれた。
無論痛みのある拘束ではないが、抵抗を許すような甘さはない。
「……………………」
今夜は、本当にこんなことばっかりだ。
扉を背に、手を掴まれたまま諦めてユーグレイに向き合う。
ゆっくりと彼の眼前に持ち上げられたアトリの手には、カグに掴まれた時に出来た赤い痣が浮いていた。
気付いていたのか。
「何故、怒っているのか聞きたいのか? アトリ」
いやでもこんなの、正直怪我のうちに入らない。
カグと現場に出ても良いなんて言ったのが気に食わないのか。
それだってニールを焚き付けるための方便で、嘘でもユーグレイとペアを解消するとは言わなかったはずだ。
わからない。
けれどそう言ってしまうと取り返しがつかないと、酷く困惑しながらも思った。
結果黙り込んだアトリに、ユーグレイは呆れたような表情で「君は」と続ける。
「疲れた、痛いと、大したことない時はきちんと申告をするのに、それが酷い時ほど口を噤む癖をどうにかした方が良いな」
「……そうだとしても、別にこれは痛いってほどじゃない。心配しすぎだろ、ユーグ。んなに貧弱に見えてんなら、それはそれで落ち込むけど」
自覚のあることを真正面から指摘されて、アトリはしれっと論点をずらした。
背中に当たる扉が、やけに冷たく感じる。
こういう時に限って、何だ喧嘩かと冷やかしてくれる外野は見当たらない。
ユーグレイは少しだけ身体を引いたが、アトリの手を離そうとはしなかった。
「彼らを見て、僕も反省した。僕は、君とコミュニケーションエラーを起こしたくない」
「なに、どゆこと?」
「君は必要なことは喋れ。僕も必要なことであれば、君が嫌がっても聞き出す」
その宣言を受けて、アトリはただ彼の瞳を見返した。
気付いているのか。
不思議と、驚きはなかった。
ユーグレイは確かに、アトリが重大な秘密を抱え込んでいることに気付いている。
怒っているのは今夜の振る舞いに対してだけではないのだ。
誰より傍にいて、アトリの活動限界も正確に把握しているような相棒が。
ただ調子が良いだけなんて嘘を、見逃してくれるはずがなかった。
今自身はどんな顔をしているだろうか、とアトリは何故か悠長に思った。
いつもより近い距離で向き合うユーグレイは、似つかわしくないほど必死な目をしている。
「俺の意思は尊重してくれねぇの?」
「充分に、尊重しただろう」
そうだな、とアトリは苦く笑う。
でもどうか、逃げることを許して欲しい。
必死に手を伸ばしてくれた相棒を起因に、防衛反応が壊れてしまって。
今は魔術行使の調節も出来なくて、挙句痛みではなくて快感に苦しんでますって。
何されたって口に出来るはずがない。
彼のことだ。
全てを話せば、責任を取ろうとあらゆる手を尽くしてくれるだろう。
きっと「今まで通り」ではいられない。
それはペアとして、親友として、どうしても避けたかった。
それに。
ユーグレイの魔力を受け取ってそれで結果として気持ち良くなってるなんて言って、彼が僅かでも眉を顰めでもしたらと思うと怖い。
だって、普通に、気持ち悪いだろ。
「アトリ」
促すように、呼びかけは優しかった。
アトリは答えずに、緩く首を振る。
ユーグレイは短く息を吐いて。
カグに掴まれて赤く痕になった部分を、指先で撫でた。
それは具合の悪い人の背を摩るような、単純な労りに満ちた挙動だった。
神経質そうな少しひんやりとした指先が、熱を持った肌を滑る。
その違和感を警戒する間もなかった。
瞬間、がらりと身体の感覚が切り替わった。
遅れて襲って来る、壊れた脳の防衛反応。
よりにもよって、今。
視界が白く明滅して、脳が勝手に絶頂を押し付けてくる。
下腹部が溶けるような錯覚に、腰が抜けると思った。
重く、長い、快感。
「ーーーーーーッ!」
声を上げなかったのは奇跡に近かった。
顔を見られたくなくて、咄嗟に俯いて手を振り払う。
ユーグレイがたじろいだ気配がして、夢中で彼を突き飛ばした。
崩れ落ちたら、ここでもうどうしようもない醜態を晒すだろう。
震える手で扉をこじ開けて、ようやく出来た隙間に倒れ込むように滑り込んだ。
後ろ手で扉を閉めて鍵をかけると、アトリはずるずるとその場に這いつくばる。
まだ灯りをつけていない部屋は、当然暗い。
高波のようなそれが再三襲って来て、アトリは頭を抱え込むようにして息を殺した。
ユーグレイは扉を開けようとはしなかったが、立ち去る気配もなかった。
不審に思っただろう。
乱暴に突き飛ばされて、当然不愉快にも思ったはずだ。
アトリは震える呼吸を深く繰り返して、口を開いた。
「あ、した。明日に、しよう、ユーグ。一晩考えさせてくれたって、いい、と思う」
うわずる声を懸命に抑えて、アトリは懇願するように言った。
数秒の沈黙。
わかった、とユーグレイが答える。
安堵と罪悪感と、それを残酷に飲み込んで行く興奮。
静かに遠ざかる相棒の足音を聴きながら、泣き叫びたいような気持ちになった。
ただ、喉からは嗚咽とは違う音が溢れる。
耳を塞いで、目を閉じて。
嵐のような暴虐に耐えるくらい、なんてことない。
そうして限界まで行ってしまえば、後は擦り切れた自我が消失するように意識を失うだけだった。
だから警報さえ鳴らなければ、どれほどの苦痛が重なろうとこの夜は明けるはずだったのである。
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