108 / 230
5章
13
殺すつもりまではないな、とすぐにわかった。
ユーグレイが人魚に対して銀剣を振るう時の踏み込みは、もっと深く鋭い。
殴るのか、或いは拘束するつもりなのか。
ただどんな理由があっても、彼がここで実力行使に踏み切れば面倒なことになるのは確かだった。
いやそんなことよりも。
この人は、ユーグレイが手を上げるほどの価値がある相手ではない。
「待っ……」
目の前に飛び出して来た少女に、彼は刹那鬱陶しそうに碧眼を細めた。
完全な他者に向ける視線。
ユーグ、と呼びかけようとして何故かその名前を飲み込んでしまう。
けれど辛うじて伸ばした手が彼の腕を掴んだ。
アトリの身体であっても、正直なところユーグレイの動きを封じられるかと言われると怪しいところではある。
華奢な少女の身体であれば尚更のことだ。
容易く振り払われるその前に、いつもとは違う距離からユーグレイを見上げた。
「やめろってば!」
特に何も意図はしていなかった。
単純な制止の言葉だ。
それなのに、ユーグレイは進もうとしていた足を止めて弾かれたようにアトリを見返した。
腕を掴んだ手を逆に取られる。
アトリの瞳を覗き込むようにして、ユーグレイは静かに「君か?」と問う。
その問いかけの意味を、間違えたりはしない。
面倒な説明だとか証明だとかを覚悟していたというのに。
そんなにあっさりと、気付かれてしまうなんて。
途端に張り詰めていた感情が緩んだ。
もう片方の手で、アトリはユーグレイの胸元を力なく握って「早いな」と笑った。
「………………」
ユーグレイは何も答えなかった。
先程とはまた違うざわめきが広がる。
さてどう弁明したものかなと、唯一助け舟を出してくれそうなフォックスに視線を送ろうとして。
「え」
ユーグレイの手が背中に回されて、そのまま強く抱き締められた。
いくつか切迫感のない悲鳴が上がる。
こんなところでこんな状況で、と思わなくもなかったけれどそれでもそれを拒絶する理由にはならない。
少し踵が浮いて苦しいが、アトリは黙ってその肩を宥めるように軽く叩いた。
それなりの異常事態であったことは確かだ。
逆の立場であったら、きっとアトリもこれくらいしただろう。
「き、みッ、クレハから離れろ!」
張り詰めたヴィオの声が響くのとほぼ同時に。
ぱっと白い閃光が瞬いた。
カメラのフラッシュだ。
「これはどーいうことですかね? 旦那」
どこか面白がるような声で、フォックスが疑問を投げかける。
その背後で数人がカメラを構えていた。
新聞社の連中にしてみれば、取り立てて面白みのない取材だと思っていたところに突然の美味しいネタ。
その食いつきようは流石の迫力だ。
「お嬢さんには他に想いを寄せる方がいるように見えるんですがー? それにさっきの話が本当だとすると、流石にちょっとマズいでしょーよ」
他に想いを寄せる方。
まだユーグレイに抱き締められたまま、アトリは小さく呻いた。
婚約発表の場で父親の所業を暴露した少女が、そこに突然飛び込んで来た青年と抱き合ったら普通はまあそういうことなんだろうなと思うだろう。
なるほど、さっきから時々上がる悲鳴はつまり歓声のようなものか。
「いや、勝手に恋人にしたらマズいだろーが」
手っ取り早いお芝居なのは確かだが、この身体はクレハのものだ。
良いのかと言われたら多少の問題はある気がした。
呟いたアトリに、けれどユーグレイは「何故?」と全く意味がわからないとばかりに眉を顰める。
「構わないだろう、今更」
「構えよ、一応。年頃の女の子なんだから」
「だが中身は君だろう」
「そーですけど」
フォックスの追求を皮切りに、参加していた新聞社の人間を中心に非難の声や質問が相次ぐ。
じわじわとレクターを取り囲む人々に紛れて、ユーグレイは静かに扉を見た。
丁度、騒ぎに気付いた警備員たちが慌ただしく会場に乗り込んできたところだ。
煽るように声を上げるフォックスが、アトリたちに目配せをする。
今のうちにさっさとこの場を離れろということだろう。
ユーグレイに手を引かれる。
「クレハ!」
振り返ると、自身より大柄な男性を押し除けるようにしてヴィオがこちらに向かって来るのが見えた。
騒ぎの中心から離れようとドレスのご婦人たちが入り乱れ、反対にレクターに詰め寄ろうとする人々が押しかけて来る。
この混乱の中では、彼はアトリたちには追いつけないだろう。
無視しても良かった。
それでも悲愴な表情で縋るように名前を呼ばれては、素知らぬ顔でさよならという訳にはいかない。
「ヴィオ」
元婚約者の名を呼び返すと、人の波の合間で彼は一瞬ほっとしたように頬を緩める。
他人の話は聞かないし思い込みの激しい青年ではあるが、彼はレクターとは違ってクレハを物のように扱おうとはしなかった。
だから別に傷つけたい訳ではなかったのだ。
「悪い、行かなきゃ。いつかまた会った時に、まだ気持ちが変わってなかったらもう一回告白して。ただし、断られたら素直に諦めろよ?」
あとこれちゃんと返すから、とネックレスに触れて付け加えるとヴィオは泣きそうなほど顔を歪めた。
喧騒の中。
言葉はちゃんと青年に届いたらしい。
嫌だ、とその唇が動く。
ユーグレイが握っていた手に力を込めて、足を速めた。
いつもなら別に焦ったりはしないが着慣れないドレスに靴、更には歩幅も違う。
「ユーグ、もうちょっとゆっくり! 転ぶ!」
さっさと出口の扉を開けたユーグレイは、アトリの訴えに酷く不服そうな表情をする。
廊下に出ると、相棒はやや乱暴に扉を閉めた。
珍しい。
フロアの出入りを取り締まっていた警備員は、やはり総出で会場の騒ぎに対処しているようだ。
僅かに歩調を緩めてくれたユーグレイは、まだアトリの手を離さない。
「何、どーした? いや、こんなんなったのは偶然で、意図してやった訳じゃないから、んな怒んないでくれると」
ぐいぐいと引っ張られながら、廊下を進む。
当然これだけのことになったのだから、何も言われないなんてことはないだろうとは思うけれど。
アトリだってやりたくてやった訳ではない。
ユーグレイは視線だけアトリに送って、短く溜息を吐いた。
「…………告白されたのか?」
「は?」
「あの青年に、もう『一回』告白しろと言っただろう。どういう意味だ」
何だ、そんなことか。
アトリはぽかんとして、それから笑いながら首を振った。
「告白されたのは『クレハ』だって。俺は彼女じゃないから、好きならちゃんとクレハ本人に告白しろって意味」
「………………」
納得したような納得していないような顔。
それはどういう感情なんだと聞いても大丈夫なのだろうか。
いや、やめておこう。
アトリはユーグレイの手を握り返して「ほら」と続ける。
「そんな怖い顔すんなよ、王子様。駆け落ちしてくれるんだろ?」
ユーグレイは何か言いかけて、それから静かに苦笑した。
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた
歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。
処刑される悪役令息に転生したらなぜか推しの騎士団長がグイグイ近づいてくる
猫に小判
BL
交通事故で死んだはずの会社員・田中悠人は、気がつくとBL小説『恋と陰謀~はじまりは夜に~』の世界に転生していた。
しかも転生先は、原作で処刑される悪役令息エリオット。
当然そんな未来は回避したい。
原作知識を頼りに慎重に立ち回るつもりだったのに、気づけば王宮を揺るがす事件に巻き込まれていき――。
さらに困ったことに、原作で一番の推しだった騎士団長ガイウスがやたらと距離を詰めてきて……?
平穏に生きたい元悪役令息と、過保護な騎士団長がじれじれ距離を縮める話。
ガイウス(騎士団長)×エリオット(元悪役令息)