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6章
13
「んで、クレハは先生んとこで手伝いでもしてんの?」
照明に照らされた広い廊下。
アトリの少し先を歩くクレハは振り返って頷いた。
長い黒髪は以前と変わらずその背で揺れているが、身に纏う服は見慣れないロゴが胸元に入ったシャツワンピースである。
彼女には少し大きいのか腕まくりをしていて、恐らくは誰かから譲ってもらったのだろうと思われた。
似合わないかと言われたら、そんなことはない。
何よりクレハはサイズの合わないその服を気に入っているように見えた。
「そう。教会はまだバタバタしてるみたいで、色んなことに時間がかかるからその間ゆっくりしたら良いよって言ってもらったんだけど」
クレハは「部屋にいてもつまらないから」と幼い子どものように不貞腐れた表情する。
「でも先生のとこに行けばやることたくさんあるから暇しないし、それにお仕事手伝うの楽しいもん」
ご飯を買って来たり、資料を運んだり、はたまた足を運ばない患者を呼びつけたり。
セナに良いように使われているようだが、楽しいと言うのであればアトリが口を挟むことではないだろう。
「そりゃあ何より」
「うん」
クレハは微かに笑って答える。
彼女を連れて帰って来られて、良かった。
ノティスの一件は大変だったがそれに見合う成果だったと言えるだろう。
人気のない談話室の前を通り過ぎると階段が見えて来る。
第五防壁に続く連絡通路は、その先だ。
クレハは少しだけ歩調を緩めた。
「アトリは、あれからどう? 大丈夫?」
「ん? ああ、全然。ユーグもいるしそうそう無茶は出来ねぇって」
そう、と呟く声は小さい。
まるで自身のことのようにクレハは視線を落として考え込む。
そんなに心配をしなくてもアトリとて死にたい訳ではない。
ちゃんと自制はする、と言いかけて。
階段の前を通り過ぎる瞬間、階下へ下りていく人影が目に止まった。
ふわりと翻った白衣。
アトリには気付いていない。
いくつかの本を抱えたその人は、見間違うはずもなくラルフだった。
「ーーーーあ」
無意識に声を上げて、立ち止まる。
踊り場で折り返したラルフは軽い足取りで視界から消えてしまう。
アトリの視線の先を追って、クレハは顔を顰めた。
「あの人、この間の人?」
あれはラルフが悪かった訳ではないときちんと説明はしたが、彼女の境遇が年長の男性への不信感を強めるのかもしれない。
訴えるようにアトリの袖を引っ張ったクレハに、アトリは緩く首を振った。
せっかくの機会だ。
「ごめん、ちょっとラルフさんに謝っときたい」
ラルフにはまだきちんと先日の謝罪をしていない。
彼のことだから、恐らくはあの時のことを気にしているだろうという確信もあった。
アトリも余裕がなかったから、別れ際の印象も良くなかったはずだ。
小走りに階段を降りると、クレハが「待って」と後を追って来た。
ついて来てくれるらしい。
アトリは少し歩調を緩めて、階段を下りきる。
廊下に出て左右を確認するが、すでにラルフの姿はなかった。
近くの談話室に入ったのだろうか。
「ね、アトリ」
クレハが追いつくのを待って、アトリは歩き出す。
彼女はいまいち理解が出来ないという顔で、「別に放っておいたら良いよ」と続けた。
「だってアトリが悪い訳じゃないんだから、わざわざ謝ることないと思う」
「何か厳しいな、クレハ」
あんまりな少女の言い分にアトリは苦笑する。
数歩先は門で、その少し先に談話室があったはずだ。
そこにいなかったら、流石に今回は諦めよう。
「私、あの人嫌い。だってアトリ、すごく怖がってたよ?」
目の前にいない相手を責めるように、澄んだ声が鋭く響く。
そんなことはない、と言うことは流石に出来なかった。
不意にあの時のどうしようもない不快感が蘇って、アトリは腕を押さえる。
いや、怖かったのも気持ち悪かったのも何もかも防衛反応のせいだ。
ラルフの魔力が身体に合わなかったというのも大きいだろう。
重くなった足を止めて、アトリはクレハを見た。
「いや、だから」
ふっと、湿った風が頬を撫でた。
嗅ぎ慣れた海の匂い。
アトリは言葉を区切って、視線をそちらへ向けた。
もう門は視界に入る距離だ。
銀色の門扉は、半分開いている。
哨戒をしていた誰かが戻って来たんだと、当然そう思った。
けれど門から見える夜の海に、人影はない。
傍で不思議そうにクレハが首を傾げた。
「ーーーーっ」
誰かが閉め忘れたのか、或いは門が壊れたのか。
どちらも可能性とはしては低く、だが絶対にないとは言い切れないことだった。
アトリは反射的に門へと走る。
これが開いているのは、駄目だ。
きい、と門が軋む音がした。
アトリの手は、まだ扉には届いていない。
開かれた門。
海面が一気に盛り上がって、それが防壁の中に突っ込んで来る。
黒い巨影。
大きく割れる口に、石の床を掴む長い手。
振り上げられた尾鰭が、照明に照らされた。
人魚だ。
「クレハ、上に戻れ!」
目の前の獲物を呑み込もうと落ちて来た頭部を辛うじて躱して、アトリは背後に向けて叫んだ。
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