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黒文鳥

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6章

16


「大丈夫じゃないのは、お前だろ!」

 掴みかかるようにして、アトリはユーグレイの首元から手を入れて重く濡れた服をずらした。
 抵抗は殆どない。
 人魚の指が食い込んだ肩の傷からは、彼の呼吸に合わせるように少なくない量の血が流れ出している。
 そして直接の傷口から広がるように、胸元にかけて皮膚が赤黒く変色していた。
 内部の損傷だ。
 アトリは生温かい傷口を片手で押さえる。
 魔力を渡す気配のないユーグレイに苛立ちながら、無理やりそれを引き出した。

「……アトリ、君も怪我をしているだろう。無茶をするな」

「お前がな!」

 きんと耳鳴りがしたが、意識ははっきりとしていた。
 あの時のニールの傷ほどではない。
 それでも決して軽傷だとは言えないだろう。
 ユーグレイがアトリの肩を軽く押した。
 違う。
 彼に非はないとわかってはいる。

「応急処置だけはさせろ、ユーグ。無茶はしないから。そもそも、そのための力だろ」

 ごめんと続けると、ユーグレイは「何故謝る?」と眉を顰めた。
 
「君がいなければ少なくともそこの研究員は死んでいた。防壁内の人員にも、大きな被害が出ていただろう。これだけの事態に陥って死者一人出さずに済んだのだから、君が謝る必要はない」

「……いや、そーじゃなくて」

「ああ、僕に心配をかけたことに対しての謝罪なら無論受け取るが」

 何てことないようにユーグレイは微かに笑う。
 熱を持つ傷口。
 その痛みなど感じさせないほどに、彼の言葉は穏やかだ。
 それでも苦痛がないはずがない。
 アトリは返事をせずに魔術行使に集中する。
 触れ合う機会が多かったからか、修復のイメージは想像以上に容易だった。
 貫かれた皮膚。
 断たれた血管。
 深く傷ついた組織を、ひたすらに繋げていく。
 もっと、奥まで。
 
「もう良い。アトリ」

「まだ……、動くな」

 ぐっと傷口を押さえていたアトリの手を、ユーグレイが退かす。
 流れ出していた血は辛うじて止まったようだが、まだ内部の損傷までは力が及んでいない。
 生々しい血の色が、皮膚の下に広がっている。
 もう良いなんて言える段階ではない。
 けれどこれ以上は許可出来ないとユーグレイは首を振った。
 なるほど。
 アトリが何かやらかす度に怖い顔をするユーグレイの気持ちが良くわかった。
 今後はなるべく自重しよう。
 力の入っていないユーグレイの手を軽く払って、アトリは途切れた魔術を再構築する。

「待って」

 呼びかけは唐突だった。
 手の甲に白く細い指先が触れる。
 驚いて顔を上げると、呆れたような表情のクレハがすぐ傍に蹲み込んでいた。
 いつからいたのだろう。
 他者を認識した途端、俄かに周囲の喧騒が耳を打つ。
 アトリはようやく廊下を見回す。
 いつの間にか多くの構成員が駆け付けてくれていたようだ。
 座り込んでいたラルフも彼らの手を借りて立ち上がり、ほっとしたように笑っている。

「ユーグレイもアトリも、お互いのことになると何にも見えなくなっちゃうの? そもそもユーグレイは、先に私に魔力を渡しておけば良かったよね」

 何のためについて来たと思ってるのかな、とクレハは冷たい声で続ける。
 状況に驚いて悲鳴を上げたのもユーグレイを引き留めたのも、彼女だったようだ。
 恐らくは事態を知らせてから、彼とここまで来てくれたのだろう。
 確かにエルであるクレハが側にいたのであれば、飛び込んで来るより前に彼女に魔術を行使してもらえば良かった訳で。

「ユーグ、お前」

「アトリも!」

 ぴしゃりと名前を呼ばれて、アトリは咄嗟に「はい」と答える。
 いや、怒られることはしてないような。
 クレハは肩から流れ落ちた黒髪をさっと払って、アトリを睨んだ。

「無茶はしないって言ったよね?」

「え、無茶は、まだしてない……けど」

 クレハは「ほら、気付いてない」と頬を膨らませる。
 誰かが医者呼んで来いと指示を出しているのが聞こえた。
 
「ユーグレイもだけど、アトリも顔真っ白。もうとっくに限界だよ」

 だからユーグレイはアトリを止めたのだろう。
 気が付かなかった。
 黒髪の少女はアトリとユーグレイの間に割って入ると、アトリの代わりに彼の傷の上に手を置いた。

「ユーグレイの応急処置なら私がする。アトリはもう、魔術を使っちゃだめ」

 反論は出来ない。
 ユーグレイも抵抗する気はないようだった。
 クレハは静かに瞳を伏せて処置を始める。
 様子を窺っていたラルフが、会話が途切れたのを見て駆け寄って来た。
 幸い彼は傷一つなさそうだ。

「アトリさん、本当にありがとうございます。どうなることかと思いましたが、貴方がいて下さって、助かりました」
 
 そんな大袈裟な。
 ユーグレイはああ言ったが、ラルフに関しては若干アトリのせいで危ない目に遭ったような気がしなくもない。
 ただそう言ってくれるのであれば、この罪悪感も少しは軽くなる。
 アトリは弱く首を振った。
 海の匂いは、もうしない。
 暗い水の痕跡はすでに消えかかっていた。


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