Arrive 0

黒文鳥

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8章

0.3


 戻って来たホテルは静かで、何か異変が起こっているようには見えなかった。
 にこやかに会釈をするフロントのスタッフの様子からも、怪しい人物が騒動を起こしたような気配はまるでない。
 それでもまだ安堵は出来なかった。
 階段を駆け上がり、取っている一室の扉に手をかけてユーグレイは奥歯を噛む。
 確かに鍵をかけて出たはずの扉はドアノブが壊れて、僅かに開いていた。
 
「…………ッ!」

 冷静でいろと言うのは、無理な話だ。
 心臓が嫌な音を立てるのがわかる。
 隙があれば必ず手を出す。
 その手の搾取が目的だとしても決して許容は出来ないが、アトリが抵抗した時に果たして彼女はどう出るだろうか。
 思い切り扉を蹴って、ユーグレイは部屋の中に駆け込む。
 
「アトリ!」

 床に放られた毛布。
 ぐしゃぐしゃになったシーツが、半分ベッドからずれ落ちている。
 疲れたようにそこに腰掛けていた細い身体が、呼びかけに反応してぴくりと跳ねた。
 アトリは一瞬驚いたような顔で、ユーグレイを振り返る。
 事後寒いといけないからと着せた服に乱れはないが、どこか怖いほどの無防備さが漂う。
 
「ユーグ」

「…………君、ッ」

 おかえり、と続いた呑気な言葉に八つ当たりじみた苛立ちが湧き上がる。
 何事もなかったはずはない。
 窓辺に置かれた2人がけのソファには、楽しげな笑みを浮かべた長身の女が腰掛けている。
 流石にメイド服ではないが見間違うはずもない。
 カレン。
 何かされたのか。
 怪我はないのか。
 問う言葉より速く、ユーグレイはアトリに駆け寄った。
 腹立たしいほどに余裕のある顔をしたカレンとの間に割って入り、彼を背に庇う。
 振り返って「大丈夫か」と低く尋ねると、アトリは心底呆れたような表情で溜息を吐いた。

「しつけぇの相手してたから疲れてはいるけど、まあ平気」

 アトリはうんざりとした様子で、ソファでくつろぐ茶色い髪の女を見遣った。
 どういう状況で室内にまで乗り込まれたのかはわからない。
 けれど少なくともカレンは拘束もされずに、ここにいる。
 
「………………」

 それはどういう意味だ、と視線だけでアトリに問う。
 彼は不思議そうにユーグレイを見上げた。
 それから何を確かめられているのか、ようやく理解が出来たらしい。
 苦い顔で慌てて首を振る。

「いや、寝込みは襲われたけど、そーじゃなくて」

「違わないって。アンタが目を覚ますのがもう少し遅かったら、もちろん美味しく戴いといたさ」

「はあ!?」

 しれっと口を挟んだカレンに、初耳だとばかりにアトリが声を上げた。
 そういう意味での襲撃だとは思っていなかったようだ。
 危機感があるのか、ないのか。
 幸いそれはカレンの言葉通り未遂に終わったらしい。
 彼女は自身の脇腹辺りを摩りながら、愉しそうに笑った。
 
「ホント面白い。かわいー顔して寝てると思ったのに、初手で蹴られるとか予想外だったわ」

「…………蹴ったのか」

 目を覚まして咄嗟に、と言ったところだろうか。
 責めるつもりはない。
 寧ろ良く反応出来たものだと感心したが、アトリは若干気まずそうに肩を落とす。
 
「それは、悪かったって。だからちゃんと話も聞いてやってんだろ」

「……アトリ」

 女性だろうと何だろうと、扉を壊して侵入した上寝込みを襲って来た相手だ。
 蹴ってしまって悪かったなんて謝る必要はないし、わざわざ話を聞いてやる義理などあるはずもない。
 過保護だね、と茶化すように言ったカレンを睨む。
 
「味見をしたかったのは本当だけど、どっちかって言うと聞きたいことがあってーー」

「そちらの事情に興味はない」

 言葉を遮るようにユーグレイは言い放つ。
 少しだけ身体を起こしたカレンは、長い脚を組んで獰猛な瞳でこちらを見た。
 
「まぁ、もうアトリが答えてくれたから構わないんだけど」

 彼女が口元に浮かべたそれは、挑戦的な笑みだった。
 ね、と同意を求められたアトリは、流石に状況が悪いと理解してはいるらしい。
 勘弁してくれ、と力なく額を押さえるのが見えた。
 何を聞かれそれにアトリがどう答えたのかは知らないが、挑発に乗るまでもなく後で彼を問い詰めれば済むことだ。
 
「それならば、失せろ。二度は言わない。見逃すのは今回だけだ」

 ユーグレイとしては、それすらも不本意だった。
 カレンが僅かでも拒否の態度を見せるのであれば相応の対処をするつもりだったが、彼女はふっと息を吐いてソファから腰を上げる。
 嫌だって言ったら殺されそ、と肩を揺らして笑う彼女は大人しく部屋の扉を開けて、一度こちらを振り返った。
 明るい茶色の髪が、ゆらりと揺れる。

「束縛強い彼氏が嫌んなったらおいでよ、アトリ」

 扉が閉まる。
 もう姿の見えない襲撃者に、「行かねっつの」とアトリが呟いた。
 そのまま彼はユーグレイを見上げて、苦笑する。
 
「そんで、やっぱ俺が怒られる訳な?」

 ユーグレイはアトリの額を軽く叩いて、「そうだな」と頷いた。


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