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第四章 戦に負けないために

4-10 陸軍とのオハナシ(1)

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 昭和14年1月25日、宏禎王の元へ陸軍省から連絡が入った。
 連絡相手は陸相付武官の小山田少佐である。

 富士の演習場での披露前に三長官と幹部将校を集めた会議を開くので、可能であれば宏禎王殿下も参加願いたいという陸相からの伝言であった。
 期日は1月30日午前10時、場所は陸軍省の会議室である。

 なお、その場で披露出来る何らかの資料があれば持参願いたいという付言もあった。
 宏禎王は、快く了承したのである。

 1月30日10時の15分ほど前に、陸軍省から差し向けられた韋駄天に乗った宏禎王は侍従と共に陸軍省に姿を現した。
 陸軍省の受付は丁重に応対して、最初に応接室へ案内した。

 部屋の中には将校が二人立っており、宏禎王が入室するとすぐに敬礼を為した。
 宏禎王は奥の上席に案内され、そこに座った。

 案内役が消えると、すぐに一人の将校が宏禎王に言った。

「大変失礼ながら、宮様におかれましては、何の故あって恐れ多くも天皇大権たる統帥権に掉刺されるのかお伺いしたいと存じます。
 小官は、宮様と雖も、軍の方針に口を挟むことは慎まれるべきではないかと存じておりますが。
 宏禎王殿下におかせられてはその点如何思し召しにございましょうや。」

 敬語は使いながらも統帥権と軍事力を盾にした脅しである。
 びくつく様子も無く宏禎王が答える。

「私は皇族の一人として陛下の統帥権に楯突く意思など毛頭ありませんよ。
 但し、軍の方針が、陛下の意思に必ずしも沿うものではないおそれがあり、かつ、国政や国民の安寧に関わるものであれば、陛下の臣の一人として、また国民の一人として、何がしかのご意見は申し上げても何ら問題にはならないと考えております。
 合田中佐も、国の方針が軍の方針に関わるならば国政にも何がしかのご意見を非公式に申しているはず。
 そうではないのですか?」
 
 予想だにしない返答に、一瞬狼狽しながら当の合田中佐が言った。

「小官の名をどうしてご存知なのでしょうか?」

「そういえば、貴方は名乗りませんでしたね。
 普通ならば、私の前では最初に名乗りを上げることが多いのですが・・・。」

 宏禎王は嫌味を兼ねて合田中佐を敢えてディスった。
 ある意味で合田少佐の直言は、不敬罪にも該当しかねないのだが、そこまで断罪するつもりはない。

 宏禎王はなおも続ける。

「陸軍の中枢にある将官、三千名ほどでしょうか。
 全て顔と名前を承知しています。
 特に不思議な事ではないと思いますが、・・・。」
 
 合田少佐は若干血の気を引いた顔をしている。
 まさか宮様に自分の顔と名前が知られているとは思っていなかったのだ。

 暫しの間、部屋に沈黙が流れる。
 そこへ先ほどの案内役が戻ってきた。

「関係者一同揃いましたので、宮様のお出でをお待ち申しております。」

 合田少佐が先導し、宏禎王のあとに南郷中佐が続いた。
 会議室に三人が入ると、宏禎王は上席に案内され、その場で出席者から無帽の敬礼を受けた。

 少佐と中佐はすぐに末席へと移動していた。
 宏禎王が着席すると出席者全員が一斉に着席した。

 宏禎王の正面に保科陸相、その左に日向教育総監、右に参謀本部中田参謀総長が位置取っている。
 この三人が所謂陸軍三長官である。

 そのほかにも二十数名の将官が在室しているが、どちらかというと若手の将校から殺気のこもったような視線が宏禎王に向けられており、重苦しい雰囲気が漂っている。
 進行役であろう保科陸相が口を開く。

「さて、出席者各位とも事前になにがしかの事情を聞いているはずであるが、今日は今後の陸軍としての方針を検討する上で欠くべからざる重要な情報を入手したので、集まってもらった。
 その情報とは、わざわざ本日この場にお出ましいただいた宏禎王殿下から我が陸軍に対して条件付で新兵器を提供してもよいという話があったからであります。
 事前に周知したとおり、殿下から陸軍に申し出られた条件は、単純に申し上げるならば蒋介石率いる中華民国と不可侵条約を締結して、中華民国への敵視をやめることにあります。
 ある意味で大陸には手を出すなとの仰せにございます。
 ここに宏禎王殿下にご臨席を賜ったのはその解釈で間違いないかどうかをご確認いただくとともに、我々が直にその意向を確認し、或いはご高説を拝聴せんがためであります。
 全員謹聴するように。
 では宏禎王殿下お言葉をお願い申します。」

 宏禎王が座ったまま口を開く。

「陸相の言葉に少々とげはあるようですが、概ね間違いはありません。
 敢えて単純に言えば、中華民国への敵視を止め、中華民国と不可侵条約を締結すること、大陸への足掛かりを現状以上に増やさないことの三点に尽きるでしょう。」

「教育総監及び参謀総長には後で意見を伺うが、各位意見があれば挙手願いたい。」

 すぐに10本ほどの手があがった。

「弓削参謀から順に聞こう。」

「恐れながら私見を申し上げさせていただきます。
 未だ陸相のご意見はお伺いしていないもの、此処まで、結論を引き延ばしておられるのは、宮様からの交換条件に妥協しても良いと考えておられるやに見受けられます。
 小官の意見は反対であります。
 そもそも、国軍の軍備に民間が協力すべきは国民の当然たる義務でありましょう。
 宮様が種々の民間企業に手を出され、軍需産業を率いておられることは周知の事実でありますが、宮様が関与されていても所詮は民間企業にございます。
 にもかかわらず、その民間企業の生産物の提供を軍の方針変更を条件としてつけるなどもってのほか、恐れながら統帥権に違背するものと考えざるを得ません。
 仮に有用なものであれば、陸軍としては当該新兵器とやらを当該民間企業から強制徴用すべきであると小官は考えます。」

 次に木下大佐が立った。

「本官も、弓削参謀に同感であります。
 陸軍の方針は陸軍内部で決すべきであり、他のいかなる干渉も受けるべきではないと考えます。」

 次いで尾崎中佐が立った。

「支那の案件については、大陸からの撤退収拾を含め和戦両方で改めて検討すべき事案と考えます。
 特に、国民経済に与える影響を考えるなれば、何度検討を行ってもいい事と考えます。
 しかしながら、一方で当該案件と新型兵器の調達とは別物と考えます。
 従って、私も交換条件に応ずるのは適当ではないと存じます。
 但し、強制徴用するかどうかは別としても、交換条件無しに実際にどのような兵器なのかを確認すべきと考えます。」

「他に異論はないか。」
 
 意見が出尽くした訳ではない。
 このようなことを議論する事すら馬鹿馬鹿しいと思っている将官が殆どなのである。

 特に日中扮装の継戦派は、撤退の問議などすべきではないと考えている。

「恐れながら、宏禎王殿下。
 陸軍の主要な意見は今の三つに分けられるかと思われます。
 陸軍は陸軍で意思を決定する。
 有効な新型兵器があれば必要な範囲で徴用する。
 支那に関しては、別途検討すべきである。
 従って、このままでは、殿下の交換条件は成り立たないと考えますが、如何思し召しでしょうか。
 また、陸軍が殿下の御示しになった条件にそぐわない場合、新型兵器を提供していただけるという譲歩はあるのでしょうか?」

「陸相のまとめでは三つの意見とのことでしたが、今ひとつ追加があるかと思われます。
 それは、私の提案の如何に関わらず、支那に関する収拾について検討すべきであるという意見がありましたね。
 ま、それはともかく、交換条件が成立しないのであれば、兵器の提供はあり得ない事を申し上げておきましょう。
そうしてまた、今後の飛鳥航空製作所からの航空機納入についても赤信号が灯るやもしれません。」
 
 途端に若手将校がなんやかやと文句を言い始めた。
 まぁまぁと保科が宥める。

 保科も数少ない対中華和平推進派のはずであるが、自分が悪者にならずに何らかの形で和平が進めばこれに越した事はない。
 人のふんどしで相撲を取ろうとする考えである。

 そのために宏禎王という宮様を人身御供にしているのである。
 保科陸相は続けた。

「宏禎王殿下にお尋ね申します。
 陸軍に交換条件がない場合であって、軍がその兵器を購入しようとした場合は如何相成るのでしょうか?」

「簡単ですね。
 その場合、新型兵器は一切市場に出る事はありません。
 従って、陸軍が如何にお金を積もうともお売りできません。」

 不満の声が将校から上がる中で、保科陸相が言う。

「再度お尋ねします。
 交換条件が充足されれば無償提供し、条件が揃わねば金を出しても買えないと言うことですが、何故にそうなるのか理由を教えてはもらえませんでしょうか?
 まさか、宮様が支那の手先だとは思っておりませんが、結果として敵に利することになりかねません。」

「交換条件が充足できない陸軍であれば、新型兵器は極めて危険な武器となります。
 一方で交換条件が充足できるような陸軍であれば新型兵器の運用をお任せできるでしょう。
 その意味で金を出されてもお売りできないのです。」

「このままでは陸軍を信用できないと仰せの様にございますが、何か具体的な理由があるのでしょうか。」

「いくつかございますね。
 例を挙げれば、一昨年の山海関事件と昨年の上海事変は、陸軍が引起こした事件です。
 上海事件は中国共産党の謀略が若干絡んでおりますが、内閣の戦線不拡大方針を無視して次々に戦闘を繰り返した現地陸軍は、参謀本部すら俄かには事態を掌握できない組織となっています。
 恐れ多くも陛下の統帥権すら無視する陸軍に皇軍と称する資格はないと思いますが、諸兄はどう思われますかな。」
 
 再び湧き上がる勝手な発言の中で保科陸相が静かに言う。

「今の発言は極めて重大な発言でございますが、宮様には確たる証拠がございましょうか?。
 何らの根拠も無い話であれば、陸軍に対する誹謗中傷となり、私も簡単に見過ごしできません。」

「山海関事件については、保科陸相閣下が良くご存じのはず、私が証言するまでも無い事でしょう。
 上海事変については、保科陸相も良くご存じの東洋のマタハリと称される女性に伺うと宜しい。
 また山海関事件の後、天皇陛下が戦線不拡大について当時の陸相に何を言われたか、参謀総長、貴方ならばあるいはご存じかも知れませんね。
 恐れ多くも天皇陛下は、陛下の許可無くば一兵たりとも動かしてはならぬと仰せでした。
 なれど、様々な屁理屈をこねて既成事実を作ったのは陸軍ではないですかな。
 しかも、参謀本部の命令を聞かず独走した軍団に対して追認を与えているのは陸軍本省ではありませんか。
 もし、事実と異なる事があれば反論願いたい。」
 
 怒声の中で、それまで口を閉じていた参謀総長がボソッと言った。

「恐れながら殿下、何故そのようなことを知っておられるのでしょうか。
 陸軍内部でも知っている者は極僅かである筈なのに。」
 
 爆弾発言であった。
 今まで喚いていた将校が口をあんぐりと開けたまま押し黙った。
 
 無理も無い。
 今まで様々な疑いを掛けられても知らぬ存ぜぬで押し切っていた陸軍が非公式であろうと無かろうと初めて事実を認めた一瞬である。

 会議室は水を打ったように静かになった。

「情報源は教えられませんが、必要ならばいつでもその証拠を公表できます。
 今のところ私にその気はありませんが・・・。」
 
 参謀総長が重ねて聞く。

「宮様に置かれましては、何故中国大陸への軍部関与にこだわるのでしょうか。
 我が軍は連戦連勝、何の不安もないと思われます。
 負けているならともかく、我が軍有利であるのに引けというのは指揮官ならば出来ない相談でございます。
 宏禎王殿下であればおわかりの筈にございましょう。」

「敢えて申せば、陸軍の体質自体が問題です。
 日露戦争以後、極度にロシアの南下を恐れ、防波堤として朝鮮を併合し、更には満州を事実上の属国と化すよう動きかけた。
 陸軍にとっては遺憾なことでしょうが、満州帝国が自力で独立を果たしたために、陸軍が建国時にその力を及ぼすには至らなかったが、・・・。
 それでも、今なお、陸軍に属する秘密機関が満州帝国政府に何らかの暗躍を仕掛けているようですが・・・。
 詳細は敢えて言及しませんが、早目に手を引くことをお勧めしましょう。
 さもなければ人死にが出ますよ。
 いずれにせよ、参謀総長の言われる通り、帝国は日清、日露の大戦以後負け知らずです。
 そのため、陸海軍ともに奢りが生じている。
 ましてや国際的にも一等国と認められようと無理な背伸びをし、それ以外の国を馬鹿にしている。
 チャンコロ、三国人などという言葉は蔑称に他ならない。
 そうした感情は困ったことに末端の兵士にまで浸透しています。
 中国大陸では、現地調達とあなた方の言う強制徴用が横行し、軍票で支払っていればまだマシなほう、大半は強奪の類です。
 武力を背景に暴行・略奪の限りを尽くし、強制的に慰安婦まで連行している事例さえある。
 これはもう軍の名を借りた盗賊団に成り果てていて、馬賊と何ら変わらない。
 上海事変において、暴徒鎮圧を名目にどれほどの暴虐がなされたかは中央にも報告が来ているはず。
 それらの指揮官や当事者達には何かの処罰を与えたかどうかです。
 弓削参謀、失礼ながら貴方はその報告書を読んだ筈だ。
 陸軍法に照らして本来はどう措置すべきだったかお教え願いたい。」
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