東京ラビリンス

瑞原唯子

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6. 白い研究所

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「はっ!」
 顔面に向けて繰り出された遥の拳を、澪は左の手のひらで防いだ。そこに感じる重量感に思わず顔をしかめる。先ほどから何度も受けているせいか、痛みというより、むしろ痺れの方が強くなっていた。
 一瞬、遥の攻撃が途切れる。
 その隙に、澪は素早く腰を落として足払いをした。だが、その攻撃は読まれていたようで、事も無げにかわされてしまう。それどころか逆に肩を蹴りつけられ、受け身も間に合わず、背中から地面に強く叩き付けられた。
 澪はゲホッと咳き込む。
 それでも遥は容赦なく澪の上に馬乗りになると、反撃しかけた澪の右手をねじ伏せ、力のこもった固い拳を大きく振りかざした。そして、澪に向かって躊躇なくそれを振り下ろす。
 ――ピッ!
 薄青色の空を突き抜けるように、高らかに笛が鳴った。
「遥の一本」
 縁側で二人を見ていた悠人は、銀の笛を片手に判定を下した。
 澪の鼻先でピタリと止まった拳が引いていった。遥は先に立ち上がると、仰向けの澪に手を差し伸べる。蹴りつけられた肩に痛みを感じながらも、澪はその手を取り、軽く跳ねるようにして立ち上がった。
「1勝3敗1分けかぁ」
 両手を腰に当て、悔しさを滲ませながら言う。
「最近、遥の拳や蹴りが強くなってきたみたい」
「男女の身体能力差が出てきたんだろうね。今まで大差なかったのが不思議なくらいだよ。悔しく思う気持ちはわかるけれど、その辺は仕方ないと割り切った方がいいんじゃないかな」
「わかってるけど……」
 悠人の言うことはもっともだと思うが、今までずっと互角にやってきただけに、置いていかれた寂しさのようなものを感じる。頭ではわかっていても、感情としては、すぐに受け入れることが出来ないのだ。
「差をつけられたくないんだったら、遥以上にトレーニングを頑張ること」
「ですよね……」
 現実としてはそうするしかないだろう。もちろん遥も今までどおりトレーニングを続けるわけで、澪が少しばかり頑張ってみたところで、再び追いつくことは出来ないかもしれない。だからといって、努力しなければ置いていかれる一方である。
「師匠、久しぶりなんだから、アドバイスくらいしてくれない?」
 ジャージの膝についた土を払いながら、遥はぶっきらぼうにそう切り出した。澪も同意して大きく頷く。怪盗ファントムを始めるようになってから、悠人はその準備に時間を取られてしまうらしく、あまり澪たちの訓練に顔を出さなくなっていた。そして、昔のように自ら組み手をしてくれることもほとんどなくなっていた。だから、せめてアドバイスが欲しいと思うのは、弟子としては当然の心境だろう。
「そうだね……遥は劣勢になるとワンテンポ遅れることが多い。澪は攻撃がワンパターンになっている。つまり、遥は考えすぎ、澪は考えなさすぎってところかな。普段から数多くのパターンを訓練しておき、とっさに最適のものを選択できるようになれば理想だね」
「それ、このまえ言われたのと同じなんですけど」
 澪はじとりとした視線を送って言い募った。一ヶ月ほど前にもらったアドバイスと、表現に違いはあるが、内容的にはまったく同じものだったのだ。適当にごまかそうとしているのか、忘れていたのかはわからないが、どちらにしても無責任なように思えた。しかし、彼は笑顔を崩すことなく反撃する。
「まずは指摘されたことを直してね」
「うっ……」
 その至極もっともな正論には返す言葉もなく、澪は恨めしそうに口をとがらせて悠人を睨んだ。一方の遥は、両手を腰に当てて、諦めたように小さく溜息をついた。
 昔からこういうことはよくあった。
 悠人は、その穏やかな雰囲気とは裏腹に、本質をついた鋭いことを口にする。言われた二人は、カッと頭に血を上らせたり、悔しく思ったりしながらも、その感情をやる気へと昇華させるのだ。そうやって悠人が導いてくれたおかげで、種々の武術を身につけ、怪盗ファントムの動きをこなせるまでになったのである。

「二人とも今日の新聞は見た?」
 悠人は思い出したようにそう言うと、後ろに置いてあった朝刊の一面を開いた。澪と遥は、それぞれ悠人の両隣に腰を下ろして覗き込む。そこには、ハンググライダーで目的地に向かう怪盗ファントムの写真が、カラーで大きく掲載されていた。
「わぁ、今回のはよく撮れてるね」
「また一面なんだ」
 デビュー戦のあと、怪盗ファントムは立て続けに二つの案件を遂行した。両方とも一般的にはあまり知られていない絵画だったが、怪盗ファントムそのものが話題となり、大きくマスコミに取り上げられることとなったのである。ワイドショーでもコメンテーターたちがこぞって意見を述べていた。特に、過去の怪盗ファントムとの関係性は熱く論じられており、今のところ模倣犯と後継者で意見が二分しているようだった。
「ハンググライダーの操縦もすっかり板についてきたね」
「本当? 師匠にそう言ってもらえると嬉しい」
 澪はそう言って無邪気に笑った。しかし、反対側に座る遥はムッと仏頂面を見せる。
「僕もハンググライダーの特訓がしたかったのに、どうして澪だけだったわけ?」
「さあ、どうしてかな。剛三さんの指示だから仕方ないよ」
 その思わせぶりな答えを聞いて、澪はどきりとした。
 ――剛三さんは、僕と澪を結婚させたがってるみたいだけどね。
 先日の悠人の言葉が脳裏によみがえる。それが本当かどうかはわからないが、剛三の指示を受け、悠人と二人きりで行動することは確かに多い。三日間のハンググライダー特訓も、花のところへ絵画を届けたのもそうである。他意はないのかもしれない。しかし、あんな話を聞いてしまったあとでは、どうしても疑念が湧き上がってしまう。
「まあ、バイクの練習も面白かったからいいけどね」
「そっちの方はどう? もう乗れるようになったの?」
 雑念を振り払うように、澪は意識的に明るく声を弾ませた。
 澪がハンググライダーの特訓をしていた三日間、遥は別の場所で大型バイクに乗る練習をしていたのだ。遥がハンググライダー特訓をうらやましがったのと同様、澪もバイク特訓をうらやましく思っていた。
「普通に乗る分には問題なし。曲芸はまだ無理だけど」
「じゃあ、今度はバイクで怪盗ファントム登場だね!」
「そんな予定はないよ」
 つれない素振りで受け流す遥に、悠人はぽんと大きな手をのせた。
「遥がやってみたいのなら、剛三さんに進言してみるよ」
「別に、僕はどっちでもいいけど……」
 胸中を見透かされて戸惑ったのか、遥は視線を泳がせてぼそりと言った。普段は年上相手でも臆することなく応酬する遥だが、師匠の前では子供のままなのかもしれない。澪はくすりと笑みをこぼした。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ」
「え、もう?」
 立ち上がった悠人を目で追いながら、澪は尋ねる。
「剛三さんが寂しがるからね」
 悠人はそう答えてにっこりと微笑んだ。まさか剛三が寂しがりはしないだろうが、このところ悠人と自室で朝食をとることが多いので、今日も彼の戻りを待っているのかもしれない。
「二人ともストレッチを忘れずにやること」
「はーい」
 澪たちは軽く返事をして、芝生が短く刈りそろえられた庭に降りた。徐々にまぶしくなりつつある朝日を浴びながら、二人で運動後のストレッチを始める。その間、澪は奥に入っていく悠人を横目で捉え、見えなくなるまでずっとその背中を追っていた。

「いやー、憧れの美咲さんと初代ファントムにお会いできるなんて光栄っす!!」
「まあ、ありがとう」
 ストレッチを終えた澪たちがジャージ姿のままダイニングへ入ると、そこには、これまでに見たことのないくらい調子のいい篤史がいた。澪たちの両親である美咲と大地を前に、ヘラヘラと締まりのない顔をしている。
「篤史、お母さまに色目を使うのやめてくれる?」
 澪は両手を腰に当てて冷ややかに言った。篤史の言葉は大地にも向けられていたようだが、美咲のような女性が好みだと公言したこともあり、どうしてもそちらの方が気にかかってしまうのだ。あらためて母親の美咲を見てみると、化粧気のない顔でも十分すぎるほどきれいで、体つきは華奢な方だが女性らしく柔らかな丸みがあり、色気があるというのも何となく納得できる気がした。だからこそ、なおさら油断するわけにはいかないと思う。
 篤史はうざったそうに一瞥を投げて反論する。
「色目じゃねぇよ。純粋に科学者として尊敬してるだけだ」
「へぇ、お母さまが何の研究してるのかも知らないくせに」
 澪は喧嘩腰で切り返した。しかし、篤史は冷静に答える。
「『アトラス粒子衝突による生体高エネルギーの実現』だけなら一通り読んだぞ」
「えっ? そうなの??」
 美咲の研究はとても難しいと聞いている。実際、澪も論文を読もうとしたことはあったが、概要を眺めただけで読む気をなくしてしまったくらいだ。そのようなものを、まさか篤史が読んでいるとは思いもしなかった。大学では工学を専攻しており、美咲の研究に関しては専門外のはずである。
「お母さまの気を引くためにそこまでやるなんて、意外と努力家なのね」
「おまえ、どういう目で俺を見てんだよ」
 篤史は半ば呆れたように睨んだ。負けじと澪は嫌みたらしく言い返す。
「興味ないなんて言いつつ、お風呂を覗くムッツリでしょう?」
「入ってたのを知らずに開けただけだ。ちゃんと謝っただろう」
「謝ればいいってもんじゃないんだから!」
 そのときのことを思い出すにつれ、澪の怒りは再燃してきた。
「だいたい『あ、ワリィ』って何?! どうってことないみたいに軽く言われたんじゃ、ちっとも謝られてる気がしないよ。土下座しろとまでは言わないけど、もっと心から申し訳なさそうに謝れないの? 動揺してたっていうのなら、まだ可愛げがあるけど……」
「そんなたいしたもんじゃねぇだろ」
「何ですって?!」
 頬杖をついて飄々とあしらう篤史に、澪は顔を真っ赤にして噛み付いた。
 しかし、そんな二人を眺めながら、両親はなぜか止めもせずニコニコと微笑んでいる。
「こういう賑やかなのも新鮮でいいわね」
「ああ、篤史君が来てくれて良かったよ」
「澪と遥のいい話し相手になってくれそうだわ」
「ちょっと、お父さま、お母さま?!」
 澪はテーブルに手をついて身を乗り出す。風呂を覗かれた件で言い合いしているのに、どうしてそういう展開になるのかわからない。剛三といい、両親といい、いったい篤史のどこが気に入ったというのだろうか。これでは彼を追い出すことなど出来そうになく、澪の口からはもはや溜息しか出てこなかった。

「ねぇ、篤史」
 席について朝食を待つ間、遥はちらりと視線を送って呼びかけた。
「さっき怪盗ファントムに憧れてるとか言ってなかった?」
「ああ、おまえらには言ってなかったっけ。リアルタイムでは知らないんだけど、怪盗ファントムについて書かれた本とか読んでさ、俺、子供の頃からずっと憧れてたんだよな。だからハッカーやってるとき『phantom』を名乗ってたってわけ」
 篤史はどこか得意げに答える。
 そんな彼を、澪は頬杖をつきながら横目でじとりと睨んだ。自分からすれば、いくら格好良さそうに見えたからといって、実在の犯罪者に憧れるなどありえない。漫画やドラマとは違うのだ。もっとも、その正体が父親だったというのが複雑なところではあるのだが。
「だから怪盗ファントムの話を引き受けたってわけ?」
「ていうか、じいさんと悠人さんの勧誘が強引でさ」
 篤史は思い出したように苦笑して答える。
「どこで俺のことを調べたのか知らねぇけど、四畳半のアパートでカップラーメンすすってたら、じいさんと悠人さんがチェーンソーで扉をぶった切って乗り込んできたんだよ。唖然としてたら冷ややかに言いやがった。ハッカーのくせに自宅のセキュリティはなっとらんの、ってな。あんなイカレっぷりを目の当たりにしたら、断るなんて恐ろしくて出来ねぇよ」
「……おじいさまに目を付けられたのが災難だったね」
 澪は乾いた笑いを浮かべて同情的に言った。大地と美咲も申し訳なさそうに微笑んでいる。でっちあげかと思うほどに荒唐無稽な話だが、剛三ならこのくらい平然とやるだろうことは、近しいものであればみな知っている。目的を達成するためなら手段を選ばないのだ。
「ま、結果としてそれなりに楽しくやってるし、美味いメシも食わせてもらってるし、立派な部屋まで用意してくれたし、今のところまったく不満はないんだけどな」
 篤史はそう言ってコーヒーカップを口に運ぶと、二人分はあろうかという朝食を平らげていく。
 その豪快な食べっぷりに、美咲は目を細めてふふっと笑った。
「それなら良かったわ。無理やりじゃ申し訳ないもの」
「私は無理やりやらされてるんだけどっ」
 澪が頬杖をついたまま口をとがらせると、篤史は涼しい顔でツッコミを入れる。
「とか言いつつノリノリじゃねぇか」
「そんなことないもん!」
 中途半端な態度では自身にも危険が及ぶだろうし、やるからにはきちんとやろうと思っているが、決して肯定的な気持ちで臨んでいるわけではない。怪盗などと格好良く言ってみたところで、結局は犯罪者でしかありえないのだから――。
「僕も最初は嫌々やっていたけど、次第に楽しくなっていったよ」
 大地はむくれる澪を宥めるように言った。そして、美咲に視線を移して言い添える。
「おかげで美咲とも会えたしね」
「ああ、あの馴れ初め話……」
 大地が怪盗ファントムとして絵画を返しに行き、そこでまだ少女だった美咲に出会った――澪はその話を思い出していた。美咲がそのとき怪盗ファントムに心を奪われ、怪盗ファントムを追って刑事がやってくる、といったような話である。
「お父さまから聞いたのね」
 美咲は少し困ったようにそう言う。
「事実なんですか?」
「私も聞きたい!!」
 篤史の単刀直入な質問に、澪も挙手して便乗した。美咲は苦笑を浮かべて答える。
「お父さまが気に入っている芝居がかったあの話でしょう? まったくの嘘ではないけれど、半分くらいはお父さまの作り話よ。大地が絵を返しに来たのは本当だけど、刑事なんて来てないし、心も盗まれてないし」
「美咲さんクール!」
 篤史は白い歯を見せてパチンと指を鳴らした。
 美咲はくすっと笑って付け加える。
「話題の怪盗さんがいきなり目の前に現れたんだもの。ただ驚くばかりだったわ」
「むしろ、心を盗まれたのは僕の方なんだよね」
 大地ははにかみながら頭に手をやり、そう告白した。ちょっといい話のようにも思えるが、そのときの美咲はまだ小学生だったはずだ。デレデレと嬉しそうに話すようなことでもないだろう。
「だから母さんを橘の養子にしたの?」
「まあ、実は……」
 どこか非難めいた遥の質問に、大地はきまり悪そうに答える。
「私は全く聞かされてなかったんだけど、大地とお父さまは最初からそのつもりだったらしいの。言い方は悪いけれど、罠に掛けられたようなものよね。分別ある大人のすることじゃないわ」
 美咲は呆れたように小さく肩を竦めた。しかし、その表情はどこか優しく柔らかい。はなから息子と結婚させるつもりで養子にするなど、現代日本の価値観では異常なことかもしれないが、結果的に今が幸せであるからこそ隠さず笑って話せるのだろう。
「母さんが嫌がったらどうするつもりだったわけ?」
「そうならない自信はあったよ」
 遥の手厳しい追及にも怯まず、大地は穏やかに答える。そして、隣の美咲と笑顔を交わして小指を立てた。
「赤い糸で結ばれてるって信じていたからね」
「素敵!」
 澪は両手を組み合わせて目を輝かせた。二人が今でも仲が良いことは知っていたが、結婚に至る経緯を聞いたのは初めてである。二人が運命的なものを感じていたのだと思うと嬉しくなった。もっと詳しい話を聞きたいと身を乗り出すが、そうは思わない無粋な男たちに水を差されてしまう。
「今どき赤い糸なんて恥ずかしいこと言う人いるんだな……」
「赤い糸って、ただの身勝手な思い込みでしかないよね」
「もうっ! 二人ともそういうこと言わないでよ!」
 澪は思いきり眉をひそめて抗議する。せっかく両親の馴れ初め話に浸っていたのに台無しである。どうしてこの二人はこう捻くれているのだろうか、と腹立たしく思いながら、頬を膨らませてぶっきらぼうに頬杖をついた。
 美咲はくすりと笑って立ち上がった。
「澪、遥、しゃべってばかりいないで、早く食事を済ませて準備しなさいね」
 どことなく科学者を思わせる口調でそう言うと、肩より少し長い黒髪をなびかせ、颯爽とした足取りでダイニングをあとにする。大地もカップに残ったコーヒーを飲み干し、彼女の後を追うように小走りで出て行った。
 篤史はコーヒーを口に運びながら尋ねる。
「おまえらどこか行くのか?」
「ちょっとした健康診断だよ」
 遥の答えは幾分突き放したものだったが、興味をひかれなかったのか、篤史がそれ以上の追及をすることはなかった。すぐに別の話題に切り替え、遥を巻き込んで盛り上がる。そんな二人の会話を耳にしながら、澪は曖昧に視線を落とすと、櫻井が運んできた洋風の朝食に無言で手を伸ばした。

「お母さま、これからもずっと忙しいの?」
「ええ、研究に終わりはないから」
 遥とともに後部座席に乗り込んだ澪が、運転席の美咲に尋ねると、彼女はエンジンをかけながら他人事のように答えた。いささか対応が冷たく感じるのは、車に気を取られているからだろうか。ジャケットの袖口から伸びたすらりとした手でセレクトレバーを掴む。
「ごめんなさいね」
「えっ?」
 ぽつりと落とされた謝罪を残したまま、四輪駆動車はゆっくりと滑り出した。地下の駐車場からスロープをのぼって外に出る。柔らかな光が溢れ込む中、美咲は振り返ることなく静かに言葉を継いだ。
「あなたたちには寂しい思いばかりさせてしまったわ」
「あっ、でも私には遥も師匠もいるから平気です!」
 澪は心配させまいと慌てて答える。
 美咲は前を向いてハンドルを握ったまま、くすりと笑った。
「悠人さんにはいくら感謝してもしきれないわね」
「うん……」
 二人が中学生になるくらいまでは、毎日のように、悠人が宿題を見たり遊んでくれたりしていた。相談に乗ってもらったことも多々あった。秘書業をこなしつつ子供の面倒を見ることがどれだけ大変か、今の澪ならば少しは察することができる。
「澪、どうしたの? そんなに暗い顔して」
「師匠、私たちの面倒ばかり見ていたせいで、恋愛も結婚も出来なかったのかなって」
 先日の悠人の言葉が頭から離れず、自然と思考はそちらに向かう。しかし、事情を知らない遥には随分と唐突に感じられたのだろう。あからさまに訝るような視線を澪に向けた。一方、美咲は表情ひとつ変えることなく、ハンドルを切って大通りに合流する。
「だったら、責任を取ってあげれば?」
「えっ?」
「結婚すればいいのよ、悠人さんと」
「ちょ……! なんでそうなるの?!」
 澪は助手席のシートに手をかけてガバリと身を乗り出した。顔は湯気が立ちそうなほど熱くなっている。きっと傍目に見てもわかるくらい紅潮しているだろう。
 美咲はくすくすと笑い出した。
「だってよく言ってたじゃない。師匠と結婚するとか、愛人にするとか」
「それ10年くらい前の話だし!」
 母親に言ったかまでは覚えていないが、確かに、無邪気にそんなことを口にしていた。結婚はともかく愛人はどう考えてもおかしい。あの頃は、まだ言葉の意味をよく理解していなかったのだ。今となっては思い出すだけでも恥ずかしく、出来れば触れてほしくないことである。
「悠人さんは満更でもないみたいよ」
「えっ……何、が……?」
「この前、大地が冗談半分に『澪と結婚するか?』って悠人さんに訊いたのよね。そしたら『澪さえ良ければ』って悠人さん……笑いながらだったけど、あれはけっこう本気だったんじゃないかなぁ」
 美咲は記憶を辿るように少し遠い目をして言う。その話を聞いていると、まるで澪自身の記憶であるかのように、悠人の表情や口調が鮮明に脳裏に浮かんできた。おそらく、先日の車中での姿と重なっているのだろう。澪はうつむきながら座席に腰を下ろした。その様子を、美咲が肩越しにちらりと一瞥する。
「あなた、他に好きな人がいるの?」
「……うん」
 澪はそっと首元に手を当てて、布越しにピンクダイヤの存在を確認した。
「付き合っているの? 相手はどういう人?」
「えーっと……今はまだ内緒にしたいんだけど……」
 誠一のことは、遥以外の誰にも言っていなかったが、美咲になら話してもいいと思っていた。だが、それは17歳の誕生日までのことである。怪盗ファントムを引き受けた今となっては、彼氏が刑事だとはさすがに言いづらい。知られれば反対されるだろうし、悪くすれば別れさせられるかもしれないのだ。
「そう言われると気になるわね。遥は知っているの?」
「悪い人じゃないよ。ちょっと頼りないけど」
 どきりとして振り返った澪を無視し、遥は躊躇いもせずにさらりと言う。刑事であることに触れなかったのは、せめてもの配慮なのだろうか。本当はしらを切ってほしかったのだが、第三者的立場で率直に言ってくれたことは、結果として強力な援護となったようだ。
「あなたたちを信じて、今は聞かないでおくわ」
 美咲はそう言って車を止めた。同時に、信号が黄色から赤に変わる。
「この先、もしかしたら反対することもあるかもしれないけれど、自分が正しいと思うなら、簡単に諦めたりしないで全力で立ち向かいなさい。後悔のないように、選択を誤らないように」
 その何か含みのありそうな言い方に、澪は漠然とした不安を感じた。上目遣いでバックミラーを見ながら尋ねる。
「お母さまは後悔しているの?」
「生きていれば誰でも多少の後悔はあるわよ。どんなに真剣に考えたつもりのことでもね。言っておくけれど、後悔しているのは大地との結婚のことではないのよ。だから、あなたがそんな顔をする必要はないの」
「う、うん……」
 自分の気持ちをすべて見透かされていたようで、澪はきまり悪さに肩を竦めてうつむいた。
 今度は遥が口を開く。
「母さんが研究に打ち込んでいるのは、後悔しないため?」
「……ええ、そうよ」
 信号が青に変わった。美咲はゆっくりと車を発進させる。
「あなたたちにとって良い母親でないことはわかっているわ。でも、どうしても研究をやめるわけにはいかないの。子供より研究を優先だなんて、恨まれても仕方ないと思っているけど」
「これっぽっちも恨んでなんかないよ。むしろ、お母さまのこと誇りに思ってるから」
 澪はこぶしを握りしめて静かに力説した。遥もきっと同じ気持ちだろう。寂しいと思うことはあっても、恨むなど絶対にありえない。一般的な母親像とは違うかもしれないが、自分にとっては自慢の母親なのだから――。
 美咲は何も言わず、ただ薄く微笑むだけだった。

 道を曲がるにつれて道路は狭くなり、それに比例して車通りも少なくなっていった。切り立った海沿いの坂道を上りきったところで、鬱蒼とした脇道に入り、その奥にある小さな駐車場に車を停める。さらにその奥の、森にひっそりと隠されたような白い建物が、澪たちの目的の場所だった。
 財団法人 生体高エネルギー研究所――。
 それは、美咲が所長を務める、美咲の研究のために作られた研究所である。橘財閥と橘剛三個人の財産拠出により設立されたと聞いている。その潤沢な原資のおかげで、存分に研究ができ、結果につながったという側面もあるようだ。
 澪と遥は、ここで定期的に健康診断を受けている。
 小さな子供の頃は、月に一度のペースで受診していた。今は三ヶ月に一度くらいだが、それでも一般的な基準と比べれば多い方だろう。なぜそれほどに頻繁に、なぜわざわざ研究所で――澪はこれまで何度も尋ねたが、納得のいく答えが返ってきたことはなかった。
 美咲とともに、二人は研究所に向かって歩く。
 ほとんど凹凸もなく窓らしい窓さえ見当たらない、ただ真っ白な箱のような外観は、人を寄せ付けない冷たい雰囲気を醸し出していた。
 実際、入口では厳重なセキュリティチェックが行われている。外につながる入口は二重扉となっており、外側の扉はIDと静脈認証、内側の扉は声紋認証で、そこを通過しなければ研究所内に入ることができない。もっとも同行者についてはこの限りでないが、事前に申請して許可を得なければならず、未申請の者がいると内側の扉が開かないらしいのだ。
「ここはファントムでも攻略するの難しそうだよね」
「ファントムは絵画のないところには侵入しないよ」
「それはわかってるけど、もしもの話ね」
 澪は背筋を伸ばして後ろで手を組み、隣の遥にニコッと笑いかけた。現実にありえないことはわかっている。だが、怪盗ファントムならどうやってこの難関を突破するだろうか、悠人ならどんな思いがけない作戦を立てるだろうか、と考えてみることが楽しいのだ。
「やっぱり、さすがにここは無理かなぁ?」
「きっと何か手段はあると思うよ。それを見つけられるか見つけられないかってだけのこと。完璧なセキュリティなんて存在しないって篤史も言ってたし。二人でここの実験データを盗む作戦でも考えてみる?」
「それ面白そう!」
 悪戯っぽく口もとを上げて提案した遥に、澪はパッと顔を輝かせて答えた。
 しかし、前を歩いていた美咲は、苦笑しながら二人を窘める。
「あなたたち、家の外でそういう不穏な会話はやめなさいね」
「あ、そっか」
 澪はそう言って肩をすくめる。怪盗ファントムについては他言無用だとわかっているが、身内だけの安心感からか、誰かに聞かれる可能性も考慮しないで話題にのぼらせてしまったのだ。それに乗ってしまった遥も、少しばつが悪そうに笑みを浮かべていた。

 三人は蛍光灯がともる無機質な廊下を進んでいく。
 子供の頃、澪は今のように美咲に連れられていく途中、渋る遥を連れて逃げ出したことがあった。探険と称して勝手に研究所内を走り回り、あちらこちらの部屋を覗こうとしたのだ。もっとも、ほとんどは鍵がかかっていて開けられなかったのだが、美咲には随分こっぴどく叱られてしまった。それ以来、無断で研究所内をうろついたことはない。だからといって美咲が案内してくれたこともなく、何度も訪れてはいるが、実際に研究しているところは一度も見ていないのである。
 やがて、美咲は「医療室」のプレートが掲げられた部屋の前で足を止め、軽くノックして扉を開けた。
「お疲れさま、石川さん」
「お疲れさまです。いらっしゃい、澪ちゃん、遥くん」
 美咲に続いて入った澪たちを、カルテを手にした白衣の男性がにこやかに迎える。彼はここの副所長であると同時に、美咲の共同研究者でもあると聞いている。そして、医師免許を持っているためか、澪たちの健康診断の担当でもあった。
「こんにちは、石川さん。今日はよろしくお願いします」
 澪が礼儀正しく挨拶をすると、遥も無言ながら軽く会釈した。
 こちらこそよろしく、と石川は穏やかな笑顔で応じながら、仕切りの薄いカーテンを開く。いつものように準備はすでに整えられていた。手前には種々の測定器が所狭しと据え置かれ、奥には心電図検査用の機器とともにパイプベッドが二つ並んでいる。
 健康診断の内容はごく一般的なものだ。
 基本的な身体測定、血圧測定、尿検査、血液検査、心電図くらいである。胸部エックス線検査については、学校の健康診断で必要十分であるため、ここでは行わないと言っていた。あとは、石川が気になるところを対面で診察するくらいだ。
「それでは検診お願いしますね」
「お任せください」
 柔和ながらも頼もしく答える石川に、美咲は口もとに微笑をのせて目を細める。そして、肩より少し長い黒髪をさらりと揺らして踵を返すと、タイル張りの床にパンプスを響かせながら医療室を出て行った。

 その日も健康診断は無事に終わった。
 結果が後日になるものもあるが、判明している限りでは、どこにも異状はないということだ。三ヶ月前に異状なしと診断されたばかりで、そのあと自覚症状もないのだから当然だろう。
「次はまた三ヶ月後?」
 立ったまま上着の袖に手を通しながら、遥はぶっきらぼうに問いかけた。面倒に感じていることは、その口調からありありと伝わってくる。石川は少し申し訳なさそうに「そうだね」と答えて、大きな背もたれのついた回転椅子にゆったりと腰を下ろした。
「ここは自宅から遠いし面倒だろうけど、こまめに検査するのは悪いことじゃないよ。病気は早期発見が肝だからね。それだけ君たちは大切に思われてるってことなんじゃないかな」
「石川さんもこまめに検査した方がいいんじゃない? 血圧とか血糖値とか高そう」
「ちょっと、遥っ!!」
 あまりにも失礼すぎる彼の物言いに、後ろの長椅子で待っていた澪は、思わず弾かれるように立ち上がった。
 しかし、気持ちは何となくわかる気がした。
 彼もまた石川の説明には納得しておらず、だからこそ、あんなにも挑発的に切り返したのだろう。にもかかわらず、見た目そのままの温厚な性格である石川は、逆上することもなく、まいったなと頭に手をやり苦笑するだけだった。

「それじゃ、二人とも気をつけて帰ってね」
 研究所を出たところで、美咲は軽く右手を上げてにこやかに見送る。帰るのは澪と遥の二人だけで、仕事がある美咲はここに残るのだ。ジャケットを白衣に着替え、黒髪を後ろで一つに束ね、すっかり研究者の姿になっている。
「お母さまも体には気をつけて」
「ええ、ありがとう」
 休日もないくらい研究に没頭している母親のことが、澪は本当に心配だった。今のところ大きく体を壊したことはないらしいが、このまま無理を続けていればどうなるかわからない。たまにはゆっくり休暇を取るように言っても、そうね、と気のない曖昧な相槌を返すだけである。研究のためには一分一秒も惜しいようなのだ。そんな彼女の傍らに、常に医師の石川がついていることがせめてもの救いである。
 澪たちは美咲と別れて駐車場に降りていく。
 その途中、遥は携帯電話でタクシーを呼ぼうとしたが、澪はそっと手を掛けてそれを制止した。
「今日は歩いて帰らない?」
「……家まで?」
 少しの間のあと、遥は怪訝に眉をひそめて尋ね返した。澪は笑いながら答える。
「まさか。坂を下りたところにバス停があったよね。そこからバスと電車を乗り継いで帰れるかなって」
 さすがに自宅まで徒歩だと今日一日つぶれてしまうだろう。歩いてとは言ったものの、そこまで無謀なことは考えていなかった。しかし、バス停まででも結構な距離があり、さらにそこから乗り継ぎつつ帰るとなると、軽く見積もっても二時間はかかりそうだ。
「なんでそんな面倒なことしたいわけ?」
「んー、何となくそういう気分。ダメ?」
「まあいいけど……」
 今ひとつ納得のいかない様子ながらも、遥はとりあえず了承してくれたようだ。携帯電話を折り畳んでズボンのポケットにしまうと、木々の生い茂る細道を歩き始める。澪は小走りで隣に並んで歩調を合わせた。

「今さらだけど面倒だよね。三ヶ月ごとに健康診断なんて」
 ほとんど車通りのない崖沿いの道路を、二人はゆったりと並んで歩いていた。大きく開けた海側に目を向けると、荒れているというほどではないが、暗色の海面が不規則に波立っているのが見えた。対照的に、上方には優しい色の秋空が広がっている。そこにかかる薄い雲は、緩やかに形を変えながら流れていた。
 遥は遠くを見つめて口を開く。
「小さい頃は毎月だったよね。健康診断だけじゃなくて、点滴を打ったり、薬を飲まされたり」
「そうそう! あれ、いまだに何だったのかよくわからないんだけど、どこか悪かったのかなぁ」
 遥に言われて思い出したが、昔は健康診断だけでなく点滴も受けさせられていた。二人並んでパイプベッドに横たわり、オレンジ色の液体が一滴ずつ落ちていくのを、何時間も眺めていた遠い記憶がある。「元気になるおまじない」と母親が言っていたことからも、何らかの治療であることは間違いないだろう。
 遥は目を細めてくすっと笑う。
「澪、よく言ってたよね。私たちもうすぐ死んじゃうよ、とか」
「だってそう思うじゃない」
 基本的には能天気なくらいに明るい澪だが、何か引っかかることがあると、突拍子もない極端な心配をする傾向がある。特に子供の頃はそれが顕著だった。
「死ぬような病気ではなかったにしても、毎月点滴を受けさせられてたんだから、多分どこかは悪かったんだろうね。僕たち二人ともってことは、遺伝性や生まれつきの何かかな。一応もう治ってはいるんだろうけど、今もそのことが心配で、こんなに頻繁に健康診断を受けさせてるんだと思うよ」
 遥は論理的な推測を述べる。
 しかし、澪は釈然としなかった。もしも本当に体のことを心配しているのなら、武術の訓練など、ましてや怪盗なんて危険なことをやらせはしないのではないか。矛盾というほどではないが、何かしっくりとこないのだ。
「私たちこんなに元気なのに、何が心配なんだろう?」
「さあ、母さんたちの取り越し苦労だといいんだけど」
 緩やかなカーブに差し掛かり、澪は引き寄せられるように道路の向かい側に渡った。いつも車中から視界に映していた崖沿いの風景を、あらためてじっくり見てみたかったのだ。長くまっすぐな黒髪をなびかせながら、大きく息を吸い込み、ガードレールに手を掛けて空を見つめる。あまりきれいとは言いがたい海から、ほのかな潮の匂いが風に乗って運ばれてきた。
「わぁ、ここけっこう怖いよ。落ちたら助からないかも」
 身を乗り出して真下を覗き込むと、岩肌が剥き出しの切り立った岸壁が見えた。波が叩き付けられるたび、弾けて白い泡が立っている。澪の後方で立ち止まっていた遥は、あからさまに嫌そうな顔で眉をひそめた。
「やめなよ、澪」
「大丈夫だって」
 下を向いたまま、澪はあははと笑って答える。
「澪!!」
 突然、遥は焦燥した鋭い声を上げると、驚くほどの力で澪の上腕を引いた。澪がよろめいて転びかけても手を離そうとせず、切羽詰まった様子で必死にあたりを見回している。
「ちょっと、どうしたの?」
「いいから来て!!」
 遥は問答無用で澪を連れて道路を横切り、群生するすすきに飛び込んで身を潜める。
「な……」
 なんなの? と言いかけた澪の口を、後ろから遥がふさいだ。その胸に寄りかかる格好になりながら、澪は背後の彼に疑問の眼差しを向ける。その答えの代わりに、静かに、という囁き声が耳元に落とされた。
 遠くからバイクのエンジン音が聞こえた。
 息をひそめて、黄金色のすすき越しに目を凝らす。バイクはあっというまに前を通り過ぎ、視界に入ったのは一瞬だったが、それだけで遥が何を警戒しているのか理解した。そのバイクに乗っていた人物は、以前、澪や遥をじっと観察していた男に違いない。フルフェイスのヘルメットで顔は見えなかったが、そのヘルメットもバイクも同じで、長身のすらりとした体型もそっくりなのだ。
 とりあえず、気づかれなかったことに澪は安堵した。
 遥はいまだに警戒を解いていないようで、険しい表情のままだったが、澪の口をふさいでいた手は外してくれた。ほっと息をついた澪に「待ってて」と耳打ちすると、慎重にすすきを掻き分けて顔を出し、バイクが走り去っていった方向を確認する。
「大丈夫だよね?」
 澪は四つん這いになって彼の隣に進み、様子を窺おうと後ろから首を伸ばす。と、いきなり頭を強く押さえつけられて地面に崩れ落ちた。
「な、なにっ?」
「静かに!」
 遥も、隣で顔をこわばらせて頭を低くしている。
 ブロロロロ――。
 坂の上方から先ほどと同じエンジン音が聞こえてきた。次第に大きくなる。どうやら、いったんは通り過ぎた例のバイクが戻ってきたようだ。二人は息を止めて、再び通り過ぎるのを待った。
 しかし、そのバイクは澪たちの前で止まった。
 男はエンジンをかけっぱなしでサイドスタンドを下ろし、フルフェイスのヘルメットを外した。20代くらいだろうか。どちらかというと色白で、すっと通った鼻筋、薄い唇、理知的な鋭い眼差し――精悍というよりは、整ったきれいな顔という印象だ。長めの前髪をざっくりと掻き上げながら、ヘルメットを片手で掴み直すと、何かを探るような目つきでゆっくりと振り向く。まるで、そこに澪たちがいることを知っているかのように。
 どうして――?
 澪は地面に伏せたまま身震いした。遥が勇気づけるようにその肩を抱いたが、彼の手も心なしか震えているように感じた。固唾を呑んで、二人は生い茂るすすきの隙間を凝視する。
 男は目を細めると、澪たちの方へ足を踏み出した。
 澪はごくりと唾を飲んで胸に手を当てた。心臓が壊れそうなほど強く打っている。何が起こっているのか、どうすればいいのか、頭の中は真っ白で何も考えられない。そのとき、肩に置かれた手がトントンと小さく動き、呼ばれるまま息を詰めて振り向く。
 遥は真剣な顔でバイクを指差していた。
 それだけで、澪は言わんとすることを理解した。そう、あの男の思惑はいまだにわからないが、今やらなければならないのは自分たちの身を守ること。そのためには手段を選んでいられない。二人は目を見合わせて互いに頷き、音を立てないようにそろりと身構える。
 とうとう男は道路脇までやって来た。茂みを掻き分けようと手を伸ばす。
 その瞬間、二人は一斉に地面を蹴って飛び出した。澪は握っていた砂を男の顔面に投げつけ、怯んだ隙に、側頭部に全力で回し蹴りを放った。それは見事に直撃する。男はよろけながら小さな呻き声を上げ、崩れるように片膝をついた。フルフェイスのヘルメットが、アスファルトの道路に弾んで転がっていく。
「澪!!」
 遥はサイドスタンドを跳ね上げて男のバイクにまたがり、急かすように名前を呼んだ。そして、澪が後部座席に飛び乗ったのを確認すると、いまだ目が開けられないその男を残し、丁寧にゆっくりとバイクを発進させる。
「待て、おまえらっ!」
 男は片目をつむり顔をしかめたまま、よろよろと走り出す。
「追いかけてくるよ!」
「追いつけっこないよ」
 遥の言うとおり、心配する必要などなかった。こちらは大型バイクで、向こうは駆け足なのだ。当然のように、男との距離はみるみる開いていき、やがてカーブを過ぎて姿も見えなくなった。

 遥は無言でバイクを走らせている。
 彼の広くはない背中に頬を寄せ、澪は、その腰にまわした手にぎゅっと力を込めた。長い黒髪が風になびいて大きく舞い上がる。少し肌寒さを感じたものの、正面から風を切っている遥に比べれば、きっとだいぶましなのだろうと思う。
 やがて、澪が向かおうとしていたバス停に着いた。遥はそこでバイクを止める。
「バイクはここまで」
「どうして?」
 澪は首を傾げ、後ろから遥の横顔を窺う。
「ノーヘル、無免許、盗んだバイク。これで町を走るわけにはいかないよ」
「あ、そっか」
 バイクの乗り方は教わった遥だが、まだ免許は取得していなかった。ヘルメットも被らず走っていれば、間違いなく警察に止められ、無免許もバイク盗難も露見することになるだろう。澪はバイクの後部座席から降りると、腕時計を確認し、バス停のポールに掲示されている時刻表を覗き込む。
「良かった、あと五分くらいでバスが来るよ」
 一時間に一本くらいしか来ないようだが、幸いそれほど待たずに済みそうだった。
 遥はエンジンを切ってサイドスタンドを下ろし、澪の方へ足を進めると、今にも触れ合いそうな距離で肩を並べた。その表情は少し硬く見える。どうやら、まだ完全には気を緩めていないようだった。
 冷たい風が二人の正面から吹き付ける。
 大きく乱れる黒髪はそのままに、澪は視線を落として切り出した。
「あの人、私たちを追ってあそこまで来たのかな」
「さあ、そういう感じには見えなかったけど」
 男がやって来たのは澪たちが帰る頃である。後をつけてきたにしては遅すぎるだろう。今日の健康診断については家族と研究所の人間しか知らず、男がその情報を掴んでいたとも思えない。澪は小首を傾げて遥に振り向く。
「じゃあ、ただの偶然?」
「あの先に用があったのかもしれないね」
「あの先……それって、研究所のこと?」
「それはどうだかわからないけど」
 澪と遥を付けまわしたうえ、研究所周辺までうろつくなど、いったい何が目的なのだろうか。まるで着々と包囲網を敷かれているようで、そのうち絡め取られてしまうのではないかと不安になる。
「大丈夫かな……」
 思わず、そんなかぼそい独り言が口をついた。遥は無言のまま澪の頭をそっと引き寄せる。その手から伝わる心地よい温もりに、澪もただ黙って身を委ねていた。
 薄汚れた路線バスが、急ブレーキをかけて澪たちの前で止まる。
 折扉が開くと、乗客のいないガランとしたその中に、二人は手を取り合って駆け込んだ。すぐに、バスは荒っぽい運転で走り出す。揺れる視界の先で、置き去りにしたバイクが次第に小さくなるのを、二人は立ったまま並んで見送った。
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