東京ラビリンス

瑞原唯子

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12. 師匠の腕の中

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「何もいきなり殴ることはないだろう」
 澪が怒りまかせにズンズン進んでいく後ろで、誠一は顔をしかめて側頭部をさすりながら、それでも遅れないように早足でついてきていた。その隣には仏頂面の遥も歩いている。だが、一緒に帰るはずだった綾乃たちの姿は見当たらない。事態がややこしくなるのを避けるため、ついて来ないよう遥が説得してくれたのだ。
「その鞄、やけに重量感あるけど何が入ってるんだ?」
「教科書に決まってるでしょう?!」
 澪は思いきり肩をいからせ、振り返りもせず歩き続ける。その怒りは一目瞭然のはずだが、誠一は悪びれる様子もなく、原因となった話をさらりと蒸し返す。
「で、パンツなんだけど」
「さっきからパンツパンツって何なの?! 私にだけこっそり言うならまだしも、学校のみんなの前であんな大声で叫ぶなんて……綾乃たちの間では、誠一のあだ名はパンツ男に決定よ!」
「まあ自業自得だな」
 誠一は軽く肩をすくめながら答えた。が、澪からすれば的外れもいいところである。カッと頭に血を上らせると、勢いよく黒髪を舞わせてくるりと振り返り、彼の鼻先に人差し指を突きつけてズイッと詰め寄る。
「あのね、困るのは誠一じゃなくて私なの! 誠一は綾乃たちと会わないからいいだろうけど、私は、パンツ男は元気ぃ? パンツ男はどうしてるぅ? とか、死ぬまでずっとからかわれ続けるのよ?!」
「死ぬまでって大袈裟だろう」
「もうっ! 少しは責任感じてよ!!」
 澪は本気でその事態を懸念していたのだが、誠一は真剣に受け止めてくれなかった。まあまあ、とちょっと困ったように苦笑しながら、沸騰寸前の澪をひたすら宥めるだけである。
 二人の隣で、遥が面倒くさそうに溜息をついた。
「誠一、まず事情を説明してくれない? 理由も言わずにパンツ見せてじゃ、ただの変態だよ」
「ああ、そうだな……」
 誠一は真面目な顔になって思案し始めた。その様子を見て、澪は急激に緊張が高まるのを感じた。彼がなぜこんなことを頼みに来たのか、だいたいのところは見当がついている。それは、おそらく――。
「きのうのことなんだが……偶然、怪盗ファントムに遭遇してな」
「それってコンビニ強盗を捕まえたときの?」
 遥は白々しくそんなことを尋ねる。
「ああ、ニュースでやってたから知ってるかもしれないが、そのコンビニ強盗犯が逃げ込んだビルの屋上に、待機中の怪盗ファントムがいてな。捕まえようとしたんだが、あと一歩というところで逃げられてしまったんだ」
 冷静な声音に悔しさが滲んだ。しかし、誠一はすぐにパッと表情を晴らす。
「でもそのとき、ファントムのスカートが風でめくれて、パンツが丸見えになったんだよ。暗かったしハッキリとは見えなかったけど、そのパンツが澪の勝負パンツによく似ていたんだ」
「べ、別に勝負パンツじゃないし!」
 澪はゆでだこのように顔を赤らめて否定した。同じものをたくさんまとめ買いしたので、それを穿いていることが多いだけである。誠一と会うから特別なものを選んでいるわけではない。だから、きのうも偶々それを穿いていたのだが――。
 誠一は軽く流して話を続ける。
「まあ、そのときは似てると思っただけなんだが、さっきこれを見て……」
 そう言って、懐から小さく折りたたんだ新聞を取り出す。例のスポーツ紙だ。中面を外側にしてあったようで、広げるまでもなくパンツ写真が目に飛び込んできた。
「きゃあっ!!」
 澪は悲鳴を上げ、誠一の手からそれを奪い取った。
「広げてみればわかると思うけど、それ、澪じゃなくて怪盗ファントムだからな。でもこれ同じパンツだろ? レースの形や付き方、股上の長さ、脚ぐりの角度、どれをとっても澪のとまったく一緒なんだよ」
「どれだけよく見てるのよ、ヒトのパンツ!」
 もちろん見られていることはわかっていたが、ここまで詳細に観察されていたのかと思うと、あらためて何ともいえない恥ずかしさがこみ上げてきた。そして、こんなことまで覚えている彼の記憶力を恨めしく思う。
 誠一は顔の前で両手を合わせた。
「頼む! ファントムを捕まえるための貴重な手がかりなんだ」
「イヤよ! そんな怪盗なんて、私にはどうでもいいもん!」
「冷静になれよ。どうしてそう嫌がるんだ? 今さらだろ……」
「今さらって何よ! 恥ずかしいものは恥ずかしいの!」
 澪は頑として首を縦に振らなかった。恥ずかしいというのはもちろんそうだが、意地になっていた部分もあるのかもしれない。しかし、冷静に考えてみたところで、結論が変わることはないだろう。自分の正体を暴くための手がかりを、刑事である彼に提供するわけにはいかないのだから。
「澪のパンツが捜査にどう役立つわけ?」
 遥が半ば呆れたようにじとりとした目を向け、懐疑的に尋ねる。
 だが、誠一は曲がりなりにも捜査一課の刑事であり、さすがにそのあたりはきちんと考えてあった。
「怪盗ファントムが穿いていたパンツを確認したいんだ。澪に見せてもらって新聞の写真と照合する。同じものであれば、そのパンツを貸してもらって、ひとつひとつ販売店を聞き込みにまわろうかと」
「イヤーー!! 絶対に嫌っ!!!」
 澪は両手で頭を押さえて絶叫した。百歩譲って誠一だけに見せるのならまだしも、それを持って聞き込みにまわるなど冗談ではない。拷問にも等しい行為だ。しかし、誠一はそんな乙女心など理解しようともしない。
「捜査協力は国民の義務だぞ」
「国家権力の横暴だわ!」
 澪は奪い取ったスポーツ紙を握りしめて反論する。よくある売り言葉に買い言葉だ。どちらも歩み寄ろうとしないので、いつまでたっても平行線を辿るだけである。そんな二人の応酬を眺めながら、遥はベッドに腰掛けたまま溜息を落とした。
「あのさ、それ本当に捜査なの?」
「えっ?」
「誠一は捜査一課だよね? 怪盗ファントムの担当じゃないと思うんだけど」
「あー……えっと、それはその……」
 誠一は急にしどろもどろになった。斜め上に視線を逃がしつつ、人差し指で頬を掻く。
 遥は容赦なく畳みかけるように追及する。
「捜査二課に協力しているわけでもないよね。さっき学校の警備員と揉めてたとき、警察手帳を見せるどころか、刑事であることすら言わなかったし。それってやっぱり正式な捜査じゃないからでしょ? 職務じゃなければ職権濫用になるからね」
「君は本当に鋭いな……」
 誠一はぐったりと肩を落として呟く。
 彼が怪盗ファントムの担当でないことは、澪も以前に本人の口から聞いていた。しかし、感情的になるあまり、すっかり失念してしまっていたのだ。もっとも、覚えていたとしても、遥のように上手くは追いつめられなかっただろう。
「そういうわけだから、誠一に協力することはないよ」
「そ、そうなんだ……」
 いくらかの申し訳なさを感じながらも、澪はひとまず胸を撫で下ろした。
 しかし、誠一も刑事の端くれである。手がかりを目の前にしながら、そう簡単に引き下がりはしない。
「なあ、堅いこと言わずに協力してくれよ。刑事としてでなく俺個人として頼むよ。怪盗ファントムをギリギリのところで取り逃がして悔しいんだ。二課の連中にもさんざん嫌味を言われたし、できることなら、俺のこの手で捕まえて汚名返上したいんだよ」
「それは……気持ちはわかるけど……」
 情に訴えられると澪は弱い。あれほど頑なに拒んでいたのに、ここへきて少し気持ちがぐらつき始めた。好きな人が汚名を着せられているのであれば、力になりたいとは思うが、だからといって捕まることはできないわけで――。

 ビッ、ビーー。
 クラクションが鳴り、一台の車がゆっくりと澪たちの隣に滑り込んで止まった。エンジンが緩やかに唸り続ける中、助手席のパワーウィンドウがゆっくりと下り、そこからスーツ姿の男性が身を乗り出して顔を覗かせる。
「師匠!」
 澪は大声を上げて目をぱちくりさせた。悠人はいつも大通りの方を走っており、この住宅街を通ることはほとんどなく、それゆえまさか彼だとは予想もしなかった。
「女の子が往来でパンツパンツ叫ぶものじゃないよ」
「あっ……すみません……」
 まさか聞かれているとは思わなかった。一体いつから聞いていたのだろう――そんな疑問を感じながらも、澪は身を小さくして素直に謝る。その殊勝な態度を見て、悠人は満足げににっこりと微笑んだ。しかし、隣へ視線を移すと、あからさまに鋭く攻撃的な顔つきに変わる。
「警視庁捜査一課の南野誠一さん、でしたね」
「はい……」
 誠一はつられるように表情を硬くして、緊張ぎみに頷いた。
「えっ、二人は知り合いなの??」
「一度、顔を合わせただけだよ」
 目をぱちくりさせながら尋ねた澪に、悠人は事も無げにさらりと答える。どういう経緯で会ったのか、いったい何の用件だったのか、会ってどんな話をしたのか――澪としては気になることがいろいろあったが、それを言葉にする間もなく、悠人は誠一との会話に戻ってしまう。
「それで、ウチの澪と遥が何か?」
「いえ、澪さんに捜査協力をお願いしていたところで……」
 誠一が少し言葉を詰まらせると、悠人はすかさず割り込んだ。
「南野さん、あなたもご存知だとは思いますが、澪は現在17歳で未成年です。そういったご用件でしたら、澪に直接尋ねるのではなく、私を通してにしていただけますか?」
 丁寧でありながら毅然とした口調。その威厳すら感じる凛とした雰囲気に、誠一は完全に圧倒されていた。気を取り直すかのように、ごくりと唾を飲むと、おそるおそるといった様子で尋ねる。
「お父さま、ですか?」
「保護者代理といったところです。この子たちの両親はどちらも忙しいのでね」
 一般的な話でないためピンと来なかったのだろう。誠一が怪訝な目をよこしたので、澪は無言のまま頷いてみせる。両親が忙しくてあまり一緒にいられないということは、誠一にも何度か話したことはあったが、保護者代理やそのあたりの事情までは説明していなかった。
「乗ってください、南野さん。澪と遥も」
「え……?」
「こんなところで立ち話も何ですから、続きは家でしましょう」
 誠一は傍目にもわかるくらい緊張していた。その隣で、澪は困ったことになったと顔を曇らせる。何かと鋭い悠人のことだ。こうなってしまっては、誠一が彼氏だと気付くのも時間の問題だろう。もしかしたら、もうすでに察しているのかもしれない。
 鉛色の空は、今にも雨粒が落ちてきそうなくらいに、どんよりと重く垂れ込めていた。

 悠人は濃色のスーツを身につけたまま、革張りのソファに身を預け、悠然とした所作でコーヒーを口に運んだ。その向かいで、誠一は出されたコーヒーに口もつけず、背筋をピンと伸ばして座っている。ローテーブルの上には互いの名刺が置かれていた。
「南野さん」
「……はい」
 カチャリ――コーヒーカップをソーサに戻す音が、やけに大きく応接間に響いた。悠人はゆっくりと膝の上で両手を組み、体を起こすと、正面から隙のない眼差しで誠一を見つめた。
「澪にどのような捜査協力をお求めでしょうか?」
「怪盗ファントムに関することなんですが……」
 誠一がそう切り出すと、悠人はふっと鼻先で笑った。
「また怪盗ファントムですか。担当でもないのに、随分と執着していらっしゃる」
「…………」
 最初に悠人と顔を合わせたときも、誠一は担当外である怪盗ファントムの捜査をしていた。これでは不審がられても仕方がない。しかし、悠人は不審に思うというよりも、むしろ呆れているような感じだった。
「私の関知することではありませんがね。それで?」
「はい、その怪盗ファントムが穿いていたパ……下着と同じものを澪さんがお持ちだったので、確認させていただけないかと思いまして……」
 そう答えながら、誠一は懐からスポーツ紙を取り出し、半分ほど広げて机の上に置く。澪が乱暴に奪って握りしめたせいで、だいぶ紙面が皺になっているが、怪盗ファントムのパンツは問題なく確認できた。悠人は無表情でそれを一瞥すると、口を開く。
「なぜ、そのようなことをご存知で?」
「えっ?」
 誠一は顔を上げた。悠人は彼を見つめたまま、補足しながら言い直す。
「なぜ、あなたが澪の持っている下着をご存知なのかと」
「あ……」
 たちどころに誠一の顔から血の気が引いた。もちろん覗きや盗撮をしたわけではないのだが、本当のことなど言えるはずもなく、ただ口を引き結んでうつむくしかない。重苦しい沈黙が続く。前髪のかかった額にも、膝で握ったこぶしにも、じわじわと嫌な汗が滲んできた。
「まあいいでしょう」
 対照的に、悠人は怖いくらいに冷静だった。
「それで、まさか澪を疑っているわけではないでしょうね」
「いえっ、そのようなことは決して……」
 誠一は即座に否定すると、少し呼吸を整えてから続ける。
「ただ、間違いがないか確認させてもらって、同じであればその下着をお借りしたいと」
「澪は嫌がっているのでしょう?」
「はい……しかし……」
「私も認めるわけにはいきません」
 悠人は毅然と冷ややかに一蹴する。しかし、それだけでは終わらなかった。
「同じものかどうかは、澪にその新聞を見せて確認させます。同じであればメーカーをお教えします。あとはメーカーの方に問い合わせれば、捜査に必要な情報は揃うでしょう」
「は……はい……」
 その的を射た提言に、誠一は萎縮して消え入りそうに返事をした。確かにこれなら澪に嫌な思いをさせずにすむ。今のところ正式な捜査ではないので、メーカーへの問い合わせを無意識的に避けていたが、二課に協力を仰ぐなど方法はいくらでもあるだろう。
「それでよろしいですね?」
「ありがとうございます」
 悠人に念を押されると、誠一は慌てて礼を述べて頭を下げた。ここへ連れてこられて以降、顔にも体にもずっと無駄な力が入っていたが、ようやくほっと息をつくことができた。しかし、彼は最も懸念すべき大事なことを忘れていた。
「南野さん、最後に一つだけ言っておきます」
「はい……?」
 やや間の抜けた声を返した誠一に、悠人はまっすぐ視線を向ける。
「あなたと澪のことを認めたわけではありませんから」
 口調こそ穏やかに聞こえたものの、瞳は冷たく、反感を募らせていることは明白だった。それどころか、絶対に許さないという気迫さえ感じた気がした。まだ少し話をしただけの段階で、なぜそこまで――今の誠一に、その真意を察する術はなかった。

「じゃあ……はい、これあげる」
 悠人の指示で、澪はスポーツ紙の写真を一通り確認したふりをすると、渋々ながらカタログを取り出して誠一に手渡した。有名女性タレントを使った可愛らしくスタイリッシュな表紙で、そうと知らなければ、下着のカタログということはわからないかもしれない。
「通販?」
「そう、お店でも売ってるみたいだけど」
 注文したものがどこに掲載されているかは、ページの隅を折り曲げてあるので、わざわざ教えずともすぐにわかるはずだ。怪盗ファントムの手がかりを与えることに不安はあったが、悠人によれば、決定的な証拠とはなりえないので心配いらないらしい。それどころか捜査を攪乱できるとまで言っている。どういうことなのかはよくわからないが、悠人が言うのであれば間違いないだろう。何はともあれようやく決着がついた――澪は腰に手を当て、肩を上下させて深く溜息をついた。
「やだ! あとで見てよ!」
 さっそく誠一はカタログをめくっていた。思わずカッと頬を赤らめて手を伸ばし、無理やりカタログを閉じさせる。彼は悪かったと言いつつ苦笑していた。おそらく過剰反応だと思っているのだろう。そのデリカシーの欠片もない態度に、澪は唇をとがらせて腕を組んだ。
「誠一、師匠に何か言われた?」
 澪のベッドに腰掛けていた遥は、立ったままの澪たちを眺めながら投げやりに尋ねる。その瞬間、思い当たることがあったのか、誠一の表情ははっきりとわかるくらいに凍りついた。
「何かって……?」
「バレたよね、澪と付き合ってること」
「あ、ああ……まあそうらしいが……」
 そのことは澪も覚悟していたが、悠人を信じていたので心配はしていなかった。というより、信じたいので心配しないようにしていた。だが、誠一の態度があからさまにおかしいのを見て、急に不安の波が押し寄せる。
「何か、言われたの?」
「……認めてないって」
 誠一は硬い声でぼそりと答えた。
 しかし、澪からしてみれば、そのくらいとうにわかりきっていたことである。相手が誰であっても認めるとは言わないだろう。それだけかと安堵する気持ちもあるが、面と向かって彼に言ったのだと思うと、やはり胸のざわつきは止められない。誠一は理解していないだろうが、ある意味、宣戦布告のようなものだから――。
「当然だよね」
 束の間の静寂を破り、遥は醒めた目を誠一に向けた。
「師匠からすれば、誠一なんてただの頼りない男にしか見えなかっただろうし、こんなのに澪を任せられない、澪は自分が幸せにするんだって、そんなふうに思ったんじゃないかな」
「ちょっと、遥!」
「それはどういう……」
 何を言い出すのかと慌てる澪の隣で、誠一は怪訝に眉を寄せて尋ねかけた。
 遥は気怠そうにベッドに手をつき、天井に顔を向ける。
「師匠は澪のことが好きで結婚したいと思ってて、ついでにいえば澪の初恋も師匠で、何となくウチの家では公認みたいになってるんだよね。つまり、正式に決まったわけじゃないけど、いわゆる婚約者みたいなものかな」
「いい加減なこと言わないで!」
 たまらなくなって、澪は感情的に言い募った。
「澪……遥の言ったことって……」
「婚約者なんかじゃないから! 初恋だって小学生のときの話だし」
 表情の曇った誠一を安心させようと、澪は精一杯の笑顔を作って釈明する。しかし、さすがに嘘をつくわけにはいかず全否定まではできなかった。そのせいか、誠一の眉はますます不安そうにひそめられる。
「でも、彼の方は澪のことを……」
「大丈夫、私、頑張るから!!」
「頑張るって……何を?」
 その単純な問いかけに、澪は何も答えられなかった。半開きの口を閉じてうなだれる。悠人や剛三に認めてもらわなければならないが、具体的に何をどう頑張ればいいかはわかっていない。意気込みだけが空回りしている状態である。
 遥はじっと誠一を見つめた。
「それだけ澪と誠一が付き合うのは難しいってことだよ。澪がどういう家に生まれたのかわかってるよね? 立ち向かう覚悟がないんだったら身を引いた方がいい。僕からの二度目の忠告」
 誠一は何も言わずに表情をこわばらせた。凍りついたように微動だにしない。その顔からは次第に血の気が引いていく。彼が何を感じているのか、何を思っているのか、それを考えると澪の背筋はゾクリと震える。まさか、遥の忠告を聞こうとしているのでは――。
「あの、遥は大袈裟に言ってるだけだから……気にしないで、ね?」
「そう……か……」
 澪がおずおずと覗き込んで小首を傾げると、誠一はぎこちなく曖昧に言葉を落とした。どういう結論を出したのかわからない。まだ悩んでいるのかもしれない。澪の不安は募る一方であるが、問い詰める勇気もなく、ただひたむきに信じるより他になかった。

「どうしてあんなこと言ったの?」
 冷たい風が、コートを忘れた体から体温を奪っていく。
 澪は門を出たところで誠一を見送ったが、その姿が見えなくなると、振り向くことなく隣の遥にぽつりと尋ねた。『あんなこと』としか言わなかったが、それが何を指しているのか、彼には考えるまでもなくわかるだろう。
「覚悟があるかどうか、これでわかったよね?」
「いきなり言われたら誰でもビックリするよ」
 澪はカチンときて横目で遥を睨みつけた。しかし、彼の横顔は憎らしいくらい無感情だった。白い息を吐きながらズボンのポケットに両手を突っ込み、身を翻して歩き始める。
「逃げるようならそれだけの男ってこと」
「逃げたりなんか、しないよ……」
 澪はアスファルトの先を見つめながら、もうそこにはない後ろ姿を思い浮かべ、消え入るように小さく言葉を落とした。信じているはずなのに強く言い返せなかった。そんな自分がどうしようもなく腹立たしくて、体の横で握りしめたこぶしを小さく震わせる。
 遥は足を止め、顔だけ僅かに振り向いた。
「澪、もう戻ろうよ」
「……うん」
 澪は小さくこくりと頷いた。そして、意識的に息を吸ってから口を引き結ぶと、門を開けようとしていた彼のもとに駆けていった。目の覚めるような冷たい風が頬を打つ。それは、まるで弱気になった澪を叱咤しているかのようだった。

「あの、師匠……?」
 澪が声をかけても、悠人は微動だにせず窓の外を見つめていた。シャツの背中は少し皺になっている。
 すべてが済んだら応接間に来るように――悠人にあらかじめそう言われていたので、澪は誠一を見送ってここへ来たのだが、振り向くどころか返事さえしてくれなかった。当惑して戸口に立ち尽くしていると、彼は深く息をつき、背中を向けたまま静かに話し始める。
「悪い人ではなさそうだな。むしろ人が好すぎるくらいだ」
 冷静すぎるくらいに誠一のことをそう評すると、再び息をつき、ゆっくりと振り向いて窓枠にもたれかかった。そして、ネクタイの結び目に指を掛けて緩めながら、薄く苦笑して付言する。
「でも、まさか刑事だったとはね」
「お願い、おじいさまには内緒にしてください!」
 澪は長い黒髪をなびかせて悠人に駆け寄った。縋るように彼のシャツを掴み、切羽詰まった顔で見上げる。しかし、悠人はそっと視線を外して、どこか遠くを見やりながら考え込んだ。
「どうしたものかな……」
「約束したじゃないですか!」
「刑事とは知らなかったからね」
 少し笑いながらそう言うと、宥めるように澪の頭に優しく手を置く。だが、これしきのことで今の澪はごまかされない。シャツを掴む手に力を込め、さらに詰め寄って必死に訴えかける。
「私、怪盗ファントムのことは絶対に言いませんし、知られないようにします! だから……」
「嘘をつくのは苦手だろう?」
「出来ないわけじゃありません」
 確かに嘘をつくのが得意とは言いがたいが、今までだって何とか騙し通してきたのだ。
 しかし、悠人の顔にふと翳りが落ちた。
「彼は本気で怪盗ファントムを捕まえようとしている。それも職務ではなく自らの意志でだ。その彼と一緒にいて、笑い合って、嘘をついて……それで、君は楽しくいられるのか? 苦しくはないのか?」
「苦しくても耐えてみせます」
 怯むことなく強気に断言する澪を、悠人はじっと見つめ返す。
「……澪」
 不意に悠人の顔が近づいてきて、澪は思わず後ずさりかけたが、彼はただそっと額を合わせただけだった。そこから彼の体温が伝わってくる。懐かしい感覚、優しい温度、安心する匂い――よくそうしてもらった幼い日々のことが脳裏によみがえり、胸が熱くなった。
「僕では駄目なのか?」
 体の奥から絞り出すような声が、切なく響く。
「僕ならば、澪に苦しい思いをさせなくてすむ。何も秘密にすることはない。ありのままの澪でいてくれればいい。遥には負けるかもしれないが、それ以外の誰よりも澪のことを見てきたつもりだ。だから、誰よりも君をわかっているし、誰よりも君を想っているし、誰よりも君を幸せにする自信がある」
 悠人の言葉に嘘はないだろう。澪を大事にしてくれることは嬉しく、そして、ありがたく思っている。けれど――澪はそっと彼の胸元を押し、触れ合わせていた額を離してうつむく。
「私は、彼のことが好きなの……」
 心苦しさを感じながらも、以前と変わらない返答を口にのせる。他にも伝えたい気持ちはあるのだが、胸の内でわだかまるばかりで言葉にならない。そのもどかしさにきゅっと唇を噛む。
「君たちの仲を引き裂くことは容易だが……」
 頭上から降ってきたのは、先ほどまでとは別人のような冷たい声。
 ビクリ、と澪の体がすくんだ。
「そうではなく、出来ることなら君の意志で僕を選んでもらいたい」
 そう言って、悠人は澪の背中に手をまわし、包み込むように優しく抱きしめる。逃れようとすれば出来たはずなのに、澪は為すがまま、悠人の広く大きな胸に寄りかかった。あたたかい。このまま何も考えることなく、ただ子供のように甘えていたかった。幼かったあの頃のように――。
「しばらく待つよ。春までには答えを出してほしい」
 その声で現実に引き戻される。
 澪に選択を委ねてはいるものの、行き着く先はひとつしかない。与えられたのは心の準備をする時間だけ。おそらく、どう足掻いてもこの腕の中からは逃れられない――そのことに、澪は薄々気付き始めていたが、きちんと向き合うだけの勇気はまだ持てずにいた。そっと目を閉じ、縋るように彼のシャツをぎゅっと掴んだ。
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