青い炎

瑞原唯子

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14. 私たち二人だけの秘密ね

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 うだるように暑い夏の午後。
 じりじりと肌を焦がすような強烈な陽射しの中、姿の見えない蝉の鳴き声を鬱陶しく感じながら、悠人は自転車を走らせて区立図書館に向かう。
 そこは自宅からも橘の家からも徒歩圏内にあるため、昔からよく利用していた。小学生のころは宿題をしたり本を読んだりして過ごすことが多かったが、大地と出会ってからは橘の家に入りびたっているので、図書館では基本的に本を借りるだけになっていた。由衣と付き合っているときにときどき一緒に勉強したくらいである。
 借りるのは、主に空き時間に読むための小説だ。
 図書館自体が小さいということもあり蔵書は少ない。それでも小説に限っていえば、話題のベストセラーはたいてい入るし、過去の名作も置かれているので、特に目的がない悠人はあまり不自由を感じていない。よく読むのはミステリだが、他のジャンル、たとえばSFやファンタジー、歴史、恋愛物などもこだわりなく読んでいる。

 自転車を駐輪場に止め、冷房の効きすぎた館内に入った。
 最初こそ灼熱地獄から逃れられて生き返った心地になるが、すぐに汗が冷えて寒くなる。悠人はそれが苦手だった。長居しないようにと急いで借りていた本を返却し、次の本を借りるため小説の書架に向かおうとする。そのとき、見覚えのある少女がふいに正面を横切っていった。
 あれは——。
 大地の妹になった美咲だ。まさかいるとは思わなかったので驚いたが、橘の家から近い公共の場所なのだから、いたとしても何の不思議もない。今日は大地が午後からアルバイトで出かけているので、一人で過ごすために来たのだろう。

 初めて彼女と顔を合わせてから、ひと月が過ぎている。
 しかし、二人のあいだにはいまだに挨拶以上の会話はない。悠人もそうだが、彼女も人付き合いに積極的な方ではないのだろう。大地や瑞穂に話しかけられるとにこやかに応じているが、彼女の方から話しかけているのは見たことがない。悠人も親しくない相手と無理に話をすることはない。それゆえ二人に会話がないのも致し方ないといえる。
 正直、大地の唯一特別という立場にあっけなくおさまった彼女が憎らしい。それでも受け入れるしかないということは、剛三に、大地に、もう十分すぎるほど理解させられた。愛想良くはできないが、せめて憎しみをぶつけてしまわないよう気をつけている。
 彼女も最初のころのように怯えることはなくなった。それでもまわりに人がいないときに悠人と会うと、会釈しながらもすこし気まずそうな顔をするのだ。彼女がどう思っていようと知ったことではないが、そういう表情を見せられるとつい苛立ちを覚えてしまう。もちろん態度に出さないようにはしているが——。

 目で追っていた彼女が、迷いのない足取りで階段を上っていく。
 児童用の書架は一階である。二階に向かったということは一般用の本を読むのだろうか。六年生ともなればそういう子はざらにいるし、悠人もそうだったが、ふいに彼女がどんな本を読むのか気になった。もともと二階へ行くつもりだったので、後をつけているわけではないと言い訳しつつ、足音を立てないよう意識しながら上っていく。
 彼女はまわりに目を向けることなく奥の方へ進んでいく。すぐに書架から数冊の本を選んで窓際に向かうと、カウンター型の閲覧席に座り、鞄から取り出したノートを広げて本を読み始めた。時折、熱心にシャープペンシルを走らせている。夏休みの自由研究でもしているのだろうと納得しかけたが、ふと彼女の前に積まれた本の表紙を目にして息を飲む。
 それは物理学の本だった。しかも誰でも読めそうな雑学系の読み物ではなく、高校物理の学習用だ。背後からそろりと距離を詰めて覗き込むと、ノートには問題を解いたと思しき数式が雑然と書かれていた。意味もわからずに写したものでないことは見ればわかる。
 よほど集中しているのか、悠人がすぐ隣に立ってもまったく気付いていない。本を見る彼女のまなざしは真剣そのもので、小学生とはとても思えず、狂気さえ孕んでいるような気がした。そう、彼女を描いたあの絵のように——まるで別人のように感じていた絵画の彼女と本物の彼女が、このときようやく重なって見えた。
「美咲」
 その名前を声に出して呼んだのは、初めてである。
 彼女は下を向いたままビクリと体を震わせた。おそるおそる顔を上げて悠人を目にすると、あわててノートを閉じ、その下に手元の本をすべて隠そうとする。
「その本もノートも、もうわかっている」
「っ……!」
 よほど知られたくなかったのだろう。息を飲み、いまにも泣き出しそうな顔になる。まさかここまで過剰に反応されるとは思わず、悠人はうんざりして吐息を落とした。
「別に怒ってるわけじゃない」
 できるだけ穏やかにそう言うと、鞄を足元に置きながら空いていた隣の椅子に腰を下ろし、彼女の前から素早くノートを奪ってパラパラとめくっていく。すでに半分ほどが数式や化学式で埋まっていた。
「驚いたな、学校の成績がいいとは聞いていたが」
「お願い、このことは誰にも言わないで……」
 彼女はかぼそく消え入りそうな声で懇願する。うつむいた顔は火を噴きそうなほど真っ赤になり、目には涙まで浮かんでいる。照れているのではなく本気で恥ずかしがっているのだろう。そして怯えてもいるようだ。ただ、どうしてそんなふうに思うのかがわからない。
「君は何も悪いことなんてしていないだろう」
「でも、おかしな子だって思われたくない……」
 ずいぶん子供じみた理由だが、まだ小学生だということを考えればありえなくはない。まわりの目を必要以上に気にする子は確かにいる。いや、もしかしたら実際にからかわれた経験があるのかもしれない。そうであれば原因となったことを必死に隠そうとするのも頷ける。
 悠人はまだ幼い横顔をひそかに窺いながら思案したあと、ノートを彼女に返して言う。
「いいだろう……その代わり話してくれ。君がどうしてこんな勉強をしているのかを。そしてどうやって勉強をしてきたのかを」
 聞いてどうこうしようとは考えていない。純粋な興味である。
 しかし、彼女にしてみれば誰かに話すこと自体が一大事なのだろう。顔を硬くこわばらせながらぎこちなくうつむき、わずかに目を細め、膝の上でワンピースの裾を掻き寄せるように握る。しばらくそのまま固まっていたが、やがて意を決したように唇を引きむすんで頷いた。

「じゃあ、完全に趣味ということか」
 悠人は近くの喫茶店に美咲を連れていき一通り話を聞くと、革張りの長椅子にゆったりと身を預けた。正面の美咲は不安そうに身を縮こまらせて、おずおずと上目遣いで悠人を窺っている。アイスコーヒーのグラスについた水滴が、つと流れ落ちた。

 彼女から聞いた話によれば、興味を持ったのは母親の蔵書がきっかけらしい。
 物心がつく前に亡くなった母親の書庫には、数学や物理学、生物学、遺伝子学など理系分野の本が数多くあった。難易度もさまざまである。大学で理学を専攻していたのは確かだが、専攻外の本も多く、何のために所有していたのかは定かでないという。
 画家の父親はひとたび絵に没頭し始めると寝食すら忘れる人で、当然ながら娘にも構わず、彼女は寂しさから母親の書庫に入りびたるようになっていった。そこで何となく簡単そうなものから読み進めていき、わからないことは図書館などで調べ、次第に物理学や生物学に興味を持つようになったのだ。
 彼女としては単純に面白いから勉強しているだけで、将来を考えてのことではないという。漫画を読んだりテレビを見たりするのと何も変わらないのだと。言っていることは理解できるが、この話に心から賛同できる人はさすがに多くないだろうと思う。

「確かに普通ではないな」
 長椅子にもたれかかったまま無表情でそうつぶやくと、彼女は逃げるように目を伏せた。また泣きそうな顔になっている。悠人は内心で苛つきながらゆっくりと腕を組んだ。
「だからといって、それしきのことで気味悪がったり嫌いになったりしない。少なくとも君の家族は。むしろ君の頭脳を知れば喜んでくれる可能性の方が高い」
 そう諭すが、彼女は納得していないようだった。
 無理もない。家族といっても出会ってふた月にも満たない他人なのだ。人となりもまだ見極められないくらいのときに、そうそう簡単に信じられるものではないだろう。過去にからかわれた経験があればなおさら慎重にもなる。
「まあいい」
 溜息まじりに言い、目の前のアイスコーヒーに手を伸ばす。カランと氷が音を立てた。
「心配しなくても約束は守る。誰にも言わない」
 それを聞いて、彼女はようやくほっと笑顔を見せる。
 悪くない——悠人はストローをくわえて苦いアイスコーヒーを飲みながら思った。大地が一目で運命の相手と決めつけて執着しているこの少女が、大地を信じられずに隠し事をしているのだ。そして、その秘密を握っているのは彼の友人である自分だけ。いい気味だという仄暗い気持ちが湧き上がる。
「それを飲んだら出るぞ」
「あ、はい」
 だいぶ氷がとけて薄まったオレンジジュースを、彼女はあわてて飲み干そうとする。別に急かしたつもりはないのだが、面倒なので止めはしなかった。先に空になった自分のグラスをテーブルに置いて言う。
「もっといい図書館に連れて行ってやる」
「……え?」
 小さな口からストローが離れた。彼女はオレンジジュースで濡れた唇を半開きにし、きょとんと不思議そうに悠人を見つめて目を瞬かせた。

「ここ、楠さんの大学なの?」
「ああ、大地も通っている」
 喫茶店を出たあと、悠人は電車を乗り継いで彼女を大学に連れてきた。
 小さな彼女は隣でそわそわと落ち着きなくあたりを見まわしている。夏季休業中なのでいつもより学生が少なく閑散としているが、それでもときどき彼女に不躾な視線を送る人はいる。そのたびに彼女はびくりと怯えた様子を見せていた。
「私、こんなところに入っていいの?」
「学生以外でも出入りは自由だ」
 今さらながら不安そうに声をひそめて尋ねてくる彼女に、前を向いたままそっけなく答える。彼女は何か言いたそうな顔をしていたが、結局、何も言わないまま小さな口をつぐんでうつむいた。無言で歩く二人に焼けつくような陽射しが容赦なく降りそそぎ、アスファルトの地面もじりじりと焦がされている。
「これが総合図書館だ」
 悠人が正面の建物を目で示しながらそう言うと、彼女は口を半開きにして仰ぎ見た。
「大きい……」
「古びてはいるがな」
 建物自体の圧倒的なスケール感や重量感、エントランスのゴシック風アーチなど、薄汚れていながらも威厳を感じさせる佇まいである。歴史的建造物といってもいいくらいの風格だ。とても一大学の図書館とは思えない。
「ここも勝手に入っていいの?」
「学外の人間は手続きがいる」
 建物の中に入り、カウンターで彼女の入館手続きをすませてから館内に進む。彼女も離されないよう小走りでついてきた。荘厳な雰囲気に飲まれたのか緊張した面持ちをしている。当然だろう。悠人ですらひそかに緊張を感じるくらいなのだから。
 案内板を見て、彼女の興味がありそうな書架に目星をつけて連れて行く。自分の大学の図書館だが、エントランスまでしか足を踏み入れたことがなかったので、これほど蔵書が充実しているとは知らなかった。きれいに整えられた書架がずらりと壮観なまでに並べられている。
「三冊まで選べ。代わりに借りてやる」
「いいの……?」
 彼女は期待で目をキラキラと輝かせて振り向いた。そのわかりやすさに思わず頬が緩みそうになるが、どうにか冷めた表情を装う。
「本当は駄目だが、黙っていればわからない」
「楠さんって悪い大人ね」
 彼女はくすりと笑ってそう言うと、ワンピースをひらめかせながら数多の専門書のあいだを駆けていく。書架を覗き込むその表情は、いままでに見たことのない生き生きとしたものだった。

「ありがとう、楠さん」
 強烈だった陽射しは落ち着き、まだ暑くはあるが幾分か過ごしやすくなっていた。
 彼女は興奮醒めやらぬ様子で礼を述べると、悠人とともに館外に出て石段を下りていく。肩から斜めがけにしている不格好にふくらんだ鞄には、彼女が選び、悠人が代わりに借りた三冊の本が入っている。読みたい本が多すぎて選びきれないとずいぶん迷っていた。
「あの、楠さん」
「悠人でいい」
 そう告げると、彼女はきょとんとして小首を傾げる。
「悠人さん?」
 そう呼ばれることは由衣で慣れていたはずなのに、声が違うからか、年下だからか、何か無性にくすぐったく感じた。それでも無表情を崩すことなくただ小さく頷いて見せる。
「えっと、悠人さんに借りてもらった本はどうやって返せばいいの?」
「来週、一緒に返しに来ればいい。そのときまた新たに借りてやる」
 さぞ喜ぶだろうと思ったが、彼女の反応はその期待に沿うものではなかった。何か懸念があるのか不思議そうな顔をしている。
「新たに借りてもらった本は?」
「翌週返してまた新たに借りる」
「次も?」
「次も、そのまた次もだ」
 ようやく彼女は嬉しそうにふわっと顔をほころばせた。斜めがけした鞄のストラップを胸元で握り、喜びを噛みしめている。その様子を横目で見ながら悠人は釘を刺した。
「大地には黙っていろ」
「私たち二人だけの秘密ね、悠人さん」
 彼女も図書館に来ていたことを知られたくないはずなので、素直に了解してくれるだろうとは思っていたが、無邪気な笑顔でこんなふうに返してくるとは予想外である。ここに来るまではあんなにおどおどしていたというのに——。
「そう、僕たち二人だけの秘密だ……美咲」
 悠人はまっすぐ正面の空を見ながら復唱するように言う。その紡いだ言葉のせいか、昼下がりの余韻のせいか、冷えていた体がじわじわと熱を帯びてくるのを感じた。
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