青い炎

瑞原唯子

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22. 君が欲しくなった

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 あれから一年。
 表面上は特に変わることなく平穏に過ごしている。二人の情事を耳にしたことは執事の櫻井以外とは話していない。櫻井と話したのもあの夜の一度きりで以降は話題にもしていない。聞かなかったことにするしかないと悠人自身が決めたのだ。
 とはいえ記憶を消去することはどう足掻いても不可能なので、あくまで素知らぬふりをするだけである。大地と美咲を見ているとあのときの声が頭をよぎることもあるが、表情は動かさず平静を装う。遠慮なく思い返して妄想するのはひとりで部屋にこもっているときだけだ。
 三年生の半分が過ぎたころ、ようやく卒業後の進路について考えるようになった。悠人の在籍する学科では毎年九割以上が大学院に進学するらしい。だが悠人に進学する気はなかった。大地と距離を置くために就職しようと計画を立てている。
 この家を出て、ひとりで生きていく——それが悠人の望みだ。
 近くだとなし崩し的にここに留まることになりそうなので、通えないくらい遠くがいい。給料はそれなりの生活ができるくらいであれば文句はない。大学で学んだことを活かせる研究職がいいのではないかと思うが、特にやりたいことはないのでこだわらない。ただ、父親や祖父など多数の一族がいる警察関係だけは論外だ。営業職も向いていないように思うのでなるべく避けたい。
 今はまだ考えているだけだが、そろそろ具体的に探し始めるべき時期に来ている。大学に来る求人には頼らない方がいいかもしれない。計画を成功させるためには、内定を取るまで大地に知られるわけにはいかないのだ。知られればきっと強引にでも断念させられてしまう。だが内定さえ取れば、いかに彼といえどもあきらめざるを得ないだろう。

 そろそろ夜の帷が降りようかというころ。
 ちらちらと綿雪の舞い落ちる中、悠人はうっすらと白くなった歩道を踏みしめながら、大地とともに最寄り駅から橘の家へと向かっていた。大学の帰りだ。折りたたみ傘は持っているが、わざわざ差すほどでもないので鞄にしまったままである。
「おまえさ、進路は考えてるのか?」
 ふいに大地が尋ねてきた。
 ドキリとしたが、悠人の計画に勘付いたというわけではないだろう。三年生の後半になれば誰もが気になる話題である。進路が決まっている大地も例外ではないのかもしれない。
「……いや、そろそろ考えないとな」
「進学しないならウチに入れよ」
 ウチというのは橘財閥のグループ会社を指している。大地は後継者としてそのいずれかに入る予定なので、そう言い出すであろうことは予想していた。高校で文理の選択をするときも、志望校や学部を決めるときも、自分と同じにしろと言い続けてきたのだから。
 もちろん悠人には彼の言いなりになるつもりなど微塵もない。だが、下手に断ると計画を見透かされてしまう恐れがあるため、今のうちはまだ返事を濁しておかなければならない。どう答えるべきか悩んでいると、彼は思わせぶりに横目を細めてくすっと笑った。
「心配しなくても縁故採用してやるからさ。おまえじゃ、どこを受けても面接で落とされるだろう?」
「…………」
 否定はできない。愛想のかけらもない表情、突き放したような話し方、人を拒絶する冷淡な雰囲気。面接で落とされるタイプだということは自覚している。実際に有栖川学園初等科の面接で落とされた過去もある。あのときは故意に無言を貫いたので当然といえるが、そうでなくても結果は変わらなかったかもしれない。
 だからといって大地に縋ってしまっては本末転倒である。独り立ちして距離を置こうと決めたのは悠人自身なのだ。面接対策を学ぶなどできる限りの努力をするしかない。自分を変えることはできなくても、面接官を欺くだけなら不可能ではないはずだ。
「じゃあ、決まりな」
「おまえにそんな権限ないくせに」
「父さんに頼むから問題ないさ」
「お情けで採用なんて冗談じゃない」
「僕が来いって言ってるんだよ」
 大地が破顔してそう言いながら肩を組んできた。白い息がふわりと上がる。悠人は溜息を落として横目でじとりと睨んだ。
「僕に自由はないってことか」
「よくわかってるじゃないか」
 ただ、それは彼の指図に悠人が勝手に従っているだけのこと。脅されているわけでも何でもない。大地と離れたくない、大地に嫌われたくない、大地とずっと一緒にいたい——そういう気持ちが、悠人自身の自由を奪っているにすぎない。悠人さえ覚悟を決めれば自由になれると気付いたのだ。
 もう、おまえの思いどおりにはならない。
 彼と離れることを思うとつらく耐えがたい気持ちになる。けれど、そばにいても都合よく扱われるだけで未来はない。随分前から薄々わかっていたことではあるが、それでも離れるという選択は考えられなかった。一年前、美咲との関係を知らされたあのときまでは。
 悠人がいなくなれば、すこしはさびしいと思ってくれるだろうか。すこしはショックを受けてくれるだろうか。すこしは後悔してくれるだろうか。もしそう感じてくれたら幾分かは溜飲が下がるのに。もっとも、いなくなったあとのことなど確かめようもないのだが。
「おい、悠人、聞いてるのか?」
「えっ?」
 考え込んでいたせいで大地の声が届いていなかったようだ。強く呼ばれて我にかえると、息がかかりそうなくらい近いところに彼の顔があった。悠人の肩に体重を預けるように腕をまわしたまま、不満げに唇をとがらせている。
「時期がくれば正式に内定を出してもらうけど、心配なら父さんに言質を取ってくるよ」
「いや、そこまではいい」
 まずいことになったと冷や汗がにじむ。
 橘から内定など出されては計画の遂行が困難になってしまう。時期というのがいつかは判然としないが、急がねばならないのは確かだ。就職活動が解禁されたらすぐにでも他の内定を取ってくるしかない。だが——無表情を装いながらも、そんなことが自分に可能なのかと不安を感じずにはいられなかった。

「お兄ちゃん、悠人さん」
 背後から声が聞こえて、悠人と大地は肩組みを解きながら同時に振り向いた。紺色の制服に黒いダッフルコートを重ねて学生鞄を提げた美咲が、もう一方の手で桃色の傘を差し、うっすらと雪の積もった足元を気にしながら駆けてくる。その姿を目にするなり大地はとろけるような甘い笑顔を見せた。
「美咲、いま帰り? 遅かったね」
「委員会があったから」
 美咲も笑みを浮かべて答える。
 彼女はこの一年で随分と成長した。今でも小柄ではあるが身長は目に見えて伸び、体つきや顔つきは幾分か女性らしくなり、いつしか子供から思春期の少女になっていた。そして他人と話すときもおどおどした態度は見せず、笑顔で応対できるようになっていた。もう周囲に怯えてばかりいた小さな子供ではない。
 大地は美咲の手からやんわりと桃色の傘を取ると、それを差したまま彼女を隣に引き寄せる。いわゆる相合い傘だ。悠人ははじき出されるようにすこし後ろに下がった。
「あ、悠人さんごめんなさい」
「いや……」
 そのとき大地がこちらを一瞥して薄く冷笑したような気がした。しかし、すぐに美咲の背中に手を置いてきれいな笑みを浮かべる。
「行こうか」
「うん」
 二人はまるで恋人どうしのように寄り添って歩き出した。くすくすと笑い合いながら他愛もない話をしている。その後ろを、悠人は惨めな気持ちになりながら数歩ほど離れて歩く。鈍色の空から舞い落ちる綿雪がうつむく頬に触れ、じわりと融けた。

「あさってには帰ってくるから」
 屋敷に帰ってから小一時間ほどが過ぎたころ、大地と美咲は小さめのスーツケースを持って玄関に立っていた。仙台で行われる学会の討論会と交流会に呼ばれているのだ。どちらも明日の昼間なので二泊もする必要はないように思うが、ついでに観光でもしてくるつもりなのだろう。
「じゃあな、おみやげ楽しみにしてろよ」
「ああ」
 悠人は軽く手を上げ、楽しそうに仲睦まじく出ていく二人を玄関から見送った。扉が閉まると、スーツケースを引きながら遠ざかる二つの足音を聞き、小さく溜息をついて中庭の見える部屋に戻ろうとする。
「悠人さん」
 後方の目立たないところに控えていた執事の櫻井に、ふと背後から呼び止められた。
「今から一緒に来ていただきたいのですが」
「えっ……どこへ?」
「来ていただければわかります」
 丁寧ながらも有無を言わさぬ物言いだった。
 行き先を秘密にするなど怪しいとしか言いようがなく、当然ながら警戒はしているが、それでも悠人に害をなすようなことはしないと信じている。すこし迷ったが、とりあえず誘われるまま彼についていくことにした。

「さあ、こちらへ」
 櫻井の運転する車で連れてこられたのは、数寄屋造りの料亭だった。
 物の良し悪しがわかるほど目が肥えているわけではないが、それでもこの計算され尽くされた隙のなさは尋常ではないと感じる。玄関先にも建物内にも余分なものは何ひとつなく、配置にも一切の歪みがなく、その凛とした佇まいを照明がさらに研ぎ澄ましているのだ。そして女将もまた品良く凛と和服を着こなしており、所作も流麗で無駄がない。
 なのに悠人はセーターにジーンズという場違いも甚だしい格好をしている。こんなところに来るとわかっていたらせめてスーツに着替えたのに。なぜ言ってくれなかったのかと詰るように横目で櫻井を睨む。その彼はいつもどおりスーツを身につけているのがなおさら恨めしい。
「では、よろしくお願いします」
 櫻井は女将に何かを伝えて一礼すると、悠人に向き直る。
「私はここで失礼します」
「えっ、櫻井さん帰るんですか?」
「女将が案内してくださいます」
 ニコリともせずそう言い置き、狼狽する悠人と微笑む女将にお辞儀をして、静かに料亭をあとにした。

「悠人、突然呼び出して悪かったな」
 女将に案内された六畳ほどの和室には先客がいた。大地の父親である剛三だ。
 黒幕が彼だということは、この高級料亭を目にした時点で察しがついていた。櫻井個人がこのようなところを利用するはずがない。ならば主の剛三に命じられたと考えるのが自然だろう。しかし、剛三がどういう用件で呼び出したのかは見当がつかない。
「まあ座れ」
 そう言って向かいの席を示され、悠人はおずおずと一礼して座椅子に腰を下ろした。
 二人のあいだにある黒い座卓は漆塗りのようで、重厚感があり、傷ひとつない美しい光沢を放っていた。部屋は六畳ほどと広くはないものの、余分なものは何もなく、あまりにも整いすぎていて逆に落ち着かない。窓側は障子が開け放たれており、縁側の向こうには淡い庭園灯に照らされた枯山水の庭が広がっていた。
 格調高い部屋を目の当たりにして、今さらながら怪訝に思う。
 話をするだけなら何もこんなところに呼び出す必要はないはずだ。相手は接待をしても意味のない一介の大学生である。内密に話をしたいのなら書斎に呼び出せばすむことだろう。特に今日は大地がいないのだから詮索される心配もない。なのに。剛三が何を考えているかわからず表情が険しくなっていく。
「……どういったご用件でしょうか」
「そう急くな。まずは料理を楽しもうじゃないか」
 剛三は待ち時間に読んでいた新聞を折りたたみながら、鷹揚にそう言った。

 ほどなくして日本酒が運ばれてきた。
 アルコールの類は、一年前のあのとき出されたウィスキーしか飲んだことがなかった。日本酒は初めてである。剛三に勧められるまま口にしたが、すこし喉が熱くなったくらいで気分が悪くなることもない。あまりおいしさはわからないもののするすると飲める。
 二杯目を飲み終えるころ、今度は料理が運ばれてきた。
 会席料理ということで一品ずつ順に出てくるらしい。こういう席は初めてでマナーも知らないので、剛三にならいながら、酒を飲みつつ出されたものから順に食べていく。まるでカタログ写真のように芸術的な盛りつけの料理ばかりだが、見た目だけでなくどれも驚くほどおいしい。味付けも食感も絶妙で感動すら覚えるほどだ。
 食事の合間合間に、大学生活についてや大地のこと美咲のことなどを訊かれたが、それがこの会食の目的ではないだろう。あくまでただの雑談と認識している。だからといって面白おかしく盛り上げることもできず、ただ淡々と答えていただけなのに、剛三は微笑を浮かべながら興味深そうに聞いていた。
 最後の和菓子まで食べ終わり、あたたかい抹茶を出されてまったりしていると、揺るぎのない低音で静かに話を切り出された。
「悠人、君は卒業後どうするつもりだ」
「……まだ考えていません」
 ドキリとした。
 ついさきほど大地に振られたばかりの話題だった。確かにそういうことを考え始める時期ではある。だが二人が同じ日に言い出したのはただの偶然だろうか。それとも——。
「ならば私の下で働け」
 直球、しかも剛速球だ。ぶわりと嫌な汗が噴き出してくるのを感じる。
「大地に頼まれたんですよね?」
「いや、私自身が望んだことだ」
「え、どうして……」
「君が欲しくなった」
 剛三はさらりと答えて口の端を上げる。
 彼と関わったのは主に怪盗ファントムをさせられていたときである。それなりの働きをして期待に応えたという自負はあるが、基本的に命令どおりに動いただけなので、特別扱いで採用するほど気に入られたとは考えられない。やはり大地に頼まれたのではないだろうか。
「確かに……」
 悠人が顔を曇らせてじっと考え込んでいると、剛三が口を切った。
「君を入社させるよう大地に頼まれたのは事実だが、息子のわがままなど聞き入れはしない。会社経営はお遊びではないのだからな。君が欲しいというのは社長としての私の判断だ。忠実な手足となる人物を探していてね」
 なるほど飼い犬か、とある意味で納得する。
「大地は君と一緒に働きたがっているようだが、数年ほど関連会社に行かせるので君とは離れる。本社に戻ってからも仕事上の接点はさほどないはずだ。不満か?」
「いえ、僕はむしろ離れたいので」
「そうであれば何も問題はないな」
「……えっ」
 まずい。
 彼の誘導に流されて了承したみたいになってしまった。意識はしっかりしているつもりだが、やはり多少は酔いがまわっているのかもしれない。幾分かふわふわして頭の働きが鈍いような感じがする。まさか剛三はそれを狙ってここへ連れてきたのでは——その十分ありうる推測に思わず眉をひそめた。茶碗をあおって苦い抹茶を一気に飲み干すと、真正面から挑むように見据えて宣言する。
「僕は自分の進路は自分で決めます」
「何かやりたい仕事でもあるのか?」
「それは、まだですが……」
 自分自身を取り戻すために橘から離れたい、などとは言えないし、言ったところで理解してもらえないだろう。そんなことで就職先を決めるなど不純かもしれない。それでも悠人にとっては人生の一大事で譲れないことだ。
「私の下では働きたくないと?」
「橘の人間にはついていけません」
「なるほど」
 剛三は相槌を打ち、抹茶を飲んでゆったりと一息ついた。瞬間——急に鋭い目つきになり悠人を射竦める。
「だが、私は欲しいものは必ず手に入れる」
 ゾクリと背筋が震えた。大地と似たものを感じるが凄みがまるで違う。だからといって屈するわけにはいかない。汗をにじませながら膝の上でこぶしを固く握り、負けじと睨み返すと、カラカラに渇いた喉から反撃を絞り出した。
「怪盗ファントムのこと、世間に暴露しますよ」
「ほう」
 最後の切り札だった。
 橘と癒着している警察は黙殺するかもしれないが、マスコミは飛びつくはずだ。それだけでも橘としては大きな痛手になるのではないか。そう考えたのだが——剛三は焦るどころか驚きもせず、むしろ面白がるように漆黒の瞳を輝かせた。
「やってみるがいい。自分の世間知らずを痛感することになるだろうが」
「…………」
 本気で暴露する気はなく、ただ脅しをかけるために言っただけである。だが剛三はすこしも動じなかった。悠人が考えるよりずっと橘は権力を持っているのかもしれない。あるいはこの脅しをハッタリだと見抜いていたのかもしれない。どちらにしろ完全に失敗だ。
 一筋の汗が頬を伝う。
 切り札を失った一介の大学生にもはや為すすべなどない。たとえ黙って姿をくらましたところで逃げ切るのは不可能だろう。欲しいものは必ず手に入れると豪語したのだ。彼の性格ならプライドをかけて全力で捜索してくるに違いない。
「近いうちに部屋を用意させる。正式に越してこい」
「……はい」
 抵抗しても無駄だと悟り、力なく首肯する。
 これでいよいよ大地からも美咲からも離れられなくなった。同じ屋根の下でふたりを見続けることになるのだろう。これからずっと終わりなく。苦行としか思えない残酷な日々を想像して気が重くなり、唇から吐息がこぼれる。その中にほんのすこし安堵が混じっていることは自覚していた。
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