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57. 臆病なすれ違い
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「ごめんね。今日はセリカと約束があるから」
リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席にやってきてそう言った。セリカの入学以来、放課後は彼女とふたりで図書室や食堂に寄ったり、一緒に帰ったりすることが多くなっていた。
「ああ」
「またあしたね」
ジークは座ったまま軽く返事をし、アンジェリカは小さく手を振って見送った。リックは笑顔で手を振り返すと、そそくさと教室を出ていった。アンジェリカは、彼の姿が見えなくなったあとも、ずっとその戸口を見つめていた。そして、ジークは、そんな彼女の横顔を見つめていた。
「図書室、寄ってくか?」
彼は不安を押し隠し、明るい声を作って誘い掛けると、椅子から立ち上がった。彼女は振り向くことなく、その場で目を伏せた。
「今日は帰るわ」
「そうか」
まただ――。最近、アンジェリカが自分を避けている。ジークはそう感じていた。三人一緒のときは、今までと何ら変わりなく接してくれているが、ふたりきりになろうとはしないのだ。しかし、確信があるわけではない。気のせいかもしれない。
「送ってく」
「あ、私、お母さんのところに寄っていくからいいわ」
アンジェリカは王宮の方を指さした。彼女の母レイチェルは、付き人として王妃の部屋にいる。誘われでもしない限り、ジークには行くことのできない場所だ。
「それじゃ、ね」
「ああ」
アンジェリカはぎこちなくはにかんで手を振ると、小走りで教室をあとにした。
「っくしょう……!」
ひとり教室に残されたジークは、顔をしかめながら、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
なんだって俺は、あんなこと――。
ジークは頭を抱え込み、がっくりと大きくうなだれた。
「アンジェリカ!」
リックはアカデミーの門の脇に立っているアンジェリカに走り寄った。
「休みの日に呼び出したりしてごめんね」
彼女は口元で両手を合わせ、申しわけなさそうにリックを見上げた。
「うん、それはいいけど、どうしたの?」
彼はにっこりと笑顔を返した。本当はセリカとの約束をキャンセルしてここへ来たのだが、それは言わないことにした。彼女がジーク抜きで自分だけをこんなふうに呼び出すなんて、今までなかったことだ。何か、よほどのことがあるに違いない。リックはそう思った。
「うん……こんな話、リックは困るだけだと思うんだけど……」
アンジェリカは歯切れ悪く口ごもった。いつもはっきりとした物言いの彼女にしてはめずらしい。
「気にしないでよ。言うだけでアンジェリカの気持ちが楽になるんだったらさ」
彼女が負担に感じないよう、リックは軽い調子で笑って返した。アンジェリカもつられるようにかすかに笑った。
「え? ジークが怖い?」
ガタン――。
バスケットボールがバックボードに当たり、リングをかすめ、外側へ跳ね落ちた。人気のない休日の校庭に、ジャッと砂をこする濁った音が鳴る。アンジェリカは小走りで跳ねるボールを追いかけていった。
「どういうこと?」
リックは彼女の背中に問いかけた。しかし返事はない。ボールをつかまえた彼女は、ドリブルで方向転換をすると、再びバスケットに向けて放った。大きなボールが、青空に大きく弧を描いていく。
ダン――。
今度はリングにぶつかり跳ね返った。ワンバウンドでキャッチすると、砂ぼこりのついたそれをぎゅっと抱え込む。
「自分でもよくわからないの」
彼女は顔に陰りを落とし、かぼそい声でつぶやいた。
「三人一緒だと平気なんだけどね。ふたりになると、急に怖くなっちゃって」
「何か、あったの?」
うつむく彼女の横顔を見つめながら、リックはできる限りの平静を装って尋ねた。
「そういうわけじゃ……だから、よくわからないのよ」
そう言って顔を上げると、困ったように肩をすくめて笑ってみせた。リックは目を伏せ、口元に手を添えると、真剣な表情で考え込んだ。
「やっぱり困らせちゃったわね」
彼女は苦笑いしながら、ゆるくチェストパスをした。
「困ってるわけじゃないよ」
リックは両手でパスを受け取ると、安心させるようににっこりと笑顔を作った。しかし、彼女は申しわけなさそうに、再び小さく肩をすくめた。
「そんなに悩んでくれなくてもいいわ。聞いてくれただけでありがたいもの」
リックは、そんなふうに気を遣う彼女がよけいに心配だった。ボールを脇に抱え、じっと彼女を見つめる。
「これからどうするの?」
「うん、いつまでも逃げているわけにはいかないわよね。とりあえずジークに謝るわ。あからさまに避けちゃったから、傷つけたかもしれないし」
じっくり考えながら、気丈にしっかりと答える。それでもリックの不安は拭えなかった。
「大丈夫なの? 根本的な解決になってないけど」
「なんとかなるわ、きっと」
アンジェリカは笑ってみせた。しかし、どこか強がりを含んでいるようにも感じられた。
リックはバスケットに向き直ると、膝のバネを使って全身でボールを投げた。まっすぐバックボードに当たり、リングを半回転すると、白いネットに吸い込まれていった。勢いを失ったボールが地面に落ちて弾む。しだいに小刻みになるバウンドを、アンジェリカはぼんやりと眺めていた。
リックは静かに口を開いた。
「ねぇ、ジークのことが嫌いになったわけじゃないよね」
「もちろんよ」
彼女ははっきりと自信を持って答えた。彼はさらに畳み掛ける。
「ジークを怖いと思う理由はわからないんだよね」
「……ええ」
今度は目を伏せ、とまどいがちに顔を曇らせた。リックはあごに手をあてると、小さく首をかしげた。
「もしかしたらさ、怖いのはジークじゃなくて、自分の気持ちなんじゃない?」
「え? 自分の気持ち?」
アンジェリカはきょとんとした顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「それが何なのか、僕にはわからないけどね」
リックはにっこりと微笑んだ。彼女は呆然とした。風が黒髪をさらさらと吹き流し、くすぐるように頬を撫でる。
自分の気持ち――。
そう思うだけで、なぜか鼓動が強く打つ。
「ジークが怖いなんて、そんなはずないよ。そう思わない?」
そう付け足したリックの言葉に、彼女ははっとした。
「……そうよね。そうなのよ。そんなことあるはずないのよ。どうして私がジークを怖がらなきゃいけないわけ?!」
次第に自分の中で怒りがエスカレートしていき、リックに向かってこぶしを握りまくし立てた。彼女の勢いにやや気押されながらも、彼は冷静に返事をした。
「でしょ? もう一度、ジークのことをよく見てみるといいと思うよ」
「……うん、そうね」
アンジェリカはにこっと笑った。ふいに足元にコツンと何かが当たった。風に吹かれてゆっくりと転がり戻ってきたバスケットボールだった。彼女はそれを拾い上げると、額のあたりからバスケットに狙いをつけ、両手で押し出すように放った。オレンジ色のボールは大きく弧を描き、まっすぐ白いネットに吸い込まれていった。
ダン――。
ボールが地面を打つと同時に、彼女はぱっと顔を輝かせ、リックに振り返った。彼も笑顔で応えた。
「入ったね」
「リックに負けられないもの」
アンジェリカは軽快な足どりで彼に駆け寄り、隣に並んだ。
「ありがとう」
後ろで手を組み、うつむいてはにかむ。
「私、リックに大丈夫だって言ってほしかったのかもしれない」
そう言って彼を見上げると、屈託なく笑いかけた。
「きのうはセリカと一緒だったのか? 何度か連絡したんだぜ」
ジークは、爽やかな朝に似つかわしくない仏頂面で小石を蹴った。
「何か用だったの?」
並んで歩くリックが振り向くと、ジークは逃げるように視線をそらせた。
「……相談ていうか……ちょっとな」
小さな声でぼそりと答える。
「なに?」
リックははっきりしないジークに、答えを促した。追い詰められた彼は、うつむいたまま目を細める。
「やっぱりいい……なんでもねぇよ!」
拒絶するように、半ば投げやりに言い捨てた。リックは迷いながらも、思ったことをぶつけてみる。
「もしかして、アンジェリカのこと?」
「……なんでだよ」
平静を装ったつもりだったが、明らかに動揺がにじんでいた。
「やっぱりそうなんだ」
リックがぽつりとつぶやいた言葉を、ジークは否定しなかった。思いつめた表情でアスファルトの地面を見つめる。
「実はさ、僕、きのうアンジェリカと会ってたんだ」
「なに?」
思いがけないリックの話に、ジークは驚きを隠せなかった。彼に振り向き、足を止める。リックもその場に立ち止まった。
「相談を受けてたんだよ。もしかして、そのことと関係があるんじゃない?」
ジークははっとした。歯をくいしばり、顔をしかめ、頭をおさえる。そして、絞り出すように声を発した。
「アンジェリカ、なんて……」
「うん……ジークが怖い、って。何かあったわけじゃなく、そう思う理由もわからないんだって」
リックは淡々と答えながらも、頭を抱える彼を、心配そうに見ていた。
「ねぇ、何があったの?」
眉根を寄せ、けわしい顔で、ジークはしばらく考え込んでいた。そして、迷いながら口を開いた。
「あいつが、転びかけたとき……とっさに後ろから抱きとめた。そしたら、なんか妙な空気になっちまって……」
「それだけ? ……じゃないみたいだね」
リックは、彼のこわばった顔を見て悟った。しかし、ジークは口を閉ざしたまま、自分から語ろうとはしなかった。
「そのとき思わず抱きしめちゃった、とか?」
「おまえっ、なんで……!」
リックの当てずっぽうを聞いたとたん、ジークは顔を真っ赤にして後ろに飛び退いた。
「あ、そうなんだ」
「ちっ、違う! ほんの一瞬なんだ! そんなつもりはなくて、本当についっていうか」
これ以上ないくらいに顔を赤らめ、あたふたとちぐはぐな言い訳をする。そのみっともなさに、自分自身ですぐに気がついた。両手でぐしゃっと髪を掴み、その場に崩れるように座り込んだ。
「俺、自分のバカさ加減がほとほと嫌になった……。何も言わねぇって決めたのに……これじゃ……」
頭を抱え込んだまま、背中を丸め、力なく消え入りそうにつぶやいた。
「それでわかったよ。アンジェリカはそのことを無意識に感じとってとまどってたんだね」
「そうじゃねぇ!」
リックが納得しかけたところで、ジークは急に強く否定した。
「そうじゃねぇんだ。あいつは、おまえのことが好きなんだよ……だから……」
「……え?」
リックは本気で聞き違えたと思った。ジークはいらついて、アスファルトにこぶしを叩きつける。
「だから! あいつが好きなのはおまえなんだよ!」
「……それ、本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことが言えるか!」
再び地面を叩きつけ、膝に顔をうずめた。リックは怪訝な表情で、空を見上げた。
「ジークの勘違いだと思うけどなぁ」
「おまえは知らねぇだろ! おまえがセリカに会いに行くときの、あいつの寂しい顔を!」
あくまで信じようとしないリックに、ジークの怒りは高まっていく。それでも、リックはどうしても納得がいかなかった。首をかしげ、考えを巡らせた。
「思うんだけどさ、アンジェリカって、恋愛とかまだよくわかってないんじゃないかな。そういう部分、きっとすごく子供なんだと思う」
「…………」
ジークは反論できなかった。言われてみれば、確かにそういう気もする。
「だから、まだ誰のこともそんなふうに思ってるわけじゃないんだよ、きっと」
リックはそう言って、ジークににっこり笑いかけた。だが、ジークはうなだれて、こぶしを膝の上で震わせていた。
「だとしても、もう……ダメだ……」
たとえリックの言うとおりだとしても、自分が避けられているという事実は変わらない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。すべてが終わった――。ジークは目の前が真っ暗になっていた。
「大丈夫だよ」
リックはそう言って、再びにっこりと笑いかけた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
ジークの前に手を差しのべる。
「行こう。遅刻するよ」
いっそこのままどこかへ逃げ出してしまいたい。そう思ったが、ジークには逃げ出す度胸すらなかった。暗い気持ちのままリックの手をとり、重い腰を上げ、鉛の足を引きずるように歩き出した。
「おはよう」
ふたりが教室に入ると、アンジェリカが駆け寄ってきた。
「今日はちょっと遅かったわね」
「ジークがもたついちゃってね」
リックは軽く陽気に言った。からかわれているのか、責められているのか、ごまかしてくれているのか、ジークにはわからなかった。だが、本当のことを言われるよりは、はるかにいい。
「……悪かったな」
無愛想にぽつりとそうつぶやいた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど。体調でも悪いの?」
アンジェリカは、いつもよりおとなしいジークを見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「別に、普通だ」
顔をそむけ素っ気なく返事をすると、すたすたと自分の席へ足を進めた。アンジェリカはきょとんとして、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたい」
「そう……」
リックは気づかってくれたが、彼女の不安は拭えなかった。
きっと、私のせい――。
アンジェリカは顔を上げ、泣き出しそうな気持ちを胸の奥へ仕舞い込んだ。
キーンコーン――。
終業のチャイムが鳴った。
「じゃ、僕はこれで」
リックは素早く帰り支度を整えると、ふたりに手を振り教室を出ていった。
ジークは小さく舌打ちした。今朝あんな話をしたばかりなのに、何の配慮も遠慮もなく、さっさとセリカのところへ行ってしまったリックを苦々しく思った。そして、アンジェリカとの橋渡しをしてくれるのではないかと期待をしてしまった自分の甘さに腹が立った。
「ジーク」
いつのまにか、アンジェリカが席の前に立っていた。ジークは椅子に座ったまま、顔を上げることさえ出来なかった。机の上の鞄に乗せた手には、じわりと汗がにじんできた。
「図書室に寄っていかない?」
思いがけない言葉だった。とっさに顔を上げ、彼女の表情を確かめた。快活な笑顔は、まっすぐ自分へと向けられている。
「ね?」
アンジェリカはさらににっこり笑うと、ジークの瞳をじっと見つめ、腰をかがめて顔を近づけた。
「な……な……」
ジークがうろたえた声をあげると、アンジェリカは両手ではさむように、彼の両頬をビタンと叩いた。彼は呆然としたが、ヒリヒリする頬の痛みで、すぐに我にかえった。
「な、なにしやがる!!」
アンジェリカはあははと笑いながら、くるりとまわってジークから離れた。短いスカートがひらりと舞い、ふわりと落ち着く。
「ごめんね」
その一瞬、ふいに真面目な表情をのぞかせたが、すぐににっこりと柔らかい笑顔に変わった。
「……ああ」
ジークはそれだけの返事をするのが精一杯だった。
……もう、平気だから。アンジェリカは心の中で小さくつぶやいた。そして、ぱっと晴れやかな顔を上げる。
「行くんでしょ? 図書室」
はつらつと問いかけてくる彼女を見て、ジークもようやく表情を和らげた。
「ああ」
安堵の息をつき、鞄を肩に掛けながら立ち上がった。その顔には、もう暗い陰はなかった。
リックは鞄を肩に掛けながら、ジークの席にやってきてそう言った。セリカの入学以来、放課後は彼女とふたりで図書室や食堂に寄ったり、一緒に帰ったりすることが多くなっていた。
「ああ」
「またあしたね」
ジークは座ったまま軽く返事をし、アンジェリカは小さく手を振って見送った。リックは笑顔で手を振り返すと、そそくさと教室を出ていった。アンジェリカは、彼の姿が見えなくなったあとも、ずっとその戸口を見つめていた。そして、ジークは、そんな彼女の横顔を見つめていた。
「図書室、寄ってくか?」
彼は不安を押し隠し、明るい声を作って誘い掛けると、椅子から立ち上がった。彼女は振り向くことなく、その場で目を伏せた。
「今日は帰るわ」
「そうか」
まただ――。最近、アンジェリカが自分を避けている。ジークはそう感じていた。三人一緒のときは、今までと何ら変わりなく接してくれているが、ふたりきりになろうとはしないのだ。しかし、確信があるわけではない。気のせいかもしれない。
「送ってく」
「あ、私、お母さんのところに寄っていくからいいわ」
アンジェリカは王宮の方を指さした。彼女の母レイチェルは、付き人として王妃の部屋にいる。誘われでもしない限り、ジークには行くことのできない場所だ。
「それじゃ、ね」
「ああ」
アンジェリカはぎこちなくはにかんで手を振ると、小走りで教室をあとにした。
「っくしょう……!」
ひとり教室に残されたジークは、顔をしかめながら、両手で頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
なんだって俺は、あんなこと――。
ジークは頭を抱え込み、がっくりと大きくうなだれた。
「アンジェリカ!」
リックはアカデミーの門の脇に立っているアンジェリカに走り寄った。
「休みの日に呼び出したりしてごめんね」
彼女は口元で両手を合わせ、申しわけなさそうにリックを見上げた。
「うん、それはいいけど、どうしたの?」
彼はにっこりと笑顔を返した。本当はセリカとの約束をキャンセルしてここへ来たのだが、それは言わないことにした。彼女がジーク抜きで自分だけをこんなふうに呼び出すなんて、今までなかったことだ。何か、よほどのことがあるに違いない。リックはそう思った。
「うん……こんな話、リックは困るだけだと思うんだけど……」
アンジェリカは歯切れ悪く口ごもった。いつもはっきりとした物言いの彼女にしてはめずらしい。
「気にしないでよ。言うだけでアンジェリカの気持ちが楽になるんだったらさ」
彼女が負担に感じないよう、リックは軽い調子で笑って返した。アンジェリカもつられるようにかすかに笑った。
「え? ジークが怖い?」
ガタン――。
バスケットボールがバックボードに当たり、リングをかすめ、外側へ跳ね落ちた。人気のない休日の校庭に、ジャッと砂をこする濁った音が鳴る。アンジェリカは小走りで跳ねるボールを追いかけていった。
「どういうこと?」
リックは彼女の背中に問いかけた。しかし返事はない。ボールをつかまえた彼女は、ドリブルで方向転換をすると、再びバスケットに向けて放った。大きなボールが、青空に大きく弧を描いていく。
ダン――。
今度はリングにぶつかり跳ね返った。ワンバウンドでキャッチすると、砂ぼこりのついたそれをぎゅっと抱え込む。
「自分でもよくわからないの」
彼女は顔に陰りを落とし、かぼそい声でつぶやいた。
「三人一緒だと平気なんだけどね。ふたりになると、急に怖くなっちゃって」
「何か、あったの?」
うつむく彼女の横顔を見つめながら、リックはできる限りの平静を装って尋ねた。
「そういうわけじゃ……だから、よくわからないのよ」
そう言って顔を上げると、困ったように肩をすくめて笑ってみせた。リックは目を伏せ、口元に手を添えると、真剣な表情で考え込んだ。
「やっぱり困らせちゃったわね」
彼女は苦笑いしながら、ゆるくチェストパスをした。
「困ってるわけじゃないよ」
リックは両手でパスを受け取ると、安心させるようににっこりと笑顔を作った。しかし、彼女は申しわけなさそうに、再び小さく肩をすくめた。
「そんなに悩んでくれなくてもいいわ。聞いてくれただけでありがたいもの」
リックは、そんなふうに気を遣う彼女がよけいに心配だった。ボールを脇に抱え、じっと彼女を見つめる。
「これからどうするの?」
「うん、いつまでも逃げているわけにはいかないわよね。とりあえずジークに謝るわ。あからさまに避けちゃったから、傷つけたかもしれないし」
じっくり考えながら、気丈にしっかりと答える。それでもリックの不安は拭えなかった。
「大丈夫なの? 根本的な解決になってないけど」
「なんとかなるわ、きっと」
アンジェリカは笑ってみせた。しかし、どこか強がりを含んでいるようにも感じられた。
リックはバスケットに向き直ると、膝のバネを使って全身でボールを投げた。まっすぐバックボードに当たり、リングを半回転すると、白いネットに吸い込まれていった。勢いを失ったボールが地面に落ちて弾む。しだいに小刻みになるバウンドを、アンジェリカはぼんやりと眺めていた。
リックは静かに口を開いた。
「ねぇ、ジークのことが嫌いになったわけじゃないよね」
「もちろんよ」
彼女ははっきりと自信を持って答えた。彼はさらに畳み掛ける。
「ジークを怖いと思う理由はわからないんだよね」
「……ええ」
今度は目を伏せ、とまどいがちに顔を曇らせた。リックはあごに手をあてると、小さく首をかしげた。
「もしかしたらさ、怖いのはジークじゃなくて、自分の気持ちなんじゃない?」
「え? 自分の気持ち?」
アンジェリカはきょとんとした顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「それが何なのか、僕にはわからないけどね」
リックはにっこりと微笑んだ。彼女は呆然とした。風が黒髪をさらさらと吹き流し、くすぐるように頬を撫でる。
自分の気持ち――。
そう思うだけで、なぜか鼓動が強く打つ。
「ジークが怖いなんて、そんなはずないよ。そう思わない?」
そう付け足したリックの言葉に、彼女ははっとした。
「……そうよね。そうなのよ。そんなことあるはずないのよ。どうして私がジークを怖がらなきゃいけないわけ?!」
次第に自分の中で怒りがエスカレートしていき、リックに向かってこぶしを握りまくし立てた。彼女の勢いにやや気押されながらも、彼は冷静に返事をした。
「でしょ? もう一度、ジークのことをよく見てみるといいと思うよ」
「……うん、そうね」
アンジェリカはにこっと笑った。ふいに足元にコツンと何かが当たった。風に吹かれてゆっくりと転がり戻ってきたバスケットボールだった。彼女はそれを拾い上げると、額のあたりからバスケットに狙いをつけ、両手で押し出すように放った。オレンジ色のボールは大きく弧を描き、まっすぐ白いネットに吸い込まれていった。
ダン――。
ボールが地面を打つと同時に、彼女はぱっと顔を輝かせ、リックに振り返った。彼も笑顔で応えた。
「入ったね」
「リックに負けられないもの」
アンジェリカは軽快な足どりで彼に駆け寄り、隣に並んだ。
「ありがとう」
後ろで手を組み、うつむいてはにかむ。
「私、リックに大丈夫だって言ってほしかったのかもしれない」
そう言って彼を見上げると、屈託なく笑いかけた。
「きのうはセリカと一緒だったのか? 何度か連絡したんだぜ」
ジークは、爽やかな朝に似つかわしくない仏頂面で小石を蹴った。
「何か用だったの?」
並んで歩くリックが振り向くと、ジークは逃げるように視線をそらせた。
「……相談ていうか……ちょっとな」
小さな声でぼそりと答える。
「なに?」
リックははっきりしないジークに、答えを促した。追い詰められた彼は、うつむいたまま目を細める。
「やっぱりいい……なんでもねぇよ!」
拒絶するように、半ば投げやりに言い捨てた。リックは迷いながらも、思ったことをぶつけてみる。
「もしかして、アンジェリカのこと?」
「……なんでだよ」
平静を装ったつもりだったが、明らかに動揺がにじんでいた。
「やっぱりそうなんだ」
リックがぽつりとつぶやいた言葉を、ジークは否定しなかった。思いつめた表情でアスファルトの地面を見つめる。
「実はさ、僕、きのうアンジェリカと会ってたんだ」
「なに?」
思いがけないリックの話に、ジークは驚きを隠せなかった。彼に振り向き、足を止める。リックもその場に立ち止まった。
「相談を受けてたんだよ。もしかして、そのことと関係があるんじゃない?」
ジークははっとした。歯をくいしばり、顔をしかめ、頭をおさえる。そして、絞り出すように声を発した。
「アンジェリカ、なんて……」
「うん……ジークが怖い、って。何かあったわけじゃなく、そう思う理由もわからないんだって」
リックは淡々と答えながらも、頭を抱える彼を、心配そうに見ていた。
「ねぇ、何があったの?」
眉根を寄せ、けわしい顔で、ジークはしばらく考え込んでいた。そして、迷いながら口を開いた。
「あいつが、転びかけたとき……とっさに後ろから抱きとめた。そしたら、なんか妙な空気になっちまって……」
「それだけ? ……じゃないみたいだね」
リックは、彼のこわばった顔を見て悟った。しかし、ジークは口を閉ざしたまま、自分から語ろうとはしなかった。
「そのとき思わず抱きしめちゃった、とか?」
「おまえっ、なんで……!」
リックの当てずっぽうを聞いたとたん、ジークは顔を真っ赤にして後ろに飛び退いた。
「あ、そうなんだ」
「ちっ、違う! ほんの一瞬なんだ! そんなつもりはなくて、本当についっていうか」
これ以上ないくらいに顔を赤らめ、あたふたとちぐはぐな言い訳をする。そのみっともなさに、自分自身ですぐに気がついた。両手でぐしゃっと髪を掴み、その場に崩れるように座り込んだ。
「俺、自分のバカさ加減がほとほと嫌になった……。何も言わねぇって決めたのに……これじゃ……」
頭を抱え込んだまま、背中を丸め、力なく消え入りそうにつぶやいた。
「それでわかったよ。アンジェリカはそのことを無意識に感じとってとまどってたんだね」
「そうじゃねぇ!」
リックが納得しかけたところで、ジークは急に強く否定した。
「そうじゃねぇんだ。あいつは、おまえのことが好きなんだよ……だから……」
「……え?」
リックは本気で聞き違えたと思った。ジークはいらついて、アスファルトにこぶしを叩きつける。
「だから! あいつが好きなのはおまえなんだよ!」
「……それ、本気で言ってるの?」
「冗談でこんなことが言えるか!」
再び地面を叩きつけ、膝に顔をうずめた。リックは怪訝な表情で、空を見上げた。
「ジークの勘違いだと思うけどなぁ」
「おまえは知らねぇだろ! おまえがセリカに会いに行くときの、あいつの寂しい顔を!」
あくまで信じようとしないリックに、ジークの怒りは高まっていく。それでも、リックはどうしても納得がいかなかった。首をかしげ、考えを巡らせた。
「思うんだけどさ、アンジェリカって、恋愛とかまだよくわかってないんじゃないかな。そういう部分、きっとすごく子供なんだと思う」
「…………」
ジークは反論できなかった。言われてみれば、確かにそういう気もする。
「だから、まだ誰のこともそんなふうに思ってるわけじゃないんだよ、きっと」
リックはそう言って、ジークににっこり笑いかけた。だが、ジークはうなだれて、こぶしを膝の上で震わせていた。
「だとしても、もう……ダメだ……」
たとえリックの言うとおりだとしても、自分が避けられているという事実は変わらない。自分の軽率な行動が招いた結果だ。すべてが終わった――。ジークは目の前が真っ暗になっていた。
「大丈夫だよ」
リックはそう言って、再びにっこりと笑いかけた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
ジークの前に手を差しのべる。
「行こう。遅刻するよ」
いっそこのままどこかへ逃げ出してしまいたい。そう思ったが、ジークには逃げ出す度胸すらなかった。暗い気持ちのままリックの手をとり、重い腰を上げ、鉛の足を引きずるように歩き出した。
「おはよう」
ふたりが教室に入ると、アンジェリカが駆け寄ってきた。
「今日はちょっと遅かったわね」
「ジークがもたついちゃってね」
リックは軽く陽気に言った。からかわれているのか、責められているのか、ごまかしてくれているのか、ジークにはわからなかった。だが、本当のことを言われるよりは、はるかにいい。
「……悪かったな」
無愛想にぽつりとそうつぶやいた。
「どうしたの? 元気がないみたいだけど。体調でも悪いの?」
アンジェリカは、いつもよりおとなしいジークを見て、心配そうに顔を覗き込んだ。
「別に、普通だ」
顔をそむけ素っ気なく返事をすると、すたすたと自分の席へ足を進めた。アンジェリカはきょとんとして、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。ちょっと機嫌が悪いみたい」
「そう……」
リックは気づかってくれたが、彼女の不安は拭えなかった。
きっと、私のせい――。
アンジェリカは顔を上げ、泣き出しそうな気持ちを胸の奥へ仕舞い込んだ。
キーンコーン――。
終業のチャイムが鳴った。
「じゃ、僕はこれで」
リックは素早く帰り支度を整えると、ふたりに手を振り教室を出ていった。
ジークは小さく舌打ちした。今朝あんな話をしたばかりなのに、何の配慮も遠慮もなく、さっさとセリカのところへ行ってしまったリックを苦々しく思った。そして、アンジェリカとの橋渡しをしてくれるのではないかと期待をしてしまった自分の甘さに腹が立った。
「ジーク」
いつのまにか、アンジェリカが席の前に立っていた。ジークは椅子に座ったまま、顔を上げることさえ出来なかった。机の上の鞄に乗せた手には、じわりと汗がにじんできた。
「図書室に寄っていかない?」
思いがけない言葉だった。とっさに顔を上げ、彼女の表情を確かめた。快活な笑顔は、まっすぐ自分へと向けられている。
「ね?」
アンジェリカはさらににっこり笑うと、ジークの瞳をじっと見つめ、腰をかがめて顔を近づけた。
「な……な……」
ジークがうろたえた声をあげると、アンジェリカは両手ではさむように、彼の両頬をビタンと叩いた。彼は呆然としたが、ヒリヒリする頬の痛みで、すぐに我にかえった。
「な、なにしやがる!!」
アンジェリカはあははと笑いながら、くるりとまわってジークから離れた。短いスカートがひらりと舞い、ふわりと落ち着く。
「ごめんね」
その一瞬、ふいに真面目な表情をのぞかせたが、すぐににっこりと柔らかい笑顔に変わった。
「……ああ」
ジークはそれだけの返事をするのが精一杯だった。
……もう、平気だから。アンジェリカは心の中で小さくつぶやいた。そして、ぱっと晴れやかな顔を上げる。
「行くんでしょ? 図書室」
はつらつと問いかけてくる彼女を見て、ジークもようやく表情を和らげた。
「ああ」
安堵の息をつき、鞄を肩に掛けながら立ち上がった。その顔には、もう暗い陰はなかった。
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しかし五年後。辺境を襲った疫病を救うための緊急要請を通じ、エリシアは冷酷だった元夫ロルフと再会してしまう。しかも隣にいる娘の青い瞳は彼と瓜二つだった。
「すまない。私は父としての責任を果たす」
かつての合理主義の塊だった元夫は、自らの過ちを深く悔い、家の権益を捨ててでも母子を守る「強固な盾」になろうとする。娘のクララもまた、危機から救ってくれた彼を「パパ」と呼び始めてしまい……。
だが、どんなに後悔されても、どんなに身を挺して守られても、一度完全に壊された関係が元に戻ることは絶対にない。エリシアが真の伴侶として選ぶのは、凍えた心を溶かし、温かい日常を共に歩んでくれたリュシアンただ一人だった。
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