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08.番との対峙

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 仄明るい室内に、小さな電子音が鳴った。
 シーツに埋もれていた人影の片方が起き上がり、伸びをしながらヘッドボードで光っている端末を手に取る。
 発信者を確認しておや、と首を傾げてから通話ボタンを押した。

「やぁおはよう。電話なんて珍しいね」

 下着だけの姿でベッドから抜け出した一ツ橋はゆっくりと窓へ近づく。
 朝の白光が線状に室内を照らし、未だ眠るもう一人の姿を眩しく浮かび上がらせた。
 横向きで枕に顔を埋め眠っている。ともすれば力尽きたかのように見える肢体には、無数の鬱血痕と歯型が散っていた。
 執着の強さを窺わせる痕跡は唯一、項だけを見事に避けている。そこには一ツ橋がつけたのではない噛み痕が刻まれていて、本人も触れられるのを嫌がるため諦めた場所だ。
 床に放り出されていたシワの寄ったシャツを軽く羽織り、ベッドに腰を下ろす。
 穏やかな寝息を繰り返す達真を、愛しくてたまらないという目で眺めながら空いている手で傷んだ金の髪を梳く。

 初めに目にしたときはただ惹かれた。
 本能的なものが多分に含まれていたのだろうと今なら分かる。
 しかし二度目に、商店街のペットショップという予想外の場所で再会したとき、一ツ橋は衝撃を受けた。
 肩まであったつややかな黒髪が、見る影もなく短く切られて染められ金色に輝いていたのだから。
 そして嬉しくなった。自分とお揃いのような気がして。
 陽の光で頼りなく透けるかさついた髪をあれほどまでに美しいと思ったことはない。
 今ならば、これが彼なりの過去との決別の証であることが理解できる。
 その悲壮な決意も、彼が髪の色を変えるために金の染め粉を選んだことも、すべてが一ツ橋の元に達真を引き合わせるための運命だったのではないか、などと考えてしまう時点で重症だ。

「あぁ、ごめん。聞いてるよ。で、ご用件は?」

 端末の向こうの空気がぴりりと緊張した。
 手の中で達真の髪を弄びながら、電話の声に耳を澄ませる。爽やかで幸せな朝には到底似つかわしくない話題が齎され、一ツ橋の眉根が自然と寄った。

「わかった。連絡してくれてありがとう。そっちも気をつけて」
「……ん……」
「起こしちゃったかな」
「いや、起きた……」

 終話した端末を放り出して、緩慢に起き上がった体を捕まえてキスを贈る。
 昨日散々貪った唇は薄紅色にぽってりと腫れてしまっていた。
 キスをしたことがなく、一ツ橋とするキスが好きだという達真に張り切ってしまった結果だった。さすがに少し反省する。
 二度三度と口づけようとする一ツ橋を達真は雑に押しやり、鋭くにらみつけた。

「朝から盛るな!」
「別に盛ってないよ。これは軽いスキンシップ」
「過剰なんだよクソが! 離れろっ」
「ちぇ……昨日はあんなに素直だったのに」
「握りつぶしてやろうか……ッ!」
「ごめんごめん、ごめんって」

 本気で怒りを顕にする達真に拳をチラつかされ、一ツ橋は両手を挙げて降参を示した。
 まだ本命に使うことができていない息子を今握りつぶされてしまうわけにはいかない。
 戯れが一段落して、不意に一ツ橋が表情を引き締めた。

「達真くん、今宇佐見くんから電話があって。きみの首輪を追って事務所に人が来たそうだよ」
「……! 俺の、首輪を追って?」

 一ツ橋が頷く。達真がさっと青褪めた。

「心当たりがあるようだね」
「いや、でも……あいつがそんなこと……」
「事務所に現れたのは物々しい雰囲気の男二人。宇佐見くんが外した首輪を見せたら、さっさと姿を消したらしい。……きみの番が、探しに来たのかな」
「ッ……そう、かもしれない」

 達真の両手が固く握られ、指先が白くなっている。
 あれだけの頑丈な首輪だ。位置情報の発信機能のようなものも内蔵されていたのだろう。
 それが昨日宇佐見の事務所で外れ、達真の足取りが追えなくなった。首輪の解除で通知が行ったのか、もしくは見慣れない場所に首輪の位置情報が留まり続けているのを不審に思われたか。
 どちらにしろ、達真の心情は最悪だった。
 自らを捨てたアルファが今なお達真の行動を監視していたという証拠だ。気分がいいはずがない。

「宇佐見くんの事務所にある首輪の位置を特定できたのだから、今まで住んでいたあのアパートは当然向こうに把握されているだろう。バイト先も同じだ。でもここなら、きみは首輪をつけたまま来たことがない。ここにいれば安全だ」

 不自然なほど冷えた肩に一ツ橋が触れると、達真はびくりと身を震わせた。
 しかしいつものように振り払うことはなく、決意が込められた視線を返される。

「───逃げも隠れもしない、かな」
「あぁ。あっちから来るってんなら受けて立つ。俺の方も言いたいことは山程あるしな」
「いいね。さすが達真くんだ。惚れ直しそうだよ」
「気持ち悪いこと言うな」

 軽口を叩くと達真の顔色が少しマシになった。肩の力が抜け、闘志が湧き起こる。一ツ橋もほっと息をついた。
 達真は強い。心根が、一本筋が入っているかの如く。
 つらい時期を過ごしてなおアルファの支配から逃げ出し、就業も厳しいオメガの身でありながらバイトを掛け持ちして一人で暮らしている。自分の身は自分で面倒を見ることができる、立派な一人の男だ。
 アルファへの依存心が強く、反抗することなど考えもしない大多数のオメガとは明らかに一線を画す。
 そして今も自由のために、己を捨てたアルファと対峙しようとしている。恐ろしくないはずがないのに。

「僕も行くよ」
「ついてくんな」

 返事に一秒の逡巡もなかった。
 とても嫌そうに顰められた達真の顔と予想通りの拒絶に、一ツ橋は苦笑するしかない。

「絶対言われると思った。嫌がられてもついてく」
「なんでだよ。俺があいつにやり込められると思ってんのか?」
「思ってないよ。僕もあの首輪のアルファに言いたいことがあるから。それと達真くんによる暴行を止める役、もしくは近所の人に通報された時逃走するための足」
「警察に追っかけられて捕まったことなんてねーよ」
「追っかけられたことあるの? やんちゃすぎてびっくりしちゃうな……」

 褒められていないはずなのに胸を張って鼻を鳴らす達真に、一ツ橋はくすくすと笑った。
 番の存在を示唆されたときの緊張した様子はもう見られない。
 一ツ橋が達真を最初に見かけたときのパーティーは、上流階級の社交場のようなものだった。
 そこへ招かれるアルファなら、社会的地位のかなり高い相手となる。
 どこまで立ち回れるかわからない。だが少しでも達真の助けになれれば良い。
 捨てたオメガに再び接触しようとする相手の手の内が読めないことは不気味だが、話し合いで追い払い、二度と達真に害が及ばないようにする。それが最上の結果となるが、果たして上手くいくかどうか。
 士気高く燃える達真に目を細め、その額に唇を寄せる。

「上手く説得して、またここに帰ってこようね」
「いや俺は自分の家に帰るぞ。今日はバイトあるし」
「えー!? 魔王を倒したら勇者と姫は愛の巣でしっぽりって展開じゃないの!?」
「誰が姫と勇者だ。そんな生々しい英雄物語聞いたことねぇぞ」
「じゃああとちょっとだけ……」
「やめろ」

 自然に達真を押し倒し肌をまさぐる一ツ橋を、達真は断固として拒否した。
 さっさと服を着始める達真を恨めしそうに見つめる一ツ橋は、食事を抜かれた犬のように哀れだった。

 車が見慣れた区画に入り、じわじわと増していた緊張感がさらに高まる。
 達真のアパートの目の前に黒い車が停まっているのが見えたとき、どうしても一瞬息が止まった。
 少し離れた場所に車を停める。
 警戒しながら降りて、すぐに横に立った一ツ橋に左側を任せた。
 アパートの敷地に二人が足を踏み入れるのと、達真の部屋から人影が出てくるのは同時だった。

「……望月もちづき

 唸るように呟いた名は達真の舌を苦々しく染める。
 もう二度と呼びたくない名だった。
 安普請のアパートに全く似合わない高級スーツに、一分の隙もなく整えられた黒髪。砂埃すら避けて通りそうな存在感は、切れ長で鋭い眼光が酷薄な印象に拍車をかける。
 達真を捨てたアルファ。
 一年ぶりだが、懐かしいという感情は沸かなかった。

「家主がいねぇのに部屋に入んなよ」
「……久しいな、達真」

 他人に命令し慣れている低い声が鼓膜を震わせる。
 それだけで目を逸らし屈したくなる気持ちを押し隠し、強く睨みつけた。
 今は首輪もなければ、こいつに何もかも支配されていたあの場所でもない。横には頼りにはならなそうだがそれなりに使えるアルファもついている。
 一ツ橋が聞けば涙ぐみそうな評価で自らを奮い立たせ、望月との距離を詰める。
 望月の後ろには、常に彼に付き従い行動を共にする秘書兼世話係の安藤あんどうもいた。
 しかしあれは望月の影でしかない。直接危害を加えなければ口も挟まないだろう。一ツ橋は二人とも警戒しているようだが、達真は安藤を無視することに決めた。

「俺に用無し宣言した望月家のお坊ちゃんが、こんな下町にどんな御用でございますか?」
「ふん……神経を逆撫でするような物言いは相変わらずだな」
「勝手に逆撫でされてろ」

 望月の視線が鋭く達真を射抜く。眼に力を込め、絶対に気圧されないように足を踏ん張る。
 そうしていなければ一瞬で崩れ落ちてしまいそうだった。
 背筋を冷や汗が伝う。ふと望月の視線が逸れた。

「なぜ首輪を外した。その男のせいか」

 一ツ橋と望月が睨み合う。
 もっとも眼光鋭く警戒しているのは望月だけで、一ツ橋は笑みすら浮かべて余裕そうに肩をすくめて見せた。

「はじめまして。僕は一ツ橋クリス」
「一ツ橋……? あぁ、当主が妾腹に産ませたというアルファか。海外へ逃げたと聞いていたが」
「逃げたなんて。海外へは留学させてもらっただけだよ、僕は父に愛されているからね。そんなこともわからないなんて、望月家というのはさぞかし愛に無頓着なのだろうね」

 見えない火花がばちばちと飛んでいる。
 アルファ同士の、言葉よりよほどきつい威圧の応酬を達真は見守ることしかできなかった。間に挟まれているわけでもないのに、アルファの存在感に膝が折れそうになる。
 不意に力強い腕が達真の腰に回された。

「僕は愛するものをやっと見つけることができた。美しいけれど、他人に手酷く傷つけられた獣だ。僕はこれからじっくりこの子の傷を癒してあげるつもりだから、そこを退いてくれるかな?」

 にっこりと微笑む一ツ橋に望月の眼光の鋭さが増す。
 プレッシャーに押し潰されそうになりながら、達真は内心首を捻った。
 番ったはいいものの、子供を産めず放り出したオメガを奇特なアルファが自ら引き取ろうと言っているのだ。望月からしてみれば、後顧の憂いが消える大歓迎の出来事だと思えるのだが。
 それとも達真が望月家の汚点として、一ツ橋に知られ、弱点のように扱われることを警戒しているのか。

「望月。首輪を外して人にやっちまったことは謝る。だが俺は二度とあんたの家に関わることはないし、俺の存在があんたの弱味になることもない。噛み痕があるとはいえ、所詮出来損ないのオメガだ。このまま捨て置いてはくれねぇか?」
「達真くん、自分のことを酷く言わないで」
「おまえが口出すとややこしいから黙ってろ……」

 達真が自らを貶める言葉を吐いたせいか、一ツ橋が腰だけでなく頭までぎゅうと抱き締めてきた。
 つとめて論理的に場を収めようとしているのに、これでは形無しだ。
 くっついてくる一ツ橋を全力で引き剥がそうとしていると、望月の背後で気配が膨れた。影のように付き従っていた男───安藤だ。
 感情を表に出さず、あたたかみの感じられない視線しか達真に寄越したことのない男が、無表情を怒気で染め上げていた。

「勝手なことを! 高史たかふみ様のお気持ちも知らず……っ!」
「やめろ、安藤」

 静かな望月の声で、安藤は項垂れるように言葉を切った。伏せる直前の双眸が憎しみを込めたものだったことに達真は驚く。
 望月に忠実な男だとは思っていたが、敵意を持たれていると感じたことはなかった。
 ただ彼の立場なら達真を憎んでも仕方ないことは理解している。
 望月の気持ちを理解するもなにも、達真と彼の間に会話らしい会話は殆どなかった。
 三年も番として暮らしたのに、心を通わせるようなことはなく、達真がヒートを起こせば義務的に入れて出すだけ。
 そんな関係で相手の心を慮れという方が無理だ。

 望月の家で過ごした時間を無駄だったとは常々思ってきたが、あの日々に自分が傷ついていたのだと知ったのは最近だった。
 何気ない会話で、視線のやりとりで、肉欲なく抱き合うだけで満たされてしまうものがあると知ってしまった。あんな色のない日々には二度と戻れないだろう。
 横に立つ一ツ橋をちらりと見上げる。
 すぐに微笑みが返されるこの場所を、すでに少し惜しいと思い始めていることを無視できなくなっている。
 見つめ合う二人に鼻白む望月の声色は冷え切っていた。

「俺とておまえの顔など見たくもないがな。腐っても一度は望月の家に入った、俺の番だ。誰に悪用されても困る」
「……そんな理由で俺を監視していたのか」
「オメガは所詮アルファの所有物だ、当然だろう。これまで目立つ動きをしていなかったから放し飼いにしていたに過ぎない」
「……ッ」
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