冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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06.触れる

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 気の抜けない生活がはじまった。
 ブレイズはいつやってくるか全くわからなくなった。
 一度絵を取りに来ればしばらくは来なかったこれまでと違い、連日のように訪れることもあれば十日も来ないことがあった。シムは収入が減ったことに加え、不規則にもなってしまい、日々不安を募らせていく。
 今日もブレイズは部屋を訪れた。
 日中は施錠していない玄関を静かに開けた音は、シムの耳には届いていなかった。描画に集中していると、周りの音が聞こえなくなる。そして集中力が切れ一息つくと、後ろにブレイズがいる。
 そんなことが何度もあり、シムはその度に驚いて後ずさった。
 慌てふためくシムを見ても、ブレイズの表情は変わらない。要件があればそれだけ話し、監視だけが目的のときは無言で帰ってしまう。
 少し前までは、穏やかに雑談をする仲だったというのに。ひどい変わりようだった。

(まるで別人みたいだ……)

 絵筆を水で洗い流しながら、隙あらば彼のことを考えてしまう自分を叱咤した。
 渡されたときから広がってけばけばとしている平筆は意外と丈夫で、なかなかへたれない。
 シムの作り出す絵の具は油絵のような質感を与えるが水溶性で、絵筆も水に浸けることで洗うことができる。元々の原料が水分だからか湿気にもある程度強い。
 体質のことを告げたとき、ブレイズは元々不思議な絵の具の性質を疑問に思っていたそうだ。
 何度もすごいと称賛され、シムは一時だけ自らの惨めな境遇を忘れることができた。
 そんなあたたかな記憶も今はとなっては遠い過去だ。
 洗い終わった画材を乾いた雑巾の上に放り出して、ベッドに転がる。
 屋根を支える骨組みが隅々まで見える天井を視線で辿りながら、あまり働かない頭でこれからのことを考えた。
 不定期で不安な収入、寒い家、冬支度をはじめる町の人々。

(こんな生活、長く続くはずがない)

 なにかを決断しなければならない時が近づいている。そう思えてならなかった。

 数日後、ブレイズが再びやってきたとき、シムは絵を描いていなかった。
 下絵を済ませたものに色を塗る段階になって、どうしても欲しい色が出なくなってしまったのだ。
 それどころか、シムが焦るほど作った色は濁り、見るに堪えないものばかりになっていく。
 口の中がからからに乾いて咳き込み、慌てて水を飲んだら、今度は水分過多でとても絵の具としては使えないものしか出てこなくなってしまった。
 この不調も、スランプというものに含まれるのだろうか。くすんだ暗色ばかりのパレットを見下ろして呆然としていると、はしごをのぼる音と共にブレイズがやってきた。

「どうした?」

 絵に集中しているわけでもないのに、玄関に立つ訪問者を見ようともしないシムにさすがに驚いたのか、ブレイズは戸惑う声を掛けてくる。
 シムはゆるく首を振った。

「色が出ない」
「……確かに、この色は」

 まるで様々な色の顔料を無軌道に混ぜ尽くしたような泥色に、ブレイズも難しい顔をしている。

「ブレイズ、市販の絵の具を買わせてくれ。これじゃあ使い物にならない」
「だめだ。許可しない」
「なんで!」

 シムはいらいらと立ち上がって叫んだ。怒りによる大声を出すのは久しぶりだった。

「こんな色しかなかったら描けない、線の一本だって引けやしない! 絵が描けなかったらぼくはもう飢え死にするしかない、あなたにそこまでの権利があるっていうのか!?」
「市販品を使うことは許可しない」
「っ……もういい! 自分で買ってくる!」

 ベッド横に掛けてあったコートとマフラーを引っ掴んで、抽斗の奥に仕舞い込んであった封筒を取り出す。
 市販品を買ってしまえば数日分の食費が消えるが、描けないことよりつらいことなどないと思った。
 立ちふさがる男の横をすり抜け、部屋を出ていこうとして───ブレイズに腕を掴まれた。
 はっと振り返っても、厳しい表情で二の腕を拘束する男と目が合うだけだ。
 シムは咄嗟に腕を振って逃れようとしたが、思いの外強く握られ離される気配もない。

「もうっなんなんだよ!」

 絶叫に近いシムの声にもブレイズは動じず、逆に腕を引っ張られてよろめいた。玄関に向かいかけた足を一歩引き戻され、シムの苛立ちは頂点に達している。
 きついまなざしでブラウンの瞳を睨みつけたシムに、ブレイズは表情を変えずに言った。

「まだ試していない方法があるだろ」

 その言葉が耳に入ってきた途端、シムは固まってしまった。
 唾液がだめだと分かったあと、涙液と血液も試したが、少量をパレットに落とした時点で無駄なことだと悟った。透明な液体だったはずの涙は、木に着地した瞬間に黒に近い緑のような、形容し難い色に変わる。赤い雫は闇色の紫に変わった。血液は使えないこともなさそうだったが、それは白や青などもっと薄い色を同時に用意できればの話だ。暗色しかないパレットでは持て余すし、なにより今シムの欲しい色では決してない。
 ひとつだけ試していない体液があることに、シムだって気付いていた。
 でもそれだけは避けたいと思っていたから、あえて無視を決め込んだというのに。
 動揺と迷いが顕わになり、気勢を削がれたシムはブレイズの腕が促すまま、ベッドの方向へ逆戻りさせられる。

「精液も体液のひとつのはず。それを試さずに市販品を使うのは許さないよ」
「う……」

 きっぱりと告げられ、シムは深く俯いた。
 シムはおそらく普通の成人男性と比べて、性欲が薄い。そのうえ自慰に対しても、あまり良い印象がなかった。
 思春期に精通を迎え、周囲の話や学校で教わる内容から、恐る恐る自分で自分に触れたことはある。
 絶頂のときの解放感は特別な感情をもたらしたが、同時にそれは絶望でもあった。
 シムの手に広がった精液はすぐに色を変え、別のものになってしまった。
 どう見ても成分からして違う、液体より溶けた固形に近いそれ。
 一般的には透明か白っぽいと言われるはずのものが、濃紺になっていくときの驚愕。
 体質の異常さは自分で分かっているはずだった。
 それでもいつかは、自分の腕で身を立て、体質のことを理解して一緒にいてくれる素晴らしい女性が自分の前にも現れると、疑っていなかった。
 いつかこの手に、どこか自分の面影を持つ赤子を抱くことができると、本気でそう思っていた。
 幻想が儚く消えた瞬間だった。
 だからシムにとって自らの精液はいわばトラウマで、できることなら目にしたくない。
 しかしそんな事情をブレイズが知るはずもない。

「なにをそんなに躊躇うのかな。自慰くらい男なら誰でもやるでしょ」
「っ、ぼくは、しない……」
「あぁ……」

 シムを見下ろしていたブレイズの目が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
 ひとつ頷くその仕草に、年齢のわりに幼いとでも思われていそうで尚更腹が立つ。
 もう一度拒否の言葉を吐き掛けようとして、しゃがみこんだブレイズの瞳を間近で見たシムは言葉を飲み込む。

「もしかしてやり方がわかんない? ……手伝ってあげようか」
「…………は?」

 見つめ合う視線が下に向かった瞬間、股間にありえない感触があった。
 絵の具がついても良い、履き古し色落ちしたジーンズの前部分に大きな手が乗っている。それがもぞりと動いて、フロントホックとチャックが一瞬で開けられた。

「は!? なんっ……ちょ」

 慌ててブレイズの体を押したが逆に体重を掛けられ、貧弱なシムは目の前の男を仰け反らせることすらできなかった。
 骨ばった手が怪しげに動き、条件反射でシムの腰が跳ねる。

「触っても大丈夫そうだね。ちょっと硬くなってきてる」
「う、うそ、嘘だっ」
「嘘じゃないって」

 ほら、と言いながらするりとジーンズを降ろされ、あっという間にシャツに下着という寒くて恥ずかしい格好にさせられてしまった。早業すぎてシムは呆然とするしかない。

「集中して」

 ブレイズの指先が、薄い布の中ではっきりと形を変えているシムのものを辿った。
 ただでさえ人付き合いが苦手なのに、そんな場所を他人に触られるなんて、想像したこともない。あからさまに抵抗する力が緩んだシムに、ブレイズは微かに笑った、気がした。

「ブレイズ、やめ、やめて……」
「手伝うだけだよ、この程度のことみんなやってる」
「うそだ、ぁ、あぁ……」

 ついには下着まで剥ぎ取られ、少しだけ立ち上がったものが震えて飛び出すのがたまらなく恥ずかしい。
 慌てて太腿に力を込めたが、ブレイズの腕と体を両足で挟んでしまうだけに終わった。
 シムがあからさまに反応するのを見て、とうとうブレイズは遠慮をしなくなった。
 片手で握り込むように触れられ、上下に擦られる。指の先でカリ首や先端のくぼみを抉るように刺激されれば声を抑えることもできなくなった。

「だめ、やめて、あっ……うぅ」

 目尻に涙が滲んだ。必死に腕を突っ張っても、泣きべそ声で懇願しても、ブレイズは動きを止めてくれない。
 もはや視線が合うこともなく、シムは込み上げる快感を首を振って逃がすことしかできなかった。
 ぐちゅぐちゅと水っぽい音が耳につくのがとても嫌で、その原因がブレイズだということが恐ろしい。

「ぁ、くるっ、出そうだから、ブレイズ、やめ」
「出して。そのためにやってるんだ」
「あっ、あぁ───」

 久しく味わっていなかった感覚に腿の内側が痙攣し、シムはあっけなく精を放った。
 息が整わない中、見下ろすとブレイズがシムのものを手で受け止めたらしいということが見て取れる。

「これは……」

 ブレイズの声色に驚愕が混じっているのをぼんやり聞いた。
 彼の手のひらに広がったものに目を向け、シムはすぐに顔を背ける。
 自分が化け物であると自覚する一番の証拠を直視するには、心の余裕がなさすぎた。
 詳細に調べたわけではないし、確証もないため仮説だが、シムの体液から作られる絵の具は体の中心に近い場所のものであればあるほど不思議な、奇妙なものができる。
 臓器から直接体外へ放出される精液の場合、その絵の具は薄く塗ると別の色に変わり、厚く塗ると他の色が内蔵されたような奥行きのある線になる。金属の粉を含んだように見えるまだらになることもあり、もし一般に流通することがあれば相当に奇異な色と扱われるだろう。
 しかしシムにとってはできるだけ使いたくないものだった。
 それなのにブレイズは遠慮をすることなく、木のパレットにそれを乗せてしまう。
 澄んだ海の奥底を思わせる深い蒼が、失敗作の濁り色たちの横で異彩を放っている。

「すごい、色だ。これだけで芸術品と言えそうなほどだね」
「……冗談はよしてくれ。ぼくをこんなふうに貶めて、さぞ楽しいだろうね」
「貶める? そんな意図はないよ。それよりこれなら続きを描けるだろ」
「えっ」

 思わずブレイズを見上げると、彼の目はイーゼルの上のキャンバスに向けられていた。
 そこには鉛筆で薄く描いた下書きだけの画面が広がっている。
 どうしてシムが今、青の絵の具を求めていると分かったのだろう。
 声にならないシムの疑問が聞こえたかのように、ブレイズがぽつりとつぶやく。

「きみの絵は素直で正直だ。どんなものを描きたいのか、分かるよ。……わたしには」

 それきり、コートの裾を翻して部屋を出ていくブレイズにシムは掛ける言葉がなかった。
 彼がコートを脱ぐこともなくシムを追い詰めたことが、後から無性に悲しく思われて、その日は結局絵筆を取ることができなかった。
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