冷酷なミューズ

キザキ ケイ

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08.決壊

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 ハンナと出会った日のことは、シムにとって暗い夜の灯火のようにあたたかな記憶となっていた。
 その後公園に行っても、ハンナとジョシュを見かけることはなかったが、シムのスケッチブックには彼女たちの表情や空気感がしっかりと描き残されている。
 ページを開いて眺めるだけで、あの日の冷たい冬の風すら思い起こせるほどだった。
 その日もシムは作品づくりの合間にスケッチブックを取り出し、ハンナとジョシュのページを開いていた。
 ブレイズがやってきたのはそんなときだった。

「……それは?」
「あ、ブレイズ。おはよう」

 ハンナの高飛車でかわいらしい言動を思い出していたからか、玄関を振り返ったシムは柔らかく微笑んでいた。
 ブレイズは眉をしかめ、大股で歩み寄ってくる。
 そのままシムの腕に抱えられていたスケッチブックを取り上げた。

「それね、数日前に近所の公園で会った女の子なんだ。ハンナと、彼女の騎士のジョシュだよ」
「……」

 ブレイズがシムのスケッチに興味を示すのは久しぶりのことだった。
 以前は何度か、スケッチブックを見せてと請われ、風景や静物の模写についていろいろな話をしたものだ。
 今の雑談すらない関係との落差にシムは悲しくなったが、また以前のように和やかな話ができるのではないかと期待する心もあった。
 しかしブレイズはスケッチを一瞥しただけで、すぐにページを閉じてしまった。
 今来たばかりだというのに踵を返す姿にシムは慌て、ブレイズのコートの裾を掴む。

「ブレイズ! どうしたの、なにか気に触った?」
「あぁ……そうだな。不愉快だ」

 吐き捨てられたその言葉にシムは硬直した。
 人に見られて恥ずかしいほど、デッサンが狂っていたとは思えない。現にハンナはとても喜んでくれた。こどもは正直だ、下手な絵で喜んだりしないだろう。しかしブレイズは不愉快に感じたという。
 問い返す言葉すら失ったシムへ、ブレイズはさらに言い募る。

「近頃また作品の質が下がったと思ったら、こんなものにうつつを抜かしていたとはね。この程度のもの、描いたって一銭にもならないよ」
「そんな、でも」
「これからはいっそ外出も禁止したほうがいいのかな。それにしても、きみが小児性愛者だとは思ってもいなかったよ」
「こ、これはそんなんじゃない!」
「ふぅん? それならそんな絵を脂下がった顔で見つめてないで、一枚でも作品を完成させることを考えたらどう」
「……」

 摘んでいたコートを振り払われ、ブレイズは出ていった。
 喫茶店で打ち合わせと銘打ち、さまざまな作品や作家について彼と話をした日々の記憶が蘇る。
 なけなしの金を画材に充て、空いた時間は写生に出かけるシムのことを、ブレイズは仕方がなさそうに笑いながら聞いてくれた。基礎デッサンはどんな画家にも大切で、息抜きにもなるなら良いことだと、彼は言ってくれたのに。

「シムの作品はもちろん好きだけど、鉛筆だけのスケッチもわたしは好きだな」

 はにかんだ笑顔のブレイズに、シムのほうが照れてしまったことを思い出す。

「どうして……」

 問う声が空虚に響く。
 浮いたままの右手を握りしめてみても、答えは得られそうにない。

 ブレイズに言われたことが脳裏にこびりついて離れず、シムはスケッチに出かける回数を減らした。
 絵を描くこと以外にシムに趣味らしい趣味はない。
 それを仕事にしてしまった以上、空いた時間は常にキャンバスへ向かっている状態だった。
 腕が持ち上がらなくなるまで、目が疲れて霞んでくるまで毎日作品と向き合い、疲れたらベッドに座ってぼうっと壁を見つめる。晴れた日は窓の外を眺める。目の前を横切る鳥たちや奇妙な形の雲を描きたい衝動に駆られることもあったが、ブレイズにそれを見られたらなんと言われるか……と思うとペンを持つ気にならなかった。
 その日は一日絵筆を握り、キャンバスに向かったが作業はあまり捗らなかった。
 色の出も悪くなってきている。
 こんな現状を見られたら、また責められてしまうだろう。まるで乳牛の乳を絞るかのように、精液を使うよう指示されるかもしれない。シムはそれがとても嫌だった。
 そんなことをぼんやり考えていたせいか、道具を洗っていた手がつるりと滑る。

「あっ!」

 気付いたときにはもう遅く、硬い床に木のパレットが叩きつけられた。
 柔軟性のあるはずの板は打ちどころが悪かったのか、大きく裂けて割れてしまった。

「あぁ、やってしまった」

 急いで手を拭い、散らばる木片を拾い上げる。
 小さな欠片と大きな三つの板に分裂してしまったそれは、シムが学生の頃から使っていたものだった。劣化を感じてはいたものの、使えるうちは買い換えずにいたのだが、さっきの衝撃で限界だったのだろう。
 文字通りシムの汗や涙が染み込んだパレットに、精一杯感謝して別れを告げた。
 パレットがなければ絵の具を作っても置いておく場所がないし、作業にも支障をきたす。
 シムは抽斗の奥にしまってある硬貨を数えて、封筒のままコートのポケットに詰め込んだ。マフラーをしっかり巻いて部屋を出る。
 ブレイズが画材を用意するようになってからというもの、シムは画材屋から足が遠のいていた。
 元々絵の具を自分で調達しているから、紙製品と鉛筆くらいしか消耗品は買わず、最近は鉛筆も減りが少ないからか足を向けるのは本当に久しぶりだった。
 しかし不運というものは重なる。

「臨時休業……」

 背の高いアパートメントに挟まれた、二階が住居という典型的な昔気質の画材屋がシムの行きつけだった。
 その店は今シャッターが閉まり、三日間の臨時休業が今日から始まっていることを書いた紙が貼られている。
 シムはがっくりと肩を落とした。
 息苦しいほど狭い面積で、新しいものや多くの種類を備えているわけではないものの、しっかりとした品質の画材だけを扱うこの店をシムは気に入っていた。無骨で愛想のない店主と相談して、手に馴染み長持ちする新しいパレットを買うことができれば良いと思っていただけに、落胆と肩透かしが凄まじい。
 とはいえここで突っ立っていても店は開かないし、パレットが元に戻ることもない。
 シムは渋々、通りを何本か超えた先にあるやや遠くの画材屋へ行ってみることにした。
 一歩踏み出し、強い風がコートを攫う。
 重ね着したセーターとシャツの中にまで冷気が忍び込み、シムはぶるりと体を震わせた。ほんの少し歩いただけで頬や耳など、コートとマフラーでは防御しきれない場所が冷たくて仕方がない。せめてもの抵抗にと、いつもは背中でくしゃくしゃに垂れ下がっているフードを引っ張り上げて頭を覆った。吹き付ける風が肌に突き刺さるのが、少しだけましになった気がした。

 曲がる角を一度間違え、飛び込んだカフェで道を訪ね、一度店の前を通り過ぎてまた戻り、ようやく辿り着いた頃にはシムはへとへとに疲れていた。
 普段の引きこもり生活が祟ったか、足が棒のようだ。

(部屋のはしごでも昇降して運動するか……)

 体力づくりを決心して、シムは画材屋へ足を踏み入れた。
 初めて来る場所はいつも緊張するが、この店も例外ではない。肩を強張らせて入店した先には、見慣れた画材や額縁などが所狭しと展示され、嗅ぎ慣れた木と油の混じったような匂いが充満している。
 シムは訳もなくほっと息をついた。
 休日だからだろう、店は思ったより混雑している。
 入り口近くには、あまり絵画には縁がなさそうな若く騒がしい女性が何人かたむろしていて、シムはできるだけ小さくなりながら店内を進んだ。油彩や水彩の用具売り場を探しながら、棚の合間をゆっくりと進む。売り物が通路に飛び出しているところも多く、道幅は狭いがその分品揃えも良いようだ。ただあの店より価格は僅かに高い。
 絵筆が何種類もケースに収められている棚を見つけ、そこへ入った。
 予想通り様々なパレットが置かれたスペースがあり、シムは一番手前の木の板を手にとって眺める。

「───あぁ、もう帰るところだ」

 声が耳に突き刺さるように響き、はっとして振り向いた。
 シムのいる棚に他の客の姿はなく、しかしすぐ近くから声は聞こえる。隣の棚にいるのだろうか。
(ブレイズの声……)
 彼を外で見かけたことはなかった。
 まだ打ち合わせをしていた頃、喫茶店の前で待ち合わせをするくらいで、どこかで偶然会うということは考えたこともなかった。もしかするとシムの家へ持ち込まれる画材類はここで購入しているのだろうか。そういえば店頭に、見たことのあるロゴマークが掲げられていたような。
 ブレイズに声を掛けるか、シムは迷った。
 近頃のシムとブレイズの関係性は最悪だった。金づるにもならない売れない画家に、プライベートタイムに声を掛けられたら迷惑かもしれない。それに彼は誰かと話しているようだった。
 心臓が変なふうに弾んで、シムはコートの胸元を握りしめる。
 幸いシムは今、寒さ除けにフードをすっぽり被った姿だった。前から覗き込まれない限り顔を見られることはない。隣の棚を避けて会計をしてしまえばブレイズはきっと気が付かないだろう。
 シムは急いでどれを買うか考えることにした。
 焦れば焦るほど、背後から聞こえる会話が気になる。
 ブレイズの声は距離の関係か、よく耳に届いた。
 相手の声も微かに聞こえるが、なにを言っているかはわからなかった。パレットの重さや感触を目と手で確認しながら、聴覚は後ろの棚へ完全に向いてしまっている。

「そう、知り合いの画家がこの近くに住んでいてね」

 シムはドキリとした。もしかして自分の話をしているのだろうか。同時に頭の中で警鐘が鳴った。
 もし彼が今シムの話をしているのなら、盗み聞きのようなことは今すぐやめるべきだともうひとりの自分が叫ぶ。しかしシムの足は縫い付けられたかのように、その場から動けなかった。

「あぁ、まぁ……そんなところ」
「違うよ。以前話したろう、男性の画家だ」

 相変わらず会話内容は分からなかったが、雰囲気からそれなりに仲のいい相手としゃべっているらしいと分かる。以前のブレイズはシムに対しても、こんなふうに気楽に接してくれていた。
 心臓が早鐘を打つ。
 立ち聞きなんて卑怯なまねは今すぐやめて、何事もなかったように帰るんだ。パレットなんて明日買いに来ればいい。

「彼は……そうだな。なんといえばいいか」

 だめだ、これ以上聞いてはいけない。足を動かせ、数歩でいい、もうひとつ隣の棚まで───。

「彼は怪物モンスターだ。いずれ、わたしの手に負えなくなる」

 耳の内側でうるさいくらいだった鼓動の音が、しんと聞こえなくなった。
 いや、周囲の音がなにひとつ聞こえなくなったというのが正しい。
 ブレイズの言葉が嫌にくっきりと、本当に嫌になるくらい明確にシムの鼓膜に届いた。
 この近くに住んでいる、男性の画家。穏やかで優しいブレイズが「モンスター」と称する人物。そんなもの、考え込まなくたってシムのことでしかないと分かる。
 手に持っていた木の板を売り場に戻し、重い足を引きずりながら店を出た。
 ブレイズとすれ違うことは終ぞなかった。
 僅かに頭の隅に残った理性が、ここで泣き喚くなと囁く。
 ただ無心にひたすら歩き、シムはアパートメントへと戻ってきた。限界を迎えつつある両脚を引っ掛けそうになりながら最上階へ上がり、ほとんど腕の力だけではしごを上る。
 自室に戻った瞬間気が抜けて、ずるずると座り込んだ。
 フードを跳ね上げコートを脱ぎ捨て、ずるずると這ってイーゼルの前へ行く。
 足の短いイーゼルには10号のキャンバスが掛かっていた。いつかにブレイズが持ってきたものだ。
 下絵もなにもない白地を見つめる。
 床に放り出していた絵筆を指先で引き寄せ、微かに毛羽立つ表面へぺたりと当てた。
 滑らせると、掠れた薄灰色が線になる。
 もう一度筆先を動かすと、今度は鮮やかな桃色がくっきりと紙の上に踊った。
 パレットがなくても、ぼたぼたと勝手に流れ落ちて作られる絵の具で絵を描くことができる。
 手元へ視線を落とさなくとも、好きな色を出すことができる。
 でも普通の画家はそんな芸当はできない。
 シムだけだった。シムだけが異常だ。
 世界でシムだけが。

「ブレイズは、どんなにひどく振る舞っても、ぼくのことを『化け物』だとは……それだけは言わなかった、のに」

 最後に残った細い糸さえ切れて、シムの心にはもうなにも残っていなかった。
 それなのに絵を描きたいだなんて。
 絵を描くことだけはやめられないなんて。
 湧き上がる衝動を抑えるすべを知らず、手だけを動かす。
 瞬く度に極彩色の絵の具が服や手、床、キャンバスの面に落ちては、それを本能の赴くままに塗り拡げ、ときに打ち消し、シムは描き続けた。
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