上 下
27 / 54
1章 昇竜

第26話 それでも歩き出す

しおりを挟む
 何事もなかったかのように晴れ渡る街並み。ハッチに戻り、桜を降りると、僕は言葉にできない空虚感に襲われた。

「……おじちゃん、元気ないよ?」
「エリス、少しそっとしておきましょう」

 2人は先に階段で上へと登っていく。誰もいなくなったハッチの中は、機械の無機質な音しか鳴り響かない。
 カンカンと、誰かが階段を降りてくる音がする。ふと階段を見ると、降りてきたのはレッドウルフだった。

「まだいたのか。閉めるから上がってこい」
「……」
「まあ、そうか。しょうがないな」

 レッドウルフは僕のことを背負って、ハッチから連れ出す。僕は抵抗する力も出ない。ただただ、温かいレッドウルフの背中に顔を埋めた。

「俺の事務所に入るか?」
「……」
「まったく。お前も人間なんだな」

 安堵したようにレッドウルフはため息をつく。そのまま事務所の鍵を開けて、僕を背負い部屋へと入る。

「ここに座っとけ。今シチュー用意してやる」

 事務所の中は、まるでひとり暮らし用の部屋のようだった。
 白い壁に囲まれて、左手に青の掛け布団が折りたたまれているベッド。正面には昼下がりの光が差し込む窓に、右手には26インチくらいのテレビと、その横には3段作りの本棚がある。
 僕はベッドに座らされて、レッドウルフは隣の部屋に行った。

「……」
「よし、タイマー鳴れば持ってくる。それで、悩んでるなら話せ。困ってるやつを助けるのが俺の仕事だ」

 そう言いながら、レッドウルフはアランの隣に座る。アランとは違い、その目は天井を見ていた。

「仕事として助けられるのはいや」
「……これは重症だな。あんまし正直に言うのは苦手だが……お前のこと、心配してる」
「……ごめん、ひどいこと言って」

 沈黙の時間が、ほんの一瞬のはずなのにアランにとっては長く感じられていた。そんな彼の肩に、レッドウルフはそっと手を置いた。

「俺に何ができるかなんて、まだ分からない。でも、お前がやってくれたように心にある闇を晴らしたい」
「……」

 無口な部屋の中に、タイマーの音が鳴り響いた。レッドウルフは、ベッドから立ち上がって隣の部屋へと歩いていく。
 お皿がぶつかりあう音がして、コトンと置かれる音がした。その後に、アランの鼻に香ばしいシチューの匂いがした。

「こんなのしかないが、食ってけ」

 白いお皿には、乱切りされたニンジンと、ほぼほぼ溶けているジャガイモがゴロゴロと入っており、ブロッコリーが点々と浮いているシチューが入っている。温めたばかりで、勢いよく湯気を立てている。

「……レッドウルフが、料理……アッハハ! 似合わない~っ!」

 アランはレッドウルフの料理する姿を想像して、腹を抱えるほど大笑いした。

「なっ、笑うことねぇだろ! もう良い、没収だ」
「ご、ごめんごめん!」

 僕は取り上げられたお皿を両手で力強く引っ張った。だけど、レッドウルフの手に力は全く入っていなくて、僕だけが全力を出していたせいで、僕の手とお皿は勢いよく引き戻される。
 その勢いに驚いて、握っていたお皿を手放してしまい、そのままお皿は宙を舞う。中のシチューは引力と重力に従って僕の服の胸あたりにかかった。

「アッツゥ⁉︎」

 温められたばかりのシチューはとても熱く、投げ捨てるように僕は上着を脱いだ。

「ブフッ!」
「わ、笑うなぁ!」

 胸に残る熱が頭まで昇り、僕はポカポカとじゃれつくようにレッドウルフの頭を叩く。
 こんな気持ちになったの、いつぶりだろう。温かくて、笑顔が溢れて止まらない。そうだ、僕はもう1人じゃない。この場所があるんだ。君が導いてくれたこの場所が。
 だったら、今度は僕が君を導く番だ。歩き出さなきゃ。君を見つけるその日まで。そして、また君と歩けるように、歩き出そう。笑顔で、この今を、踏みしめるように。
しおりを挟む

処理中です...