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第3章~魔物の口~

33話「血で塗れた者2」

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 船が下す重りでも付けたのか姉さんが閉じたり開いたりを繰り返す瞼を猫みたいに擦った。
 身体が覚醒するのを拒んでいるのかその唇からは「う"ぅ"~」と低めのうなり声が漏れ出す。
 普段の少し抜けたような様子に、まだ吸血鬼になっていないのだと、メアリーさんの処置も正しかったと安心感を得ることができた。
 まだ、周りの人は信じきれないから。

 代わりにウーロさんが柔らかく接してくれるから、他人を疑うのは私の役目だろう。

「うぅ、サエ、ラ?・・・おはようございます?」

 何がおはようだ。こっちの次元はまだ夜だ。

「姉さん。正しくはこんばんは」

「あぅ・・・まだ寝てていいですかぁ?」

「いいけど」

「あれ?妹が優しい」

 姉さんが失礼なことを言う。心外だ。私は姉さんとウーロさんには優しくしているつもりだ。
 アホを抜かす姉さんに平手チョップをおでこに叩き込もうとするが、身体の弱っている姉さんに負担をかけるのもどうかと思い寸前で止める。

 そんな私を見た姉さんが上半身だけベッドから飛び上がると、なぜか私の額を布団の中で温まった手で陶器を触るように当ててきた。
 姉さんの寝ている隣にずっといたせいで少し身体の冷えていた私に、姉さんの温度が染み込んでくる。

「サエラ、やっぱり様子がおかしいですよ?熱でもあるんじゃないですか?いつもならチョップを入れるところでしょう?」

 やはり手っ取り早く分からせた方が良かったかもしれない。先ほどの気遣いを今すぐなかったことにしたかった。
 私の冷ややかな視線を感じ取ったのだろうか。姉さんは私の額から手を離すと潜りネズミのように布団の中に避難してしまう。
 自分がどう言う状況下に置かれているのか、全く理解していない様子だ。

 私が呆れた鼻息を漏らすと、ちょうどそれと併用するようにコンコンと軽い木製のドアを叩く呼び出し音が聞こえてきた。
 どうぞと答えると薄紫色の黒いローブに魔女らしい大きな帽子、暗い衣とは対照的に目立つ明るい赤髪の少女が扉を開けた。
 魔女メアリー。姉さんを治療してくれた凄腕の呪術師。

「シオンの具合はどうだ・・・って、随分と元気そうだ。精霊の力を宿すエルフだからそこだと言うべきか」

 ウーロさんとはまた違った偉そうな口調で話す少女は、自分の背丈より高い杖をコツコツと鳴らしながら私たちに近づいてくる。
 杖と反対に持っている手には草で編んだ籠があり、そこには見たこともない木の実や薬草がつまっていた。
 姉さんは本来この場にいるはずのない人物の姿に驚いている。

「メアリーさん?どうしてここに?リメットには住んでいないんじゃ・・・」

「何、少々用事があってな。それよりシオン、汝は身に起きた悲劇が記憶にないようだ」

 メアリーがそう言いながらベッドの近くの椅子に腰を下ろす。姉さんはメアリーの「悲劇」という言葉に心当りがないのかコテンと小首を傾げた。
 私は姉さんの手を握り、数時間前の出来事を直接伝えることにした。

「姉さんは吸血鬼、バンパイアロードに血を吸われたの」

「・・・はい?」

 ポカンとした間抜け面を浮き出す表情。ウーロさんに言わせてみれば「こやつ何を言っておる?」状態だ。
 私は寝起きでまだ身だしなみが整っていない姉さんの服の一部がはだけ・・・決して胸の重みで服がズレてむき出しになっているわけではないうなじに手を立てる。
 「サエラ?」と戸惑う姉さんを放っておき、流れるような仕草でうなじから首元に手を移す。そこには二つの突起がある。蚊に刺されたような小さな出っ張りのある傷だ。

「自分で触ってみて。噛まれた傷があるから」

「またまたぁー。サエラはそういやってわたしをからかうんですから・・・マジすか」

 傷に手を当てた姉さんが、そうして初めて自分の状態を自覚するキッカケを掴んだ。
 フラッシュバックで記憶が蘇ったのか、唖然とした顔で俯く。私はそんな姉さんに声をかけようと手を伸ばすが、それもパッと顔を上げた姉さんのニッコリとした笑みで止められてしまう。

「仕方ないですねぇ!これってばあれですか?シオン吸血鬼化計画がスタートしちゃったりしますかね?」

 誰がどうみてもそれは空元気の塊だった。いつもそうだ。姉さんは天然で馬鹿でドジだけど変なところでお姉ちゃんぶって私を不安にさせまいとする。
 両親が帰ってこなかった夜の日も、レッテルで叔母さんが豹変したあの時も、姉さんは馬鹿のくせに自分の弱った部分を見せることがない。
 そんな姉さんと・・・結局はそれに甘えてきてしまった自分に苛立ちが抑えられない。

 「・・・姉さん」

「あはは!いやぁ困りましたね!」

 たははと笑いながら寝巻きの襟を持ち上げ、首元の傷を隠す姉さん。
 「心配はいらない。おねえちゃんは大丈夫」という根拠のない言葉を浴びせられたような気がして、私は何も言えなくなった。
 私は腕っ節だけで、人を動かすような言葉の使い方は知らない。だから知識だけはある姉さんを言い負かすことができる気がしないのだ。
 
 黙りこくった私と困った笑みを浮かべる姉さん。互いに一歩も進み寄らない私たちを見ていたメアリーは、「はぁ」とため息をつくとボソッとこう呟いた。

「全く、案外バラバラな連中だ」

「えっ?」

 メアリーの呟きに姉さんが一瞬目を見開いてジッと見つめるが、メアリーはふるふると首を振って「何でもない」と逃げる。
 私は言葉の意味を理解できず、内心に疑問符を浮かべることしかできなかった。
 そんな私たちの疑問はどうでもいいと言わんばかりに、メアリーは「それよりもだ」と別の話題へと話を移した。

「端的に言おう。まず一週間以内に汝に呪いを下した吸血鬼を屠らなければ、汝はよこしまなる存在へと変貌する。そうなれば討伐対象となるのは避けられないだろう」

 ひどく現実的で、実現するのが不可能に近い宣告に姉さんは初めて不安げに瞳を揺らした。

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