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第4章 思い出のマローブルー
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次の日、花穂は街へと出かけた。
スマートフォンに表示させた花穂の写真を凝視していたあの人に、会わなくては。
恐らく、あの人と交際していたのだろう。そして、別れた。
この間は無視されたけれど、今度こそちゃんと話してみよう。
どこに行けば会えるのかわからず、とりあえず病院に向かった。
花穂はエントランスを抜けて病院の中を見渡した。総合受付と会計カウンター、待ち合いの椅子と音声のないテレビ。病院内はパステルカラーを基調とした優しい雰囲気だけれど、それは色だけの話で、無味乾燥な雰囲気は拭えていない。
生気のない患者と疲れた様子の家族、それから忙しなく行ききする看護師……ここにいるだけでエネルギーを吸い取られていくような気がした。
あまり長居をしたい空気ではない。少し様子を見たら、やはり外で待ってみよう。踵を返すタイミングを見計らっていると、目的の人影を見つけた。
いた……。あの人だ。一番隅っこの目立たない場所で、所在なさげに座っている。背中を丸めて、あの日と同じようにスマートフォンに視線を落としている。
花穂は隣に座り、彼の顔を覗き込む。
「あのー……わたしのこと、見えてないんですか。それとも、話しかけられるのが迷惑なだけですか? あなたが会いたがってる『かほ』って、わたし……ですよね? あ、もしかして同じ名前のそっくりさん?」
辿々しく話しかけてみる。通りかかった看護師が不思議そうな顔でちらりとこちらを見て、だけど何も言わずに足早に去っていった。
彼女には、花穂がこの男性に無視されているように見えたのだろう。
看護師さんには、ちゃんと見えている。すれ違ったとき会釈を返してくれるし。モアさんとショッピングに行ったときも、お店の人とは普通に会話ができた。
だったら、どうしてこの人には見えないのだろう。
首を捻っていると、彼は不意に立ち上がった。近づいてきた女性の姿を見て、顔が強ばっている。
「こんなに毎日のように病院にきて、あなた……智さんでしたっけ。お仕事は? 花穂のお友だちからは定職に就いていないって聞いているけど……ええっと、役者さんだったかしら」
声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの女性だ。短く整えられた髪には白いものが混じっている。目元に疲れが見えるけれど、凜とした面立ちの人だ。どうやらこの人が『花穂』の母親らしい。
この男の人は、役者さんなんだ。お芝居をしているんだ。
花穂は改めて智の顔を見る。無視されているから、遠慮なく子細に眺めることができた。
確かに、整った容姿をしている。役者だと言われて納得した。少々、おどおどとしているのがマイナスではあるけれど。
「夢を追うのもいいけれど、きちんと就職してご両親を安心させてあげなさい」
女性にそう言われ、智は決まり悪そうに俯く。彼自身も負い目に感じているのか。
「またきているのか! いい加減にしないと警察に通報するぞ!」
もう一人、近づいてきたのはこの間の壮年の男性だ。智を牽制するように睨めつけている。しかし、妻に声が大きいと注意され、しゅんと項垂れた。この人たちは智の言う『花穂』の両親なのだろう。
母親は先ほどよりもいくらか優しい表情で智に向き直る。
「智さん……もうよしなさい。花穂の事故は、あなたのせいではないんだから」
「事故? 事故って……?」
思わず駆け寄って問いかけた。だが、誰も花穂を見ていない。
どうして……? 自分を無視するのは彼だけではないの?
「花穂ならもう大丈夫だから。さっき、目が覚めたの」
「ほ、本当ですか……!」
「ええ。明日にも転院する予定だから、もうここにきても無駄よ」
「おい……」
父親らしき人が気色ばむ。智はしばし視線を彷徨わせた。
「花穂を動揺させたくないの。だから、会わせるわけにはいかないの。わかるでしょう?」
声音は優しかったけれど、どこか高圧的な言葉に、智はたじろぐ。何か言おうとして何度も呑み込み、やがて諦めたように『失礼します』と言って深々と頭を下げ、病院を出て行った。肩を落として、足取りは重そうだった。
彼を追うべきか迷った。だけど、たった今聞いた言葉を確かめなければいけない気がした。
「あの……教えてください。あなたたちの言う『花穂』って、わたしのことじゃ……」
花穂は二人の前に立ち、話しかけてみる。だが、何も反応はない。無視を決め込んでいるわけではないのだろう。
やっぱり、彼らにも花穂の姿は見えてはいない。気配すら感じていない様子だ。
花穂はひとまず諦めて、二人の会話に耳を澄ませた。
「お前……いくら迷惑だからって、嘘をつかなくても」
父親は智の姿が見えなくなったあと、いくらか同情を滲ませて呟く。
「花穂は、事故に遭って以来、ずっと意識が戻らないのに」
冷たい水を浴びせかけられたような気がした。
待って――事故に遭って意識が戻らない? なにそれ。なにそれ……。
「あっ、あの、どういう……ことですか。教えてください。あの、その人は――」
意識の戻らない、その人は……。
もしかしたら。まさか。
彼らに自分の言葉が届かないのも構わずに、花穂は声を上ずらせて問う。反応がないのはわかっていても、問わずにはいられなかった。
「お父さん……迷惑だからじゃないの。あの人にも自分の人生があるでしょう。いつ目覚めるかわからない花穂のために時間を使うのは……気の毒よ」
母親は廊下に視線を落としている。何かに耐えるような、苦しそうな表情だった。
「あの人、毎日のように病院にきていたでしょう。どうして別れたのか知らないけど……少しは、交際を認めてあげればよかったわ。せめて、話を聞くだけでも」
「俺が頭ごなしに反対したのが悪かったんだ」
父親の目は後悔に揺れている。そんな彼の肩に、母親はそっと額を置いた。
「あなたも仕事に戻ってください。花穂のことはわたしが看ています」
「ああ、頼むよ。悪いな」
そう言って、父親は病院をあとにした。母親は深くため息をついて、近くにあった椅子に腰かける。表情は生気がなく、先ほどよりもずいぶんと老け込んで見えた。
「花穂ったら……雨でもないのに傘を差していたなんて、よほど疲れていたのね……」
気づいてあげられなくてごめんなさい。
母親はそう呟いて、顔を覆った。いたたまれなくなって、花穂は視線を逸らす。
事故に遭ったとき『花穂』は傘を差していたらしい。雨も降っていないのに。それほど、精神的に追い詰められていたのだろう。
しばし休んだあと、母親は自動販売機でお茶を買って、廊下を奥へと進んで行った。渡り廊下を通り、入院病棟へと進む。花穂も彼女のあとを追った。
個室の集まるフロアは白くて清潔で明るかった。なのに、廊下を歩く人はみんな水の中にいるみたいに息を止めて、気配を殺して廊下を歩く。看護師の一人が花穂とぶつかったけれど、何も言わずに足早に通り過ぎて行った。
じわりと足元から冷たくて湿っぽいものが絡みついてくる。人々から剥がれ落ちてこのフロアに満ちる疲労や諦念かもしれない。それらが花穂に貼りついて、身体を重くしている……そんな気がした。それでも、歩みを止めることはできない。
花穂は浅い呼吸を繰り返しながら、母親の後ろ姿を追う。
彼女は、とある病室の中へと入って行った。
花穂は固唾を呑む。
あそこに眠っているのは、もしかして――。
じゃあ、今ここにいるのは? いったい、なんなの……。
スニーカーの足元を見て、それから手の平を見た。ここの雰囲気に呑まれそうになってはいるけれど、ちゃんと存在している。
存在、しているはずなのだ。
「花穂さん」
背後から声をかけられ、花穂は飛び上がるほど驚いた。
「わっ、うわっ、ラウレアさん」
ラウレアは笑って、宥めるように肩をポンポンと叩いてきた。ふと、呪縛を解かれたように身体が軽くなる。
「覚悟はできてるの? 花穂さん、消えちゃうかもよ」
花穂はピタリと足を止める。膝が震えるのがわかった。
消える? 消えちゃう……。
言葉を失う花穂に、ラウレアは少し後悔したように頭を掻く。
「あー……ごめんごめん。うん、大丈夫。大丈夫だよ」
今度は強く、肩を抱き寄せられた。温かい腕にほっとして、花穂は長い息を吐き出した。
「ラウレアさん。ど、どうしてここに……」
「うん。ちょっとおせっかいを焼きにきた。大丈夫? 顔色が悪いよ」
慌てて花穂は自分の頬に手を当てる。指先が強ばって冷たいけれど、感覚はある。頬も温かい。
「花穂さん、ちょっとお茶でもしない? 近くにいい感じの喫茶店があるのよ」
誘う口ぶりだけれど、ラウレアは強引に花穂の手を取り、その場から引き剥がすように離れた。
スマートフォンに表示させた花穂の写真を凝視していたあの人に、会わなくては。
恐らく、あの人と交際していたのだろう。そして、別れた。
この間は無視されたけれど、今度こそちゃんと話してみよう。
どこに行けば会えるのかわからず、とりあえず病院に向かった。
花穂はエントランスを抜けて病院の中を見渡した。総合受付と会計カウンター、待ち合いの椅子と音声のないテレビ。病院内はパステルカラーを基調とした優しい雰囲気だけれど、それは色だけの話で、無味乾燥な雰囲気は拭えていない。
生気のない患者と疲れた様子の家族、それから忙しなく行ききする看護師……ここにいるだけでエネルギーを吸い取られていくような気がした。
あまり長居をしたい空気ではない。少し様子を見たら、やはり外で待ってみよう。踵を返すタイミングを見計らっていると、目的の人影を見つけた。
いた……。あの人だ。一番隅っこの目立たない場所で、所在なさげに座っている。背中を丸めて、あの日と同じようにスマートフォンに視線を落としている。
花穂は隣に座り、彼の顔を覗き込む。
「あのー……わたしのこと、見えてないんですか。それとも、話しかけられるのが迷惑なだけですか? あなたが会いたがってる『かほ』って、わたし……ですよね? あ、もしかして同じ名前のそっくりさん?」
辿々しく話しかけてみる。通りかかった看護師が不思議そうな顔でちらりとこちらを見て、だけど何も言わずに足早に去っていった。
彼女には、花穂がこの男性に無視されているように見えたのだろう。
看護師さんには、ちゃんと見えている。すれ違ったとき会釈を返してくれるし。モアさんとショッピングに行ったときも、お店の人とは普通に会話ができた。
だったら、どうしてこの人には見えないのだろう。
首を捻っていると、彼は不意に立ち上がった。近づいてきた女性の姿を見て、顔が強ばっている。
「こんなに毎日のように病院にきて、あなた……智さんでしたっけ。お仕事は? 花穂のお友だちからは定職に就いていないって聞いているけど……ええっと、役者さんだったかしら」
声をかけてきたのは、四十代半ばくらいの女性だ。短く整えられた髪には白いものが混じっている。目元に疲れが見えるけれど、凜とした面立ちの人だ。どうやらこの人が『花穂』の母親らしい。
この男の人は、役者さんなんだ。お芝居をしているんだ。
花穂は改めて智の顔を見る。無視されているから、遠慮なく子細に眺めることができた。
確かに、整った容姿をしている。役者だと言われて納得した。少々、おどおどとしているのがマイナスではあるけれど。
「夢を追うのもいいけれど、きちんと就職してご両親を安心させてあげなさい」
女性にそう言われ、智は決まり悪そうに俯く。彼自身も負い目に感じているのか。
「またきているのか! いい加減にしないと警察に通報するぞ!」
もう一人、近づいてきたのはこの間の壮年の男性だ。智を牽制するように睨めつけている。しかし、妻に声が大きいと注意され、しゅんと項垂れた。この人たちは智の言う『花穂』の両親なのだろう。
母親は先ほどよりもいくらか優しい表情で智に向き直る。
「智さん……もうよしなさい。花穂の事故は、あなたのせいではないんだから」
「事故? 事故って……?」
思わず駆け寄って問いかけた。だが、誰も花穂を見ていない。
どうして……? 自分を無視するのは彼だけではないの?
「花穂ならもう大丈夫だから。さっき、目が覚めたの」
「ほ、本当ですか……!」
「ええ。明日にも転院する予定だから、もうここにきても無駄よ」
「おい……」
父親らしき人が気色ばむ。智はしばし視線を彷徨わせた。
「花穂を動揺させたくないの。だから、会わせるわけにはいかないの。わかるでしょう?」
声音は優しかったけれど、どこか高圧的な言葉に、智はたじろぐ。何か言おうとして何度も呑み込み、やがて諦めたように『失礼します』と言って深々と頭を下げ、病院を出て行った。肩を落として、足取りは重そうだった。
彼を追うべきか迷った。だけど、たった今聞いた言葉を確かめなければいけない気がした。
「あの……教えてください。あなたたちの言う『花穂』って、わたしのことじゃ……」
花穂は二人の前に立ち、話しかけてみる。だが、何も反応はない。無視を決め込んでいるわけではないのだろう。
やっぱり、彼らにも花穂の姿は見えてはいない。気配すら感じていない様子だ。
花穂はひとまず諦めて、二人の会話に耳を澄ませた。
「お前……いくら迷惑だからって、嘘をつかなくても」
父親は智の姿が見えなくなったあと、いくらか同情を滲ませて呟く。
「花穂は、事故に遭って以来、ずっと意識が戻らないのに」
冷たい水を浴びせかけられたような気がした。
待って――事故に遭って意識が戻らない? なにそれ。なにそれ……。
「あっ、あの、どういう……ことですか。教えてください。あの、その人は――」
意識の戻らない、その人は……。
もしかしたら。まさか。
彼らに自分の言葉が届かないのも構わずに、花穂は声を上ずらせて問う。反応がないのはわかっていても、問わずにはいられなかった。
「お父さん……迷惑だからじゃないの。あの人にも自分の人生があるでしょう。いつ目覚めるかわからない花穂のために時間を使うのは……気の毒よ」
母親は廊下に視線を落としている。何かに耐えるような、苦しそうな表情だった。
「あの人、毎日のように病院にきていたでしょう。どうして別れたのか知らないけど……少しは、交際を認めてあげればよかったわ。せめて、話を聞くだけでも」
「俺が頭ごなしに反対したのが悪かったんだ」
父親の目は後悔に揺れている。そんな彼の肩に、母親はそっと額を置いた。
「あなたも仕事に戻ってください。花穂のことはわたしが看ています」
「ああ、頼むよ。悪いな」
そう言って、父親は病院をあとにした。母親は深くため息をついて、近くにあった椅子に腰かける。表情は生気がなく、先ほどよりもずいぶんと老け込んで見えた。
「花穂ったら……雨でもないのに傘を差していたなんて、よほど疲れていたのね……」
気づいてあげられなくてごめんなさい。
母親はそう呟いて、顔を覆った。いたたまれなくなって、花穂は視線を逸らす。
事故に遭ったとき『花穂』は傘を差していたらしい。雨も降っていないのに。それほど、精神的に追い詰められていたのだろう。
しばし休んだあと、母親は自動販売機でお茶を買って、廊下を奥へと進んで行った。渡り廊下を通り、入院病棟へと進む。花穂も彼女のあとを追った。
個室の集まるフロアは白くて清潔で明るかった。なのに、廊下を歩く人はみんな水の中にいるみたいに息を止めて、気配を殺して廊下を歩く。看護師の一人が花穂とぶつかったけれど、何も言わずに足早に通り過ぎて行った。
じわりと足元から冷たくて湿っぽいものが絡みついてくる。人々から剥がれ落ちてこのフロアに満ちる疲労や諦念かもしれない。それらが花穂に貼りついて、身体を重くしている……そんな気がした。それでも、歩みを止めることはできない。
花穂は浅い呼吸を繰り返しながら、母親の後ろ姿を追う。
彼女は、とある病室の中へと入って行った。
花穂は固唾を呑む。
あそこに眠っているのは、もしかして――。
じゃあ、今ここにいるのは? いったい、なんなの……。
スニーカーの足元を見て、それから手の平を見た。ここの雰囲気に呑まれそうになってはいるけれど、ちゃんと存在している。
存在、しているはずなのだ。
「花穂さん」
背後から声をかけられ、花穂は飛び上がるほど驚いた。
「わっ、うわっ、ラウレアさん」
ラウレアは笑って、宥めるように肩をポンポンと叩いてきた。ふと、呪縛を解かれたように身体が軽くなる。
「覚悟はできてるの? 花穂さん、消えちゃうかもよ」
花穂はピタリと足を止める。膝が震えるのがわかった。
消える? 消えちゃう……。
言葉を失う花穂に、ラウレアは少し後悔したように頭を掻く。
「あー……ごめんごめん。うん、大丈夫。大丈夫だよ」
今度は強く、肩を抱き寄せられた。温かい腕にほっとして、花穂は長い息を吐き出した。
「ラウレアさん。ど、どうしてここに……」
「うん。ちょっとおせっかいを焼きにきた。大丈夫? 顔色が悪いよ」
慌てて花穂は自分の頬に手を当てる。指先が強ばって冷たいけれど、感覚はある。頬も温かい。
「花穂さん、ちょっとお茶でもしない? 近くにいい感じの喫茶店があるのよ」
誘う口ぶりだけれど、ラウレアは強引に花穂の手を取り、その場から引き剥がすように離れた。
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