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第4章 思い出のマローブルー
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マオは振り返ったが、花穂の腕を放そうとはしなかった。
穏やかな表情に不釣り合いな強引さで引っ張って、連れ出そうとする。振り解くことはできなかった。
暗闇の中で風に揺れザラザラと音を立てているのは、寒さに強いローズマリーだ。昼とは違う妖しい香りを放つ。月が雲の輪郭を不気味に浮き上がらせていた。
しばらく停留所で待っていると、音もなくバスがやってきた。乗客は誰もいない。運転手は帽子を目深に被り蝋細工のように白い顔をしていた。
こんな時間にもバスはくるんだ……。
真夜中のバスに揺られて、街へ出た。マオと一緒に出かけるのは初めてだ。
二人は無言で、花穂は右、マオは左の景色をぼんやりと眺めていた。ハーブガーデンを出てもすれ違う車もなく、道は暗かった。何の変哲もない街の景色だ。住宅があり、商店があり、学校があり……本当に、ごく普通の。
昼間に乗ったときにはこんなふうだったかなと、花穂は思う。不安に駆られていると、マオは停車ボタンを押し、ほどなくバスは停留所に着いた。
マオが向かったのは、花穂が入院している病院だった。予想はできていた。だけど足が竦む。
花穂の肉体がある場所。今の自分を根底から否定されてしまう場所なのだ。
「マオさん、こんな時間じゃ閉まってますよ……」
やんわりと止めてみたが、マオは迷いもなく夜間診療の入り口に向かった。
仕方なく、花穂はマオのあとを追う。いつ警備員が走ってくるかとヒヤヒヤしながら。しかし、そんな心配はいらないようだ。すれ違った夜勤の看護師は自分たちを見咎めることはなく、軽く会釈をして通り過ぎた。
ああ、そうか。危篤患者の家族が夜中に駆けつけることだってあるのだ。
病院とは、そういう場所なのだ。人が生まれ、人が死ぬ。それは時を選ばない。
「マオさん、わたし……消えちゃいません?」
「花穂さんが肉体に戻りたいと思えば、或いは」
密やかな声で告げ、マオは廊下を歩いた。照明は昼間より押さえられていて、ナースステーションだけが皓々と光りを放っている。
マオは病室の前で立ち止まる。後退りをすると、手を強く引かれた。
そろりと扉を開く。灯りの消えた病室で、機器のランプだけが頼りない光を放っている。
カーテンを開き、ベッドを覗き込むと――。
花穂が、横たわっていた。
いや、すぐにはこれが自分自身だと認められなかった。
痩せた青白い顔をしていた。伸びすぎた髪を二つに結わえてくれているのは、母だろう。
鏡で見る自分の姿とは違いすぎて、実感が湧かない。お菓子の食べ過ぎを気にしている今の自分とは、あまりにかけ離れていて。
ピッピッ――規則正しく鳴る電子音。
心電図モニターにはドラマか何かで見たような数値と波形が映し出されている。人口呼吸器の内側はうっすらと曇っていて、自発呼吸があることを示していた。点滴の針が刺された左腕は、うっ血して紫色になっている。
「あなたは、生きています。今のところは」
病室内にマオの声が響く。鼓膜がヒリヒリと振動する。花穂の心拍数は上がっていく。
花穂は眠る自分の顔を食い入るように見つめる。
これが自分。これが、現実の自分。
「戻れば、きっと辛いですよ」
囁き声にぞくりとした。あまりに甘くて、優しく響いたから。
「命を無駄にすることは、許されないことです。それでも……」
ピッピッ――電子音が鳴る。花穂が生きている証の。今のところは、生きている証の。
「あなたの命です。他人のために無理をする必要はないのですよ」
悪い冗談だと思いたかった。直接的な表現はしていないけれど、マオは死を肯定している。自ら、そちら側に向かおうとすることを。
娘の自殺を受け入れなかったことが、マオの心に暗い暗い影を落としているのだろう。
だから肯定してしまうのだ。たとえばここで、花穂が肉体には戻らないと……つまり、死を決意したとしても。
「自分で決めて、よいのですよ。あなたの命なのですから」
「わたしの、命……」
鼓動が速い。ズキンズキンと脈打って頭が痛い。気を抜くと倒れてしまいそうで、花穂は足を踏ん張って耐えた。
「戻りたいですか、本当に?」
「そんなの、決まって……」
最後まで言えなかった。半開きの唇は固まって、次の言葉を紡ぐのを拒む。
あれ。戻りたく、ないのかな。ちゃんと思い出して、帰らなくちゃって、思っていたのに。
どうして、どうして……?
「……花穂さん?」
名を呼ばれたけれど、ベッドの中の自分から目を離せない。空っぽの身体はリアルな人形みたいだった。
ピッピッという電子音がやけに大きく響いて、周りの音を呑み込んでいく。渦を巻いて、幾重にも重なって花穂を捉える。
「花穂さん――わたしがわかりますか? 花穂さん――……」
わかっています。わかっているけれど……動けない。
戻りたいのか、戻りたくないのか。生きたいのか、生きたくないのか。
誰かが問いかけてくる。
いや、知っている。これは自分の声だ。平坦な声で執拗に、絡みつくように疑問を投げかける。
花穂の異変を察したマオは肩を揺さぶり声をかけ続けてくれている。だけど、応えることができない。
やがて、マオの呼び声は部屋中に鳴り響く花穂の心拍を現す音に掻き消されて消えた。
穏やかな表情に不釣り合いな強引さで引っ張って、連れ出そうとする。振り解くことはできなかった。
暗闇の中で風に揺れザラザラと音を立てているのは、寒さに強いローズマリーだ。昼とは違う妖しい香りを放つ。月が雲の輪郭を不気味に浮き上がらせていた。
しばらく停留所で待っていると、音もなくバスがやってきた。乗客は誰もいない。運転手は帽子を目深に被り蝋細工のように白い顔をしていた。
こんな時間にもバスはくるんだ……。
真夜中のバスに揺られて、街へ出た。マオと一緒に出かけるのは初めてだ。
二人は無言で、花穂は右、マオは左の景色をぼんやりと眺めていた。ハーブガーデンを出てもすれ違う車もなく、道は暗かった。何の変哲もない街の景色だ。住宅があり、商店があり、学校があり……本当に、ごく普通の。
昼間に乗ったときにはこんなふうだったかなと、花穂は思う。不安に駆られていると、マオは停車ボタンを押し、ほどなくバスは停留所に着いた。
マオが向かったのは、花穂が入院している病院だった。予想はできていた。だけど足が竦む。
花穂の肉体がある場所。今の自分を根底から否定されてしまう場所なのだ。
「マオさん、こんな時間じゃ閉まってますよ……」
やんわりと止めてみたが、マオは迷いもなく夜間診療の入り口に向かった。
仕方なく、花穂はマオのあとを追う。いつ警備員が走ってくるかとヒヤヒヤしながら。しかし、そんな心配はいらないようだ。すれ違った夜勤の看護師は自分たちを見咎めることはなく、軽く会釈をして通り過ぎた。
ああ、そうか。危篤患者の家族が夜中に駆けつけることだってあるのだ。
病院とは、そういう場所なのだ。人が生まれ、人が死ぬ。それは時を選ばない。
「マオさん、わたし……消えちゃいません?」
「花穂さんが肉体に戻りたいと思えば、或いは」
密やかな声で告げ、マオは廊下を歩いた。照明は昼間より押さえられていて、ナースステーションだけが皓々と光りを放っている。
マオは病室の前で立ち止まる。後退りをすると、手を強く引かれた。
そろりと扉を開く。灯りの消えた病室で、機器のランプだけが頼りない光を放っている。
カーテンを開き、ベッドを覗き込むと――。
花穂が、横たわっていた。
いや、すぐにはこれが自分自身だと認められなかった。
痩せた青白い顔をしていた。伸びすぎた髪を二つに結わえてくれているのは、母だろう。
鏡で見る自分の姿とは違いすぎて、実感が湧かない。お菓子の食べ過ぎを気にしている今の自分とは、あまりにかけ離れていて。
ピッピッ――規則正しく鳴る電子音。
心電図モニターにはドラマか何かで見たような数値と波形が映し出されている。人口呼吸器の内側はうっすらと曇っていて、自発呼吸があることを示していた。点滴の針が刺された左腕は、うっ血して紫色になっている。
「あなたは、生きています。今のところは」
病室内にマオの声が響く。鼓膜がヒリヒリと振動する。花穂の心拍数は上がっていく。
花穂は眠る自分の顔を食い入るように見つめる。
これが自分。これが、現実の自分。
「戻れば、きっと辛いですよ」
囁き声にぞくりとした。あまりに甘くて、優しく響いたから。
「命を無駄にすることは、許されないことです。それでも……」
ピッピッ――電子音が鳴る。花穂が生きている証の。今のところは、生きている証の。
「あなたの命です。他人のために無理をする必要はないのですよ」
悪い冗談だと思いたかった。直接的な表現はしていないけれど、マオは死を肯定している。自ら、そちら側に向かおうとすることを。
娘の自殺を受け入れなかったことが、マオの心に暗い暗い影を落としているのだろう。
だから肯定してしまうのだ。たとえばここで、花穂が肉体には戻らないと……つまり、死を決意したとしても。
「自分で決めて、よいのですよ。あなたの命なのですから」
「わたしの、命……」
鼓動が速い。ズキンズキンと脈打って頭が痛い。気を抜くと倒れてしまいそうで、花穂は足を踏ん張って耐えた。
「戻りたいですか、本当に?」
「そんなの、決まって……」
最後まで言えなかった。半開きの唇は固まって、次の言葉を紡ぐのを拒む。
あれ。戻りたく、ないのかな。ちゃんと思い出して、帰らなくちゃって、思っていたのに。
どうして、どうして……?
「……花穂さん?」
名を呼ばれたけれど、ベッドの中の自分から目を離せない。空っぽの身体はリアルな人形みたいだった。
ピッピッという電子音がやけに大きく響いて、周りの音を呑み込んでいく。渦を巻いて、幾重にも重なって花穂を捉える。
「花穂さん――わたしがわかりますか? 花穂さん――……」
わかっています。わかっているけれど……動けない。
戻りたいのか、戻りたくないのか。生きたいのか、生きたくないのか。
誰かが問いかけてくる。
いや、知っている。これは自分の声だ。平坦な声で執拗に、絡みつくように疑問を投げかける。
花穂の異変を察したマオは肩を揺さぶり声をかけ続けてくれている。だけど、応えることができない。
やがて、マオの呼び声は部屋中に鳴り響く花穂の心拍を現す音に掻き消されて消えた。
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