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第5章 起死回生のバスソルト
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あてもなく、花穂はぼんやりと朝の街を歩いた。通勤時間帯で歩く人は皆、脇目も振らず改札へと向かっていた。
もやもやとした気持ちを抱えながら、花穂はさらに歩いた。
どこへ向かうのかわからない。とにかく、足が向くまま進んだ。
気分にそぐわない晴れた空の元、行き交う人の表情は穏やかで、こんなにつまらなそうにしているのは自分だけのような気がして恥ずかしかった。
嫌だな。もう帰りたい。今、花穂が帰れる場所といえばハーブガーデンしかないのだけれど。マオとも顔を合わせ辛いし、度々ラウレアを頼るのも気が引ける。足取りは重くなるばかりだ。
もう、街の景色など目に入らない。どこにも居場所がないような心許なさに、自分がとても無価値なような気がして消えてしまいたくなる。
そっか、このまま消えることもできるのかな。身体にも戻らず、ハーブガーデンに帰ることもなく。
俯いていると、親しげに声をかけてくる人がいた。
「……花穂? 花穂じゃないか」
「えっ……」
元彼の智だ。目を大きく見開いて、ぽかんと口を開けている。
見えてる? どうして? この間まですぐそばにいても気づきもしなかったのに。
「こ、こんにちは……?」
「花穂……! 本当に目が覚めたんだ!」
智はまるで人懐っこい犬みたいに笑って、駆け寄ってくる。
抱き締められそうになり、花穂は身を堅くした。触れようとした手は寸前で止まり、ばつが悪そうに宙を掴む。
もう、恋人同士ではない。気軽に触れ合うような間柄ではないのだと思い出したのだろう。
「ごめん。その、出歩いて大丈夫なのか? しかも一人で……ずっと寝たきりだったのに。お母さんは転院するって言ってたけど、外出許可が出たとか?」
「えっ? ええっと……」
しどろもどろになりながら、花穂は思い当たる。そうか、この人の中では、花穂は目覚めたことになっているのだ。この間、母親がそう彼に告げた。彼の病院通いをやめさせるために。
だから、見えているということ……なのかな。
「そ、そう。出た出た。転院した先でもりもり回復しちゃって」
花穂は慌てて口裏を合わせる。母親がせっかく彼の未来を案じてついた嘘を台無しにしてはいけない。
「元気そうでよかった。本当に、よかった……」
ほっとしたように長い息をつき、智は笑った。くしゃっと目元が崩れて優しそうな面立ちはより一層、親しみ深い表情になる。
感じのいい人だと思うのは、やはり以前恋人同士だったからだろうか。
「あの……今からお仕事ですか?」
「いや、仕事帰り。警備バイトの夜勤明け」
「お時間あったら……少しだけ、お話できませんか?」
そう言って花穂がちらりと近くの公園を見やる。智は花穂をベンチに座らせたあと、ちょっと待っててと言って走っていき、すぐに戻ってきた。その手には温かい飲み物が二つ、ミルクティーのほうを花穂に渡して、智はコーヒーを一口飲んだ。
「ええっと、わたしたち、おつき合いしていたんですよね?」
怪訝な顔をされて、花穂は慌ててつけ加える。
「ちょ、ちょっと記憶が混乱しちゃってて……事故の、せいかな」
「そっか……。うん、つき合ってた。三年くらい。花穂が大学生のときから」
「わたしたち、どうして別れたんでしたっけ」
問いかけに智は見る見る顔を曇らせ、俯いてしまった。
「俺が、悪いんだ。俺が不甲斐ないから」
「役者さん……でしたよね。あっ、わたし、おつき合いしてた頃のこと、よく覚えてなくて……知りたいんです」
智は神妙な顔で頷いて、話してくれた。共通の友人を通じて公演にきた花穂と知り合ったこと。穏やかで明るい花穂に惹かれたこと。
「花穂はすごくよくしてくれてたんだ。売れない役者の俺をいつも応援してくれて、支えてくれていた。役者じゃ食えない俺にご飯作ってくれて、彼氏らしいこと何もしてやれないのに、一緒にいてくれて」
尽くされるたびに、自分の不甲斐なさが浮き彫りになるのだと、自嘲気味に言葉を継ぐ。
「だけど、そんな花穂に何も応えられない自分が嫌で、本当に嫌で……」
智はだんだん背中を丸くして、じっと地面を見つめていた。
「耐えられなくなったんだ。本当に、身勝手でみっともない理由で恥ずかしいけど……逃げたんだ、花穂から」
首が取れてしまうのではないかと思うくらい智は項垂れて、声を絞り出す。
「本当に、ごめん。ごめんなさい」
花穂も言葉が出なかった。勝手に、自分は振られて傷ついた側だと思い込んでいた。だけど、傷つけていた側だったんだ。たとえそれが、愛情からの行為だったとしても。
動揺を隠そうと、花穂は手の中に握りこんでいたミルクティーを飲む。
「花穂は、俺のせいで事故に……」
智と別れたあとの花穂はずっと様子がおかしかったのだと、共通の友人から聞いたらしい。それで、面会させてもらえないにも拘わらず、責任を感じて病院に通い続けていた。
沈黙は重かった。ずるずるとベンチごと土の中に沈んでいきそうだった。
智は次の言葉を考えあぐねてか、眉間の皺がどんどん深くなっていく。花穂は見かねて声をかけた。
「ごめんなさい、お疲れなのにつき合わせてしまって」
「いや、いいんだ。こんな話でよかったのかな」
「はい。思い出すきっかけになるかもしれないです」
礼を言って花穂は立ち上がった。これ以上話しても智を追い詰めるだけのような気がしたから。
「送っていっても……いいかな。一人じゃ心配だから」
「えっ、あ、大丈夫です。えっと、まだ行くところもある、し。あ、嫌とかじゃなくて、本当に」
智はまだ何か言いたそうにしていたけれど、肩を竦めてふと笑ったあと、じゃあと言って帰って行った。
もやもやとした気持ちを抱えながら、花穂はさらに歩いた。
どこへ向かうのかわからない。とにかく、足が向くまま進んだ。
気分にそぐわない晴れた空の元、行き交う人の表情は穏やかで、こんなにつまらなそうにしているのは自分だけのような気がして恥ずかしかった。
嫌だな。もう帰りたい。今、花穂が帰れる場所といえばハーブガーデンしかないのだけれど。マオとも顔を合わせ辛いし、度々ラウレアを頼るのも気が引ける。足取りは重くなるばかりだ。
もう、街の景色など目に入らない。どこにも居場所がないような心許なさに、自分がとても無価値なような気がして消えてしまいたくなる。
そっか、このまま消えることもできるのかな。身体にも戻らず、ハーブガーデンに帰ることもなく。
俯いていると、親しげに声をかけてくる人がいた。
「……花穂? 花穂じゃないか」
「えっ……」
元彼の智だ。目を大きく見開いて、ぽかんと口を開けている。
見えてる? どうして? この間まですぐそばにいても気づきもしなかったのに。
「こ、こんにちは……?」
「花穂……! 本当に目が覚めたんだ!」
智はまるで人懐っこい犬みたいに笑って、駆け寄ってくる。
抱き締められそうになり、花穂は身を堅くした。触れようとした手は寸前で止まり、ばつが悪そうに宙を掴む。
もう、恋人同士ではない。気軽に触れ合うような間柄ではないのだと思い出したのだろう。
「ごめん。その、出歩いて大丈夫なのか? しかも一人で……ずっと寝たきりだったのに。お母さんは転院するって言ってたけど、外出許可が出たとか?」
「えっ? ええっと……」
しどろもどろになりながら、花穂は思い当たる。そうか、この人の中では、花穂は目覚めたことになっているのだ。この間、母親がそう彼に告げた。彼の病院通いをやめさせるために。
だから、見えているということ……なのかな。
「そ、そう。出た出た。転院した先でもりもり回復しちゃって」
花穂は慌てて口裏を合わせる。母親がせっかく彼の未来を案じてついた嘘を台無しにしてはいけない。
「元気そうでよかった。本当に、よかった……」
ほっとしたように長い息をつき、智は笑った。くしゃっと目元が崩れて優しそうな面立ちはより一層、親しみ深い表情になる。
感じのいい人だと思うのは、やはり以前恋人同士だったからだろうか。
「あの……今からお仕事ですか?」
「いや、仕事帰り。警備バイトの夜勤明け」
「お時間あったら……少しだけ、お話できませんか?」
そう言って花穂がちらりと近くの公園を見やる。智は花穂をベンチに座らせたあと、ちょっと待っててと言って走っていき、すぐに戻ってきた。その手には温かい飲み物が二つ、ミルクティーのほうを花穂に渡して、智はコーヒーを一口飲んだ。
「ええっと、わたしたち、おつき合いしていたんですよね?」
怪訝な顔をされて、花穂は慌ててつけ加える。
「ちょ、ちょっと記憶が混乱しちゃってて……事故の、せいかな」
「そっか……。うん、つき合ってた。三年くらい。花穂が大学生のときから」
「わたしたち、どうして別れたんでしたっけ」
問いかけに智は見る見る顔を曇らせ、俯いてしまった。
「俺が、悪いんだ。俺が不甲斐ないから」
「役者さん……でしたよね。あっ、わたし、おつき合いしてた頃のこと、よく覚えてなくて……知りたいんです」
智は神妙な顔で頷いて、話してくれた。共通の友人を通じて公演にきた花穂と知り合ったこと。穏やかで明るい花穂に惹かれたこと。
「花穂はすごくよくしてくれてたんだ。売れない役者の俺をいつも応援してくれて、支えてくれていた。役者じゃ食えない俺にご飯作ってくれて、彼氏らしいこと何もしてやれないのに、一緒にいてくれて」
尽くされるたびに、自分の不甲斐なさが浮き彫りになるのだと、自嘲気味に言葉を継ぐ。
「だけど、そんな花穂に何も応えられない自分が嫌で、本当に嫌で……」
智はだんだん背中を丸くして、じっと地面を見つめていた。
「耐えられなくなったんだ。本当に、身勝手でみっともない理由で恥ずかしいけど……逃げたんだ、花穂から」
首が取れてしまうのではないかと思うくらい智は項垂れて、声を絞り出す。
「本当に、ごめん。ごめんなさい」
花穂も言葉が出なかった。勝手に、自分は振られて傷ついた側だと思い込んでいた。だけど、傷つけていた側だったんだ。たとえそれが、愛情からの行為だったとしても。
動揺を隠そうと、花穂は手の中に握りこんでいたミルクティーを飲む。
「花穂は、俺のせいで事故に……」
智と別れたあとの花穂はずっと様子がおかしかったのだと、共通の友人から聞いたらしい。それで、面会させてもらえないにも拘わらず、責任を感じて病院に通い続けていた。
沈黙は重かった。ずるずるとベンチごと土の中に沈んでいきそうだった。
智は次の言葉を考えあぐねてか、眉間の皺がどんどん深くなっていく。花穂は見かねて声をかけた。
「ごめんなさい、お疲れなのにつき合わせてしまって」
「いや、いいんだ。こんな話でよかったのかな」
「はい。思い出すきっかけになるかもしれないです」
礼を言って花穂は立ち上がった。これ以上話しても智を追い詰めるだけのような気がしたから。
「送っていっても……いいかな。一人じゃ心配だから」
「えっ、あ、大丈夫です。えっと、まだ行くところもある、し。あ、嫌とかじゃなくて、本当に」
智はまだ何か言いたそうにしていたけれど、肩を竦めてふと笑ったあと、じゃあと言って帰って行った。
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