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<勝成ゆかりの場所>
勝成ゆかりの場所(広島県福山市編)
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◆水野勝成ゆかりの場所(福山編)
「そういえば、まとめて書いていなかったな」と思いましたので、何気なくあげます。近況ボードにポツリポツリと書いたこともあるのですが、そこから拾っていただくのも申し訳ないので、簡単にまとめます。
【広島県福山市】
水野勝成が立藩した備後福山藩の地です。もともと芦田川(あしだがわ)の河口で、南方の鞆(とも、沼隈ーぬまくまー半島)の津への通り道にすぎませんでした。そこを開拓し城を築き灌漑(かんがい)事業を行い、10万石の礎としたのです。今も新涯(しんがい)という地名がありますが、その名残です。
現在は広島県東部の中心地で水島(岡山)などと並んで工業も盛んです。JFEスチールになっていますが、日本鋼管(NKK)の町でしたよね。合ってます?
お話では、福山藩を立藩するまでを書いていますので、実は福山はほとんど出てこないのです。2代目の勝俊が、あんまりなんにもなくてびっくりする場面だけですね。
福山藩の分限帳(ぶんげんちょう、社員録みたいなもの)を見るといろいろな役の人がいて面白いです。いつか、福山藩の奮闘記も書いてみたいですね。
※思い違いなどがある場合があります。間違えている箇所がありましたらご指摘ください。
・福山城
水野勝成が約4百年前に築城しはじめたお城です。現在私たちが見られる本丸は再建されたもので、元は第二次世界大戦のときの空襲で焼け落ちました。福山大空襲は1945年8月8日、広島の2日後、長崎の前日です。再建されたのは私が生まれた頃でした。石垣には焼けた跡が見受けられます。探してみてください。伏見櫓(やぐら)や筋鉄(すじがね)御門は当時のままだったかと。そう、勝成が幕府に伏見から運ばせたあれです(微笑)。戦前の写真でその威容を一部見ることができます。
勝成が家康の従兄弟だったからか、お城の博物館には家康とふたりで並んでいる等身大フィギュアがあって、ほほえましいです。ただ、築城を認めた秀忠(2代目将軍)とのお付き合いにもう少し踏み込んでもいいような気もします。
とにかく駅前です。城の敷地に新幹線ぐらい、こんなに駅から近いお城はないと思います。
・芦田川(あしだがわ)
福山の川といえば芦田川です。よしだ、ではありません。この川がなければ、福山は別の位置に置かれたかもしれません。勝成になったつもりで言えば、中国山地で産出する銅や鉄を運ぶために水運というのが非常に重要だったのです。
この前の訪問時には水呑(みのみ)大橋辺りで景色を見てきれいだと思いました。今もそうでしょうか、市街地から見た橋の向こう側はあまり人の手が入っていないように思います。明王院さんや草戸(くさど)稲荷さんもあちら側でしたね。そこには昔、港沿いの門前町があり鎌倉の頃から栄えていたそうです。しかし洪水と大量の土砂で、町は丸ごと飲み込まれてしまいました。その発掘がはじめられたのは昭和になってからのことです。
個人的には、芦田川は福塩線(ふくえんせん)に乗って眺めることをオススメします。中国山地寄りの塩町(しおまち)から福山に至るこの電車は途中からずっと芦田川に沿って走ります。勝成も辿ったことがあるでしょう。その頃よりはるかに水量は少ないと思いますが、ひとつの川を追う感じが楽しかったです。「THE RIVER」(BRUCE SPRINGSTEEN)を口ずさみたくなります(余談)。
・賢忠寺
勝成の菩提寺です。それだけでなく、お父さんの忠重と水野家の歴代藩主の墓所でもあります。2代目の勝俊だけは別です。「忠」の字は水野家の通字(代々諱ーいみなーに使われる字)ですが、勝成がそれを「勝」にスィッチしてしまいました。本家なのに大胆な人です、本当に。そういうところに惚れてしまったのですね。
他の水野家ではちゃんと使ってます。幕府老中の水野忠邦は有名ですね。
このお寺と墓所はちょっとだけ離れています。線路の関係みたいです。でも、勝成は気にしていないでしょう。「わしらしいじゃろ、ハハハ」と笑っているようにも思えます。東京に沢庵和尚や賀茂真淵のお墓のあるお寺がありますが、あそこは新幹線がすぐ脇を走っていてかなりの音がします。それに比べればのどかです。
このお寺には勝成の晩年の肖像があります。穏やかなお姿です。
・定福寺(じょうふくじ)
勝成の二人の妻おさん(於珊)とおとく(於登久)、そして勝成とおとくの娘(早世)の墓所があります。二人のお墓は並んでいます。十万石の奥方様といった風はまったくありません。いたって、いい意味で普通のお墓です。二人の妻のいきさつについてはお話に書きましたのでご覧いただければと思います。
おさんの三村家、おとくの藤井家は戦国の荒波にのまれて滅んだ一族です。勝成が二人の妻を持ったことには、ただ二人の女性を抱えただけではない、それ以上の意味があるのです。
おとくさんがいたから、藤井さんが福山に集まったのです。
・妙政寺
福山藩2代目藩主、水野勝俊の墓所があります。水野家歴代の中、彼だけが日蓮宗に帰依(きえ)しました。日蓮宗と初期の幕府はあまり良好な関係ではありませんでしたが、将軍の側室をはじめ熱心な信者が日蓮宗を守りました。そのことは「姫様と猫と勧進能」でも書きましたので、よろしければ。
勝俊は父勝成のようにスケールアウトした人ではなく、とても真面目だったようです。彼が日蓮宗に帰依したのも、藩で日照りが続いたときに日蓮宗の僧侶に祈祷を依頼したことがきっかけのようです。彼の義理のおじである加藤清正やおばの清浄院(しょうじょういん、勝成の妹かな)が熱心な信者だったことも影響していると私は考えています。清浄院は福山にしばらく滞在していましたから。
勝俊は長命ではありませんでした。88まで生きた勝成のほんの少しあとに没したのです。彼の後を追って家臣が命を断ちましたが、その墓が勝俊を守るように建っています。
・鞆の浦(とものうら)
瀬戸内海を船でいくときの中継地として栄えた港です。風待ちの港として多くの船が行き交いました。坂本龍馬の「いろは丸」事件(自船が紀州藩船と事故を起こして損害賠償を起こした)が有名ですね。
古い町並みと穏やかな海がみごとにとけあっている素敵な場所です。福山から鞆の浦に行く道すがらの景色もいいなと思いました。「アリストぬまくま」という道の駅で休みました。
肝心の水野勝成のことですね。彼にとってもここはとても大事な場所です。九州中津で黒田官兵衛・長政親子に客分として仕えていた勝成ですが、特に長政と折り合いが悪くなり船で大坂(当時は坂でした)に向かう途中、鞆に停泊したところで逃げ出してしまいます。その顛末(てんまつ)についてはお話で書いてみました。この一件で彼は他への仕官が難しくなってしまったのです。
鞆の浦は彼のあてどない放浪の出発点だったのです。そして、彼が新藩をたてる出発点でもありました。
万感の思いがあったと思います。
・神辺(かんなべ)
フジグランじゃないですよ(地元ネタ)。福山の町が興されるまで、備後の中心はここでした。福山より内陸にあります。岡山の井原(いばら)から府中にいたる街道沿いにあります。ここのお城でおとくの祖父、藤井皓玄(こうげん)が家老をつとめていました。城主は杉原氏(実は私の義理のおばが杉原です)でしたが、その家督争いに乗じて毛利氏が介入したことで話がこじれます。結局藤井氏一族が討たれる結果になるのです。
本来であれば備後を拝領した勝成はこの城に入るのが自然だったのです。どうしてそうせずに、新しい町を作ることにしたのかはお話で書きましたので、ご覧くださいませ。
とはいえ、勝成がこの地を見捨てたわけではありません。神辺から進んだ府中の味噌を特産品として他国の領主に振る舞い広めることで街道を栄えさせるようにしました。今でも府中の味噌は有名ですね。彼はそのようなアイデアをいくつも現実にしました。備後絣(かすり)、畳表(備後表と今も呼ばれています)、琴、とんど饅頭、草履などの履物……勝成がすべてをすすめたわけではないですが、米が不作のときに替わりになる産業を興すという気風を作ったことは確かでしょう。
私がこれもそうだろう、と思っているのは「くわい」です。これは福山が日本一の産地ですが、なぜ日本一なのでしょう。JA三原の人に教えていただいてから考えました。
「くわい」はオモダカ科ですが、水野の家紋も「沢瀉(おもだか)」です。ああ、そうかという感じですが、調べていないので真偽は分かりません。これはぜひ、福山市の方に解明していただいて、広めていただきたいと思います。
さて、ゆかりの場所、福山だけで原稿用紙10枚になりました。他にもあるので、おいおい書きます。
[続く]
「そういえば、まとめて書いていなかったな」と思いましたので、何気なくあげます。近況ボードにポツリポツリと書いたこともあるのですが、そこから拾っていただくのも申し訳ないので、簡単にまとめます。
【広島県福山市】
水野勝成が立藩した備後福山藩の地です。もともと芦田川(あしだがわ)の河口で、南方の鞆(とも、沼隈ーぬまくまー半島)の津への通り道にすぎませんでした。そこを開拓し城を築き灌漑(かんがい)事業を行い、10万石の礎としたのです。今も新涯(しんがい)という地名がありますが、その名残です。
現在は広島県東部の中心地で水島(岡山)などと並んで工業も盛んです。JFEスチールになっていますが、日本鋼管(NKK)の町でしたよね。合ってます?
お話では、福山藩を立藩するまでを書いていますので、実は福山はほとんど出てこないのです。2代目の勝俊が、あんまりなんにもなくてびっくりする場面だけですね。
福山藩の分限帳(ぶんげんちょう、社員録みたいなもの)を見るといろいろな役の人がいて面白いです。いつか、福山藩の奮闘記も書いてみたいですね。
※思い違いなどがある場合があります。間違えている箇所がありましたらご指摘ください。
・福山城
水野勝成が約4百年前に築城しはじめたお城です。現在私たちが見られる本丸は再建されたもので、元は第二次世界大戦のときの空襲で焼け落ちました。福山大空襲は1945年8月8日、広島の2日後、長崎の前日です。再建されたのは私が生まれた頃でした。石垣には焼けた跡が見受けられます。探してみてください。伏見櫓(やぐら)や筋鉄(すじがね)御門は当時のままだったかと。そう、勝成が幕府に伏見から運ばせたあれです(微笑)。戦前の写真でその威容を一部見ることができます。
勝成が家康の従兄弟だったからか、お城の博物館には家康とふたりで並んでいる等身大フィギュアがあって、ほほえましいです。ただ、築城を認めた秀忠(2代目将軍)とのお付き合いにもう少し踏み込んでもいいような気もします。
とにかく駅前です。城の敷地に新幹線ぐらい、こんなに駅から近いお城はないと思います。
・芦田川(あしだがわ)
福山の川といえば芦田川です。よしだ、ではありません。この川がなければ、福山は別の位置に置かれたかもしれません。勝成になったつもりで言えば、中国山地で産出する銅や鉄を運ぶために水運というのが非常に重要だったのです。
この前の訪問時には水呑(みのみ)大橋辺りで景色を見てきれいだと思いました。今もそうでしょうか、市街地から見た橋の向こう側はあまり人の手が入っていないように思います。明王院さんや草戸(くさど)稲荷さんもあちら側でしたね。そこには昔、港沿いの門前町があり鎌倉の頃から栄えていたそうです。しかし洪水と大量の土砂で、町は丸ごと飲み込まれてしまいました。その発掘がはじめられたのは昭和になってからのことです。
個人的には、芦田川は福塩線(ふくえんせん)に乗って眺めることをオススメします。中国山地寄りの塩町(しおまち)から福山に至るこの電車は途中からずっと芦田川に沿って走ります。勝成も辿ったことがあるでしょう。その頃よりはるかに水量は少ないと思いますが、ひとつの川を追う感じが楽しかったです。「THE RIVER」(BRUCE SPRINGSTEEN)を口ずさみたくなります(余談)。
・賢忠寺
勝成の菩提寺です。それだけでなく、お父さんの忠重と水野家の歴代藩主の墓所でもあります。2代目の勝俊だけは別です。「忠」の字は水野家の通字(代々諱ーいみなーに使われる字)ですが、勝成がそれを「勝」にスィッチしてしまいました。本家なのに大胆な人です、本当に。そういうところに惚れてしまったのですね。
他の水野家ではちゃんと使ってます。幕府老中の水野忠邦は有名ですね。
このお寺と墓所はちょっとだけ離れています。線路の関係みたいです。でも、勝成は気にしていないでしょう。「わしらしいじゃろ、ハハハ」と笑っているようにも思えます。東京に沢庵和尚や賀茂真淵のお墓のあるお寺がありますが、あそこは新幹線がすぐ脇を走っていてかなりの音がします。それに比べればのどかです。
このお寺には勝成の晩年の肖像があります。穏やかなお姿です。
・定福寺(じょうふくじ)
勝成の二人の妻おさん(於珊)とおとく(於登久)、そして勝成とおとくの娘(早世)の墓所があります。二人のお墓は並んでいます。十万石の奥方様といった風はまったくありません。いたって、いい意味で普通のお墓です。二人の妻のいきさつについてはお話に書きましたのでご覧いただければと思います。
おさんの三村家、おとくの藤井家は戦国の荒波にのまれて滅んだ一族です。勝成が二人の妻を持ったことには、ただ二人の女性を抱えただけではない、それ以上の意味があるのです。
おとくさんがいたから、藤井さんが福山に集まったのです。
・妙政寺
福山藩2代目藩主、水野勝俊の墓所があります。水野家歴代の中、彼だけが日蓮宗に帰依(きえ)しました。日蓮宗と初期の幕府はあまり良好な関係ではありませんでしたが、将軍の側室をはじめ熱心な信者が日蓮宗を守りました。そのことは「姫様と猫と勧進能」でも書きましたので、よろしければ。
勝俊は父勝成のようにスケールアウトした人ではなく、とても真面目だったようです。彼が日蓮宗に帰依したのも、藩で日照りが続いたときに日蓮宗の僧侶に祈祷を依頼したことがきっかけのようです。彼の義理のおじである加藤清正やおばの清浄院(しょうじょういん、勝成の妹かな)が熱心な信者だったことも影響していると私は考えています。清浄院は福山にしばらく滞在していましたから。
勝俊は長命ではありませんでした。88まで生きた勝成のほんの少しあとに没したのです。彼の後を追って家臣が命を断ちましたが、その墓が勝俊を守るように建っています。
・鞆の浦(とものうら)
瀬戸内海を船でいくときの中継地として栄えた港です。風待ちの港として多くの船が行き交いました。坂本龍馬の「いろは丸」事件(自船が紀州藩船と事故を起こして損害賠償を起こした)が有名ですね。
古い町並みと穏やかな海がみごとにとけあっている素敵な場所です。福山から鞆の浦に行く道すがらの景色もいいなと思いました。「アリストぬまくま」という道の駅で休みました。
肝心の水野勝成のことですね。彼にとってもここはとても大事な場所です。九州中津で黒田官兵衛・長政親子に客分として仕えていた勝成ですが、特に長政と折り合いが悪くなり船で大坂(当時は坂でした)に向かう途中、鞆に停泊したところで逃げ出してしまいます。その顛末(てんまつ)についてはお話で書いてみました。この一件で彼は他への仕官が難しくなってしまったのです。
鞆の浦は彼のあてどない放浪の出発点だったのです。そして、彼が新藩をたてる出発点でもありました。
万感の思いがあったと思います。
・神辺(かんなべ)
フジグランじゃないですよ(地元ネタ)。福山の町が興されるまで、備後の中心はここでした。福山より内陸にあります。岡山の井原(いばら)から府中にいたる街道沿いにあります。ここのお城でおとくの祖父、藤井皓玄(こうげん)が家老をつとめていました。城主は杉原氏(実は私の義理のおばが杉原です)でしたが、その家督争いに乗じて毛利氏が介入したことで話がこじれます。結局藤井氏一族が討たれる結果になるのです。
本来であれば備後を拝領した勝成はこの城に入るのが自然だったのです。どうしてそうせずに、新しい町を作ることにしたのかはお話で書きましたので、ご覧くださいませ。
とはいえ、勝成がこの地を見捨てたわけではありません。神辺から進んだ府中の味噌を特産品として他国の領主に振る舞い広めることで街道を栄えさせるようにしました。今でも府中の味噌は有名ですね。彼はそのようなアイデアをいくつも現実にしました。備後絣(かすり)、畳表(備後表と今も呼ばれています)、琴、とんど饅頭、草履などの履物……勝成がすべてをすすめたわけではないですが、米が不作のときに替わりになる産業を興すという気風を作ったことは確かでしょう。
私がこれもそうだろう、と思っているのは「くわい」です。これは福山が日本一の産地ですが、なぜ日本一なのでしょう。JA三原の人に教えていただいてから考えました。
「くわい」はオモダカ科ですが、水野の家紋も「沢瀉(おもだか)」です。ああ、そうかという感じですが、調べていないので真偽は分かりません。これはぜひ、福山市の方に解明していただいて、広めていただきたいと思います。
さて、ゆかりの場所、福山だけで原稿用紙10枚になりました。他にもあるので、おいおい書きます。
[続く]
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