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◼️番外編 これが武蔵の生きる道
追憶の大和路
しおりを挟む男がひとり青空の下、紅く染まった山沿いの往来(街道)を歩いている。ときは1619年、元和(げんな)も5年を数える。
藤井寺(大阪)の辺りから男は辺りをしきりに見回しながら、しきりに脳裏にある記憶を呼び戻そうとしている。以前ここに来たのはさほど遠い昔ではなく、ほんの4年前、元和元年(1615)のことだった。
それにも関わらず、頭に浮かぶ像はどこかおぼろげだった。
背の高いススキの大群がゆらゆらと彼を眺めている。
この前ここを歩いていたとき、彼は奈良へ向かおうとしていた。
彼が加わろうと考えていた将の一勢がそちらにいると京都で聞いたからである。
戦の気配がそこらかしこに漂っていた。略奪されて開け放しになっている民家が多く、もとから住む人はどこかに消え失せていた。たまに見かけるのはカラスと、どうにもこうにもガラの悪い者ばかりである。ガラの悪い者らは皆、彼を見ると声をかけ、行く先が間違いではないのかと聞いてくる。
「みな、大坂城に向かっとるぞ。豊臣秀頼公からじきじきに褒美を拝領できるそうや。おぬし、道をまちがえとるんやないか。そちらはもう荒らされた後やで」
ガラの悪い衆が誰も彼もみな、親しげに声をかけてくるということは、わしもガラが悪いということだろうかーーと男はしばし考えて、苦笑した。
せめてカラスに声をかけられないようにしなければいかん。自嘲的につぶやいて、彼は先を急ぐ。
法隆寺の姿が遠目に映る頃、彼は目当ての一勢らしきものを認めて声をかける。沢瀉紋(おもだかもん)の旗指物が群れになっているのだから、間違いない。
「拙者、美作国(みまさかのくに)の新免武蔵と申す。こたび、水野日向守(みずのひゅうがのかみ)様の一勢に加勢したく、まかりこした次第にございます。しかるべき方にお取りつぎ願いたくお願い申す」
そして、彼、新免(宮本)武蔵は三河刈屋藩主・水野日向守勝成隊に合流することができたのである。そして、藩主の嫡男、水野美作守勝重の下で客将として就くこととなったのだ。
美作守に初めてあいさつをするとき、武蔵は涙を目に滲ませて満面の笑みを浮かべた。勝重は少しぎょっとしたが、根が素直な性格だったので、もらっただけの笑顔を武蔵に返した。水野の嫡男にとってはこれが二度目の戦だったが、最初のときは戦闘に遇わなかったので、これが本当の初陣と言えるかもしれない。
したがって、勝重はたいへん緊張していたのだ。
対面した武蔵の方も緊張していたのだが、それは武者震いというものだった。自身が、「この人を守るために戦いたい」と願う主君に付けたことへの喜びが第一にあった。まだ戦装束もどこかぎこちない18歳の男子が、武蔵の想い人だったのである。
いや、正確には想い人の子どもだった。
勝重の小隊には、中川志摩助(しまのすけ)という家臣がいた。この人はもともと四国で仙石秀久に付いていたのだが、豊臣秀吉の四国攻略の折に放浪武者だった水野勝成と知り合い、気心を通じたのである。以降、九州に戦の場が移っても断続的に付き合いが続いていく。そして慶長7年(1602)、関ヶ原の合戦後刈屋藩主となった水野勝成から呼び出しがかかって仕官することになったのだ。
そのように、放浪仲間が水野に仕官した例は他にもあった。戦でともに戦えばその強さや性格はよく理解できる。気取っていたら、すぐにやられてしまう世界なのだ。取り繕っている余裕はない。またどれほど戦いに長けているかも一目瞭然だ。その様子を見て信のおける人間かを勝成は判断し、後に家臣として呼んだのだろう。
放浪の勝手を知っている中川志摩助は同輩らしい武蔵のことを一目で気に入った。そして彼にこれまでの行軍のいきさつと今後について説明した。
「わしらは(大和)郡山まで進み、大坂方と一戦交えるつもりやった。しかし、わしらが出立した報を耳にしたんか、大坂方の大野治長隊はあっさり引き返していった。
わしらが着いたとき、辺り一帯は焼き討ちにあった後やった。人っ子ひとり、犬猫の一匹も見ることができんかった。皆逃げてしまったんやろう。
大坂城から出張ってきたんはええが、そこいらの雑兵や野盗もかき集めて、いたる所に火を放ったんじゃ。そのおかげで、いっとき太閤秀吉の弟が住んでいた郡山城も真っ黒焦げになって、往時の影も灰になった。それも凄まじかったが、どこもかしこもきな臭い匂いが充満しとってのう、わしら猛烈な吐き気と頭痛に見舞われた。まったく、ひどい有り様やった。
そして、これからわしらは大坂城に一路向かう。
最後の大決戦や」
◼️
中川も元気なのかのう。
武蔵はあのときのきりりとした中川の横顔を思う。
今ここにその残滓(ざんし)はない。あの大きな戦が終わって、ずいぶん落ち着いてきたようだ。あの時と違って村人も何の気兼ねもなく、往来を行き交っている。
武蔵は安堵しながら道を進んでいく。
彼は長く一匹狼の旅人を続けて来た。
幼い頃から誰よりも武芸に秀でることだけを目指して、刀鑓の修練に励んできた。長じては刀を扱う技術のみに的を絞った。
彼は武家の血を継いでいて、養子に出た新免家も武家だった。しかし、そのままではせいぜい雑兵として扱われるのが関の山だった。いや、それすらも彼には難しかったかもしれない。性格が粗暴とみなされ周りの人間と衝突するばかり、預けられた美作(みまさか)の寺でも手に負えなかったのだから。早々に刀で名を上げることに心を決めて、10代で武者修行に出た後は立ち寄る先々で天下無双と呼ばれる者たちに試合を申し込み、勝ちかそれに類する結果を得てきた。すなわち京都の兵法家である吉岡一門との戦い、そして今日佐々木小次郎と伝えられている者などとの対戦(決闘)である。
新免武蔵はしだいに名前を世間に知られるようになっていった。
しかし、意気軒昂(いきけんこう)、客将として参戦した大坂夏の陣で、彼は戦の現実というものをまざまざと思い知った。
いくら刀や鑓の技能に長けていても、大勢の人間の中にあっては劇的な結果を与えるものには決してならないのである。戦は試合や決闘とは違う。ひとりの敵を仕留めても、四方八方、次から次へと敵が襲いかかってくる。
斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る……その合間に鑓を避け、刀を避け、矢の射手を探し、鉄砲隊が潜んでいないか確かめる。
そしてまた、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る、斬る……その合間に鑓を避け、刀を避け、矢の射手を探し、鉄砲隊が潜んでいないか確かめる。
その繰り返しが延々と続くのだ。自分を守るだけで精一杯だ。周りの誰もが、同じように目を血走らせて敵に向かっていく。そうしなければ、首のない自分の屍を野に晒すだけだ。
まるで無間地獄じゃ。
この戦で彼が体験したのは、敵とじかにぶつかり合う接近戦ばかりだった。大坂方の後藤又兵衛隊と交戦した道明寺、続いての誉田の戦闘、明けた翌日、天王寺から大坂城に突進する中で真田幸村隊、明石全登隊と次々に交戦した。いや、実のところただ前に進む者には、それがどの隊の兵だったかも分かってはいなかった。来るもの、ぶつかるものは打ち倒すしかない。進む途上で倒れた兵が折り重なっているのも、首のない遺体がごろごろと転がっていくのも、己が人の血飛沫を浴びていることも気に止めている暇はなかった。
あのときのことを思い出すと、彼は、「本当に自分の経験だったのか」と思うことがある。記憶がどこかおぼろげになってしまうのはそのようなことだ。
命の危険が迫ったとき、人の一瞬は一刻ほどに伸びると彼は聞いたことがことがある。本能が、感覚が、自分を生き残らせようと働くのだろう。だから極限まで時間を延ばすのだ。それは命を危険にさらして試合を繰り返してきた彼には十分理解できた。
ただ、それが長い時間続いた場合、記憶には鈍く、断片的に、ぼんやりとしか残らない。
彼は苦笑した。これほどあのときのことを思うのは、今、道を逆にたどっているからだろう。彼は藤井寺、王寺から法隆寺、斑鳩(いかるが)を抜けてきた。その経路は慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で彼が辿った道に重なる。そして大和郡山城まで辿り着いた。
「おおっ!」
彼は驚嘆の声を上げる。
黒い木の骸(むくろ)となっていた城が、二段構えの土塁に新たな姿を耀かせていた。広大な堀に囲まれているが城は大きくない。天守もさほど高くない。本丸の壁面の白い漆喰が光に照らされている。
この城は美しい。
人の手がかけられた温かさがある。
武蔵は大坂夏の陣で大和方面大将を務めた男に会いに来たのだ。門番の姿を見つけて武蔵はつかつかと寄っていく。
「拙者、美作国の新免武蔵と申す。水野日向守にお目通り願いたく」
そして彼は城に招き入れられた。
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