水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

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◼️番外編 はぐれやさぐれ藤十郎

高天神城の藤十郎

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 国松は元服して水野藤十郎忠則という名になった。
 水野家男子の正式な名には「忠」を入れることが多い。例外もあるので固い決まりではないようだが、それは後の江戸時代まで続く。江戸後期の幕府老中・水野忠邦が有名な例であろう。
 また、「藤」が通称に入るのも水野家において一般的である。例えば父の惣兵衛は藤九郎という名も持っていたし、亡き頭領・水野信元も通称は藤七郎である。
 ここから国松を藤十郎という名で通すこととする。

 藤十郎の初陣は天正七年(一五七九)の遠州高天神城の攻防戦である。武田信玄・勝頼親子と徳川家康が断続的に十年に渡って争った戦いの末期にあたる。
 その直接のきっかけは駿河・遠江の太守である今川氏が桶狭間の戦いで弱体化した後、もともと同盟関係にあった甲斐の武田、相模の北条など周辺の国主の均整が崩れたことである。甲斐の武田信玄はそれを好機と山を越えて南下し、駿河国をほぼ手中にした後に、この山城を攻め落としたのだ。
 掛川は遠江と駿河をつなぐ道の途上にある。そこにそびえる山城を押さえてしまえば、両国を遮断し、攻め入るのは容易なことである。武田の狙いは遠江から三河へ侵攻していくことだった。その足掛かりとしてこの城を奪ったのである。
 しかし最強の名を轟かせた武田騎馬軍の力を持ってしても、そこからの西上作戦は首尾よく進まなかった。
 武田の同盟者が目まぐるしく変わったこと、対する徳川家康の奮戦、織田信長の参戦、何より武田信玄が亡くなったことが大きいだろう。子の武田勝頼もよく戦っているが、天正三年(一五七五)に三河長篠の戦いで敗れて以降は斜陽の色が濃くなった。
 天正のこの時期、この地域には、武田の支配下にある城は高天神城と小山城しかなかった。この前年の天正六年(一五七八)には菊川の川辺で両軍が衝突したが、これが皮切りの合図だっただろうか。家康は今度こそ城を奪回すべく、兵糧・武器補給路の遮断に取りかかった。以降は城攻めのための砦が次々と築かれる。

 そのような情勢のもとでの藤十郎の初陣である。父惣兵衛忠重に付いて遠江に出立するのである。
 まだ直垂を着ける頃から十六歳のこの人は軽く興奮している。ようやく実戦に参加できるのだという喜びからである。父は息子が着替える脇でそれを眺めている。
「今から気を昂らせとっていかがする。戦場では落ち着いて指揮に従うのが肝要。くれぐれも心せよ」
「わかっとりますで、父上。もう耳にタコができるほど聞かされとりゃあす」と藤十郎は答えるが、本当にわかっているかは怪しい。
 直垂・袴・脚絆・足袋・烏帽子・すね当てを自身で着けた後は、人の助けが必要になる。
 太ももから膝を覆う佩楯(はいだて)を腰に巻き、上半身に満智羅を着せられる。佩楯を着けると途端にずしりと重さを感じる。
 何となく分かったつもりでいた藤十郎は、まだいくつも目の前に並べられている装具を見てため息をつく。
「自ら着ける時はすべて、左からするがよい」と惣兵衛が静かに忠告する。さまざま忠告しつつも息子の武者姿を見るのは親として感じ入るものらしい。
「はあ、何やら面倒なことこの上ないで。これ以上身に付けたら、どうにもこうにも動けんわ」
 この息子はどうにも黙ってはいられないらしい。
 腕に籠手(こて)と袖を着けて、ようやく胴になる。ここでようやく藤十郎も静かになる。胴と兜を着けて完成である。
「重いだろう」と惣兵衛がニヤニヤして言う。
「いや、これを着けてこそ武士、何も重くはない」と藤十郎は意気がるが、歩こうとしてふらついたのを必死に誤魔化す。
 これには周囲の者もふっと苦笑した。

 惣兵衛率いる一行は馬立ちで遠州に出立した。
 四月二三日、武田勝頼は駿河に出兵し、二五日に高天神城にほど近い国安に本陣を置いた。対する家康軍は街道沿いの見付(磐田市)に本陣を置いて前進する機を伺う。両軍はしばらく対峙したが、家康方の守りを見た勝頼は二七日に国安から撤退し、二九日には大井川を越えて去っていった。ここで家康軍は追撃しなかったので、戦闘なく終わりとなった。

 これは初陣の藤十郎にとって肩透かしとしか言いようがなかった。待機しただけである。もっとも、初陣で激しい戦闘に加わらせることはあまりない。いきなり討ち死にしてほしくはないし、組織的戦闘では役に立たない場合もあるからだ。それは藤十郎も知っている。だが、もう少し実戦というものを体験したいというのが本音だった。

 撤収するときに惣兵衛の一団に家康が顔を出した。そして、兜を外してつまらなそうな顔をしている藤十郎を見つける。
「おう、初陣の藤十郎どの。仏頂面をしとるが、よほどつまらんかったようだで」
「いや、こやつはまだもろもろ分かっとらんでいかん」と惣兵衛がこぼす。
「分かっとらんもんで、じかに鑓を振るいたいんだみゃあ」と藤十郎は口を尖らせる。
 惣兵衛はきっと藤十郎を睨むが、家康はふっと淋しげな笑みを浮かべる。
「三方ヶ原(みかたがはら)の話はしてやったんきゃ?」
「いや、しとらん」と惣兵衛が答える。
「してやってくれまいか。それも戦というものの姿だもんで」と家康は言う。二人のいう内容を知らない藤十郎はキョトンとしているが、家康は会釈をしてそのまま去っていった。

 数年前に三方ヶ原で戦いがあったことは藤十郎も知っている。だが父の惣兵衛は出陣したにも関わらず、子にその話は一切していなかった。しかし家康の言葉に藤十郎も興味を持ったようなので、改めて話してやることにした。

「あれは真に、命がいくつあっても足りんような戦だったで」

 武田信玄が一斉に三河・遠江に攻め入ったのは元亀三年(一五七二)秋のこと。大軍を三方面に分けて総攻撃をかけてきたのである。
 武田に迎え撃つ織田・徳川連合軍は緒戦で苦戦を強いられた。信長が他方に兵を出していたために援軍を多く送れなかったことが苦戦の一因である。そして十二月、家康の城・浜松城のほんの目と鼻の先、三方ヶ原まで進軍したのだ。

「初めは武田が浜松城を狙っとると読んだのだわ。しかし、武田が通り越して三方ヶ原へ進んでまったもんで、わしらも籠城する構えを崩して背後から急襲することにした。いかんがや、いかんがや。わしらをおびき寄せるための作戦だがや」

 父が珍しく興奮した口調で話すので、藤十郎は身を乗り出して聞き入る。
「いかんがやで、いかがされた」
「わしらは鶴翼(かくよく)の体で進んどったが、もう武田も迎え撃つ体勢でおる。そこからはもう、正面からぶつっかり合いになったで。何が何やら分からないほどの阿鼻叫喚」
「大将はいかがされた」
「わしらがひとつ誉められるべきは、三河どのに足軽のなりをさせとったことだわ。他に大将のなりをしたのを五、六人居させとったもんで、三河どのは何とか浜松城にたどり着いたでよう。ただ……五、六人は討ち死にしてもうたがや」
「父上は無事だったのきゃ」
「おう、わしはひたすら敵を引き付ける役をしとった。いくらか討ち果たしはしたが、わしも命からがら逃げおおせたクチだで。何しろ、武田は二百の討ち死にだったが、わが勢はその十倍、下野守もわしもよう生き残れたもんだみゃあ」
「伯父上も出とったのきゃ……」と藤十郎はつぶやく。
「無論」と惣兵衛は息子の目を見る。

 圧倒的に劣勢のまま戦いは終わり、扉を開け放して空を装った城を武田軍は占拠せずに去っていった。家康は負けて屈辱を噛み締める己の姿を絵に描かせているが、圧倒的な完敗だった。

「三河どのは戦がさようなものであると、おぬしに伝えてやれと言うたんでや。あと、おぬしは右府さま(織田信長)に憧れとるで、あまり絡む話はせん方がよいとも……」
 藤十郎はいきなり信長の名が出たので、目を丸くする。惣兵衛は遠い目になる。
「右府さまは確かに強いで、ただ、強いだけではどこかに無理がかかるとわしは思う」

 藤十郎は惣兵衛の言葉の真意をはかりかねたが、父にせよ家康にせよ信長に対して複雑な感情があることだけは理解できた。最近は幼児の頃ほどすっきりとした気持ちになれないことが増えたように思う。


 ただ、この後で水野家の名誉回復ともいえる出来事があった。
 織田信長の沙汰である。
 当主不在のままになっていた水野家の正式な頭領として水野惣兵衛忠重を指名し、三河刈屋城(現在の刈谷市)を与えたのである。刈屋城はもともと惣兵衛の父が築いた城なので願ってもないことだが、惣兵衛が頭領となるのは端から見れば少々不思議である。すでに鬼籍に入った者もいるが、惣兵衛は九男、いわゆる末っ子なのである。他の兄弟をごぼう抜きしたのだが、この点はこれまで家康に付いて戦った実績が買われたのだろう。
 一方、信長に水野信元離反と讒言した(といわれる)佐久間信盛は水野の城を手に入れていたのだが、それを取り上げられ高野山に追放されてしまった。

「ほれ見やあ。讒言した佐久間にバチが当たったで。やはり、織田さまはよう見とるで」
 藤十郎は有頂天になっていた。何より、父惣兵衛がごぼう抜きで水野の頭領になったことで、自分の活躍の場が増えると喜んだのである。先般父に三方原の退き口の悲惨な話を聞いたのを、もう忘れているようだ。

 高天神城最後の攻防戦は翌天正九年(一五八一)のことだった。これにも惣兵衛・藤十郎親子は出陣することになる。今度は物見の戦いではなかった。家康は前回のにらみ合い以降、着々と砦を築き高天神城を追い詰めていく。城外で何度かの小競り合いを経て、城を任されている岡部長教(おかべながのり)らは危機を感じる。たびたび武田勝頼に援軍を送るように頼んだが、なしのつぶてだった。勝頼は織田信長が一気に加勢するのを恐れて動くことができなかったのだ。頼りの援軍が来ない高天神城の周辺は補給路もすでに断たれている。兵糧も弾薬も尽きていくばかりだ。
 万事休すとばかり、降伏を申し入れる。
 もとは今川の家臣だった長教は誼のある家康に懇願するように矢文を放ったが、一切応じない。

 岡部長教はいよいよ決死の戦いに打って出る。
 三月二二日、城内からときの声を上げて七〇〇余名全員が討って出た。
 藤十郎はそのさまをまるで時が止まったかのように見ていた。
 極限まで追い詰められて血走った眼、眼、眼。
 前に死しかない者の、言葉にならない呪詛。
「死なばもろとも、誰も彼も道連れにしてやろうぞ」
 藤十郎は背筋がぞくぞくするのを感じたが、突進してきた一人が鑓を振り下ろそうとするのを見た瞬間に我を忘れた。大鑓で振り下ろされたものを払い飛ばす。相手の鑓が地に落ちる。
 目を見開いた恐怖の表情。
 藤十郎は相手に鑓を拾わせる間を与えず、斬りかかった。
 どさっと鈍い音を立てて相手が倒れる。
 そのからだから赤いものが迸る。
 我を忘れていた藤十郎の耳に音が戻ってくる。
 すでに数人の男たちに囲まれている。
 このとき藤十郎の感覚は自分でも感じたことがないほどに鋭くなっていた。襲ってくる男ひとりひとりの動きがひどくゆっくりに見える。

 藤十郎は来た敵をすべて倒した。

 籠城から打って出た者七三〇余り、全員が討ち死にした。決死の覚悟で出た岡部らの壮絶な最期だった。藤十郎にとっては首実験も初めてのことだった。しかし斬り合いですでに嘔吐を覚えるほどのものを見たので、粛々と他と同じようにした。遺体は堀を埋め尽くすほどだったという。家康は城内の検分を行ったのち、城に火を放つよう命じる。
 おそるおそる家康らに付いて城内を見ていた藤十郎はふと、奥にぽつんと据えられている小さな小さな木彫りの仏像に目を止める。そちらに寄っていくとその仏像を手に取った。
「何をしとるんきゃ。落ちた城からものを持ち出してはいかんで」と背後から家康の声がした。
 藤十郎はビクッとしたが、まじまじと家康を見る。
「これは打ち捨てておいたら灰になるのでや。見事な作りだで、残した方が……」
 家康はため息をつく。
「なぜわしらが敗れた城に火を付けるかわかるか」
「また城に入られんようにするためでは」
「無論それが第一。周囲への見せしめにもなる。打ち壊すよりよほど早い。しかしな、藤十郎。これはわしらの業を払うためにすることでもあるのだで」
「業?」
「武士は人を殺めなければならぬ因業深き生き物。敵を弔い己の業を炎で燃やす。わしはさような意味もあると思うとる。敵のものを持ち出す、奪うのはその無念や業をも背負うことになりはせんか」
 家康の言うことはもっともだと藤十郎は納得した。
 しかしまた、手の裡にある仏像に目をやる。
「お言葉を返してしまうが、やはりこれは見事な手と思う。籠城勢が日々拝んどった姿も浮かぶほどだで。それと……わしは敵に立ち会ったとき何も考えずに打ち倒しとった」
「ああ、余計なことを考えとったらやられるで」
「だで、己がしたことをよう身に刻むのもまた、肝要と思う」と藤十郎はつぶやく。
 家康は、従兄弟をまじまじと見返す。
「おう、それはなかなか、なかなかだでや」

 高天神城に火が放たれる。
 パチ、パチと燃える火は次第に大きくなり、壁、床、細い柱がバキッ、バキッと燃え落ちていく。
 帰り仕度をしながら、藤十郎は勢いを増していく炎をまばたきもせず見ていた。

 燃える、燃え落ちる。
 人も城も、何ともあっけなく果てる。
 ほれ、あの頑丈だった山城が、
 もう黒こげになってしもうた。

 気がつくと父の惣兵衛が藤十郎の背後に立っていた。炎に照らされた父の顔は、藤十郎がいつも見ているそれより、はるかに精悍だった。
「おう、藤十郎、少しは分かったか」
 それだけ言うと、父は馬に乗って出発する。藤十郎も同じようにしようとしたところ、この戦の大将が再び声をかけた。
「藤十郎、惣兵衛はの、いつでもおぬしの加勢ができるよう、ずっと見ておったのだで。わしは惣兵衛がやられはせんかと、冷やひやした」
 藤十郎はしばらく黙っていたが、家康の顔を見上げるとうなずきながら言った。
「父もそうだが、三河守どのはそんな親子を見とってくれたんだで、わしはまだまだだみゃあ」
 家康はそれを聞いて、安堵したようだった。
「おう、貴殿の上げた首級は安土の主にきっちり知らせるでよう」

 空にはまだ黒煙がもくもくと上がっていた。

 後日、安土城の織田信長に高天神城の戦いの結果が報告されたが、その中には「水野藤十郎 首級十五」と記載された。これで藤十郎は信長の花押付きの感状を頂いたのである。

 藤十郎にとって、生涯でもっとも誇らしいときであった。
 とはいえ、彼の人生はまだまだ続くのであるが。
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