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おとくの奉公
三村家の変転 文禄の役
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おとくが成羽の水に馴染んできた頃、太閤豊臣秀吉は朝鮮から明国侵攻への出兵を実行に移した。「文禄の役」である。「文禄の役」と間を空けて再度出兵した「慶長の役」、二度に渡る唐入りはこれまでに類を見ないほどの人員・兵力を動員して実行された。文禄の役で十五万八千人、慶長の役では十四万一千人が動員され、その兵の多くが西国の領主に割り当てられていた。毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家に臣従・同盟している備中の国人衆にも大量の賦役がかかり、成羽では親宣が家臣や近郷の国人領主、郎党およそ五十人とともに参戦することとなった。隠居の親成は脚の古傷のため長い行軍は難しかったし、親良はまだ元服前だった。
「わしが行くべきなんじゃ。老い先短いこの身を挺するべきなんじゃ」
親成はずっとごちていた。親宣は笑って、海を渡るのはまだ若い自分の役目だとなだめていた。おとくはその様子を見て、どうしても合点がいかなかった。
「天下は統一されたのに、なぜまた戦をしなければならないのですか」
おとくは親宣に珍しく憤りをぶつけた。親宣も苦笑した。
「そりゃわしにはわからんのう。まぁおとくが皆の心持ちを言ってくれとるんじゃな。何やらすっとするわい」
「お屋形さまがいなくなられたら、皆困ります」
「ああ、親父が皆分かっとるけえ、問題ない」
親宣は鷹揚(おうよう)な構えを崩さない。おとくはじれったい気持ちになった。
そうではないのだ。家中はもとより、おさんがどれほど寂しがるか。おとくはおさんが親宣ときよにだけは心を開いていることに気が付いていた。特に親宣と話しているときは、たいそう優しい表情になる。あるじの不在でおさんがまた具合を悪くしてしまうのではないかと心配していた。親宣はまだ何か言いたそうなおとくを見て、ぽつりと言った。
「おとく、おまえは優しい娘じゃのう。分かっとるよ。おさんのことじゃろう」
「はい」
親宣はおとくの、前髪と同じように黒く真っ直ぐな瞳をじっと見つめた。
「そうじゃな。おとく、おまえには言っておいた方がええんかのう……」
親宣はしばらく口を結んでおとくを見ていたが、ふっと顔を伏せると、「わしがいない間、親父とおさんをよろしく頼む」とだけ告げて去っていった。
おとくが案じた通り、親宣がいなくなると成羽の館は火が消えたようになった。おさんも寝込むことが増えた。薬を持っていった後襖を閉めて、おとくはひとつため息を付いた。こういう時にはじっとしていると落ち込んでいくばかりじゃ。
おとくは母を亡くした後、ひたすら麦踏みをしていた。麦踏みでなくとも、少しの山歩きや散歩でもいい。身体を動かし無心になることで、気分が落ち着くこともある。それに成羽にはほどよい高さの山がたくさんある。
その晩、おとくは親成に伺いを立てた。「おさん様を外にお連れしたい」と。
親成は静かに微笑みながら、おとくの提案を聞いた。
「そうじゃな。おさんの病にはよい薬もあって、ここ数年は落ち着いていたんじゃが……医者に聞くのでしばらく待ってもらえるかの」
結局、軽い運動は養生のためにもよいと医者も勧めたので、おとくはおさんと共に居館の周囲を散歩するようになった。始めは渋々付き合っていたおさんも、しだいに鳥や花、樹木の名を尋ねるようになっていった。しかし、おさんの心には重い荷物があるようだった。
ある日、「お屋形様は無事に帰ってくるに決まっとります」とおとくが励ましたとき、おさんは伏し目がちに唇を噛むばかりになった。無事に帰ってくることをなぜ辛く感じるのか、おとくにはその理由がよく分からなかった。黙って後を歩いていると、不意におさんが振り向いて言った。
「たとえ、あの方が無事に戻られても、わたしの悩みは片付きはしないの」
「どうしてでしょうか」
おさんは少し怒ったような目をして、吐き出すように言った。
「私はあの方をお慕いしています。でもそれは決して叶わない」
おとくは目をぱちくりさせた。親宣とおさんは兄妹ではないか。慕っているとはどういうことだろう。おさんもさすがに性急に過ぎたと思ったのか、小さくつぶやいた。
「私は三村親成の娘ではありません。その兄、三村家親の娘なの。親成様はおじさま、親宣様とはいとこということになる。でも……」
「いとこなのでしたら、夫婦になれるのではないでしょうか」とおとくは言った。親宣には室がいない。問題は何もないはずではないか。
その時のおさんは忘れられないほど悲しい顔をした。
眉をしかめて、何かを必死にこらえているような、悲しみと恨みが入り混じったような、複雑極まりないものだった。赤いくちびるはきつく噛みしめられている。おとくは言葉を継ぐことができない。
帰り道、おさんはもうそれ以上何も話さなかった。おとくは畦道をとぼとぼと歩きながら、おさんの影を見ていた。何がこのうつくしいひとを、これほど苦しませているのだろう。どんな思いがおさん様の心にあるのだろう。子供の私には言えないような、深い悩みがあるのだろう。どうしたらそこから救ってやれるのだろうか、おさんを苦しめているのは身体の病だけではないのだ。そんな考えがおとくの頭の中をぐるぐると回り続けたが、何の妙案も浮かばない。おとくは自分の無力さを口惜しいと思った。
文禄の役が講和交渉に入ったのは翌年の四月である。
それに先立つ一月、激しい戦闘の中で三村親宣は討ち死にした。撤退の最中で遺体を収めることはおろか、遺品を外すことすら叶わなかった。成羽の人々が、親宣に付いて戦った赤木忠房からその際の話を聞くことができたのはさらにその数ヶ月後だった。
三村家は沈痛な日々を過ごした。おさんは引きこもってしまい、しばらく部屋から出てこない。隠居をしていた親成が当主に復することとなった。当然ながら、彼は誰よりも打ちのめされていた。一人になる時間が増え、読経の声が頻繁に聞かれるようになった。それが継嗣である息子を失った父親ができるただひとつの悲しみの表現だった。
誰もが出口のない悲しみを抱えて、静かに日々が過ぎていった。
「わしが行くべきなんじゃ。老い先短いこの身を挺するべきなんじゃ」
親成はずっとごちていた。親宣は笑って、海を渡るのはまだ若い自分の役目だとなだめていた。おとくはその様子を見て、どうしても合点がいかなかった。
「天下は統一されたのに、なぜまた戦をしなければならないのですか」
おとくは親宣に珍しく憤りをぶつけた。親宣も苦笑した。
「そりゃわしにはわからんのう。まぁおとくが皆の心持ちを言ってくれとるんじゃな。何やらすっとするわい」
「お屋形さまがいなくなられたら、皆困ります」
「ああ、親父が皆分かっとるけえ、問題ない」
親宣は鷹揚(おうよう)な構えを崩さない。おとくはじれったい気持ちになった。
そうではないのだ。家中はもとより、おさんがどれほど寂しがるか。おとくはおさんが親宣ときよにだけは心を開いていることに気が付いていた。特に親宣と話しているときは、たいそう優しい表情になる。あるじの不在でおさんがまた具合を悪くしてしまうのではないかと心配していた。親宣はまだ何か言いたそうなおとくを見て、ぽつりと言った。
「おとく、おまえは優しい娘じゃのう。分かっとるよ。おさんのことじゃろう」
「はい」
親宣はおとくの、前髪と同じように黒く真っ直ぐな瞳をじっと見つめた。
「そうじゃな。おとく、おまえには言っておいた方がええんかのう……」
親宣はしばらく口を結んでおとくを見ていたが、ふっと顔を伏せると、「わしがいない間、親父とおさんをよろしく頼む」とだけ告げて去っていった。
おとくが案じた通り、親宣がいなくなると成羽の館は火が消えたようになった。おさんも寝込むことが増えた。薬を持っていった後襖を閉めて、おとくはひとつため息を付いた。こういう時にはじっとしていると落ち込んでいくばかりじゃ。
おとくは母を亡くした後、ひたすら麦踏みをしていた。麦踏みでなくとも、少しの山歩きや散歩でもいい。身体を動かし無心になることで、気分が落ち着くこともある。それに成羽にはほどよい高さの山がたくさんある。
その晩、おとくは親成に伺いを立てた。「おさん様を外にお連れしたい」と。
親成は静かに微笑みながら、おとくの提案を聞いた。
「そうじゃな。おさんの病にはよい薬もあって、ここ数年は落ち着いていたんじゃが……医者に聞くのでしばらく待ってもらえるかの」
結局、軽い運動は養生のためにもよいと医者も勧めたので、おとくはおさんと共に居館の周囲を散歩するようになった。始めは渋々付き合っていたおさんも、しだいに鳥や花、樹木の名を尋ねるようになっていった。しかし、おさんの心には重い荷物があるようだった。
ある日、「お屋形様は無事に帰ってくるに決まっとります」とおとくが励ましたとき、おさんは伏し目がちに唇を噛むばかりになった。無事に帰ってくることをなぜ辛く感じるのか、おとくにはその理由がよく分からなかった。黙って後を歩いていると、不意におさんが振り向いて言った。
「たとえ、あの方が無事に戻られても、わたしの悩みは片付きはしないの」
「どうしてでしょうか」
おさんは少し怒ったような目をして、吐き出すように言った。
「私はあの方をお慕いしています。でもそれは決して叶わない」
おとくは目をぱちくりさせた。親宣とおさんは兄妹ではないか。慕っているとはどういうことだろう。おさんもさすがに性急に過ぎたと思ったのか、小さくつぶやいた。
「私は三村親成の娘ではありません。その兄、三村家親の娘なの。親成様はおじさま、親宣様とはいとこということになる。でも……」
「いとこなのでしたら、夫婦になれるのではないでしょうか」とおとくは言った。親宣には室がいない。問題は何もないはずではないか。
その時のおさんは忘れられないほど悲しい顔をした。
眉をしかめて、何かを必死にこらえているような、悲しみと恨みが入り混じったような、複雑極まりないものだった。赤いくちびるはきつく噛みしめられている。おとくは言葉を継ぐことができない。
帰り道、おさんはもうそれ以上何も話さなかった。おとくは畦道をとぼとぼと歩きながら、おさんの影を見ていた。何がこのうつくしいひとを、これほど苦しませているのだろう。どんな思いがおさん様の心にあるのだろう。子供の私には言えないような、深い悩みがあるのだろう。どうしたらそこから救ってやれるのだろうか、おさんを苦しめているのは身体の病だけではないのだ。そんな考えがおとくの頭の中をぐるぐると回り続けたが、何の妙案も浮かばない。おとくは自分の無力さを口惜しいと思った。
文禄の役が講和交渉に入ったのは翌年の四月である。
それに先立つ一月、激しい戦闘の中で三村親宣は討ち死にした。撤退の最中で遺体を収めることはおろか、遺品を外すことすら叶わなかった。成羽の人々が、親宣に付いて戦った赤木忠房からその際の話を聞くことができたのはさらにその数ヶ月後だった。
三村家は沈痛な日々を過ごした。おさんは引きこもってしまい、しばらく部屋から出てこない。隠居をしていた親成が当主に復することとなった。当然ながら、彼は誰よりも打ちのめされていた。一人になる時間が増え、読経の声が頻繁に聞かれるようになった。それが継嗣である息子を失った父親ができるただひとつの悲しみの表現だった。
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