福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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ぬしゃ何をしよるんか

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 芦田川沿いの神嶋の商人町、その一画に店を構える伊予屋善右衛門は店から一歩出ると、空を仰いで太陽が輝いているのを確かめる。替えの革足袋と草履は持ったのだが、まだ状態の良くない道を歩くのは気が重い。
 善右衛門は、建屋の片隅に溜まってカチカチになった泥を掻いている使用人に声をかける。ひょいと見ると、身につけている小袖にぽんぽんと泥の弾け飛んだ跡がある。「妻は洗濯ばかりじゃとこぼしていたが、こればかりは致し方ない」と善兵衛は思う。連日泥掻きをする身になってみたらよいのに。
「おう、だいぶきれいになったものじゃ。ご苦労さん」
「あ、旦那さま、お早うございます。お出かけでございますか」
「ああ、殿さまに呼ばれたけえ、お屋敷に行くんじゃ」
「さようですか、道がでこぼこになっとります。どうぞ気をつけてつかあさい」と若い使用人は主人を見送る。

 道すがら目に入るのはおなじように泥を掻いている人の姿である。先般の大雨で神嶋一帯は見事に水浸しになってしまった。それ以降は晴れと曇りになったので土は乾いてきたが、後片付けには難渋している。伊予屋は神嶋では大店ということもあって、建屋に入り込んだ泥水を掬うのに家人総出で丸二日かかり、それから掃除にも丸二日、建屋周囲の泥掻きにまた二日かかった。蔵の方に大きな被害はないのがまだ幸いだった。肝心の商いの方は船の運行とともに再開したので開けてはいるが、まだほとんど休業状態だ。
 他の店も事情は同じである。
 伊予屋は廻船問屋と木材商を兼ねている。もともと紀州の出身で備後に移ってきたので、木の扱いにはよく通じている。
 彼はさきの藩主のもとへも出入りしていたが、やはり中心が広島だと備後の比重は軽くなる。従って商いもさほど大きくなかった。備後では鞆鍛治に代表される鉄製品と畳表が大きな産出品だが、福島正則は畳表の生産にに力を入れていた。その話はまた後で出るだろう。

 いずれにしても水野日向守が備後の藩主になってからというものの、伊予屋は商いが急激に大きくなっていくので目を回さんばかりになっていた。
 とっぱじめに来たのが陸奥からの木材の運搬である。善右衛門はその移動距離にまず度肝を抜かれたが、その翌檜(あすなろ)の木々が非公式ながら伊達陸奥守のお墨付きで取り扱われるということに目をぱちくりさせた。江戸城回りの天下普請ならば受け持ちの藩が人だけではなく木材や石も用意するが、それでも現地から運ばない例も多い。遠方の藩ならばなおさらである。
 聞けば、陸奥からの翌檜は本丸天守用で、他は紀州の木材を使うという。そちらは伊予屋にも伝手があるので善右衛門はほっと胸を撫で下ろしたのだが、事後は京都の伏見城からの破却材をどさっと大工込みで運ぶという。
 いったいどれほどの規模のものを作ろうとしているのか。城地の普請の様子を眺めていると城だけではなく、もっと得体の知れないもののようにも思える。
 完成したらどのようになるのだろう。
 善右衛門はそのような思いに耽りつつ、藩主の館にたどり着いた。草履は土っぽいが、革足袋はどうやら無事なようだ。彼は足下を見ながら室内に進んでいく。

「おう、店の方は落ち着いたんか」
 勝成は出会い頭に尋ねる。
 善右衛門は頭を下げて応える。
「はい、外回りの片付けがまだわずかにございますが、目鼻はついたようです。まったく散々でございました。それにいたしましても、殿さまには心よりお礼申し上げたいのでございます。鞆の若殿さまとご家来衆が見回りに来て下さり、『何か困ったことはないか』とお尋ねいただきました。そのとき、土やら石やら倒木やらで塞がった道があり難渋しておったのですが、すぐさま人を呼んでくださって、すっかり取り払っていただきました」
 勝成は軽くうなずく。うなずくが知っていたわけではない。勝重ならばやりそうだと思っているので特に驚かないのだ。
「ああ、それは美作(勝重)がしたことで、わしの命ではないから気にせずともよい。さて、忙中足を運んでもろうたんは、神嶋のことを相談したくてのう」
「は、神嶋のことでございますか」と善右衛門がおうむ返しに問う。
「うむ。単刀直入に言おう。神嶋の商人町をこれから築く城下町に移したいと思うておる」
 言われた方は突然の言葉に返す言葉を失っている。商いの話だと思っていたのだが、町を移すとはまったく想定の外であった。それに、神嶋の町に居住し商いをしているのは伊予屋だけではない。他に何十もの商家、かかわる船や大勢の人の暮らしがあるのだ。何より水運の問題がある。芦田川は鞆の津から便利がよく、内陸の府中にも通じている。その土地から移れというのは、いくら何でも……。
「殿さま、私ばかりが神嶋の民ではございませんので何とも申し上げられぬのですが、それはかなり厳しいかと存じます」とようやく善右衛門は口を開いた。
 勝成はふむ、とうなずく。
「そうか……わしも初めは神嶋をどうこうしようとは思うとらんかった。あれだけ栄えておる町じゃけえな」
「なれば……」と善右衛門は懇願するような目で勝成を見上げる。
「うむ、実はのう、もう少し聞いてもらいたい話があるんじゃが、神嶋のことではのうてな」と勝成は穏やかな声で善右衛門に声をかける。
「はい」
 そこで、後ろに控えていた男が一人すっと前に出てきて伏してから挨拶する。
「伊予屋さま、お初にお目にかかります。私は商人・丸屋七左衛門と申します。大和郡山藩にて畳表改めの御役を頂戴して以来、お勤めさせていただいておりまする。私もこたびご城下に商人町を築きたいと殿さまの仰せをいただいたところにございます」
「は? 商人町と申されましたか」と善右衛門は聞き返す。
「はい。私が申してよいのでしょうか」と七左衛門は勝成に尋ね、うなずいたのを確かめると話し始めた。
「殿さまの仰せによりますと、お城の南東に商人、いえ商人と町人の町を築かれるとのことにございます。そこには鍛治・米屋・魚屋・桶屋・大工町・医者町などの町を置くとのこと。もちろん、畳の藺町(いぐさちょう)もでございます。殿がそちらに神嶋の皆さまに来ていただきたいと仰られております。すでに神嶋の市がありますから、移転するというのは難儀なことかと存じます。ですが、いったん殿のお考えをお聞きになってご検討されるのもよいのではないかと私は思うのです。商人の町が方々にございますと、古町と新町の間で商い絡みのいさかいも出てくるでしょう。それならば、神嶋の皆さまには備後商人の中心となっていただいてともに栄えるのがよろしいかと思う所存にございます」


(藺草を揃えて束ねたもの)

 善右衛門は町の構想をこのとき初めて聞いた。城下町の一角が商人に宛てられる。さまざまな職業の店をひとつに集める。これはただ、神嶋をなくしてしまうというものではなく、まるごとひっくるめて栄えさせるという趣旨であるようだ。
 破格な規模の話なのだ。
 やはりこの殿の考えることは尋常ではない。しかし、まだためらう気持ちが善右衛門にはある。
「丸屋さま、城下町のお話は分かりました。ですが、芦田川の水運はわれわれの命綱にひとしいものにございます。城の西側でしたら神嶋に近いかと存じますが、東側ですと水運が望めないのではないでしょうか」
 その問いには勝成が答える。手には城下町の設計図があって、それをはらりと善右衛門の前に広げる。
 それを彼はじっと見つめる。おそらく家臣以外は見たことがないものだろう。勝成はそれを惜しげもなく善右衛門に広げて見せたのだ。
 城の東南には入川(運河)が描かれている。海から直接入れるようになっており城脇まで行くことができる。細かい内訳はまだ描かれていないが、東南に「商人町」という文字がくっきりと書かれていた。それを指しながら勝成はさらに説明していく。かいつまんで言うと以下のような内容だ。
 これから城の作事と城下町の造成にかかっていくので物資の運搬が非常に多くなる。善右衛門に依頼している木材もじきに入ってくる。そのためにはできる限り城の近くに船を付けるのが重要になる。幸い、城北の山の開削はほぼ終了し吉津川を導くめどが立った。入川の方はまだこれからだが、吉津川を使って物資を入れることは可能になる。また、城の南東はすでに土地があり、新たに埋め立てをする必要がない。この機を見て商人町を先行して置きたいーーということである。
 善右衛門は改めて、この話がよくよく考え抜かれたものであると知る。


(神嶋の商人町の移転を打診された辺り、宮の小路の社の手水)

 話に一区切りつくと、善右衛門はふっと微笑んでいう。
「前から思うておりましたが、殿は城と城下町の話をされるとき真に、実にいきいきとされとりますし、何より楽しそうですな。何やら、聞いとる方まで楽しゅうなりまする」
 勝成はハッとして、軽く口を押さえる素振りをする。そして、一段声を低くする。
「楽しそうに見えたらそれは不謹慎じゃろう。何より、先だっての大雨と洪水がこたびの決断のおおもとじゃけえ」
「大雨が、でございますか」と善右衛門は聞く。

「さよう、わしゃ若き折り放浪しとってのう、こちらにもしばらくおったんじゃ。その時分に草戸千軒町が洪水でまるごと飲み込まれた話を聞いとった。しかし数百年に一度二度のもんじゃと思うて、こたびの川普請で堤を築くなどは考えとらんかった。ひとたび尋常ならざる大雨あらばいかようになるんか、知っておったのに、分かっておったのに、わしゃ何をしよるんか、何もしとらん……そんな悔いばかりがあってのう」
 胸襟を全開にして反省する藩主の姿は善右衛門にたいへんな衝撃を与えた。それは、感動と言い換えてもさしつかえない。

「殿さま……殿さまのせいではございません。それにまだ普請は緒についたばかりにございましょう」
 勝成は強い光を湛えた目で善右衛門を見る。
「そうじゃ。その時点で天はわしにするべきことを教えてくれた。今は家中皆で知恵を寄せてそれを考えとるんじゃ。その上で、神嶋は移った方がええと思うた。先だっての雨が最も酷いものとはいえん。ある程度手を打っても、またさらに凄まじい雨嵐が来るやもしれぬ。そうなればあの町はどうなる? 神嶋にせよ草戸にせよ、川が広がり山が迫る、水の影響を受けやすい土地じゃ。より安全な方に移るのは誰のためでもない、おんしらあの生命のためなんじゃ。それが第一だということだけは承知しておいてほしい」

 善右衛門はうつむいてしばらく黙っていたが、パッと顔を上げた。
「お話しいただいたこと、神嶋の衆に伝え検討いたします」
「ぜひ、よろしく頼む」と勝成も頭を下げた。

 その後でせっかくの機会だからと、丸屋が畳表の商いについて勝成から指示をされた話をする。
「備後表といえば、かの安土城にも使われた超一級の品でございます。福島(正則)さまのご治世までは献上表として幕府に納めるにとどまっておりましたが、こたび広く商いを始められるように仕度せよとの仰せでして」
「確かに畳表は福島さまの頃、藺草の作付から品質改めまで一貫して、ずいぶん細かく取り決めをされておりましたから、他の商人が入る隙間がございませんでしたな」と善右衛門は思い出しながらいう。

「備後ならこれじゃ、という名品を産み出したいと思うておる。すでにある鉄も畳表もそうじゃ。これから他の産出品も増やし、日本じゅうに広めたい。さすれば、米が不足の場合に民を助けるものにもなるじゃろう。商人町はその足がかりとなる大事な場所じゃ。まだ武家屋敷の区割りも埋め立ても済んどらんが、先んじて築いておきたい」

 このお方は……と善右衛門は思う。
 城や城下町を築こうとしているだけではない。元からあるものも新たにし、さらに大きく育てようとしているのだ。その根底には民も含めて豊かにしようという考えがある。
 この備後の城下が数年後にどうなるのか是非見てみたい。

「あと、神嶋の皆に諮ってもらうときに知らせてほしいんじゃが、城下町に入ってもらう者の地子銭(ちしせん)は免除するつもりでおるけえ」
 勝成の言葉に善右衛門はフッと笑う。
「何じゃ、可笑しいか」と勝成は目を見開いて聞く。
「殿さま、その隠し玉、商人にはてきめんですな」
 勝成もにかっと笑う。
「おう、隠し玉は最後まで取っておかぬとな」
 丸屋もそれを聞いてふふと笑い出す。

 城下町を築く第一段階がここに始まる。
 この先の光景を現実にしていこう。
 座の三人は同じ理想と行動目標を分かち合うに至ったのである。
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