福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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母と弟に会うため刈屋に行く

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 三河の風は穏やかに吹いていた。
 知多半島の姿が目に飛び込んでくる。カモメがひゅうと横切っていくが、魚の気配がないと気づくと諦めたように踵を返して遠くに去っていく。それはちょっとした戯れかもしれない。漁師の船は島沿いに多く出ているので、餌に困ることはないはずだ。
 勝成と筆頭家老の上田掃部ら少数の一行は伊勢から三河への船上にある。
 
 刈屋に足を踏み入れるのは何年ぶりになるか。
 大坂の陣の後にはもう城を畳んでおったで、六年ぶりなのか。今はもう他所の国なもんだでいかん。それでもここはわしが生まれ育った土地だでや。思いが尽きる暇がない。

「隼人正(はやとのしょう、水野忠清)は息災なんかのう」と勝成は海に向かって一人つぶやく。

 隼人正とは勝成の弟、水野忠清の官名である。忠清は現在、三河刈屋藩の藩主なのだ。刈屋は今の愛知県刈谷市だが、戦国期は多くの記録で「苅屋」と記載されている。のち江戸期の記録に「三州刈屋」とあることから、本編では刈屋を使用している。
 今回の三河行きは備後に寺社を勘請する目的が主であるが、さきにも述べた通り勝成の生母妙舜尼の見舞いもある。弟にとっては実母ではないものの、身内が刈屋に在るので勝成としては安心している。備後の作事も本格的に始まっており、本来ならば藩主が藩の外に出ている暇はないのだが事情が事情である。城の作事や水普請については普請奉行が協力しつつ計画に沿って進めているので、勝成がいなければ何も進まないということもない。その点は幸いだった。

 懐かしい亀城(きじょう・刈屋城の通称)では忠清始め主だった家臣団が前藩主の到着を緊張して待っていた。
 弟の忠清はこのとき数えでで三十九、勝成より十八も若い。親子といっても十分通じるほどの差がある。しかも勝成は忠清が幼児の頃にいなくなって以降長く放浪していた。初めて顔を合わせたのは関ヶ原の年、忠清はもう十九歳になっていた。これでは、「兄者」と寄って懐く間もない。
 勝成・忠清とともに関ヶ原の緒戦の一つである大垣城奪取の戦いに従軍した兄弟はもう一人いた。忠清と勝成の間に生まれた忠胤(ただたね)である。ただ、ずいぶんご無沙汰だったのは同様で、無邪気に戯れた経験はあまりなかったかもしれない。
 彼は、残念ながら家臣の起こした不祥事を理由に切腹して果てた。
 そのようないきさつがあるため、兄にも弟にも些かの遠慮があるのである。

「兄上、新藩の作事でお忙しい中ようお越し下された。ご健勝のご様子何よりでございます」
 久しぶりに見た忠清が年相応に老けているのを見て勝成は内心驚く。彼の中の弟の像は関ヶ原のときの若武者姿で止まっているのだ。そして、自分が驚いていることを恥ずかしく感じる。水野家の当主となるべく養育されていた長子であるにも関わらず、長い間家を放り出してきた歳月を否応なしに思い出すからである。

 歳月は人を老けさせるだけではない。その間に空白ができてしまえば、本来そこを埋めるべきものが何もない「がらんどう」になってしまう。がらんどうの歳月は後から完全に取り戻すことはできない。無論、勝成もその間に戦や人との出会いなどさまざまな経験を経てきた。そこに彼の歳月はしっかりと在る。ただ、残してきた「がらんどうの世界」に今さら何ができるのかという寂寞の思いと後悔は常にあった。だからこそ帰参後は、藩の運営も家臣の統率も戦への出陣も一所懸命に務めてきたのだ。

「掃部(上田)どのと寺院の移転については先般概ね詰めておりますので、兄上には今宵ゆるりとお休みいただくとして、妙舜尼さまのお見舞いは明日にされたらいかがかと思うのですが……」
 忠清の声に勝成はハッとして、思わず聞き返す。
「母上は……早う向かった方がええのではないか」
 忠清は首を横に振る。
「はい、こちらからも人や医師・薬師を付けておりますが、いまご容態は安定しており時には起き出して庭を歩かれたりしとります。明日ゆっくりとお会いになられたらよいかと」
 忠清の落ち着いた様子に勝成は「ああ、そうさせてもらおうか」と微笑んで答える。
 たいへん丁寧に気を遣っているのが分かるのだが、打ち解けた雰囲気にはならない。致し方ないことだが、勝成は少し歯がゆい心持ちがするのだった。

 翌朝、勝成は上田と忠清とともに、母妙舜の住む屋敷に赴いた。
「妙舜さま、日向守さまと上田どのが備後より見舞いにお越しくださいましたぞ」と忠清が襖を開ける。
「ああ、まことに来られたのでや、えろう大儀にございますで」という声が聞こえた。
 そこには、懐かしい母の姿があった。いや、やはり母の姿にも歳月が重ねられている。刈屋であれやこれやと話をしていたのはほんの数年前、十年も経っていない最近のことである。それでも、母は前より小さく丸くなってしまったように勝成の目に映った。
「母上、まことにご無沙汰しております。こたびお身体の加減がよろしくないと知り、居ても立ってもいられず来てしまいました」
 母親は勝成を見て微笑んだ。
 そして、ゆっくりと言葉をひとつずつ積むように語る。
「いっときなあ、どうにも身体が動かんようになって、息が苦しいのを通り越して気が遠くなっていくようになりましてなあ。これはもうお仕舞いかと思うたのです。日向はいまたいへんなときですから、せめてお珊とお登久には知らせておこうと文を書かせました。日向の父(水野忠重)のように、ある日突然去ぬるのもどうかと思いましたで。お陰様でよう手当てしていただいて、今は歩くんも平気になりました。息が苦しゅうなりますもんで長くはできませぬが」
 勝成はそれを黙って聞いている。いつも側にいてもらえるならもっと顔を合わせて話ができ、様子も分かるのに。忠清は手厚い世話をしてくれているのに自分は何も……。
「そういえば何日前でや、お登久も来てくれましたで」
「お登久が来たのですか?刈屋に?」と勝成は目を見開いて聞く。
「都築の皆さんと一緒に来てくださったのです。まことに久しぶりで懐かしいばかり。まあ話が弾んだこと弾んだこと、お登久は刈屋にいた頃とちっとも変わっておりませぬ。それが嬉しいし、都築の家でもよう好かれとりまして、見ていると何やら世話して嫁がせたのは間違いではなかったと、そのように感じましたなあ」
「そうですか」と勝成はうつむきかげんにコクリとする。
 忠清と上田は母子二人水入らずの時間だからと早々に去っていった。
 ゆっくりとした時が流れている。妙舜も勝成もしばらく黙ったままそれを噛み締めている。
 この再会に多くの言葉は必要ないのかもしれない。
 しばらくして、妙舜がゆっくりと語る。
「日向は昔日にいろいろたくさん忘れものをしてしまったかもしれませぬ。破天荒なこと天下一でしたからなあ。そのせいで、えらい大事なものを失くしてしまったと悔いておるのやもしれませぬな。
 ただ、そなたは身を立てて戻ってきました。刈屋にも吉備の国にも戻りました。今その手には忘れたもんも、置いてきたもんも、失くしたと思うとるもんはすべてあるのではないか。それを大事にして、人を大事にして生きていきなされ」
 聞いている勝成の目からぽた、ぽたと涙がこぼれ落ちている。それを見て、母は幼児に対するごとく優しい声になる。
「何しろわたくしは、そなたがオギャアと生まれたときから知っておるもんでなあ」
 それを聞いて勝成はしゃくりあげて泣き始める。本当に子どもに戻ってしまったかのようだった。

 一方の忠清と上田は刈屋の寺を回っている。すでに、勝成の夭逝した子のために建立した定福寺は移すことが決まっている。勝成の父の墓所がある楞厳寺(りょうごんじ)は水野家代々の墓所でもあるため、備後には新たな寺院を建立し忠重の墓所のみふたつに分けることにした。水野家についてはそのようになるが、上田は自身の帰依する日蓮宗の寺院を備後に移したいと申し出て、勝成の許可を得ていた。その上で忠清と相談する必要があったのだ。
「掃部どのは刈屋に残ってもらってもよかったでなあ」と忠清は不意につぶやく。
「は!それは何ともいやはや……」と上田は慌てる。かつて家康から「勝成に水野の家督を継がせる」と命じられたときから、彼はずっと勝成の重臣として勤めている。他に選択肢はなかったので、慌てる必要はないのだが、弟の藩主にそう言われると戸惑ってしまうのである。
「冗談だで。だが、やはり兄上は才覚も何もわしより秀でとるもんで、そんな風に思ってしまうこともある。ちょっとしたやっかみなもんだでいかん」
 忠清の心情を上田はおもんばかる。
「隼人正さまも刈屋藩主として十分立派にお勤めになっとられますぞ」
「そうか?そうならばよいが」
「御意」と上田は深く頭を下げた。

 後で寺院の話に勝成も加わり、段取りもお互いで確かめた。伏見城のように建物をすべて移築するわけではないので、主に本尊や経典などの宝物、住持や僧侶ら人の関わりが主である。それが一段落した頃、忠清が話を切り出した。
「亡き兄の二男が今剃髪して寺に入っております。こたび移転する寺院には含まれませんが、備後の寺に入れてもらえたらと思うておりまする」
「おう、忠胤の子じゃな。そうか、息災にしておるのか」と勝成は懐かしそうにいう。
 ただ、忠清にとってはそれほど楽しい話ではないようだ。
「実のところ、兄の子大弐(だいに)の扱いには悩むところがございます。士分に戻して藩に入ってもらうのは難しいですし、浄土真宗の寺におりますので我らの菩提寺を預けるというわけにもまいりませぬ。もし、備後で寺を新たに建立するのであれば、そちらを任せてもらうのが本人にとっても幸せかとも思いまして……」
 忠清の言葉には含みがあると勝成は感じた。

 源義経や実朝の悲劇、足利尊氏と直義兄弟など兄と弟、あるいは弟と兄の子でも一方を討ち果たす例はいくらでも見られる。勝成の場合、親との不和はあっても骨肉の争いに出くわしたことはない。放浪していた時分は、「もう見切りをつけて弟が継ぐだろう」というほどに考えていたので、どうこうしようという気はさらさらなかった。ただ、忠清の言葉には大弐を警戒している気配があった。すぐさま変事が起こるとは思わないが、少し離しておきたいということだろうか。
 それでも勝成は明るい声で言った。
「あい分かった、承知じゃ。新しい寺社建立は来年以降になるが、どの寺院か決まった段で知らせよう。大弐にも内々に伝えておいてくれんか」
「ありがとうございます。何とぞよしなにお取り計らいくださいませ」と忠清はホッとした表情をしている。
 勝成は少し複雑な気分になる。
 それは自分が世話をする人が一人増えたからではない。もう何人増えても藩の総員に比べればさほど大したものではないだろう。「どんと来い、どんどん来い」である。そこではない。
 血の繋がりとは何だろうと考えるのだ。
 薄くなったり濃くなったり、
 淀んだり透き通ったり、
 喉ごしがよかったり煮えたぎっていたり、
 絹の布だったり、棘だらけの茨だったり、
 温かいときもあれば凍っているときもある。

 もう一泊して、勝成一行は帰途に着く。見送りに来た忠清と家臣の姿が見えなくなると、勝成は海に向かってぽつりと言う。
「歳月というのはいい塩梅に留まってはくれぬものじゃのう」
 上田は、もの思いに耽る様子の勝成にいう。
「動いておるときには、止まっているものの姿はほんのまばたきほどにしか見えませぬ。しかし、止まってみればそれがよう見えまする。うまくは言えませぬが、そのようなものでもあるように思えますで」
 勝成はひどく感心している。
「うまく言っておるでや、さすが筆頭家老じゃのう」
「いやいや、いやいや」と上田は照れる。
 船は一路伊勢方面に進んでいく。
 勝成は、今度は上田にも聞こえないほどの声で小さくつぶやく。
「お登久、わしゃおまえに会いとうてたまらん。会いたいんじゃ、ひどく会いたい……」

 伊勢湾のさざ波が、この声を別れた妻のいる大坂までそっと伝えてはくれぬものかーーと勝成は思いさえしたのだ。




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