鎌倉もののふがたり

尾方佐羽

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第二章 頼朝も知らぬこと 長江義景と三輪

亀の前にまつわる騒動

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 三輪のひそかな願いはすぐに泡のように消えることとなった。
 亀の前の存在が世間にさらされる事件が起こったのである。

 牧の方は政子に対して、「亀の前と穏便に話をする」ということで了承を得た。しかし、ことは控えめにいっても、まったく穏便には済まなかった。
 牧の方はまず自身の父親である牧宗親に、「亀の前を追い出してほしい」と告げた。宗親はそれを聞いて、「少し脅かせばか弱い女子のこと、恐れをなして逃げ出すだろう」と思ったらしい。さらに、亀の前が滞在している家の主、伏見広綱は京都から派遣されて間もない文官で武士ではない。強者の郎党を揃えているわけでもない。いかにも御しやすい相手ではないか。
 たとえ現地で三浦党が亀の前を保護しようと思っても、頼朝の岳父である北条時政の係累に真っ向から手出しできるはずがない。
 そんな目論見が牧宗親の頭に浮かんでいたようだ。
 そしてそれが、ひとつの事件を引き起こした。
 
 11月のある日、牧氏の一党が飯島にある伏見広綱の家に大挙して乗り込んだ。
「亀の前を連れられよ。話がしたい。鎌倉殿の姑さまの命じゃ」
 伏見は仰天した。誰の姑の命でも、亀の前は頼朝にじかに託された人である。それをやすやすと渡すわけにはいくまい。伏見はすぐさま家人に亀の前を逃がすように命じて、自身が門前に出た。
「亀の前さまは佐さまより預かりし大切な客人でございます。佐さま直々の命以外ではお渡しするわけには参りませぬ」
 その一言で牧氏一党の態度が豹変した。
「何をっ、祐筆風情が図に乗りおって。目にもの見せてくれるわっ」
 その言葉を合図に男たちは伏見の屋敷にどかどかと踏み込んだ。そして、亀の前を探し始める。
「隠しだてすると容赦せんぞ。どこにいるのかっ。すぐに出せっ」
 伏見は口をつぐんでいる。それが男たちの勢いに火を点けた。板塀がバキバキッと蹴り倒され、門も崩れる。そして、離れの持仏堂の壁が蹴り飛ばされる。人の背に乗って曲芸のようにするすると屋根に上がった男は、農具を使って天辺からたたき壊す。この持仏堂が亀の前の滞在場所だったが、あっという間に瓦礫になってしまった。同様にして母屋も破壊されたが、持仏堂ほどの被害は受けなかった。ただ屋根を一部打ち壊されたので、雨露をしのぐことは難しくなった。

 伏見と家人はじめ人に危害は加えられなかったが、彼らは乱暴狼藉のありさまをただ震えながら見ているしかなかった。

 まさに「憎さげなる(醜い)」できごとだった。亀の前は伏見の家人に連れられ、逃げ落ちていった。

 この一件を翌日伏見から聞いて、頼朝は烈火のごとく怒った。
 襲撃に入ったのが牧宗親の一党だったことを聞き及び、岳父の継室である牧の方の指図によるものだと容易に思い至った。

 ーーこの類いのことであれば、妻の政子、あるいは岳父の北条時政がまず直接説諭するべきであろう。岳父の継室が指図して、しかも突如滞在している館を丸ごと襲撃させるとは何事かーー

 それは、頼朝の顔に泥を塗る、いや、泥を浴びせかける行為としか受け取れなかった。

 一方、この襲撃事件については政子の耳にも入っていた。しかし彼女はこの「憎さげなる」できごとについて、頼朝にも牧の方にも何も言わなかった。「穏便に」と牧の方に言ったのとずいぶん異なるが、その点についても牧の方に何ひとつ抗議しなかった。
 そうすれば、話がいっそうややこしくなってしまうからだ。
 頼朝にはそのような妻の心中を推し量ることができなかったので、世間の男並みにそら恐ろしさを感じていた。しかし怒り真骨頂、このまま捨ててはおけなかった。まずは牧宗親郎党の襲撃について質す必要がある。
 そこで、鐙摺(あぶずり)の大多和義久の館に牧宗親と伏見広綱を呼び出した。
 大多和義久は三浦義澄の弟で、三輪の兄である。


           (鐙摺山、旗立山とも)

 まず、伏見は事件のあらましを懇々と訴えた。
 続いて牧宗親が、「伏見殿の言に相違なし」と口火を切って頼朝に不満を述べ立てる。
「嫡男が生まれるという慶事のさなか、妾にうつつを抜かすとはとんだ恥さらしですぞ。佐どのはいったい誰のおかげで今の立場を得られたとお考えか。北条の大恩をないがしろにする振る舞いをされたのだから、恥だの何だのと言えるものではないであろう」
 頼朝はそれを聞き、真っ赤になって怒った。岳父の北条時政がそれを言うならまだ聞く耳もある。しかし、その継室の父親に言われることではない。
「どの口でさようなことを申すっ。目にもの見せてやろうぞ」
 頼朝はやおら短刀を懐から抜くと、すっくと立ち上がり宗親につかみかかる。丸腰の宗親は「ひっ」と頭を抱える。頼朝は宗親の髻(もとどり)をつかむとそれをじょりじょりと切り落とした。
 いくら激昂していたといっても、さすがに殺めることまではしない。
「御台を重んじるというのは確かにもっともなこと。それにしても、かような乱暴狼藉を働くとは、私に恥辱を与えるもの。なぜ私に申さぬ? こそこそしおって卑怯ではないか!」

 髻を切り落とされるのは、たいへんな屈辱だった。それと同等の恥辱を受けたのだと頼朝は一喝した。
 牧宗親は衝撃のあまり、わなわなと震え、ぽろぽろと涙をこぼした。悔し涙である。そして頼朝をきっと睨むと、「おのれ……覚えておれっ」と捨て台詞を残し髻を握りしめ、近習を連れて館を去っていった。
 そしてすぐさま、牧の方と北条時政の夫婦のもとに駆けていき、鐙摺での一部始終を告げたのである。
 それを聞いた牧の方は激しく泣き出した。
「何と無体なことを……父はよかれと思って……」
 これに、北条時政が激怒する。
「舅殿にかような仕打ちをするとは、断じて許せぬ!」

 小さな艶事が種火になり、大火事になってしまった。

 頼朝に面会して話をすることもなく、北条時政は一党を引き連れ、伊豆に引き上げていってしまった。北条は鎌倉から平氏方に戻ると言わんばかりの勢いだった。
 そのとき、時政の息子で政子の弟、江間(北条)義時のところにも、「伊豆に引き上げる」と伝える父の使者が来ていた。しかし、あらかた事情が分かっている義時は感情的にはならなかった。いや、どちらかと言えばひどく滑稽に思ったので、「私は鎌倉に残る」と使者に伝えた。
 時政らが息巻いて去っていった後、御家人の梶原景季が義時のもとに困り果てた様子でやってきた。彼に仲裁の依頼も受けたので、義時はようやく腰を上げて御所に向かうことにした。彼は賢明である。その前に政子の邸宅を訪れた。

 三輪はその時政子の側にいた。義時の訪問を受けて三輪は部屋を退去したが、今回の騒ぎが大きくなったことが無性に心配だった。そこで、いけないと思いつつも部屋から少し引いた柱の陰でそっと耳を澄ませた。

「まったく、みな雁首揃えて大人げないことをしやる。父上もかような些事でよく伊豆まで帰ろうと思うものだ。呆れてものも言えぬわ。さて……姉上は佐どのとまだ話しておらぬのですか」
 政子はひとつため息を洩らした。そして静かな声で言う。
「ええ、まぁ、ここまで騒ぎが大きくなると、佐どのも顔を合わせたくないと思われるでしょう。お互い様子見というところでしょうか。あの人が落ち着くまで私は何も言いますまい」

 義時は腕組みをして考える。そして安堵したように政子を見て笑顔になる。
「いやいや、姉上がことのほか正気を保っておるので驚きました。いや、よかった。まことに頼もしい。さて、この先どのようにいたしましょう」
「どうするもこうするも、収めるしかないこと。佐どのには父に詫びを入れてもらうしかありません。また、こたびのこと、騒ぎを大きくした牧どのにくれぐれも自重してもらわねばなりませぬ。それは父上が戻りましたら私から話しましょう」
 今度は義時がため息をつく。
「ああ、牧の方はご自身の生んだ子や家が引き立てられないと常々ご不満を抱いておりますからな。今回のことで、佐どのの評判が落ちればよいなどと考えたかもしれない」
 政子と義時は時政の前妻の子である。
「ええ、浅はかなお考えで謀りごとをするのはもう止めていただかないと……」

 義時は御所の寝所番(警固役)筆頭の役を担っているので、頼朝と話をすべき立場の人でもある。困り果てた梶原景季の顔を思い出しながら、義時は御所にまっすぐ赴くと姉に告げる。
 この件を収める重要な役目を引き受けたのだ。

 三輪は聞き耳を立てるのをやめて、静かにその場から離れた。
 この騒ぎで政子がどれほど怒っているか、それで亀の前がどんな目に遭うのかと心配していたのだ。しかし、義時との話の様子を聞いた限り、政子は事態をよく理解しているようだった。心中はもちろん穏やかではないだろう。夫が他の女のためにあれだけのことをするのだから。しかし、それを蚊帳の外である牧の方にひっかき回されたので、自分の感情はいったん抑えることにしたのだ。その自制心に三輪は再び感服した。
 御台さまのことをみな激しい気性の女性だと言うけれど、本当は少し違うのではないだろうか。
 それに、御台さまは知っていらっしゃるように見える。どこまでかは分からないけれど……。

 その後、政子との話を済ませた義時は頼朝のもとに赴いた。そして、しばらく頼朝と話をした。どうやら義時は首尾よく、丸く収める方向で頼朝を説得できたようだ。追って頼朝と政子の間でも話し合いが持たれることとなった。
 ここで夫婦も和解をはかることができた。

 一方、亀の前は、頼朝が牧宗親の髷を切り落とした場である鐙摺の大多和義久の館に移されていた。
 三輪は引き続き依頼を受け、さらに極秘で鐙摺に通うようになった。政子に知られたらどうなることか、と前より強く警戒しながらである。
 ただ、政子の三輪に対する態度はいささかも変わらなかった。
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