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「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
あの日一晩ぐっすり休むと、エルナの体調は回復した。それでも旦那様は次の日、「今日は休みなさい」と、エルナが働くのを許さなかった。
あれ以来、旦那様は必ずその日の帰宅時間を知らせてくれるようになり、しかも絶対に日を跨ぐ前にお帰りになるようになった。二人の間で、確かに約束をした訳ではないけれど。
それに旦那様はエルナが作ったハーブティーを毎日頼んでくれるようになった。朝出かける前に、必ず。
エルナは嬉しかった。前よりずっとこの屋敷に安心感を覚える。この穏やかで優しい時間が続く事を心から願った。
・・・・それが叶う事はなかったけれど。
ある日の事であった。エルナは窓を開け放って納戸の整理をしていた。柄の折れた箒やら刷毛部分がボサボサになったブラシやらがそのままになっていたので、処分しなければと思ったのだ。
黙々と作業していると、開けた窓から声が聞こえてきた。
「お前さん、メイドを見なかったか?」
「いや、見ていねぇな。屋敷の掃除でもしてるんじゃねぇかな」
声からして、庭師と出入りの商人のようだ。二人は以前からこの屋敷に出入りしているので、もともと顔見知りであってもおかしくはないが。
エルナはその事を初めて知った。
屋敷の中には決して足を踏み入れない庭師。食材を運んで代金をもらうと、そそくさと出ていく商人。
最初からどこか余所余所しい感じだった。それは自分が新参者だからかと思っていたのだが、どうも様子が違う。
「ところで、景気はどうだ」
「まぁ、そこそこだな。ここの旦那は金払いだけはいいし・・・・」
「ちげぇねぇ」
ふふん、と鼻で笑い合うその様子に思わずムッとなる。
(金払いだけは、だなんて。失礼だわ)
二人はよもやエルナが会話を聞いているとも知らず、噂話に興じた。
「まったく、ここの旦那の不気味さときたらねぇよ。俺はあの作り物みてぇな顔を見る度、ゾッとするね」
「まったくだ。見てみろよ、この庭を。冬場以外はずっと花を咲かせる不気味な薔薇が満開だ」
「本当に薄気味悪い屋敷だぜ。それにお前さん、聞いたかい。ここをやめたメイドが教えてくれたんだがよ。あの男、ほとんど食事を取らねぇらしい。一体何で腹を膨らませているんだかなぁ」
その後も、いやどうもこうらしい、ああらしい、としばらく話し込んでいた。
確かに旦那様は家ではほとんど食事をしないが、それは外で済ませて来るからであろうし、薔薇が常に咲き誇るのは、気候だとか土の良さだとか、また腹立たしいが庭師の世話のおかげでもあるだろう。
それなのに、ちょっと寡黙で謎めいた方だからって面白おかしく噂するなんて。
エルナはわざと大きな物音を立てた。
嗤いを含んだ話し声はぱたっと止み、そそくさとその場から去っていくのがわかった。
エルナの怒りは夕方になっても収まらなかった。玄関先の花瓶に生けてあった傷んだ薔薇の花をいつもよりちょっと手荒に片付ける。
旦那様の事を悪く言われるのは我慢ならなかった。あんなにお優しい方なのに。
(きっとお若くて、お美しくて、裕福な旦那様を妬んでいるんだわ。ああやって粗探ししないとやっていられないのね)
そんな風に考えてようやく溜飲を下げたのだが。
「いたっ・・・!」
痛みを感じた指先を見ると、小さな切り傷から赤い血がぷくっと盛り上がっていた。薔薇の棘を抜ききれていなかったようだ。
その拍子に数本薔薇を落としてしまい、慌てて散った花弁や葉を拾い集める。
もうすぐ旦那様の帰宅時間だ。今日は軽食を頼まれていたから、その準備もある。
せっせと手を動かすエルナは最初、自分に近付く影に気付かなかった。
「きゃっ!!」
音もなく、アッカーマン氏はエルナの背後に立っていた。ふと手元が暗くなって初めて顔を上げ、エルナは心臓が飛び出るほど驚いた。
「だ、旦那様、お帰りなさいませ・・・!」
エルナは立ち上がろうとしたのだが、その前に旦那様が腰を屈めた。表情は帽子で隠れて見えなかった。そして何も言わぬまま、エルナの手を取る。先程棘で切ってしまった方の手を。
指の腹で焦れったいほどゆっくりと、腕の内側を肘辺りから手首まで、まるで愛撫のように辿る。
もちろんエルナはその行為を知らない。
旦那様はそのまま指を走らせ、傷の辺りでくっ、と力を入れた。固まりかけていた血が割れ、また少し新しい血がぷくっと膨らんだ。
手を持ち上げられ、旦那様の顔が近づいたかと思うと、そのままかぷりとエルナの指が飲み込まれた。
熱くて、ぬるりとして、少しざらついた舌に指先が包み込まれた。
私は止めなければならない。「お止めください」と言って、腕を引かなければならない。
けれど身体中の力が抜けてしまって、何も言葉が出てこない。身体を駆け巡るざわざわとした感覚が、恥ずかしくも心地好かった。
傷をぢゅっ、と吸われると、気持ち良すぎて視界がじわりと涙で曇った。
「あ・・・・・・・・・」
エルナの口から声が漏れ出て、旦那様の身体が揺れた。痛くはないけれど、強い力でぐっと引き離される。
「・・・・・片付けは明日でいい。君は部屋に戻りなさい」
「え・・・・・?あっ」
床には先程撒き散らしてしまった薔薇がそのままだった。
「で、でも・・・・・」
「戻りなさい。今日はもう部屋から出るな」
強い口調で遮られて、エルナはびくりと肩をすくませ、立ち上がって逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
不機嫌な事はあっても、こんな風に声を荒げた事はなかったのに・・・・・・。
ふと手元を見ると、切ったはずの指には傷が見当たらなかった。風がさわりと音を立てた。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
あの日一晩ぐっすり休むと、エルナの体調は回復した。それでも旦那様は次の日、「今日は休みなさい」と、エルナが働くのを許さなかった。
あれ以来、旦那様は必ずその日の帰宅時間を知らせてくれるようになり、しかも絶対に日を跨ぐ前にお帰りになるようになった。二人の間で、確かに約束をした訳ではないけれど。
それに旦那様はエルナが作ったハーブティーを毎日頼んでくれるようになった。朝出かける前に、必ず。
エルナは嬉しかった。前よりずっとこの屋敷に安心感を覚える。この穏やかで優しい時間が続く事を心から願った。
・・・・それが叶う事はなかったけれど。
ある日の事であった。エルナは窓を開け放って納戸の整理をしていた。柄の折れた箒やら刷毛部分がボサボサになったブラシやらがそのままになっていたので、処分しなければと思ったのだ。
黙々と作業していると、開けた窓から声が聞こえてきた。
「お前さん、メイドを見なかったか?」
「いや、見ていねぇな。屋敷の掃除でもしてるんじゃねぇかな」
声からして、庭師と出入りの商人のようだ。二人は以前からこの屋敷に出入りしているので、もともと顔見知りであってもおかしくはないが。
エルナはその事を初めて知った。
屋敷の中には決して足を踏み入れない庭師。食材を運んで代金をもらうと、そそくさと出ていく商人。
最初からどこか余所余所しい感じだった。それは自分が新参者だからかと思っていたのだが、どうも様子が違う。
「ところで、景気はどうだ」
「まぁ、そこそこだな。ここの旦那は金払いだけはいいし・・・・」
「ちげぇねぇ」
ふふん、と鼻で笑い合うその様子に思わずムッとなる。
(金払いだけは、だなんて。失礼だわ)
二人はよもやエルナが会話を聞いているとも知らず、噂話に興じた。
「まったく、ここの旦那の不気味さときたらねぇよ。俺はあの作り物みてぇな顔を見る度、ゾッとするね」
「まったくだ。見てみろよ、この庭を。冬場以外はずっと花を咲かせる不気味な薔薇が満開だ」
「本当に薄気味悪い屋敷だぜ。それにお前さん、聞いたかい。ここをやめたメイドが教えてくれたんだがよ。あの男、ほとんど食事を取らねぇらしい。一体何で腹を膨らませているんだかなぁ」
その後も、いやどうもこうらしい、ああらしい、としばらく話し込んでいた。
確かに旦那様は家ではほとんど食事をしないが、それは外で済ませて来るからであろうし、薔薇が常に咲き誇るのは、気候だとか土の良さだとか、また腹立たしいが庭師の世話のおかげでもあるだろう。
それなのに、ちょっと寡黙で謎めいた方だからって面白おかしく噂するなんて。
エルナはわざと大きな物音を立てた。
嗤いを含んだ話し声はぱたっと止み、そそくさとその場から去っていくのがわかった。
エルナの怒りは夕方になっても収まらなかった。玄関先の花瓶に生けてあった傷んだ薔薇の花をいつもよりちょっと手荒に片付ける。
旦那様の事を悪く言われるのは我慢ならなかった。あんなにお優しい方なのに。
(きっとお若くて、お美しくて、裕福な旦那様を妬んでいるんだわ。ああやって粗探ししないとやっていられないのね)
そんな風に考えてようやく溜飲を下げたのだが。
「いたっ・・・!」
痛みを感じた指先を見ると、小さな切り傷から赤い血がぷくっと盛り上がっていた。薔薇の棘を抜ききれていなかったようだ。
その拍子に数本薔薇を落としてしまい、慌てて散った花弁や葉を拾い集める。
もうすぐ旦那様の帰宅時間だ。今日は軽食を頼まれていたから、その準備もある。
せっせと手を動かすエルナは最初、自分に近付く影に気付かなかった。
「きゃっ!!」
音もなく、アッカーマン氏はエルナの背後に立っていた。ふと手元が暗くなって初めて顔を上げ、エルナは心臓が飛び出るほど驚いた。
「だ、旦那様、お帰りなさいませ・・・!」
エルナは立ち上がろうとしたのだが、その前に旦那様が腰を屈めた。表情は帽子で隠れて見えなかった。そして何も言わぬまま、エルナの手を取る。先程棘で切ってしまった方の手を。
指の腹で焦れったいほどゆっくりと、腕の内側を肘辺りから手首まで、まるで愛撫のように辿る。
もちろんエルナはその行為を知らない。
旦那様はそのまま指を走らせ、傷の辺りでくっ、と力を入れた。固まりかけていた血が割れ、また少し新しい血がぷくっと膨らんだ。
手を持ち上げられ、旦那様の顔が近づいたかと思うと、そのままかぷりとエルナの指が飲み込まれた。
熱くて、ぬるりとして、少しざらついた舌に指先が包み込まれた。
私は止めなければならない。「お止めください」と言って、腕を引かなければならない。
けれど身体中の力が抜けてしまって、何も言葉が出てこない。身体を駆け巡るざわざわとした感覚が、恥ずかしくも心地好かった。
傷をぢゅっ、と吸われると、気持ち良すぎて視界がじわりと涙で曇った。
「あ・・・・・・・・・」
エルナの口から声が漏れ出て、旦那様の身体が揺れた。痛くはないけれど、強い力でぐっと引き離される。
「・・・・・片付けは明日でいい。君は部屋に戻りなさい」
「え・・・・・?あっ」
床には先程撒き散らしてしまった薔薇がそのままだった。
「で、でも・・・・・」
「戻りなさい。今日はもう部屋から出るな」
強い口調で遮られて、エルナはびくりと肩をすくませ、立ち上がって逃げるように自分の部屋に駆け込んだ。
不機嫌な事はあっても、こんな風に声を荒げた事はなかったのに・・・・・・。
ふと手元を見ると、切ったはずの指には傷が見当たらなかった。風がさわりと音を立てた。
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