稲妻

kikazu

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忍び寄る戦雲

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  男は黙々と、上半身をはだけた姿で荒れた大地を掘り続けている。

 日に焼けた筋骨隆々の巨躯きょくには、他者の視線を釘付けにするほどの迫力があった。

 だが、見る者すべての脳裏へ強烈に刻まれるのは、欠損した二本の指、背中や両肩に深く刻まれた無数の傷痕に違いない。

 その壮絶な風貌が――まるで彼の本質を、雄弁に物語っているかのようだった。

 「ふう。朝早くから精が出ますね、次郎さま」

 小鳥がさえずるような美しい音色は、近寄りがたい威風の男に臆する様子もなく、眠たそうな顔で語り掛ける少女の声だ。

 男が特異な存在であるのなら、彼女もまた異彩を放つ存在らしい。

 長い黒髪を一つにまとめて背中に垂らし、獣の皮衣をまとって馬に跨る姿は一見すると猟師の娘を想起させる。
 庶民でも最下層の恰好でありながら、涼しげな容姿は隠し切れない気品が漂い、整った目鼻立ちも相まって――何とも言えないちぐはぐ感が否めない。

 軽くあくびをする所作にも華があって、この少女が単なる庶民の出でないのは誰の目から見ても明らかだ。

 するりと馬から飛び降り、男を見つめる瞳は多くの慈しみと、ほんの少しだけ呆れが含まれているようだが、これは二人の関係が気安いものであるという裏返しなのだろう。

 次郎じろうと呼ばれた男は、作業を止められて腹を立てた様子もなく、そっと静かにくわを傍らへ置いた。

 ――そう、念には念を入れて慎重に。少女を怯えさせたくないという些細な配慮が見て取れるが、それでもズシッと地鳴りのような波が辺り一面へと広がり、近くの鴉が慌てたように飛び去っていく。

 常人には決して扱いきれない巨大な鍬を難なく操る膂力りょりょくに比して、男の少女へ対する物腰はとても柔らかく、猛々しさや威圧感は微塵さえも感じられない。

 「おう、これは多重たえ殿。 何か姫様より火急のお召しであろうか」

 それを聞いた少女は、すぐに頬を膨らませると、顔をぷいっと横に背けて、

 「次郎さま。おおやけにこそされておりませぬが、私たちはれっきとした許嫁同士なのですよ。 それなのに開口一番、他の女性へご執心ですか? 次郎さまは、まったく持って可愛げがありませんね」

 ――私、傷つきました。

 周囲で作業をしていた男たちはその声に驚き、年端もいかない少女にからかわれている次郎の姿がいかにも面白おかしく見えたのらしい。

 それはそうだろう。顔を背けた少女の表情は溢れんばかりの笑顔だからだ。瞬く間に見物人の群れが次第に二人を取り囲んでいくのも自然な流れである。

 この軽薄な流れは、次郎やこの娘が皆から一様に慕われ、親しみを持たれている証左だろう。

 そんな彼らの好奇に満ちた視線などどこ吹く風で、多重はさらに畳みかける。

 「それに――何度も申し上げていますが、いちいち私に殿をつけるのは不要でございます。 これからは、『 た・え 』と気軽にお呼びくださいな」

 「申し訳ない、多重殿。以後は気をつけよう」

 「ですから、多重とおっしゃい」

 次郎の、ぽりぽり首を掻いている姿に周りの男たちは腹を抱えてしまい、賑やかさは大きく場を包んでしまって多重は眉をひそめる。
 多重が次郎をからかうのは彼女に許された権利のようなもので、他人が自分の許嫁を笑う光景は許せないし、少々かんに障ったのらしい。

 もうこの話は終わりとばかり、

 多重の表情がすっと消えて、瞳に冷気が宿っていくのは、公私を切り替える彼女特有の合図。多重は次郎の許嫁であり、為政者の側近でもあるという二つの顔を持っている。

 「それでは飯富次郎おぶじろう殿。姫様から伝言を言付かっております」

 「承りましょう」

 姫様とは実力者の娘という意味ではなく、実質的なここ那賀郡なかぐんあるじ

 それだけではなく、朝廷の出先機関である政庁――官衙かんがも支配下に置いている。常陸国ひたちのくにで二番目に大きい都市・渡里わたりにて、税を徴収し都へ送るだけではなく野盗討伐さえも自ら行い、文武に多くの裁量を与えられている貴人なのだ。

 姫の存在は、律令体制そのもの。立場的にはヨーロッパの辺境伯に近い。

 見物人たちへ、次郎に習って片膝をつき自然と頭を下げさせるくらいの威風がある。多重は周囲に静寂が広がったのを見渡すと、

 「昨夜の野盗討伐、大儀でした。 次郎の要望通り、捕えた賊を配下にするのを許します。 死んだ賊を弔いたいのであれば、後日御僧を派遣するように手配いたしましょう」

 姫は多くの寺院を、二重の堀に囲まれた官衙内で庇護している。姫が頼めば断れる寺などありもせず、これはもう決定事項だ。

 「姫様のご厚意に感謝いたします」

 次郎の声に、多くの者が追随して礼を述べ始めていた。今でこそ那賀郡の名族である飯富の姓を名乗っているが、次郎は人質としてこの地にやって来たよそ者であって、彼を囲む者たちは家来ではない。

 元々野盗あがりの荒くればかりで、かつて飢えた家族のために豊かな那賀郡を襲った過去を持っている。次郎の圧倒的な武力にねじ伏せられ、道理を説かれて自ら従った者たちだ。

 彼らが死んだ者たちへ哀れみや同情を寄せるのは、皆一様に自分や家族が骸になっていても不思議ではなかった境遇を経てきたのが大きい。運良く生き残った身としては思うところがあるのだろう。

 中には涙ぐむ者や、姫の好意に破顔一笑させる者まで様々だ。

 「以上でございます。それで次郎さま、賊の骸はいったい何体なのですか? 私が寺への依頼を申し付けられていますので、お呼びする御僧の人数もおのず変わって参ります」

 自然と多重の目から冷気が消えて、邪気のない声で墓を掘っていた次郎に尋ねたのだ。

 彼女は戦闘にこそ参加していないが、徹夜で情報収集や姫と戦闘指揮官との取次を行っていて、今回の野盗襲来がいつにも増して大規模であったのを心得ている。

 それがどうだろう。

 この地には四散した肉片のみが血だまりの中に散らばっているだけなのだ。これでは骸を数えようがなく、野盗を粉微塵にさせた次郎本人に聞くしかないではないか。

 ――利用価値がある限り、飯富次郎を敵に回してはならない。

 この那賀郡は平安末期において、異常な富を誇っている。周辺の豪族はその富の源泉を探ろうと、野盗を煽動したり、配下を賊に扮装させて執拗に探りを入れているのだ。その過程において平気で民を害して回る。

 それを粉砕する役割が次郎の価値。だがそれには明と暗が存在した。

 次郎の桁外れな武力が、いつ己に牙を剥くかという姫の憂慮が、自分をこの男の許嫁に指名した真意であろうと、多重は原型を留めていない多くの骸を見て、そう思わずにいられなかったのだ。

 ♦♦♦♦

 この那賀郡には、やがて甲斐武田氏が勃興する。そして、源氏という暴力装置との抗争の足音は、刻一刻と忍び寄っていた。


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