上 下
78 / 79
   エピローグ

  前世

しおりを挟む

「ガイルくんっ!」

 わたしは飛び起きた。
 ふかふかなベッド、日が射しこむカーテン、窓際にある緑のモンステラがおはよう、と告げている。
 
「朝か……」
 
 ちゅん、ちゅん、鳥の鳴き声によって、ここが現実世界だと実感する。
 
「……夢だったの?」

 わたしは首を傾げながら、スマホに手を伸ばした。電源を入れ、時刻六時半を確認。触れる指先からSNSを起動させる。
 
「既読スルーか……」
 
 物憂げに眺める画面に、期待していた返信はなかった。
 肩を落としたわたしは、さらにつぶやく。
 
「ガイルくん、大丈夫かな……」

 気になってしょうがない。
 さよなら、というメッセージと異世界の出来事がリンクする。
 わたしは、夢のなかで異世界にいた。
 冒険をしていたのだ。いつもの仲間たちとの愉快な旅。のんびりとしたスローライフ。ナルニア、ハリー、そしてガイルくんと一緒に……。
 
 しかし、わたしたちは人間と魔族との戦いに巻きこまれ、魔王と戦っていたガイルくんは光りに包まれた。その瞬間、わたしは現実世界に戻ってきているのだが……。
 
「いったい、なんだったんだろう?」

 わたしはパジャマを脱いだ。
 下着姿のまま鏡の前に立って容姿を確認。
 傷なし、寝癖なし、ウエストのくびれ、おっぱいの大きさ、体重は太っていない。異世界に一ヶ月ほどいたような気がするが、身体の変化はなさそうだ。
 
「よしっ!」

 気合を入れたわたしは、秒で制服に着替え、一階に降り、ダイニングテーブルに座る。すると母から、「ここはレストランじゃありません」と言われ、席を立ち、自分で朝ごはんを配膳する。もちもちの白米、鰹節の香りが漂う味噌汁、黄金の卵焼きを食器に盛りつけ、
 
「いただきま~す」

 わたしの食べる速度に、唖然とする母親を横目に、わたしはぺろりとたいらげた。重ねた食器を洗い場に持っていく。パタパタと走る。ソックスで滑りながら、
 
「ごちそうさま~いってきまーす!」

 と叫ぶ様子は、さながらパレードで踊るダンサーのようだ。華麗にスクバを片手に持って、ガチャリと玄関から外に出た。
 新鮮な空気。照りつける朝日が眩しい。
 ローファーをひっかけるその足で、すぐ隣の家の玄関まで駆ける。壮麗な石柱が積まれた門構えに気品と厳格さを感じつつ、ピンポーンとチャイムを鳴らした。しばらくすると、どちら様ですか、という聴き慣れている上品な女性の声が響く。ほっと安堵しつつ挨拶をする。
 
「おはようございます。乃依です」
「あら、乃依ちゃん、どうしたの? こんな朝から?」
「ナルニア……あ、仁亜くんはもう起きてますか?」
「仁亜なら、もう学校に行ったわよ」
「え? はやっ……」
「なんか慌てていたけど、何かあったの?」
「……いえ、ちょっと仁亜くんに宿題を見せてもらおうと思っただけなので……すいません」
「うふふ、乃依ちゃんに頼られるなんて、仁亜は喜ぶわぁ」
「……あはは、失礼します」

 わたしは玄関から離れた。
 一歩、一歩と後退りし、踵を返すとまた走った。今度は向かいの家の玄関のチャイムを鳴らす。だが、応対してくれたのは、たまたま外の庭で盆栽の手入れをしていたおじいちゃんだった。
 
「おはよう、乃依ちゃんどうしたんじゃ?」
「おはようございます。ハリー、じゃなかった……歩太郎くんはいますか?
「ん? 歩太郎ならもう学校に行ったぞぉ」
「え? ハリーもっ!?」
「なにやら慌てておったのぉ、何かあったのかい?」
「……いえ、ちょっと筋トレを教えてもらおうと思っただけなので……すいません」
「おっほっほ、乃依ちゃんも筋肉を鍛えるなんて、歩太郎は喜ぶぞぉ」
「……あはは、失礼します」

 わたしは踵を返した。心苦しくなり、眉根を寄せる。
 なんなの二人とも!? わたしに声をかけずに、まったく……。
 自分の知らないところで、ガイルくんの真相が明らかになることが怖かった。もしかしたら、ガイルくんは……。
 
 わたしは首を大きく振った。
 
「いやいや、ありえないっ! 考えたくもない」

 走り出した足が止まらない。
 気になって、気になって仕方がない。ガイルくんのことが……。
 向かった先はNZ学園。
 家から徒歩十五分。がんばってダッシュすれば六分半。通い慣れた通学路を走る。誰もいない校門を抜け、まだ誰もいない廊下を走り、教室の扉を開ける。

「はあ、はあ、はあ……」
 
 誰もいない。
 わたしの荒れた息だけが、しんとした教室に響く。
 時計の針は七時前。
 朝日が射す窓辺のカーテン、整然と並べられた机や椅子、深い緑色の黒板……。
 わたしは黒板を見た瞬間、絶句した。
 
【 さよなら 】

 と、大きく書かれてあった。
 白いチョークの粉が床に落ちている。かなり、強い力で書いたことがわかる。
 
「ガイルくんが?」

 わたしは黒板に触れながらつぶやく。
 すると、教室に入ってくる二人の影。
 ナルニアとハリーだった。
 
「モモ、考えることは同じだな」

 とナルニアが微笑みながら言った。
 隣で腕を組むハリーが神妙な面持ちで口を開く。
 
「今、教頭先生に頼んでガイルの家に電話してくれている」
「あははは」

 突然、ナルニアが笑った。
 唖然としたわたしは尋ねる。
 
「なんなの? ナルニア」

 いや、と曖昧に答えたナルニアは肩をすくめてつづけた。
 
「皮肉なものだ。俺らはガイルの住所も電話番号も知らなかったんだ。これで友達なんて……呼べるのだろうか?」

 首を振ったハリーが、「ううむ」と喉を鳴らす。
 わたしは沈黙するしかなかった。
 たしかに、わたしはガイルくんの家庭やプライベートのことは何も知らない。思えば、ただ、遊びに連れ回していただけだったかもしれない。ガイルくんがどんなことに悩みを抱え、どんなことに興味を抱いているかなんて、あまり考えてこなかった。わたしはいつも、自分のことをガイルくんに押しつけていた気がする。

 わたしといれば、楽しいでしょ? ねえ、ガイルくん。
 
 なんて、自己中な妄想を抱いていた。
 ガイルくんがいじめられているときも、すぐに助けないで、黙って見ていたこともある。ああ、わたしは最低な人間だ。
 ダメだ、ダメだ、ダメだ……。
 もし、ガイルくんに何かあったら、わたしの責任だ!
 しばらくすると、男性教諭が歩いてきた。教頭先生だった。血相を変えた彼は、ナルニアを見るなり声を荒げた。
 
「成瀬くんっ! 君の言った通り加賀くんは家にいないらしいぞ! お母さんが電話に出たんだけど、朝までいないことに気づかなったと言っている。加賀くんを最後に見たのは、昨夜、寝る前らしい……まさか、家出か!?」

 なるほど、とナルニアはつぶやくと、顎に手を当てて推理を始めた。
 
「つまり、ガイルは昨夜、行方不明になったということか。先生、加賀くんの部屋から服やら鞄などがなくなっていませんか? 机の上に置き手紙とか?」
「あ……すまない。先生、そこまで気が回らなかった。母親は、どうせ散歩でもしているのでしょう、と言って興味がないようだったし……あまり、ことを大袈裟にするのもいけないと思ってな」

 そうですね、と答えたナルニアは教室の窓を眺めた。
 さんさんと降り注ぐ太陽の光りが、今日の始まりを告げている。
 うーん、と伸びをして、ナルニアは先生に向かって言った。
 
「本日は、体調不良のため成瀬仁亜は欠席します。担任の深田先生にお伝えください」

 ……!?
 
 わたしたちは驚いた。
 教頭先生が慌ててナルニアに声をかける。
 
「え? 成瀬くん、帰るの?」

 はい、と言ったナルニアは教室から出ていく。スキップするような軽快なリズムで。わたしとハリーはその後を追いかけた。廊下を歩くナルニアの前に立ち、
 
「おい! ナルニアどこに行くんだ?」
「ちょっと、説明してよ。ガイルくんってどうなったの?」

 と尋ねると、さも当然のようにナルニアは言った。
 
「おそらく、ガイルは異世界にいるのだろう」

 わたしとハリーに衝撃が走る。ナルニアはさらにつづけた。
 
「ガイルの家に行って調査してくる。異世界の扉が開くかもな……」
しおりを挟む

処理中です...