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底なし沼にて
91.
しおりを挟む美しい景色を見たこと。
満点の星空を見たこと。
愛し、愛される王を知ったこと。
何にも変え難い友を得たこと。
ご飯が、とっても美味しかったこと。
素晴らしい教授に導いてもらったこと。
強い信念を持った先輩に恵まれたこと。
流れ星のように、儚く美しい思い出を紡いでいく。手招かれるままに父上の腕の中に身体を収めた俺の言葉を、母上はまるで御伽噺を楽しむように目を好奇心に輝かせて聞いてくれ、父上は質の良い衣服が汚れるのも厭わず俺を何度も抱きしめ直し、微笑んでくれた。
彼等は時折頷き、時折愉快そうにコロコロと笑っては俺の話を楽しんでくれている。そして、話しながらも溢れる涙を繊細に掬ってくれた。
静かな書斎の中に、俺の嗚咽混じりの物語が響く。沢山の本達も、優しく興味津々に、外の話を聞いてくれるのだ。ここはずっと昔から、家族団欒の場所だった。
美しい母、アストランティア・フォーサイスは、知性に溢れ、空想の物語を愛し、何時も美しき理想の世界を求めている人だった。男女構わず人に愛される術を知っていて、同時に人を愛し正しく導く力を持っている人。そんな母上がいてくれたから、俺は己の道を貫き、努力する事が出来る人間になれたのだ。
静謐な父、セダム・フォーサイスは、口数こそ多くはないものの、いつも絶え間ない愛で俺と兄上を平等に包み込んでくれた。分け隔てなく公平に厳しく、優しく接し与えてくれたから、俺と兄上は互いに歪み合う事なく分かり合うことが出来たのだ。
そんな、敬愛してやまない両親が用意してくれた花道を、俺は尽く破壊している。なんて、親不孝な息子だろうか。
「ーーッ、ッ」
静かな部屋の中に、俺の呻き声が響く。涙腺がぶっ壊れてしまったのか、異様な程に涙が止まらなかった。あまりにも俺が無様な姿を見せているからだろう。俺の身体を冷静に抱きしめ揺らしていた父上が、苦笑を溢す。
ああ、困らせてしまっている。
「レーネ。お前は、異国の地で得たものがどれ程大切で、貴重なものかわかるか」
罪悪感に苛まれながらも、父上の静謐な声に頷く。分かる。俺がヘイデル王国で得たものは、人によっては一生掛かっても触れることすら出来ないものであると知っている。俺の出会いは、沢山の幸運と人の厚意によって与えられたものだ。
肯定を身体の振動で察したらしい父が、俺の頭を優しく撫でてくれる。ああ、いつもこうして撫でてくれたものだ。
会話があまり得意ではない父上の代わりに、優しく此方を見つめていた母上が口を開いた。
「レーネ」
「はい、母上」
「貴方が宝物を手に入れることが出来たのは、貴方が素晴らしい人間で在ろうと努力しているからです。貴方が人のために生きるから、人は貴方を愛するの。それを忘れてはいけないわ」
薄紫色の瞳があまりに美しく細められるものだから、俺は思わずぶんぶんと大きく首を振り、堪えきれない嗚咽を零す。その拍子に力なく降ろされた剣がカタカタと震える音がした。
自分は、与えられたもの全てを信念の為に捨ててしまえるほど傲慢で、馬鹿な人間なのだ。母上の言葉も、父上の愛も、皆がくれた思い出も、全てが不相応に思えて仕方がない。
それに、今更どうこうしても、もう一度同じように愛してもらえるとは、到底思えないのだ。全てが遅い。
母は薄紫の瞳を知的に瞬かせ、艶やかな唇を再度揺らす。質の良い楽器で奏でられる心地よい音色のようなその美声に、父上が穏やかに目を閉じる気配がした。俺も、同じ様に目を閉じてみる。ーー落ち着いた心音が、聞こえる。
「貴方が抱えている沢山の苦しみを、母は知っているわ」
ーー願い。目標。義務。忠義。契約。約束。
1つ1つは小さな子どもの遊戯用の積み木のように小さなそれら。けれど、高く高く積み重ねている内に、いつしか堅牢な虚構の城となってしまった。
願いは逃避に。目標は諦念に。義務は黙認に。忠義は懇願に。契約は憂惧に。そして、約束は忍耐の材料へと変わってしまった。
ぽた、ぽた、と未だ止まらない俺の涙を拭う代わりに頬に口付けを落とした母上は、優しく俺と父上に寄り添い微笑んだ。しかし、その表情には憂いが浮かんでいる。
彼女はいつ何時でも毅然とした様子を崩さない高尚な女性であったから。初めて見た悲壮な顔に心臓が激しく揺さぶられるような気持ちになった。びきり、と、胸が痛む。
「母たる私は、貴方の為ならばなんだってして差し上げられる。そう、思っていたわ」
「母上は、なんだって、して、くださいました」
「ふふ、有難う。愛しい子」
クスクスと優雅に笑う母。
俺が落としてしまった宝箱を、止める使用人を吹っ飛ばして湖に潜って取って来てくれた。
俺と兄上が社交会で聞こえよがしの陰口を言われれば、相手を地の果てまで追い込んで倒してくれた。
歴史書で見た東の亡国の菓子を食べてみたい、と強請れば、菓子職人であった奴隷を探し回して異国から連れてきてくれた。奴隷だった使用人も、感謝していた。
ころして、しまったけれど。もとめたくせに。
俺の身体の震えが強くなったのを感じたのだろう。父上がゆっくりと身体を離し、代わりに母上が俺の身体を受け止めるように抱き締めた。小さい頃、泣きじゃくった俺や兄上を宥めるのは母上の役目だった。
母上は、俺達を泣き止ませるのが使用人すら抜いて一等上手かったのだという。乳母が軽快に笑いながら教えてくれた事が、今更になって思い出されて。ーー本当だ。温かい。安心する。ほっとする。
長い間こうして話していても、第1部隊の騎士達は中に入ってくることはない。皆外でただ待ってくれているのだ。気配で、わかる。
「ですが。母は貴方を殺す事だけは、如何しても出来そうにありません。母達を殺す事が、少しでも貴方の延命に繋がるのなら……母達は、この先貴方がどれ程苦しむことになろうと、死なずにはいられない」
ぎゅう、と母上が俺の血塗れの騎士服を掴む。その美しい手が如何しようもなく震えているのを感じて、またもや俺の涙腺を堰き止めていた堤防が決壊してしまう。
ぼたり、ぼたり、と大粒の涙が零れ落ちて、母上のドレスの肩を汚していく。
何故、なぜ、なぜ、なぜ。なぜ、こんなにも苦しくて辛い事が、世の中には溢れているのだろうか。世の中が、もっと幸せばかりで満ち溢れていたら良いのに。もっと、綺麗な世界だったら。
ギチリと荒く唇を噛み締めると、直様静観していた父上が俺と母上を包み込むように上から抱き締めてくれる。そして、穏やかに俺の目を見つめ、微笑みかけた。俺と兄が譲り受けた翡翠の瞳が、神秘的に輝いている。
もしかしたら、俺が求めていた星空は、小さな書斎の中にあったのかもしれないーーなんて、至極今更な事を心の片隅で考えた。
俺は、父上のまるでこの世にたった1つだけ存在する至宝の如き翡翠の瞳を覗き込むのが好きだった。この書斎の中で静かに本を読む彼の無機質な瞳をただぼんやりと見上げる時間が、落ち着く時間だった。
その当時は極めて普通の日常であったそれが、どれ程幸せな空間だったのか、人は漸く理解するのだ。
失う時になって、はじめて。
「レーネ」
「はい、ちちうえ」
「お前とアンリは、私と妻の誇りだ。アストラの美しい紅茶色の髪と、私の翡翠の瞳を受け継いでくれた、フォーサイスの愛し子。アンリと共に、絶え間ない努力をした。本当に誇りだ」
うつむく。すると、顎を掬い上げられた。翡翠が、微笑む。
「でもッ、結果は、こんな……」
「結果は関係ない。お前が一心に努力した。それが何より大切なことだ。」
私は努力が苦手だから、お前達がアストラに似てくれて良かった。そうお茶目に呟く彼に、母上がクスクスと気品に溢れる笑い声を上げる。父上は「お上手ですこと」と頬を染める彼女の唇に優しい口付けを落とした。
昔から、両親の愛し合う姿を見る度「よそでやれ」と眉を顰めたが。これも、今日でさいごなのだ。
思わずぐしゃりと顔を歪め、母の肩に顔を埋める。すると、父上が穏やかな書斎の空気を変える様に息を吐いた。途端、ピリッと空間が引き締まる。
俺はゆっくりと名残惜しむように彼等から離れると、1歩分ーーしかし、一生届かない距離に、移動した。
「私はどの道病に侵されている。あと十年も持たないだろう。当主の座はしっかりとアンリに譲り、お前とも話す事が出来た」
「母は旦那様のそばで、いつまでも愛し支えるのです。レーネもアンリも、立派に育ってくれましたからーー」
最期を息子に飾ってもらえるのならば、これ以上の幸せはない。
そう、真っ直ぐに向かい合う俺を見据えて口を揃える彼等は、ずっと変わらず気丈で美しい。そんな彼等が眩しくて、目を細めて唇を噛む。握り締めていた手が、ガタガタと異様に震えた。
さいごの安寧の地すら、俺は自分で壊すのだ。ただ余生を楽しんで生きるだけの罪のない両親を、この手で殺すのだ。イリアス様、見ていますか。俺、親を殺すんですよ。第1部隊隊長がそうしたように、俺も、貴方の為に全てを捧げるんですよ。いい加減、しんじてくれよ。
流れる涙をあいている方の手で乱暴に拭い、前を向く。
「理想の世界を、ちちうえとははうえに、見せて差し上げたかった」
「もっと、一緒の時間を過ごしたかった」
「だいすきですッ、あいしていますッ…。貴方方が、両親でなければ…俺は、きっと頑張れなかった」
途切れ途切れに、それでも必死に言葉を続ける。愛する両親は、それはそれは嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。それでも、もう抱きしめる事はない。優しく頬に口付ける事はない。
俺は1度大きく震える息を吸いこみ、己を落ち着ける様に何度も頷く。落ち着け、落ち着けよ。俺。
「がんばります。まだ、頑張れる」
「……えぇ、貴方なら成し遂げられる。母は、もうレーネを止めはいたしません。貴方が自分で決め、自分で生きると決めたのならば、母は見守りましょう。親として」
凛とした美しい声が、心地よく俺の耳を揺らす。ただただ無条件に俺を想ってくれていると分かる母の言葉が、確かな愛として俺に染み込んでいく。
そんな俺と母上を無言のまま見つめていた父上も、こくりと小さく頷いた。そして、息を吐く。俺も静かに目を伏せた。
外に、沢山の人の気配がする。革命軍か保守派の騎士か。ーー何方にせよ、邪魔はさせない。
「此処では本が汚れてしまう。庭に出ようか。ーーそうだ、湖がいい」
思い出の地だ。
第1部隊に籍を置く騎士は、憐れな第3部隊隊長が彼の両親を殺す事なく部屋を出てきた瞬間、警戒した様に剣を構えた。真逆今更第1王子殿下に逆らうとは思っていなかったが、条件反射で。しかし、憐れな青年はそんな騎士の男を濁り切った翡翠で一瞥だけすると、すい、と視線を逸らして横を通り過ぎてしまう。思わず狼狽えた様に道を譲ると、直ぐに彼の両親が騎士には目もくれる事なく彼の後をついていった。男達も慌てたようにその後を追う。
一時は社交会の王とまで謳われたセダム・フォーサイス。そして王の腹違いの末妹に当たるアストランティア・フォーサイス。彼等はまるで男達など見えていないかのように青年の背中を微笑んで見つめていた。
「ーー本当にいいのか。息子だろう」
今から殺されに行くとは到底思えない程冷静沈着な彼等の様子に、騎士の男は思わず隣に立ち、ボソリと呟くように問いかけてしまう。すると、美しい男女は俄かに目を見張った後、微かに慈愛の笑みを浮かべて青年を見つめ、そして問いかけた男を塵芥を見つけたかのように冷徹に見下ろした。ぞわりと背筋が伸びる。
セダム・フォーサイスはそのままするりと目を逸らして青年を見つめ、代わりとばかりにアストランティア・フォーサイスが小さく唇を震わせた。
その美しい唇から放たれる恐ろしい口撃に、男は息を呑んだ。
「どの口が仰るの?散々愛息子を傷つけて置いて今更改心でも為さるおつもり?」
「それはーー」
思わず口籠もり、目を泳がせる。隣で明らかな嘲笑が聞こえた。
「いけませんわ。わたくし、レーネを蝕む契約さえなければ今直ぐにでも貴方方の首を斬り落として晒したいくらいですのに」
「アストラ。下賤の者に君の声を聞かせる必要はない」
「まぁ、うふふ、失礼しました」
未だ男に一瞥もくれないまま、淑女の腰を優しく掴んで引き寄せた男。彼は、ただ一心に己の息子を見つめたまま、静謐に微笑んだ。
「そこな男達も、すでに理解している事だろう」
ああ、なんたってさっき、息子さんに言われたばかりだからな。ーーなんて言い返す事は出来ないまま、小心者の騎士達は顔を赤らめるだけだった。
皆で馬に乗り、懐かしい湖に辿り着く。随分昔に訪れたきりだったそこは、相変わらずキラキラと美しく輝き豊かな魔力を放っている。湖の辺りでヴィオラの足を止めて地面に降り立つと、彼女はブルルッと小さく唸って俺を慰めてくれた。……お前には、嫌なところばかり見せるね。
そうしている間に父上が母上を共乗りしていた馬から下ろし、2人仲良く手を繋いで湖へと近付いていく。微笑み合いながら談笑をする両親は、まるで1枚の絵画のように美しくて。俺は、目を細めた。
すれ違いざま、母上がもう1度俺の身体を優しく抱きしめ、頬に口付けてくれる。そして俺の両頬を繊細に包み込み、その薄紫を瞬かせた。ゆらゆらと揺れているが、感情が溢れる事はない。
なんて、強いのだろう。
「貴方の渇いた心を潤してくれる湖のような人間が、たくさんいたのですね」
「私とアストラは、いつまでもお前を愛している。お前が何をしようと何になろうと、お前を愛している」
そういった父上と、母上が、俺に背を向ける。
真っ直ぐと湖に、向かう。そこのみえない、ところに。
「ーーーっ、ぅ、うう、ぁ…ははうえ、ちちうえぇッ…」
両手で顔を覆う。ぐしゃぐしゃになった声で、呻く。でも、もう彼等は俺の声の届かないところに行ってしまった。
前のめりに俯くと、草の上にぼたぼたと大粒の雨が落ちていく。
まだ、ないちゃだめだろ、おれ。
「おれ、も、あいし"てますッ"」
世界がここだけ閉ざされたかのようだ。
手を組み合わせるように繋ぎ合った2人は、お互いだけを見つめて微笑み合っている。まるで俺や騎士の姿など見えていないかのように、言葉を、口付けを交わしている。
これは、俺への優しさだ。彼等は望んで逝くのだと、俺を慰めているのだ。俺の心が、ほんのわずかでも軽くなるようにと願って。
ブツンと、唇が切れた。
「さぁ、美しい魔法を見せて頂戴な!」
集中しろ。愛する両親の最期を美しく飾れ。誰よりも美しい彼等を、さらに美しく。泣くな泣くななくななくな。
おれにはそれができるだろう。大丈夫だ。湖の底にはきっと、理想の世界がある。
ああ、かみさま、できることなら時をとめてくれ。
「は、っ、ぐ、ぅ…ッ…ちちうえ、ははうえッ"」
それができないならどうか、かれらをこんどこそ、りそうきょうに。おねがいします、かみさま。
「ーーーーッ、ッ『つらぬけ』!!」
ドスッーーと、いっそ軽すぎる音を立てて、何処までも美しい彼らの首に、風の矢が突き刺さる。風が、傷口を巻き上げて首を吹き飛ばす。
彼らの首が、湖に。かれらのからだが、みずうみに。
だいじょうぶ。血も、身体も、頭も、全てのこらず湖のそこへとおくったから。お願い。今度こそ、しあわせになって。
身体から力が抜ける。耳元で叫ぶ人の声が聞こえるけれど。ずっとぶくぶくと気泡が浮かんでいる。
ああ、あたまがいたい。からだがいたい。こころが。ぐしゃぐしゃとかき回してみても、止まらない。血が、ちを、みないと、。
「……ーーーーー~~~~~~!!!!!!!」
突き刺す。何度も、何度も、何度も。今くらい、自分をきずつけても、いいだろう?ねぇナヨンごめんね。散々言ったのに、俺がまた裏切っちゃったね。ごめん。でももう、つらくって。ごめんね。ごめんね。
ねぇ、だれかほめて。おれ、がんばってるでしょう。ねぇ褒めてよ、ほめて、ねぇねぇほめて。
おほしさまはどこ?ーーーー………?
「……かあさまーー?とおさまーーー?」
おかしいな。いっつもなら、直ぐに駆け付けてくれるのに。誰かに抱き締められるような感覚。でも、あったかくならないなぁ。
「ねぇとうさま、かあさま、でてきて?ーーー」
泡が、きえた。
「…………あ、そっか。おれがーーーー」
そりゃあ、褒められないね。あはは。
もう早く終わってくれ。何もかも。
ーーーーーーーーーーーーーー
セダム・フォーサイス(ー)
レーネの父。物静かだが、家族愛がすごい。本当は駆け寄ってあげたかった。
アストランティア・フォーサイス(ー)
レーネの母。空想と物語の世界を希求する。さいごはセダムの胸で泣いていた。
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