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黒字への道
テンプラ
●
七月のサラダとクラフトビールフェア、そして八月の納涼フェアに向け動いている。
遠方の豆腐屋にサンプルとして幾つか通販購入。その間に近場の豆腐屋で購入した物を味見。内の一つに面白い物があってので流用してみた。
当たり前のことをやっても面白くないし、成長しないからだ。
「このテリーヌって兄貴が作ったの?」
「こないだ豊が置いてった業務用レアチーズケーキがあったろ? それと豆腐を足して仕上げてみた」
用意したのはテリーヌ状のレアチーズケーキだ。
テリーヌというのは四角い器に色々な食材を練って入れて焼く料理。食材次第で前菜にも菓子にもなる料理である。豆腐は豆腐で味気ないが、色々な料理になる存在でもある。
今回はレアチーズケーキを作ってみたのだが、案外うまくいったようだ。
「近くの豆腐屋で仕入れたやつなんだが、ちょいと味が薄いのを逆用した」
「時短レシピかつヘルシーって感じ? ……まったく。経験の差って嫌になるわね」
美琴は素直に感心するがレシピを参考にしただけである。
そういう意味では立役者は素人の奥様だろう。もちろん健が不倫しているという訳ではなく、最近は奥様やお母さんたちが機転を利かせて作成した傑作のレシピがネットに溢れているのだ。健はそれを料理人の腕で再現し、手直しできるところは手直しをてみたに過ぎない。
もっとも美琴がアンテナが低いわけではないので、気がついていてアレンジの腕の事を言っている可能性もあった。
「せっかくだからいただくとして、他になんか面白いコツとかある?」
「そうだなあ。コーヒーとのバランスとかはお前に教えるまでも無いだろうし……。ああ、そうだ。習った知識が入り口でしかないという例で、酒に合わせる味の強さや香辛料の話な」
この日に淹れたコーヒーは最近試している専門店で発注したものだ。
試していると言ってもお客が頼むレベルで、豊が言ったように深煎り浅煎りや酸味の強弱を試しているだけだ。どうせリラックスする為に飲むなら、実験もやっておこうという算段である。
流石にエスプレッソ・マシーンなど用意してないが、多少は凝れるものだ。
「酒を呑む人には濃い味でってやつでしょ? さすがにそのくらいは知ってるわよ」
「それはそうなんだが、金科玉条にやるのは良くないって話な」
話を聞いた美琴は肩をすくめ、それを見た健も肩をすくめ返す。
呑み屋では基本であり、料理学校でも教えてくれるところは教えてくれる基礎知識だ。酒を呑むと味の濃いものが欲しくなるのと、舌がアルコールで鈍る為に、少し強めで味付けしろと言われることになる。
だが、それを定例通りやったのでは問題が出ることもあるという。
「例えば寿司のワサビを強くしたとして、酒を後回しにして食べ始めたらどうなる?」
「そりゃワサビの盛り方次第じゃ大変な事になると思うけど、対処するのは難しいんじゃない?」
誰かが考案した正当例は、あくまで最適解に過ぎない。
酒を呑むと思ってワサビの分量を増やしたとして、常に先を第一に呑むとは限らない。その状態を適正と見誤った場合、酒を呑まずに普通に食べられると強烈な刺激を与えてしまう。場合によっては気に喰わない相手にワザと盛ったと思われかねなかった。だがそんなことを予想しろというのは難しい話だ。何しろ居酒屋には酒を呑みに来る訳だし、まず酒を呑まないなど想像しようがない。
だから経験的に判断するしかないし、可能であれば誘導する手法を用いるべきだろう。
「例えばお通しを出して最初の料理を出す前に、右左どちらが利き腕か確認する。その上で利き手の側から、徐々にワサビの盛り方を増やしていくんだ。昔の江戸前ならそんな事をしなくても白身から味の濃い魚になっていくセオリーだから、誘導しなくても途中で呑むだろうけどな」
「なるほどねえ」
もちろん一例だし、先にお酒を呑むなら気を使う必要もない。
とはいえここではコツという物があるというのを教えたわけで、話の入り口としては十分だろう。
まさしく茶話ということだ。
「他には? 料理の方が聞きたいかな」
「うーん。……居酒屋に栄養を取りに来る客はいないからな。味と見栄えを重視する為に、全ての材料をそのまま使わない手もあるというところか」
健はこの間、海老の処理に困っていた美琴の友人を思い出した。
あの日は結局、何とかなったがどうしても思いつかない場合は教えようかと思った裏技がある。美琴には少ないアルバイト代の穴埋めに、コツを教える事に成っていたので丁度良い。
もちろん海老以外にも使えるコツである。
「そのまま使わない?」
「ああ。煮物だと形が崩れることはよくあるし、魚介類は身が硬くなるなどダメになる物が多い。しかし素材という物は煮込めば煮込むほどに味は出るし、その辺は矛盾しない程度にバランスを見るわけだ。ならば全部を使わなければいい」
そういって冷蔵庫に向かい仕入れた素材に手を付けた。
この日に仕入れた中に海老もあるのだが、当然安値で探したので不揃いで小さい物が多い。テーブルの上に海老を出すとは『特大』エビフライを用意することにした。まず比較的大きいが形の悪い海老のガラを向いて下処理を行い、頭と尻尾は切り離すが残しておく。
そして小さい海老の中で形の良い物はアヒージョに、形の悪い物は二つに分けて下処理を行う。
「例えばこの海老で特大のエビフライを作るが、ここで『テンプラ』をやる」
「この場合は、誤魔化す方の『テンプラ』よね?」
天麩羅といえばフライと同じく衣を付けて揚げる美味しい料理だが……。
この場合は衣の暑さを増やして中身を誤魔化す手法のことである。天麩羅の衣に引っかけたネタなのだが、これを健オリジナルで味付けするのだ。
あしずめ特大エビフライの健スペシャルだろうか?
「この二つに分けた方の小エビは、片方を磨り潰して『テンプラ』の身にする。残りは形を残してぶつ切りにすることで、歯応えを残すという塩梅だ。成型肉ならぬ成型エビだな」
「うわっ。贅沢……っていう程でもないのか」
小さく歪な海老を磨り潰し、あるいはぶつ切りにして混ぜ合わせる。
そして割りと大きな海老の周囲に巻き込み、頭と尻尾を取り付ければ完成だ。次は、同じような造りだが最初に海老の身をギュっと握り潰して骨の様に縮めてしまった。さらに今度は海老の頭と尻尾だけを残し、全て練り物とブツ斬りで作り上げた大海老の本体がまるでない物を作り上げる。これで僅かにある大きな海老を使って、三種類のエビフライを作り上げてしまったのである。
それぞれに微妙に触感が違う為、普通に食べるだけでも楽しめるだろう。
「こいつはエビフライだからやらないが、天麩羅でやる場合は海老のすり身を煮込んで煮凝りを入れても良いな。すると味わいが強くなる」
「料亭じゃとても出せないだろうけど、なんかすごいわね……」
これも居酒屋では栄養なんか求めていないからこそできる技である。
もちろんエビの身を減らすこともできるだろうが、それがバレたら大変なのでやりはしない。一尾だろうが二尾だろうが400円で特大エビフライなんか出てくるはずもないが、完全な嘘はよろしくはあるまい。
この場合はすり身も海老だから許されるというわけだ。
「大量に作る煮物の場合は材料からやっても良いな。若鶏と老鶏という例えなら、美琴も過ぎに気が付くだろ?」
「そりゃね。老鶏を煮込んで濃い味を出して、肉は若鶏を後から入れるんでしょ」
ここまで来れば美琴にも想像は出来た。
老いた鳥獣で良い出汁は出るが身は固く食べ難いというのは良くある話だからである。だから老鶏で出汁を取り、若鶏を味わうのは理に叶っている。仮に先ほどの魚介で言えば、出し殻と乾物を袋に入れて煮出し、適度な所で新鮮な魚介を投入するという訳だ。
ある意味でラーメンのスープでガラとチャーシューは別物みたいなものだ。
「そういえば学生時代に、かき氷にフルーツをジュース状に入れて、一部を果肉のまま残したのを喰った事もあったな。あっちで例えれば良かったか」
「あったあった。イチゴとかマンゴあったわよね。あれも台湾式になるのかしら」
そんな事を言いながらこの日の営業に向けて仕込みに入ったのである。
七月のサラダとクラフトビールフェア、そして八月の納涼フェアに向け動いている。
遠方の豆腐屋にサンプルとして幾つか通販購入。その間に近場の豆腐屋で購入した物を味見。内の一つに面白い物があってので流用してみた。
当たり前のことをやっても面白くないし、成長しないからだ。
「このテリーヌって兄貴が作ったの?」
「こないだ豊が置いてった業務用レアチーズケーキがあったろ? それと豆腐を足して仕上げてみた」
用意したのはテリーヌ状のレアチーズケーキだ。
テリーヌというのは四角い器に色々な食材を練って入れて焼く料理。食材次第で前菜にも菓子にもなる料理である。豆腐は豆腐で味気ないが、色々な料理になる存在でもある。
今回はレアチーズケーキを作ってみたのだが、案外うまくいったようだ。
「近くの豆腐屋で仕入れたやつなんだが、ちょいと味が薄いのを逆用した」
「時短レシピかつヘルシーって感じ? ……まったく。経験の差って嫌になるわね」
美琴は素直に感心するがレシピを参考にしただけである。
そういう意味では立役者は素人の奥様だろう。もちろん健が不倫しているという訳ではなく、最近は奥様やお母さんたちが機転を利かせて作成した傑作のレシピがネットに溢れているのだ。健はそれを料理人の腕で再現し、手直しできるところは手直しをてみたに過ぎない。
もっとも美琴がアンテナが低いわけではないので、気がついていてアレンジの腕の事を言っている可能性もあった。
「せっかくだからいただくとして、他になんか面白いコツとかある?」
「そうだなあ。コーヒーとのバランスとかはお前に教えるまでも無いだろうし……。ああ、そうだ。習った知識が入り口でしかないという例で、酒に合わせる味の強さや香辛料の話な」
この日に淹れたコーヒーは最近試している専門店で発注したものだ。
試していると言ってもお客が頼むレベルで、豊が言ったように深煎り浅煎りや酸味の強弱を試しているだけだ。どうせリラックスする為に飲むなら、実験もやっておこうという算段である。
流石にエスプレッソ・マシーンなど用意してないが、多少は凝れるものだ。
「酒を呑む人には濃い味でってやつでしょ? さすがにそのくらいは知ってるわよ」
「それはそうなんだが、金科玉条にやるのは良くないって話な」
話を聞いた美琴は肩をすくめ、それを見た健も肩をすくめ返す。
呑み屋では基本であり、料理学校でも教えてくれるところは教えてくれる基礎知識だ。酒を呑むと味の濃いものが欲しくなるのと、舌がアルコールで鈍る為に、少し強めで味付けしろと言われることになる。
だが、それを定例通りやったのでは問題が出ることもあるという。
「例えば寿司のワサビを強くしたとして、酒を後回しにして食べ始めたらどうなる?」
「そりゃワサビの盛り方次第じゃ大変な事になると思うけど、対処するのは難しいんじゃない?」
誰かが考案した正当例は、あくまで最適解に過ぎない。
酒を呑むと思ってワサビの分量を増やしたとして、常に先を第一に呑むとは限らない。その状態を適正と見誤った場合、酒を呑まずに普通に食べられると強烈な刺激を与えてしまう。場合によっては気に喰わない相手にワザと盛ったと思われかねなかった。だがそんなことを予想しろというのは難しい話だ。何しろ居酒屋には酒を呑みに来る訳だし、まず酒を呑まないなど想像しようがない。
だから経験的に判断するしかないし、可能であれば誘導する手法を用いるべきだろう。
「例えばお通しを出して最初の料理を出す前に、右左どちらが利き腕か確認する。その上で利き手の側から、徐々にワサビの盛り方を増やしていくんだ。昔の江戸前ならそんな事をしなくても白身から味の濃い魚になっていくセオリーだから、誘導しなくても途中で呑むだろうけどな」
「なるほどねえ」
もちろん一例だし、先にお酒を呑むなら気を使う必要もない。
とはいえここではコツという物があるというのを教えたわけで、話の入り口としては十分だろう。
まさしく茶話ということだ。
「他には? 料理の方が聞きたいかな」
「うーん。……居酒屋に栄養を取りに来る客はいないからな。味と見栄えを重視する為に、全ての材料をそのまま使わない手もあるというところか」
健はこの間、海老の処理に困っていた美琴の友人を思い出した。
あの日は結局、何とかなったがどうしても思いつかない場合は教えようかと思った裏技がある。美琴には少ないアルバイト代の穴埋めに、コツを教える事に成っていたので丁度良い。
もちろん海老以外にも使えるコツである。
「そのまま使わない?」
「ああ。煮物だと形が崩れることはよくあるし、魚介類は身が硬くなるなどダメになる物が多い。しかし素材という物は煮込めば煮込むほどに味は出るし、その辺は矛盾しない程度にバランスを見るわけだ。ならば全部を使わなければいい」
そういって冷蔵庫に向かい仕入れた素材に手を付けた。
この日に仕入れた中に海老もあるのだが、当然安値で探したので不揃いで小さい物が多い。テーブルの上に海老を出すとは『特大』エビフライを用意することにした。まず比較的大きいが形の悪い海老のガラを向いて下処理を行い、頭と尻尾は切り離すが残しておく。
そして小さい海老の中で形の良い物はアヒージョに、形の悪い物は二つに分けて下処理を行う。
「例えばこの海老で特大のエビフライを作るが、ここで『テンプラ』をやる」
「この場合は、誤魔化す方の『テンプラ』よね?」
天麩羅といえばフライと同じく衣を付けて揚げる美味しい料理だが……。
この場合は衣の暑さを増やして中身を誤魔化す手法のことである。天麩羅の衣に引っかけたネタなのだが、これを健オリジナルで味付けするのだ。
あしずめ特大エビフライの健スペシャルだろうか?
「この二つに分けた方の小エビは、片方を磨り潰して『テンプラ』の身にする。残りは形を残してぶつ切りにすることで、歯応えを残すという塩梅だ。成型肉ならぬ成型エビだな」
「うわっ。贅沢……っていう程でもないのか」
小さく歪な海老を磨り潰し、あるいはぶつ切りにして混ぜ合わせる。
そして割りと大きな海老の周囲に巻き込み、頭と尻尾を取り付ければ完成だ。次は、同じような造りだが最初に海老の身をギュっと握り潰して骨の様に縮めてしまった。さらに今度は海老の頭と尻尾だけを残し、全て練り物とブツ斬りで作り上げた大海老の本体がまるでない物を作り上げる。これで僅かにある大きな海老を使って、三種類のエビフライを作り上げてしまったのである。
それぞれに微妙に触感が違う為、普通に食べるだけでも楽しめるだろう。
「こいつはエビフライだからやらないが、天麩羅でやる場合は海老のすり身を煮込んで煮凝りを入れても良いな。すると味わいが強くなる」
「料亭じゃとても出せないだろうけど、なんかすごいわね……」
これも居酒屋では栄養なんか求めていないからこそできる技である。
もちろんエビの身を減らすこともできるだろうが、それがバレたら大変なのでやりはしない。一尾だろうが二尾だろうが400円で特大エビフライなんか出てくるはずもないが、完全な嘘はよろしくはあるまい。
この場合はすり身も海老だから許されるというわけだ。
「大量に作る煮物の場合は材料からやっても良いな。若鶏と老鶏という例えなら、美琴も過ぎに気が付くだろ?」
「そりゃね。老鶏を煮込んで濃い味を出して、肉は若鶏を後から入れるんでしょ」
ここまで来れば美琴にも想像は出来た。
老いた鳥獣で良い出汁は出るが身は固く食べ難いというのは良くある話だからである。だから老鶏で出汁を取り、若鶏を味わうのは理に叶っている。仮に先ほどの魚介で言えば、出し殻と乾物を袋に入れて煮出し、適度な所で新鮮な魚介を投入するという訳だ。
ある意味でラーメンのスープでガラとチャーシューは別物みたいなものだ。
「そういえば学生時代に、かき氷にフルーツをジュース状に入れて、一部を果肉のまま残したのを喰った事もあったな。あっちで例えれば良かったか」
「あったあった。イチゴとかマンゴあったわよね。あれも台湾式になるのかしら」
そんな事を言いながらこの日の営業に向けて仕込みに入ったのである。
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