ニエ

梅人

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ニエ

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 うちは特殊な家だから。母の口癖だった。誤りではない。亜代家は提供することを生業とする家だった。兄弟は五人いた。次男と三女はそれぞれある日やってきた誰かに連れられていき、母と祖母は床に手を着いて、彼らが去るまでそうしていた。長女は早くに嫁いでいった。祖母の指定する家へ、顔も知らない者の家へ嫁いでいった。
「これでうちは安泰だわ。亜代の血は途切れない」
 母はそう言って安堵していた。末の弟は病弱だったこともあり、三歳のある日に亡くなった。母は何も言わなかった。
 長男は気付いていた。この家が、誰かに子どもを売ることを生業としていることに。それでも何も言わなかった。言ったところで、母親の悲しむ顔を見るのが嫌だった。普段から悲壮感のある顔をしている母が、これ以上悲しんでしまうのは避けたかった。子ども心ながらにも、それはあまり良い気分のするものではなかった。
「さあ、遊びましょう」
 そんな母が笑うときがあった。母はゲームをひどく好んでいた。何種類かある古いボードゲームを持ってきては、日がな一日長男と遊ぶのが好きだった。彼が勝つと母は笑い、彼が負けると母はいたく悲しんだ。母は強かったが長男は母に勝ち続け、やがて負けなくなっていた。
 そして長男の十五の誕生日。母は変わらぬやつれた表情で、彼を呼んだ。
「お前も、この日を迎えてしまった。これから一年で子を成しなさい。お前の妻は、もう来ているから」
 通された部屋には布団が敷かれ、少女がうつむき気味に座っていた。あまり生気のない、痩せた子だった。
 母は何も言わず、戸を締めた。
 どうして。なぜ。僕らは夫婦なのか。疑問は口にするだけバカバカしいと思えた。母もかつてはこうだったのだろうか……そう考えて、長男は頭を振った。
「子を成して欲しい。すまない」
「いえ」か細い声だった。「わかってます。うちは特殊な家だから」
 母の声とだぶってすら聞こえた。長男は少女を組み敷いたが、何の抵抗も見られなかった。カカシの方がまだ元気だった。
 長男が湯浴みを終えて部屋へ戻ると、少女はひとりで盤面に向かっていた。「それは」長男が声をかけると、彼女は驚いてそれを自分の後ろへやった。
「隠さなくていい。遊ぼうか」
「でも、あの……これは、とと様が……私、強いから」
「大丈夫」
 しどろもどろになる少女の手をとり、長男は駒を置いた。
「母も強かった。負けないよ」
 長男の射抜くような瞳に、彼女は静かに、こくんと頷いた。
 半年後、妻は懐妊した。だが安堵する間もなく、長男の迎えがやってきていた。
「お前は神様のものになるのよ」
 母はそう言ったきり、玄関に額をついた。妻もまた、同じように隣で額を床についていた。
 やってきたそれは、深く帽子をかぶり、首まで覆うコートを羽織り、肌の一欠片も露出していなかった。思う以上に背は低く、長男の頭一つ分小柄だった。それは長男を連れて玄関を出ると、待っている木製の車に乗った。
 街は変わらなかった。陶器のように滑らかで白い街並み、白いマントを羽織った人々、穏やかなクリーム色の空。木々の葉は淡いミントグリーン。何も変わらない光景だった。
 カタカタと進む先には、高い塔が待っていた。先端はぼやけて見えないほど高いその塔の麓に車は止まった。降車して塔の鍵を開け、使者は長男を手招いた。
 中央の太い柱を舐めるように、螺旋階段がずっと上まで続いていた。使者が柱に手をかざすと、円柱状に埋め込まれていた扉は開き、中から暖かな光がこぼれ、彼らの足元を照らし出した。ふたりがその中へ入ると再び扉は閉まり、数秒間、微かな地震のように揺れた。
 そして扉は開かれた。目の覚めるような青い床の広がる空間には、幾何学形の大きな窓が不規則に並び、その中央には、何か巨大なものが座っていた。
 使者は再び柱の中へ入り、扉はその隙間すら幻のように消えてしまった。あとには巨大な何かと、長男だけが残された。
「……あなたが、神様ですか」
 長男は努めてゆっくりと唇を動かした。彼にはそれが何者なのか、わからなかった。生き物ではある。それだけだった。
 人間よりも背骨が多く、腕も脚も首も長かった。脇腹からもさらに腕が二対、床に手のひらをつけて体を支えていた。脚は硬い黒色の毛で覆われ、足の指は三本、爪は何層にも重なった鱗のようだった。髪は黒黒として長く、部屋のなかを引きずっていた。頭頂部と思わしき箇所には一対の枯れ枝が刺さっており、よく見ればそれはその地肌から生えていた。人間に似た奇っ怪な何か。それはゆっくりと頭をあげ、長男をその目で見た。
 花が開くように、その複数の目は次々とまぶたをあげていった。本来あるべき場所にふたつ、その下にふたつ、額には縦にみっつ扇状に並んでいた。青い目、赤い目、緑の目、黄色の目、それぞれがじっと、彼を見つめていた。
「ああ」生気のない感嘆だった。薄い唇を開き、それは男とも女ともとれる低い声で言った。「亜代の家の者。お前にまず、名を与えよう」
 腕の一本が動き、尖った爪先で長男の額を押した。
「ニエ。私はタマムシ。タマムシと、呼びなさい」
「はい。タマムシ」
「そう、それでいい。お前は賢い子だね。他の者たちと違って喚かない」
 タマムシは爪先を長い舌で舐めとり、目を細めた。ニエの額からは一筋、血が滴り落ちていた。
 これが、神様。ニエの脳裏には母の顔が浮かんでいた。これが、崇めるもの。何をもたらしているのかも知らない、盲信の対象。ニエはともすれば、ひどく冷静に、タマムシを嫌悪していた。
「タマムシ。私をどうするつもりだ」
「喰う。私はお前の一族を延々喰うている。だからお前も喰う。代わりに、お前の母君には十分な褒賞を与えている。そういう契約だ」
「ならば、いつ喰う。今か。明日か」
「さあ……私の腹が空いたときだ。今はまだ、寝起きでな」
 タマムシは壁に貼り付けられたように造られた棚から箱を取り出し、ニエの前へと置いた。ここ半年は見ていなかった、懐かしいボードゲームの箱だった。
「さあ、遊ぼう。私に勝てるうちは喰わないでおこう。どうせ腹もまだ空かない。そしてお前は、利発な子だ」
 この化け物からは逃げられない。ニエは悟っていた。だからこそ、彼は凛としてタマムシへ告げた。
「私からも、条件がほしい。私が勝つたびに、私の質問に答えてくれないか」
「よろしい。お前は負けた次点で喰われるわけだ」
 タマムシはいくつもの目を細めた。七色に輝く瞳には、力強くそこに立つニエが映っていた。
 一局目。勝ったのはニエだった。運の要素がほとんどないゲームにおいて、ニエの打つ手は確実で、手堅く、切り崩しづらいものだった。タマムシもまたそれに肉薄する攻めの手を打っていたが、ニエの方が数枚上手だった。
 そっとタマムシの顔色を伺ったが、彼は陽の青い光を浴びながら、嬉しそうに笑った。口元からは尖った灰色の牙が覗いていた。
「強いな。ああ、良い。さあ、何が聞きたいのだ」
 ニエは内心安堵した。逆行して殺される可能性が頭をちらついていたのだ。
「あなたは神なのか」
 比較的簡単で、聞きたかったことをまず尋ねた。母の崇めるこの生き物が本当に神なのかどうか、確かめたかったのだ。
 タマムシは「そんなことか」と、半ば不服そうに呟いた。あからさまに不機嫌そうな彼は、盤上の駒をもとの位置に戻しながら語った。
「ああ。神だとも。彼ら地上の民がそう信じるうちは、神だ」
「なんの神だ。母はあなたに何を望んでいる」
「ふたつめだな。そう生き急ぐな。時間はたっぷりある」
 駒は再度並べられた。タマムシは「さあ」と、ニエに最初の一手を促した。
 それからもニエは勝ち続けた。そしてタマムシへ問い続けた。彼はときにはぐらかすようなことを吹聴し、また、ときに真摯に答えていた。
 タマムシは何の神かは自分でも知らないのだと語った。年も生まれも知らず、気付いたときからここにいて、とある少女が持ってきたゲームに心奪われたのだと笑った。使者たちは相手にならず、来る者来る者を喰らう前に勝負を挑んでは勝ってきたことを、タマムシはどこか悲しげに語った。
「私の兄妹も、その中にいるのか」
 ニエが震えを抑えて尋ねたとき、タマムシは少し間を置き、腕の一本で腹をさすった。
「ああ。喰ったよ。たくさん泣いて、怯えて、逃げようとした」
 ニエは何も答えなかった。静かな空間に、またひとつ、駒を置く音がした。
「お前はどう生きてきたのだ」
 何十回目かの勝負のあと、タマムシはふと窓の外を見つめ、ニエへ尋ねた。
「私は、普通に生きてきた。母に勉学を学び、祖母と、兄妹たちと、生きていた。半年前に子を成した。知らない女と、獣のように交わった。母の言いつけを、私は守った。言われたとおり、子を成せたのだ。そして今、ここにいる」
「名前も持たぬお前が「生きている」なんて、なぜ言えるのか……私にはわからない」タマムシは一手進めた。「それが幸福なのだとしても」
「神でもわからぬことがあるのか」ニエは応戦した。「神は万能だ。母はそう言っていた」
「万能。何も知らない、恩恵だってただのひとつしか受けていないのに、何が万能なのだ。理解しかねる」
 ニエは勝った。タマムシの愚痴めいた呟きは聞かないふりをした。ニエは既に、情が植わるほど柔らかな心など持ち合わせなかった。
 また、何十回も盤面越しに向かい合った。使者はニエの伸びた髭を剃り、衣服を替えさせた。ときたま部屋から連れ出し、風呂場にも連れて行った。そこには同じ格好の使者が数人おり、皆手分けしてニエの髪を洗い、体を清め、湯につけた。
「……あなたたちは、タマムシの何なのだ」
 彼らは答えなかった。だがそれは冷淡さからではなく、どうも驚いているようだった。最初に声が聴けたのは、三百回はタマムシと戦った後だった。
「わたし、たちは、従者です。タマムシ様に、拾われた、命です」
 ぼそぼそと喋る彼らは、ニエの体を擦りながら、口々に返答を投げ返してきた。まるで子どものように、会話のタイミングをまったく理解しないまま。
「タマムシ様は、素晴らしい方です。我々、を、見捨てない」
「タマムシ様は、畏れる神です」
「タマムシ様とこんなに、長く遊んだ、のは、あなたが初めてで、す」
「あなたは、タマムシ様の」
 ざばりと湯が頭からかけられ、その後の言葉は聞き取れなかった。彼らは何者なのか。
「彼らは私の拾い子、私の身の回りの世話をする者たち。こんなことが聞きたかったのか」
 タマムシは笑っていた。おかしいかとニエがはっきりと返すと、彼は目をぱちくりさせた。そうして、ゆっくりと目を伏せた。
「……まるでお前は、自分が死なない、負けないと思っているようだ。その指先までじっとりと脂汗に濡らすのに、それでも負けないと確信している。私のことを舐め腐っているわけではない。その汗は、自分への不信だ」
「何の話だ。今は、そんな話は」
「私そのものの話ではなく、従者の話なんてする余裕があるのだろう。余裕なんて微塵もないくせに、虚勢を張っている。それはお前の力であり、そうせざるを得なかった今までの蓄積だ」
 タマムシはその大きな爪先できちんと並べた盤へ指を伸ばし、一手打った。
「お前は、亜代の子だ。その血統を脈々と継ぎ、跡まで残した。務めを果たした今、なぜまだそうしてまで、生きようとする。泣いてもいい、叫んでもいい。ここにはお前を見つめる母はいない」
「知ったふうな口を利く。私は今も昔も、何も変わらない」
 カタン、カタンと、駒は盤上を飛んで戻る。そこに言葉がなくとも、彼らは対話していた。前回より打ち筋が弱い、攻めやすい、守りにくい、そんなところから今何を思っているのかを圧し図ろうとしていた。そうして終わってからようやく、ゆっくりと顔を上げ、口を開くのだった。
「お前には、父母はいないのか」
「……いないよ。家族など、私にはいない。自我が芽生えたときから、私はここにいる。前にも答えたはずだがね」
「それは……寂しくは、なかったのか」
「重ねて質問したいなら勝ちなさい」
 盤上は既に整頓されていた。ニエは一手を打った。
「寂しく、ないのか」
「ふふ。寂しくなんてないさ」
 タマムシは返す波のように一手打った。
「お前は、なぜこんなことをしている」
「特定の家の血を喰らう。これは契約だ。ただ喰うだけだとつまらないから、食前を楽しんでいる。これは遊戯だ」
 ニエは強く踏み込む一手を打った。
「だから、母にそうしろと……私にゲームを教えさせたのか」
「半分は合っている。が、私があれに教えたわけではない」
 タマムシは最後の一手をゆっくりと置いた。
「では、母はなぜ、私にこれを」
「あれは私の元から逃げきったただひとりの者だよ。私と今のお前と同じことをして、契約として勝ち取った」
 ニエはそっと、タマムシに勝利した。
「うちの他に、こんな家があるのか」
「ある。お前の家と併せて二軒。古来はタブーだったらしいがね、今となってはどうでもいい」
 また負けてしまった。タマムシはどこか喜びを覚えながら、隠すように微笑んだ。
「伸びたな」
 タマムシが呟くようにそう言うと、音もなく使者がやってきた。彼らは伸びっぱなしのニエの髪に櫛を入れてまとめてひっつめると、ついでと言わんばかりに食事を載せた盆を置いた。
 ニエが食事を始めると、タマムシは脇の四本の腕でおもむろに自身の髪をかきあげた。使者がフラフープのようになりながら運んできた髪留めの輪で器用に髪を結い、彼はにまにまと笑った。
「ふふふ。これで同じだな。俄然、負ける気がしない」
「私は勝つ。お前には負けない」
 負けない。負けてたまるか。負けたくない。
 ……負ければどうなる。喰われて終いだろう。そうすればまた、新しい餌がやってくる。次は自分の子か、妻か、母か。彼らは耐えきれるのだろうか。母など、逃げてきた身だというのに。
 いつまで続くのだろう。いつまで続けられるのだろう。
 いつ終わるのだろう。いつ終われるのだろう。
 タマムシは、何を望んでいるのだろう。遊ぶ相手を喰って、また遊んで、喰って、生きている。神とはそれで良いものなのだろうか。神とはそれで楽しいものなのだろうか。それこそよほど、生きているとは言えないのではないか。何をもって己の今を生とするのか。
「タマムシ様は、もうすぐ亡くなります」
 使者が少し流暢に話せるようになったある日の風呂場、ぼそぼそとした言葉の吐き合いのなかで、誰かが言った。それは波紋のように広がり、皆がそのことを口にし始めた。
「前よりも、よ、弱っておられます。瞳の光が失われつつ」
「体も、痩せてしまった」
「枯れ角に、ヒビ、が」
「どうか、どうか」
「頼みます」
「願います」
「あなたを」
「あなたを」
「どうか」

「タマムシ様に、与えて」

 使者たちの声は詰まり、嗚咽が漏れた。彼らはまるで泣いているように身を震わせながら、ニエの体を拭き、服を着せた。
 毎日見ているからなのだろう。ニエはタマムシの変化に気づかなかった。湯上がり後まじまじと見ると、確かにタマムシは幾分か痩せていた。七色に眩く輝いていた瞳はいつしか眩しさを失っていた。角はさらに乾き、黒黒として炭のようだった。
「どうした。私の顔に、何かついているのか」
 どことなく嬉しそうにそう言うタマムシに、ニエはゆっくりと歩み寄った。
 タマムシの手は、ニエの頭から腰まで覆ってしまうほどに大きく、骨ばっていた。その指の一本に恭しく触れると、ニエはタマムシを見上げて言った。
「なぜ喰わない。弱っているのだろう。使者たちが、皆心配している」
「……なぜ、とは」
「私と遊ぶことなんてやめにして、最初から喰ってしまえば良かった。神にとっては、痩せこけてまで我慢することなのか」
 タマムシはふっと笑みをこぼした。別の腕を伸ばし、指先でニエの頭をぐりぐりと撫でた。
「餌がそんなことを考えるな。お前はもう逃げられない。どこへも行けない。私に食べられる道しかない。そんな者が捕食者の心配など、滑稽だ」
「……お前も、どこにも行けないだろう」
 低く呟くと、ニエはタマムシを射抜くように見つめた。その体格差も、異様さも、すべて度外視して食ってかかった。
「捕食者と被食者だ、だがお前だって私と同じだ! どこへだって行けない、ただ与えられる餌を待つ、家畜とすら同じだ! 私達は互いに変わらない生き物だ!」
「だから心配している。使者の気持ちを己の母にでも重ねたのか? 滑稽だ、滑稽だよ」
「笑うな。あんなに悲しめる人を残して弱るな」
「ふふふ。叶えたいなら、雄弁に語るな。お前にできることはそれに非ず」
 タマムシはニエを掴んで離し、ゲーム盤をその間に置いた。
「さあ、打ってご覧」
 ニエは答えず、代わりに初めの一手を打った。
 タマムシは、使者に言われずともわかるほど、日に日に弱っていった。肌にはシワが寄り、目はさらに光を失い、半ば夢の中にいるように動作も鈍くなっていた。体を支えるのも億劫になったらしく、横たわったままゲームをすることが増えていった。
 ニエは勝利してももはや何も尋ねなかった。聞いたところで何にもならないと、諦観していた。使者たちと触れ合う悲哀に満ちた時間が、家にいたあのときのようで、ニエはたまらなく苦しんでいた。
 負けたくない。それは変わらない。自分が持ち得る唯一の自我だった。
 だが、食べられたくないとは思わなかった。すぐにでも食われてしまって構わない。命など、惜しくはない。それよりも悲しくつらいのは、残される者たちの境遇だった。
 
「タマムシ」
 そしてその日はやってきた。家で過ごしたときよりも、ここで過ごした日々の方がもはや長かった。すっかり青年となったニエは、眼前で倒れ伏すタマムシの名を呼んだ。
「タマムシ。起きろ」
 タマムシは返事をしなかった。駒ひとつ、進めなかった。擦り切れて表面が鞣された駒は転がり、駒の裏と擦れ続けて薄くなった盤はひっくり返されていた。
 使者は後方で固まり、頭を垂れていた。ニエは彼へ駆け寄り、頬を叩いた。
「タマムシ。タマムシ」
 閉じた瞼から、光はか細く漏れていた。ニエはためらわず、使者たちを集めた。
「僕を殺せ」
 使者たちはざわついた。首を横に振る者、困惑して動けなくなる者、早くやろうと急く者、皆様々だった。ニエは再度、口早に言った。
「僕を殺せ。タマムシへ捧げろ。どうすれば良い」
 使者たちは互いに話し合い、やがて、首を横に振った。怯えるように二歩、三歩下がり、そして小さな声で言った。
「あなたまで、失ってしまいます……」
 漣のような声は泣き声に変わり、使者たちは下がっていった。彼らは苦しんでいた。悲しんでいた。葛藤していた。
 数秒もなかった。ニエは覚悟した。刹那に、母が、妻が、兄妹が、祖母が、脳裏に浮かんでは消えていった。
「手伝ってくれ」
 ニエはタマムシの乾いた唇に触れ、無理やり口をこじ開けた。使者たちは慌ててニエの脇を支えた。彼はタマムシの緩く開いた歯の間に体を滑り込ませ、手と足の裏で踏ん張り、無理やりに開かせた。
「もういい。ありがとう」ニエは使者たちへ、初めて笑いかけた。「次の誰かにも、優しくしてやってくれ」
 不思議と恐怖はなかった。早くしなければ、急がないと。そればかりが頭を占めていた。
 死んでもいいと思えたのは、この使者たちのせいなのだろうか。いや、それだけではない。
 ニエは笑っていた。
「崇高で、孤独で、愛らしい神よ。贄を喰え。そして、孤独なまま生き長らえろ。お前を崇拝する者がいる。お前を慕う者がいる。僕はその礎に甘んじてやる。お前は神だ、生きねばならない」
 タマムシの歯は鋭く、こじ開けたニエの手のひらはナイフで撫でたようにすっぱりと切れていた。その血は腕を伝ってタマムシの舌へ落ち、味蕾の奥へ染み込んだ。
 覚醒。ぱしゃんと、音がした。
 神の顎は正確に閉じ、何度も何度も、咀嚼を繰り返した。薄まった目には光が戻り、肌は若返り、角はみしみしと軋んで広がった。
 ごくん。神は飲み込んだ。口の端からは、一筋の赤い雫が垂れていた。
「……なぜ」
 気づけば、タマムシは駒を並べ始めていた。対戦者はもうおらず、静寂が重く満ちていた。
「なぜ。ニエ。お前は。なぜ……」
 タマムシは思考を整理しようと呟き続けた。
「負けないまま、喰われてしまうなど。神との契約を、違反するなど……」
 タマムシは口を拭わなかった。赤い雫は床に落ちると、止めるものもいないまま、じわじわと広がっていった。
 タマムシは駒を並べ終えた。そこには誰もいなかった。

 ある日、それはやってきた。利発そうな女の子。意思の固そうな、強い目つきをしていた。その子はタマムシを見ても驚かず、じっと、彼を見つめていた。
「ああ」
 タマムシは感嘆の声を漏らした。そうか。この子は。彼は目を細めて微笑んだ。
「亜代の家の者。お前にまず、名を与えよう」
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