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第13章 歌うたい
歌うたい
しおりを挟む慶長十三年(一六〇八年)、養父の木下家定が死去し、勝俊には高台院(おね)の計らいによって遺領(備中国足守二万五千石)が安堵された。ところが、その遺領を勝俊びいきの高台院は勝俊の他の兄弟へ分配せず、勝俊一人に与えた。
それが、徳川家康の怒りを買い、再び勝俊は得た領地を失った。
このときの高台院の嘆きようは、まわりが見ていられないほどだったという。
その後、高台院の庇護の元、京の東山、彼女が住まう高台寺の南隣りに挙白堂を営み、隠棲して和歌を読み暮らした。名も長嘯子(ちょうしょうし)と改めた。勝俊、隠遁の際にこんな和歌を詠んでいる。
よしあしを人の心に任せつつ そらうそぶきてわたる世の中
(ことの良し悪しは他人に任せて、そらとぼけて私は世を渡ってゆくさ)
とことん人を食った歌である。
隠居の身のくせ、梅の言いつけを律儀に守り、勝俊は新しい女を得、女児を一人なした。もっとも、――妻は生涯、梅ただ一人――と思っていたのか、その女とは共住みすることはなかったという。
一方、梅は尼になり、津山の森家に移った後も、死ぬまで勝俊と書状のやり取りを続け、歌を贈りあった。
元和八年(一六二二年)四月半ば、ちょうど桜満開の季節、梅は京都でその生涯を閉じた。死ぬ数ヵ月に京に上りながらも、最後まで勝俊には会わなかったという。
梅の出家名を「宝泉院」(ほうせんいん)という。離縁の際に勝俊が書き贈ったものである。やはり勝俊にとっての真の宝物は、大名物の靱肩衝などではなく、別れた後も詩の源泉として生き続けた梅であったということか。
梅の死後も勝俊は生き続けた。
歌を通じて伊達政宗らの有力大名や冷泉家などの公家衆、さらには春日局といった江戸幕府の要人とも交流を持った。高台院の没後は経済的に困窮し、東山を離れたが、それでも京を離れることはなかった。
勝俊の隠遁生活は四十年にわたり、一六四九年(慶安二年)、八一歳で亡くなった。
勝俊、辞世の和歌にこう歌う。
「露の身の消えても消えぬ置き所 草葉のほかにまたもありけり」
死んだ後に勝俊は草葉の陰ではなく、どっさりと和歌を抱えて、桃源郷に行ったらしい。
了
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