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第一部 空の城
第7章 月光の森(1/5)
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木々のすき間からもれてくるわずかな月の光を頼りに、ふたつの足音が森の中を駆けていました。先を走るほうは、道無き道をものともせず力強く。手を引かれてあとからついてくるほうは、一歩ごとつまずきそうにおぼつかなく。やがて、引っ張られているほうは、つかまれているその華奢な腕を振りほどこうと、懸命にもがきながら前を走る青年の名を呼びました。
「クラウス、クラウス!」
よく通る澄んだ、しかし、必死な少女の声を聞いて、青年はすぐに立ち止まり手を放しました。
「もう……走れないわ」
少女は息を切らしながら、つかまれていた手首をさすりました。たしかに、袖の広がったきらびやかなドレスも、かかとの高い靴も、森の中を走ることに適しているようには見えません。
「追っ手はすぐそこまで迫っております。どうかもう一息頑張ってください」
クラウスと呼ばれた青年は、自分たちの身体を隠すようにすぐそばの茂みに身をよせると、片膝を着き少女に訴えかけました。
「わたしはもう無理……あなただけでも逃げて」
「ユイカーナ様……」
青年は不安と疲労で蒼白くなった少女の顔をのぞき込みました。
「私ひとりが生きのびても、まったく意味がないのです」
少女はその言葉の意味を理解しているようで、うつむいて長い金髪を左右に振りました。
「みんな……やられてしまったの?」
つい先ほど起きた惨劇を思い返して、少女の顔はさらに蒼くなりました。
「おそらく……」
「あんな山賊ごときに……」
「お言葉ですが、ユイカーナ様。あなたの兵は、たとえ数で劣っていても山賊などに遅れをとったりはしません」
すべてを聞かなくても、少女には青年の言いたいことがわかりました。つまり山賊の格好をしてはいるが、中身は訓練された兵士であると。
ふたりの脳裏には、ある老人の顔が浮かんでいました。
「ヘンゲンの仕業であると?」
「証拠はありませんが、根拠は十分すぎるほどあります」
それならば、少女の姿を見失ったからといって、途中であきらめたりはしないだろう。ここでなんとしてもその命を奪うことが目的なのだから。
青年は背を向けてしゃがみ、「さあ」と少女をうながしました。少女がその背に寄りかかり、首に腕をまわすと、青年は少女を抱え上げ再び走り出しました。
遠くに獣の声が響いています。
「やつら犬を放ったようです。夜の闇も大きな助けにはならないでしょう。それに今夜は……」
急に視界が開け、青年は第一の目標にたどり着いたことを確認しました。行く手を幅十メートルほどの川が、水面を満月の光に輝かせながら横切っていました。
「今夜は明るすぎる」
そうつぶやくと、青年は少女を背負ったまま川の中に入って行きました。
「ご存知かもしれませんが、王立教育委員会の委員にエルリッツォ・ヴァルディという者がおります」
青年は冷たい川の水に膝まで浸かりながら進みました。
「名前は聞いたことがあるわ」
「私とは仕官学校で同期でした。その者が数年前にこの森を訪れたらしく、行程表を見て『おかしい』と申しておりました。この予定では、もともと日暮れまでにこの森を通過して次の街にたどり着くことはできないと言うのです。それで『もしものときは』と、おせっかいにも襲撃されそうなポイントや逃走経路などを教えてくれたのです」
「そのおせっかいが役に立っているのね」
「はい、この川が――雨で増水していなければ――歩いて渡れることなど。そして、情報によればもう少し先にフレイヤという魔女の住む家があるはずです」
「魔女?」
「はい、『人食い魔女』と怖れられている人物です」
「人食い……!」
「エルの……ヴァルディの情報では、頼ってくる者を見捨てるようなことはしないだろうとのことです」
「人食いなのに?」
「噂だけで、人も食べないらしいです」
ようやく川を渡り終え、青年は少女を岸に降ろしました。
目の前には再び森の木々が覆い茂っています。
「ですから、あとはおひとりで……」
「え?」
少女は再び川へ向かおうとする青年を振り返りました。
「本来ならこんな運を天にまかせるようなことはしたくなかったのですが……」
「あなたはどうするの?」
「私は向こう岸へ戻り、川沿いを下りつつ追っ手を防ぎます。フレイヤなる者の実力がいかなるものか存じませんが、なにしろ多勢に無勢、敵は少しでも減らしておいたほうがよいでしょうから」
青年は急いで引き返さなくてはなりませんでした。岸辺で臭いが途切れていれば川を渡ったことがすぐにばれてしまいます。川にぶつかってやむなくそれに沿って逃げていると思わせなければ。そして、追いつかれれば、少女を守るふりをしてなるべく長く敵の気を引く。それこそが多勢に無勢というものでしたが、いまは自分が死地におもむくことよりも、少女の命運を見知らぬ者にたくすことのほうが心配でした。
青年は無念さのあまり血がにじむほど唇を噛みながら少女を見ていました。
少女もまたこれ以上心配をかけまいと、しっかりと地を踏みしめて青年を見返しました。
「わかりました、フレイヤなる魔女のもとで待ちます。かならずわたしを迎えに来なさい」
「は、しかし……」
青年は一度頭を下げたものの、その命令に従える自信はありませんでした。できることなら追っ手をすべて討ち果たしたい、しかし、自分の一命を懸けたとしてもそれは叶わないだろうと思っていました。
「クラウス、生きてわたしを迎えに来ると言いなさい」
それは、青年が決死の覚悟であることを知っているからこその言葉でした。
まっすぐに見つめる少女の青い瞳と金色の髪は、月の光を浴びて神秘的に輝いていました。クラウスは、まるで神話から出てきたようだと思いながら、深々と頭を下げました。
「はい、かならずやお迎えに上がります。ユイカーナ様もどうかご無事で」
少女は慣れない土地で大勢の者に命を狙われ、森の中を「人食い」と呼ばれる魔女に助けを請いに行けと言われても、ここで泣き出してごねることはしませんでした。気丈なその姿を見て、青年はやはりこの少女こそが自分が仕えるにふさわしい人物だとあらためて思いました。
そしてもう一度、少女のものより少し淡い色の癖のある金髪を下げると、足早に川の中へと戻っていきました。
「クラウス、クラウス!」
よく通る澄んだ、しかし、必死な少女の声を聞いて、青年はすぐに立ち止まり手を放しました。
「もう……走れないわ」
少女は息を切らしながら、つかまれていた手首をさすりました。たしかに、袖の広がったきらびやかなドレスも、かかとの高い靴も、森の中を走ることに適しているようには見えません。
「追っ手はすぐそこまで迫っております。どうかもう一息頑張ってください」
クラウスと呼ばれた青年は、自分たちの身体を隠すようにすぐそばの茂みに身をよせると、片膝を着き少女に訴えかけました。
「わたしはもう無理……あなただけでも逃げて」
「ユイカーナ様……」
青年は不安と疲労で蒼白くなった少女の顔をのぞき込みました。
「私ひとりが生きのびても、まったく意味がないのです」
少女はその言葉の意味を理解しているようで、うつむいて長い金髪を左右に振りました。
「みんな……やられてしまったの?」
つい先ほど起きた惨劇を思い返して、少女の顔はさらに蒼くなりました。
「おそらく……」
「あんな山賊ごときに……」
「お言葉ですが、ユイカーナ様。あなたの兵は、たとえ数で劣っていても山賊などに遅れをとったりはしません」
すべてを聞かなくても、少女には青年の言いたいことがわかりました。つまり山賊の格好をしてはいるが、中身は訓練された兵士であると。
ふたりの脳裏には、ある老人の顔が浮かんでいました。
「ヘンゲンの仕業であると?」
「証拠はありませんが、根拠は十分すぎるほどあります」
それならば、少女の姿を見失ったからといって、途中であきらめたりはしないだろう。ここでなんとしてもその命を奪うことが目的なのだから。
青年は背を向けてしゃがみ、「さあ」と少女をうながしました。少女がその背に寄りかかり、首に腕をまわすと、青年は少女を抱え上げ再び走り出しました。
遠くに獣の声が響いています。
「やつら犬を放ったようです。夜の闇も大きな助けにはならないでしょう。それに今夜は……」
急に視界が開け、青年は第一の目標にたどり着いたことを確認しました。行く手を幅十メートルほどの川が、水面を満月の光に輝かせながら横切っていました。
「今夜は明るすぎる」
そうつぶやくと、青年は少女を背負ったまま川の中に入って行きました。
「ご存知かもしれませんが、王立教育委員会の委員にエルリッツォ・ヴァルディという者がおります」
青年は冷たい川の水に膝まで浸かりながら進みました。
「名前は聞いたことがあるわ」
「私とは仕官学校で同期でした。その者が数年前にこの森を訪れたらしく、行程表を見て『おかしい』と申しておりました。この予定では、もともと日暮れまでにこの森を通過して次の街にたどり着くことはできないと言うのです。それで『もしものときは』と、おせっかいにも襲撃されそうなポイントや逃走経路などを教えてくれたのです」
「そのおせっかいが役に立っているのね」
「はい、この川が――雨で増水していなければ――歩いて渡れることなど。そして、情報によればもう少し先にフレイヤという魔女の住む家があるはずです」
「魔女?」
「はい、『人食い魔女』と怖れられている人物です」
「人食い……!」
「エルの……ヴァルディの情報では、頼ってくる者を見捨てるようなことはしないだろうとのことです」
「人食いなのに?」
「噂だけで、人も食べないらしいです」
ようやく川を渡り終え、青年は少女を岸に降ろしました。
目の前には再び森の木々が覆い茂っています。
「ですから、あとはおひとりで……」
「え?」
少女は再び川へ向かおうとする青年を振り返りました。
「本来ならこんな運を天にまかせるようなことはしたくなかったのですが……」
「あなたはどうするの?」
「私は向こう岸へ戻り、川沿いを下りつつ追っ手を防ぎます。フレイヤなる者の実力がいかなるものか存じませんが、なにしろ多勢に無勢、敵は少しでも減らしておいたほうがよいでしょうから」
青年は急いで引き返さなくてはなりませんでした。岸辺で臭いが途切れていれば川を渡ったことがすぐにばれてしまいます。川にぶつかってやむなくそれに沿って逃げていると思わせなければ。そして、追いつかれれば、少女を守るふりをしてなるべく長く敵の気を引く。それこそが多勢に無勢というものでしたが、いまは自分が死地におもむくことよりも、少女の命運を見知らぬ者にたくすことのほうが心配でした。
青年は無念さのあまり血がにじむほど唇を噛みながら少女を見ていました。
少女もまたこれ以上心配をかけまいと、しっかりと地を踏みしめて青年を見返しました。
「わかりました、フレイヤなる魔女のもとで待ちます。かならずわたしを迎えに来なさい」
「は、しかし……」
青年は一度頭を下げたものの、その命令に従える自信はありませんでした。できることなら追っ手をすべて討ち果たしたい、しかし、自分の一命を懸けたとしてもそれは叶わないだろうと思っていました。
「クラウス、生きてわたしを迎えに来ると言いなさい」
それは、青年が決死の覚悟であることを知っているからこその言葉でした。
まっすぐに見つめる少女の青い瞳と金色の髪は、月の光を浴びて神秘的に輝いていました。クラウスは、まるで神話から出てきたようだと思いながら、深々と頭を下げました。
「はい、かならずやお迎えに上がります。ユイカーナ様もどうかご無事で」
少女は慣れない土地で大勢の者に命を狙われ、森の中を「人食い」と呼ばれる魔女に助けを請いに行けと言われても、ここで泣き出してごねることはしませんでした。気丈なその姿を見て、青年はやはりこの少女こそが自分が仕えるにふさわしい人物だとあらためて思いました。
そしてもう一度、少女のものより少し淡い色の癖のある金髪を下げると、足早に川の中へと戻っていきました。
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